1. 概要
野村弘樹(のむら ひろき)は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ、野球評論家である。左投左打の投手として、1990年代の横浜大洋ホエールズおよび横浜ベイスターズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)において主力投手として活躍し、特に1998年の日本シリーズ優勝時にはエースとしてチームの歴史的快挙に大きく貢献した。本名は野村弘(のむら ひろし)で、プロ入り後3年間はその登録名を使用していた。本記事では、彼の幼少期からプロ野球選手としての輝かしいキャリア、そして引退後の多岐にわたる活動に至るまで、その人物像と功績を多角的に記述する。
2. 幼少期とアマチュア時代
野村弘樹の野球キャリアは、故郷の広島で少年時代に培われた。家庭環境や友人との交流、そして名門高校での経験が、プロ野球選手としての彼の基礎を築いた。
2.1. 幼少期と形成期
広島市で生まれ育った野村は、小学生の頃から広島市民球場へ小遣いとおにぎりを持参してプロ野球の試合を観戦し、自然とプロ野球選手に憧れを抱くようになった。彼の父親は広陵高校野球部のOBであり、野村は幼少期から父とともに野球の練習に明け暮れる日々を送った。小学校2年生の時にリトルリーグの広島中央リトルに入団。当時のチームメイトには、1学年上に元広島東洋カープ・阪神タイガースの金本知憲が、2学年上にはお笑いタレントの山本圭壱がいた。野村は広島中央リトルでエースで4番を務めたが、1年後にボーイズリーグの広島ジャガーズへ移籍。広島ジャガーズは、古葉竹識の弟である古葉福生が長年監督を務めていた。
日常生活では右利きであったが、漫画『巨人の星』の主人公である星飛雄馬への憧れから、左投げで投手を目指すことになった。本人は、子どもの頃から左右両方で投げてきたことが、バランスの取れた体作りにつながったと語っている。ちなみに、右投げでの遠投は約50 mだったという。
PL学園高校への入学が内定した後、中学卒業までの間は広島市西区のトレーナーのもとでトレーニングに励んだ。この時、広島東洋カープの主力投手であった川口和久も同じトレーナーについており、川口から「小僧」と呼ばれて可愛がられていたというエピソードがある。2020年頃に川口と再会した際、この思い出を話すと、川口も当時のことを覚えており、「あの小僧お前か!」と驚かれたという。
2.2. PL学園高校時代
PL学園に入学した野村は、桑田真澄、清原和博らを擁して夏の甲子園を制した後の新チームでエースナンバーを背負い、秋の大阪府大会、近畿大会に出場した。しかし、翌春の選抜大会ではベンチ外だった。
1987年、野村は桑田泉(桑田真澄の実弟)、立浪和義(元中日ドラゴンズ)、片岡篤史(元北海道日本ハムファイターズ)、橋本清(元読売ジャイアンツ)、宮本慎也(元東京ヤクルトスワローズ、宮本のみ1学年下)らを揃えた強力チームのエースとして、史上4校目の甲子園春夏連覇を達成した。この大会で野村は10試合に登板し6勝0敗を記録。高校時代はスタミナ不足から、しばしば継投により途中降板して左翼手に回ることが多かった。野村、橋本、岩崎充宏(青学大 - 新日鉄名古屋)の3投手は「三本の矢」と称され、チームの躍進を支えた。野村は高校時代、甲子園で本塁打を放つなど投手よりも打者としての評価が高かったという。
ドラフト会議前までプロから指名されるとは予想しておらず、卒業後は東洋大学へ進学する予定であった。しかし、1987年のドラフト会議で大洋から3位指名を受け、プロ入りを決意した。このドラフトでは12球団からプロ入りのオファーがあったが、そのうち10球団は野手としての指名を想定しており、投手として野村を評価したのは大洋と近鉄バファローズの2球団のみであった。
3. プロ野球選手時代
横浜大洋ホエールズ、そして横浜ベイスターズの主力投手として、野村弘樹は長きにわたりチームの柱を担った。度重なる怪我と闘いながらも、その左腕で数々の栄光を掴み、記録を打ち立てた。
