1. 生涯
近藤台五郎の生涯は、日本の医学とスポーツの発展に寄与した多岐にわたるものであった。
1.1. 出生と家族背景
近藤台五郎は1907年6月1日、東京市神田区駿河台(現東京都千代田区)に生まれた。彼の名前の「臺(台)」は、兄の駿四郎の「駿」と同様に、この出生地の地名に由来している。父は「日本の外科学の祖」と称される近藤次繁である。妻の信(のぶ)は「マッチ王」として知られる瀧川儀作の三女にあたる。兄の近藤駿四郎は後に日本医科大学脳神経外科教授を務めた。長男の近藤紘一はサンケイ新聞記者、ジャーナリストとして活躍し、甥の近藤東郎(はるお)は慶應義塾大学名誉教授(公衆衛生学)である。
1.2. 学歴
彼の教育は幼少期から厳格であった。誠之幼稚園(文京区西片町)を経て、東京高等師範学校附属小学校、同中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。その後、水戸高等学校に進学し、1929年(昭和4年)に東京帝国大学医学部に入学した。1933年(昭和8年)に同帝国大学を卒業した。
1.3. 私生活
近藤は瀧川儀作の三女である信と結婚し、家族を築いた。彼の名前「台(臺)」の由来は出生地の神田区駿河台にあり、兄の駿四郎の名前も同じく駿河台の「駿」に由来している。
2. サッカー経歴
近藤台五郎は、医学分野での輝かしい業績の一方で、日本のサッカー史においても重要な足跡を残した。
2.1. ユース・大学時代
近藤は水戸高等学校在学中、名門のサッカー部に所属し、その才能を開花させた。1926年にはインターハイで優勝に貢献している。東京帝国大学LBでは、母校の東京帝国大学の選手および卒業生で構成されたチームでプレーした。彼は中学時代に陸上競技で鍛え上げ、100メートル走は常に11秒前後という俊足の持ち主であったため、陸上競技部から助っ人を頼まれるほどであった。この俊足を生かし、サッカーではフルバック(現在のDF)を務め、「敵のフォワードより速い」と自負していた。水戸高校の1年先輩にあたる春山泰雄も、彼と共に日本代表としてプレーした。
2.2. 日本代表活動
1927年8月、近藤が水戸高等学校の学生であった頃、上海で開催された第8回極東選手権競技大会において、日本代表に選出された。彼は早稲田大学チームの補強選手として参加し、この大会で2試合に出場した。8月27日には中華民国代表戦で日本代表としてデビューを果たした。続く8月29日にはフィリピン代表と対戦し、日本はこの試合に勝利した。この勝利は、日本代表にとって国際Aマッチにおける史上初の勝利であり、近藤台五郎はその歴史的な瞬間に貢献した。彼はその後、マニラで開催された第9回極東選手権競技大会でも代表に選出されたものの、試合に出場する機会はなかった。
2.3. 経歴統計
近藤台五郎は、1927年の日本代表での活動を通じて、国際Aマッチ2試合に出場したが、得点は記録されなかった。
2.3.1. 代表出場試合
近藤台五郎の日本代表としての国際Aマッチ出場記録は以下の通りである。
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1927年8月27日 | 上海 | 中華民国代表 | ●1-5 | 極東選手権 | ||||
2. | 1927年8月29日 | 上海 | フィリピン代表 | ○2-1 | 極東選手権 |
3. 医学経歴と業績
近藤台五郎の医学分野における業績は、日本の消化器内視鏡学の発展に決定的な影響を与えた。
3.1. 初期医学経歴と研究
東京帝国大学医学部を卒業後、彼は第二内科学教室(主任教授:呉建)の副手として医学の道を歩み始めた。1942年には講師、1943年には助手、1944年には上海市同仁医科大学の教授を務め、1945年に日本に帰国した。戦後の1948年には胃腸病院の副院長に就任し、1954年には川島胃腸クリニックの副院長を務めた。この初期のキャリアを通じて、彼は戦前から胃鏡(胃内視鏡)を用いた臨床と研究に精力的に取り組み、後輩の常岡健二らと共に多数の胃鏡症例を積み重ねた。1949年に彼が著した「胃鏡診断学」は、当時の胃鏡診断の「バイブル」と称され、この分野における基礎を築いた。
3.2. 消化器内視鏡分野における先駆的業績
当時の胃鏡は「シンドラー型軟性胃鏡」と呼ばれていたが、実際には先端がわずかに湾曲する程度の事実上真っすぐな金属管であり、患者が検査中に感じる苦痛は非常に大きかった。この状況を改善するため、1952年には日本でゴム管の先に小型カメラをつけた胃カメラが臨床に導入され、患者の苦痛は軽減されたものの、胃内を直視することはできず、カメラで盲目的に胃内を撮影し、後で現像する必要があった。
