1. 概要
郭泰源(郭泰源グォ・タイユエン中国語、かく たいげん、1962年3月20日生)は、台湾出身の元プロ野球選手(投手であり、現在は野球指導者である。日本プロ野球(NPB)の埼玉西武ライオンズで13シーズンにわたりプレーし、通算117勝を挙げ、NPB史上最も多くの勝利を記録した外国人選手として知られている。その速球とスライダーは「オリエンタル・エクスプレス」の異名を取り、王建民以前の台湾野球界において最も偉大な投手の一人と広く評価されている。
2. 生い立ちと背景
郭泰源は台湾の台南市で生まれた。幼少期から野球に親しみ、その才能を開花させていった。
2.1. 幼少期と教育
当初は遊撃手としてプレーしていたが、高校時代に投手に転向すると、その質の高い速球とスライダーで瞬く間に注目を集めるようになった。
2.2. アマチュア時代のキャリア
1983年のアジア野球選手権大会におけるチャイニーズタイペイ対韓国戦では、17イニング連続で無失点に抑える快投を見せ、その速球は最高で154 km/hを記録した。この活躍はチャイニーズタイペイの1984年夏季オリンピック出場権獲得に貢献した。
1984年のオリンピックでは、予選ラウンドのアメリカ合衆国戦で、最高158 km/hの速球を投げ込み、完投で2失点(自責点1)に抑える力投を見せた。この試合での活躍から、「オリエンタル・エクスプレス」の愛称で呼ばれるようになった。しかし、ウィル・クラークやマーク・マグワイアらを擁するアメリカ合衆国代表に敗れた。その後、準決勝の日本戦でも4.2イニングを1失点に抑える好投を見せた。郭泰源のこの素晴らしいパフォーマンスは、日本の西武ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)から特別な注目を集め、彼は1984年夏季オリンピック後に同球団と契約を結んだ。
3. 日本プロ野球(NPB)でのキャリア
郭泰源は、埼玉西武ライオンズで13シーズンにわたりプレーし、そのキャリアを通じて数々の輝かしい記録を打ち立てた。

3.1. デビューと初期キャリア
ルーキーイヤーからすぐに西武ライオンズの先発ローテーションの一角を担うことになった。デビューから2ヶ月も経たない1985年6月4日には、平和台野球場で行われた日本ハムファイターズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)戦でノーヒットノーランを達成した。これはパシフィック・リーグ史上、外国人選手として初の快挙であり、NPB全体では54人目の達成者となった。また、1988年の春季オープン戦でもノーヒットノーランを達成している。
3.2. 主要な功績と受賞歴
郭泰源のNPBキャリアにおけるその他の特筆すべき功績は以下の通りである。
- 1989年シーズンには10連勝を記録した。
- 1991年シーズンには9連続完投を達成し、パシフィック・リーグのMVPに選出された。また、同年にはベストナインにも選ばれている。
- 1992年シーズンには3連続完封を記録した。
- 最高勝率を1988年と1994年の2度獲得した。
- ゴールデングラブ賞を1991年と1992年に受賞した。
- 月間MVPには、1985年4月、1988年6月、1991年8月、1991年9月の計4回選出された。
- オールスターゲームには1990年と1995年に出場した。
3.3. 通算成績
郭泰源の日本プロ野球における通算成績は以下の通りである。
年 | 球団 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 対戦打者数 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 四球 | 故意四球 | 死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985 | 西武ライオンズ | 15 | 15 | 9 | 3 | 0 | 9 | 5 | 0 | - | .643 | 484 | 117.2 | 89 | 14 | 52 | 1 | 4 | 75 | 1 | 0 | 44 | 33 | 2.52 | 1.16 |
1986 | 西武ライオンズ | 39 | 9 | 5 | 1 | 0 | 5 | 7 | 16 | - | .417 | 450 | 108.1 | 93 | 10 | 38 | 7 | 0 | 105 | 1 | 0 | 39 | 35 | 2.91 | 1.21 |
1987 | 西武ライオンズ | 22 | 21 | 11 | 2 | 0 | 13 | 4 | 0 | - | .765 | 640 | 158.0 | 136 | 12 | 40 | 6 | 4 | 81 | 2 | 1 | 56 | 53 | 3.02 | 1.11 |
1988 | 西武ライオンズ | 19 | 18 | 15 | 1 | 3 | 13 | 3 | 1 | - | .813 | 583 | 149.1 | 113 | 10 | 23 | 3 | 2 | 76 | 0 | 0 | 50 | 40 | 2.41 | 0.91 |
1989 | 西武ライオンズ | 26 | 26 | 14 | 4 | 1 | 10 | 10 | 0 | - | .500 | 804 | 198.1 | 172 | 15 | 49 | 7 | 3 | 117 | 2 | 0 | 78 | 72 | 3.27 | 1.11 |
1990 | 西武ライオンズ | 18 | 17 | 5 | 1 | 0 | 9 | 4 | 0 | - | .692 | 504 | 119.1 | 113 | 14 | 44 | 0 | 2 | 84 | 2 | 0 | 53 | 47 | 3.54 | 1.32 |