3.1. ドラフトとプロ入り初期
1988年に大洋に入団した野村は、しばらくの間2軍で経験を積み、シーズン終盤に1軍に昇格した。同年10月2日の対広島戦で、プロ初登板にして無四球完封勝利を達成。これは高卒ルーキーとしては史上5人目の快挙であった。
1989年は開幕からチャンスを与えられ、33試合に登板し、先発のマウンドにも12回上がった。しかし、スタミナ不足から中盤に捕まることが多く、成績は3勝11敗、防御率5.89と期待に応えられなかった。この年のオフに小谷正勝が投手コーチに就任し、小谷の熱心な指導のもと、トレーニングによって完投能力を含め多大なスタミナを身につけていった。
3.2. 全盛期の活躍と主な実績
1990年、野村は登録名を「野村弘」から「野村弘樹」に変更した。同年4月19日、5月10日、5月26日と巨人戦に登板し、巨人戦で3試合連続の完投勝利を飾ると、「巨人キラー野村」としてスポーツ紙に取り上げられるようになった。6月5日の巨人戦では、1985年から大洋戦で無敗を誇っていた前年20勝投手の斎藤雅樹が巨人の先発を務めたが、野村が7回2失点に抑える好投を見せた。野村に勝ち星はつかなかったものの、9回に高木豊が斎藤から逆転2ランを放って勝利し、斎藤の対大洋戦連勝記録をストップさせた。この年、野村はプロ入り初の2桁勝利を挙げ、オールスターゲームにも初出場を果たした。
1991年は2年連続となる15勝を挙げ、野村自身もこの年をプロ生活で最も調子が良かったシーズンと評している。1992年には開幕投手に抜擢されたが、この年は5勝に終わった。
1993年には17勝6敗と好成績を残し、自身初の最多勝利タイトルを獲得した。しかし、1週間に3試合登板することもあり、これまで丈夫だった体にも徐々に疲労を感じるようになったという。その影響で、1994年はシーズンを通して肘痛や腰痛に悩まされ、5勝5敗と不振に終わった。
1995年に二度目の開幕投手を務めたが、前年同様に肘と腰の不調が響き、4勝7敗と成績は振るわなかった。
1996年は10勝を挙げ、3年ぶりに2桁勝利を記録した。4月23日に平塚球場で行われた対阪神戦では、2失点完投の好投を見せただけでなく、2点ビハインドの七回裏に舩木聖士から3ラン本塁打を放ち、3対2での勝利を呼び込むという、まさに一人舞台の活躍を見せた。
1997年7月1日の対中日戦では、5回までパーフェクトピッチングを見せる。6回1死から鳥越裕介に初ヒットを打たれたものの、続く門倉健を併殺打に打ち取って無失点に抑えた。その後も好投を続け、8回を1安打無四球の完璧なピッチングを見せた。9回は佐々木主浩が3人で抑え、野村-佐々木のリレーで打者27人の準完全試合を達成した。シーズンでも4年ぶりの完封勝利を記録し、2年連続の2桁勝利を達成。チームの7年ぶりのAクラス入り、そして18年ぶりのシーズン2位に貢献した。
1998年は、3年連続2桁勝利となるチームトップの13勝を挙げ、チームの38年ぶりのリーグ優勝、そして日本シリーズ優勝に大きく貢献した。同年の日本シリーズでは開幕投手に抜擢され、西武打線を5回まで無失点に抑え、期待に応えた。この大舞台で、4回裏には3連打のきっかけとなる二塁打を、5回裏には駄目押しのきっかけとなる二塁打を放つなど、打撃でも西武を圧倒した。結局、6回と7回にそれぞれ2点ずつを失い、7回途中でマウンドを降りたものの、チームとして38年ぶりの日本シリーズ勝利投手となった。しかし、自身2回目の先発となった第4戦では一転して西武打線につかまり、6回でKOされ敗戦投手となった。権藤博監督からは絶大な信頼を受け、日本シリーズでは「野村-斎藤隆-三浦-野村-斎藤隆-川村-野村」と、野村に3回巡るローテーションの先発予告が組まれるほどだった。
3.3. 故障と引退