これに対し、アメリカではファイバースコープの開発が進められていた。ファイバースコープは、グラスファイバーを束ねた柔軟なケーブルを体内に挿入し、検査者がスコープで直視下に観察しながら自在に操作できる画期的な機器であった。1958年の第1回世界消化器病学会において、胃カメラの画像を発表した日本の研究者グループは、アメリカから発表されたファイバースコープに大きな衝撃を受けた。当時のファイバースコープは画素数が少なく、胃カメラに比べて画質は劣っていたものの、盲目的な撮影しかできない胃カメラに対し、自在に方向を変えて直視下に観察できるファイバースコープの優位性は明らかであった。
近藤台五郎はこの技術の将来性に着目し、アメリカからファイバースコープを持ち帰った。彼の指導のもと、1963年には町田製作所が国産初のファイバースコープを完成させ、翌年にはオリンパスからも製品が発売された。これ以降、日本は消化管ファイバースコープの開発において世界をリードする存在となった。彼はファイバースコープの改良と研究を重ねると同時に、多くの後進の医師を指導し、日本の内視鏡医学の発展に尽力した。彼の先駆的な取り組みは、患者の苦痛を大幅に軽減し、胃癌などの早期診断を可能にすることで、日本の公衆衛生の向上に多大な貢献を果たした。
3.3. 学術・臨床分野におけるリーダーシップ
近藤は医学分野において多くの要職を歴任し、そのリーダーシップを発揮した。1967年には東京女子医科大学消化器内科教授に就任した。同年、財団法人早期胃癌検診協会中央診療所の所長を務め、胃癌の早期発見と診断の普及に貢献した。1972年には、第58回日本消化器病学会総会の会長を務め、同学会の発展に大きく寄与した。1973年に東京女子医科大学を退職し、1986年には早期胃癌検診協会を退職した。
3.4. 医学教育と診療への影響
近藤台五郎を頂点とする内視鏡研究グループは、その固い結束から「近藤軍団」や「近藤兵団」などと呼ばれた。彼らが月1回木曜日に開催していた「木曜会」は、その後の消化管内視鏡医学をリードする多くの研究者や臨床医を輩出し、日本の消化器内視鏡医学の発展と後進の育成に多大な影響を与えた。近藤の診察術は非常に丁寧であり、特にその腹部触診法は「神業」と称され、彼から指導を受けた多くの医師が口を揃えてその技術の高さと正確さを証言している。
4. 主要著書と論文
近藤台五郎は、消化器内科医として数多くの重要な著書や学術論文を執筆し、その知識と経験を広範に共有した。
4.1. 博士論文
彼の博士論文のタイトルは「悪性貧血症の胃鏡学的研究」であり、1944年に発表された。この論文は、胃鏡を用いた悪性貧血症の診断に関する初期の重要な研究成果として評価されている。
4.2. 主要出版物
彼が執筆または共同執筆した主要な医学書は以下の通りである。
- 近藤台五郎、常岡健二「胃鏡診断学」(南條書院、1949年)
- 近藤台五郎、常岡健二「図説消化器病のレ線診断」(南山堂、1956年)
- 近藤台五郎、川上澄「ベッドサイドの腹部の診かた」(南山堂、1967年)
- 近藤台五郎「今日の消化器病の診断と治療」(医学図書出版株式会社、1972年)
- 近藤台五郎、名尾良憲、竹本忠良「消化器内科診断学(上・下)」(南山堂、1976年)
これらの著書は、当時の消化器病学、特に内視鏡診断の分野における最先端の知識と臨床経験を集約したものであり、後進の医師たちの学習と診療実践に大きな影響を与えた。
5. 死去
近藤台五郎は1991年2月9日、神奈川県横須賀市の病院で、脳出血のため83歳で死去した。
6. 遺産と評価
近藤台五郎は、サッカー選手として日本のスポーツ史に名を刻み、また医学研究者としては日本の消化器内視鏡学に革命をもたらした。
6.1. 業績に対する評価
サッカー選手としては、1927年の第8回極東選手権競技大会において、日本代表の国際Aマッチ初勝利に貢献するという歴史的な偉業を成し遂げた。その俊足と的確なプレーは、当時の日本サッカー界において特筆すべきものであった。
医学分野では、彼の業績は計り知れない。特に消化器内視鏡、中でもファイバースコープの日本への導入と国産化を主導したことは、日本の医療史における画期的な出来事であった。当時の胃鏡検査が患者に多大な苦痛を伴っていた中で、ファイバースコープの導入は患者の負担を大幅に軽減し、より正確で早期の診断を可能にした。これは、胃癌の早期発見・治療に繋がり、日本の公衆衛生の向上に多大な貢献を果たした。彼の研究と臨床における先駆的な役割、そして「胃鏡診断学」のような著作は、消化器内視鏡学の基礎を確立し、後の発展の道を切り開いた。
6.2. 後世への影響
近藤台五郎の医学における功績は、彼が育成した多くの後進の医師たちを通して、現代の消化器内視鏡医療にまで深く影響を与えている。彼が主宰した「近藤軍団」や「木曜会」は、消化器内視鏡医学の最先端を担う研究者や臨床医を多数輩出し、その指導を受けた医師たちは、今日の消化器内視鏡分野の発展を牽引している。また、彼の丁寧な診察術、特に「神業」と称された腹部触診法は、多くの医師たちにとって模範とされ、患者中心の医療の重要性を後世に伝えた。サッカーにおいても、彼の日本代表での活躍は、日本サッカーの国際舞台への第一歩を記すものであり、後世の選手たちに大きな勇気と目標を与え続けた。