1991 | 西武ライオンズ | 24 | 23 | 12 | 4 | 1 | 15 | 6 | 1 | - | .714 | 721 | 184.1 | 162 | 17 | 30 | 3 | 1 | 108 | 0 | 0 | 54 | 53 | 2.59 | 1.04 |
1992 | 西武ライオンズ | 23 | 23 | 9 | 3 | 0 | 14 | 4 | 0 | - | .778 | 661 | 168.0 | 128 | 17 | 44 | 5 | 4 | 108 | 1 | 1 | 54 | 45 | 2.41 | 1.02 |
1993 | 西武ライオンズ | 22 | 22 | 4 | 1 | 1 | 8 | 8 | 0 | - | .500 | 540 | 133.1 | 121 | 15 | 26 | 0 | 4 | 88 | 3 | 0 | 56 | 52 | 3.51 | 1.10 |
1994 | 西武ライオンズ | 27 | 21 | 4 | 2 | 0 | 13 | 5 | 0 | - | .722 | 569 | 130.0 | 137 | 23 | 55 | 2 | 3 | 86 | 1 | 0 | 75 | 72 | 4.98 | 1.45 |
1995 | 西武ライオンズ | 22 | 22 | 3 | 2 | 0 | 8 | 6 | 0 | - | .571 | 642 | 163.0 | 131 | 11 | 40 | 2 | 6 | 115 | 0 | 0 | 48 | 46 | 2.54 | 1.01 |
1996 | 西武ライオンズ | 14 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | - | .000 | 248 | 52.1 | 72 | 9 | 23 | 3 | 1 | 26 | 1 | 0 | 48 | 43 | 7.39 | 1.80 |
1997 | 西武ライオンズ | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | ---- | 1 | 0.1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.00 |
合計 | 272 | 229 | 92 | 24 | 6 | 117 | 68 | 18 | - | .632 | 6847 | 1682.1 | 1467 | 167 | 464 | 39 | 34 | 1069 | 14 | 2 | 655 | 591 | 3.16 | 1.14 |
3.4. 引退
郭泰源は長期にわたる怪我に苦しみ、1997年シーズン終了後に現役を引退した。西武ライオンズの公式サイトで行われた引退直後のファン投票では、郭泰源が球団史上最も人気のある外国人選手として満場一致で選ばれている。
4. 引退後の活動
現役引退後、郭泰源は指導者として野球界に貢献し続けている。
4.1. 台湾での活動
西武ライオンズ引退後、台湾メジャーリーグ(TML)の「シニアテクニカルコンサルタント」に就任し、2003年初頭のリーグ解散までその職を務めた。その間、彼はかつての西武時代のチームメイトである石井丈裕と渡辺久信をTMLに選手兼コーチとして招き入れた。また、若手選手だった許銘傑や張誌家が西武ライオンズに入団する際の橋渡し役も務め、自身の足跡を追う形で日本球界への道を拓いた。
2003年には一時的に職を失い、私生活でも困難に直面したが、2004年から2005年シーズン終了まで誠泰コブラズのヘッドコーチを務めた。コブラズでの2シーズンで、彼は93勝97敗17引き分けの成績を収めた。2005年の台湾シリーズでは興農ブルズに0勝4敗で敗れ、郭泰源は直後に「家族と過ごす時間を増やしたい」と述べ、辞任した。その後、彼は誠泰コブラズの選手であった林恩宇と林英傑を東北楽天ゴールデンイーグルスに紹介し、入団を支援した。
2016年には統一セブンイレブン・ライオンズの監督を務めた。
4.2. 代表チームでの指導
2007年2月15日、郭泰源は中華民国野球協会によってチャイニーズタイペイ代表チームのヘッドコーチに任命された。彼の任務には2007年の野球ワールドカップと2007年のアジア野球選手権大会が含まれていた。しかし、チャイニーズタイペイ代表チームは両大会で振るわず、彼は同年12月15日にその職を解かれた。
その後も代表チームとの関わりは続き、2009年のワールド・ベースボール・クラシックではコーチを務め、2017年のワールド・ベースボール・クラシックでは再び監督を務めた。
5. 私生活
郭泰源は1993年12月に台湾の女優でモデルの張瓊姿(張瓊姿チャン・チォンズ中国語)と結婚した。結婚後、張瓊姿は郭泰源の引退する1997年後半まで、一時的に台湾での女優業を休止し、日本で彼と共に生活した。夫妻には1997年と1999年に生まれた2人の娘がいる。2003年には一時的な夫婦間の危機も報じられた。
6. 基本情報
- 背番号: 12(1984年~1986年)、18(1987年~1997年)、88(2004年以降)
- 身長: 180 cm
- 体重: 72 kg
- 投打: 右投右打
7. 評価と影響
郭泰源は、NPB史上最も多くの勝利を挙げた外国人投手として、また王建民以前の台湾野球界における最も偉大な投手の一人として、高く評価されている。彼のパワフルな速球と精度の高い変化球は「中華民国の江川卓」とも称され、その圧倒的な投球は多くのファンを魅了した。
引退後も、彼は台湾球界の発展に尽力し、日本と台湾の選手交流の橋渡し役を積極的に務めた。特に、自身がプレーした西武ライオンズと台湾球団との関係強化に貢献し、若手台湾人選手が日本プロ野球に挑戦する道を開いた功績は大きい。選手としても指導者としても、郭泰源は台湾野球の国際的な地位向上と発展に多大な影響を与え続けている。