1998年の優勝のために肘に痛みを感じながらも投げ続けた結果、この年を最後に満足のいく投球ができなくなった。29歳を迎えたこの年が、結果的に彼のプロ野球人生の集大成となった。1999年の春季キャンプで左手に感覚がないことに気づき、開幕してからも肘に溜まった水を抜いたりテーピングを施したりして凌いでいたが、肘の膨らみと手先の感覚の麻痺がどうにもならなくなり、5月に左肘の手術に踏み切った。手術から半年以上経過しても痛みが取れることはなく、ここから引退するまでの3年間は相手打者との勝負ではなく、自分自身との闘いだったと語っている。
2001年8月の対巨人戦で1失点完投勝利を挙げ、生え抜き投手としては斉藤明夫以来14年ぶりとなる通算100勝を達成した。1998年シーズン終了時には94勝を挙げていたものの、左肘故障の影響で記録達成に時間を要してしまった。これについて野村は、「到達しても嬉しくないほど、(時間が)かかってしまった」と述べている。
2002年に左肘の故障が再発(実際は完治していなかった)し、現役を引退することを決断した。シーズン終盤には引退試合が行われ、当時シアトル・マリナーズに在籍していた元チームメイトの佐々木主浩から花束を手渡された。
4. 選手としての特徴
野村弘樹は、その独特な投球スタイルと、投手としては異例な打撃能力、そして特定の球団に対する強さで知られた。
4.1. 投球スタイル
野村は日常生活では右利きだが、漫画『巨人の星』の主人公である星飛雄馬への憧れから左投げになった。子どもの頃から左右両方で投げてきたことが、バランスの取れた体作りにつながったと語る。
球速は全盛期でも約145 km/h弱と、特に突出したものではなかった。また、特に優れた変化球を持っていたわけでもないにもかかわらず、通算で998奪三振を記録している。肘を故障するまではストレートとフォークボールのみで打者を抑えていたが、肘を故障してからは制球力と投球術を武器とした。ストレートを速く見せるために、スライダー、スローカーブ、シュート、スクリューボール、SFFなど、多彩な球種を習得し、それらを左右に投げ分けることで打者を抑えた。
投球テンポが非常に早く、まさに「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」という表現が当てはまるスタイルであった。これは打者に考える時間を与えないようにする意図もあったという。
4.2. 打撃能力
野村は、投手でありながら打撃が非常に優れた選手であった。高校時代には甲子園で本塁打も放つなど、投手としてよりも打者としての評価の方が高かった時期もあった。
プロ入り後も先発投手として登板しながら、打率.250以上を記録した年が4度もあり、通算本塁打も6本を記録している。シーズン中盤まで打率3割近くを維持していたシーズンもあった。
1996年4月23日の対阪神戦では、0対2で負けていた7回一死一、三塁の場面で打席が回ってきた。野村は代打が出されるものだと思っていたが、大矢明彦監督からは「野村、代わりがいないんだ」と言われ、そのまま打席に入り思い切ってバットを振ったところ、逆転となる3ラン本塁打を放ちチームを勝利に導いた。
優勝した1998年も規定投球回に到達した年の中では最高の打率.250を記録し、他にも1本塁打、8打点と野手並みの成績を残している。野村克也監督時代のヤクルトでは、「打者・野村(弘樹)をいかに抑えるか」をテーマにミーティングが行われていたほど、その打撃能力は高く評価されていた。
4.3. 「巨人キラー」
野村は、巨人に対して顕著な成績を残したことから「巨人キラー」として知られた。巨人に対しては25勝17敗という勝率.680を記録しており、これは巨人に対して25勝以上を挙げた投手の中では歴代最高の勝率である。
5. 引退後の活動
プロ野球選手を引退した後も、野村弘樹はその豊富な経験と知識を活かし、コーチ、野球解説者、そして学生野球の指導者として、多方面で野球に貢献している。
5.1. コーチングキャリア
現役引退後の2003年、野村は湘南シーレックス(当時の横浜ベイスターズの2軍)の投手コーチに就任した。
2004年には1軍の横浜ベイスターズ投手コーチに昇格。しかし、2005年オフに阿波野秀幸の投手コーチ招聘に伴い、横浜の投手コーチを退任した。
2007年、再び横浜ベイスターズの投手コーチに復帰し、2009年まではブルペン担当、2010年はベンチ担当を務めた。しかし、2008年、2009年と2年連続でセ・リーグ唯一のチーム防御率4点台を記録し、2010年には12球団ワーストの防御率を記録するなど、投手陣の成績は低迷したため、同年限りで退団することとなった。
5.2. 野球解説者とメディア活動
2006年からは、ニッポン放送・tvk・J SPORTSの野球解説者、そしてサンケイスポーツの野球評論家を務めた。
2011年以降も、再びニッポン放送、tvk、J SPORTSの解説者、サンケイスポーツの評論家として活動。さらに、フジテレビの野球情報番組『すぽると!』のレギュラー野球解説者としても2016年4月1日まで出演した。
2012年からはフジテレビ系列の野球中継である『enjoy! Baseball』や『SWALLOWS BASEBALL L!VE』にも出演し、フジサンケイグループでの活動が多く見られた。2016年からは読売テレビゲスト解説者、TBSチャンネル、スポナビライブ(横浜DeNA戦)の解説者も務めている。
5.3. その他の活動
2014年1月に学生野球資格を回復。2015年2月からは桜美林大学硬式野球部の特別コーチに就任し、土日や大学の授業がない夏休み、春休みを中心にピッチング指導を行っている。ここでの指導経験は、プロ野球選手として活躍する佐々木千隼(DeNA)にも影響を与えた。
6. 人物とエピソード
野村弘樹のキャリアと人柄は、彼の周囲の人物や、幼少期からの経験に深く影響を受けている。
6.1. 背景と影響
PL学園高校時代の同学年には、鍋山隆弘もいた。
子どもの頃から地元・広島東洋カープの熱心なファンであり、山本浩二、衣笠祥雄、池谷公二郎に憧れていた。特に、彼の母親が当時カープの監督であった古葉竹識の大ファンだったため、野村は子どもの頃、選手ではなく古葉の背番号「72」がプリントされたパジャマを着て寝ていたという逸話がある。古葉は野村がプロ入りした当時の大洋の監督であり、野村は大学へ進学を予定していたにもかかわらず、古葉からの指名を受けてプロ入りを決断した。
6.2. 家族
野村の次男である野村眞弘は、桜美林大学を経て、2021年にベースボール・チャレンジ・リーグの神奈川フューチャードリームスで外野手としてプレーした。2022年からは日立製作所硬式野球部に所属し、内野手としてプレーを続けている。
7. 詳細情報と表彰
野村弘樹のプロ野球選手としてのキャリアは、数々の記録とタイトルによって彩られている。
7.1. 年度別投手成績
年度 | 球団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | ホ ー ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ ー ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | WHIP | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | 大洋・横浜 | 2 | 2 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | .500 | 55 | 15.0 | 14 | 1 | 3 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0.60 | 1.13 |
1989年 | 33 | 13 | 1 | 0 | 1 | 3 | 11 | 0 | .214 | 411 | 94.2 | 111 | 14 | 35 | 2 | 1 | 62 | 1 | 1 | 65 | 62 | 5.89 | 1.54 | |
1990年 | 24 | 22 | 8 | 0 | 3 | 11 | 6 | 0 | .647 | 650 | 162.0 | 140 | 23 | 35 | 1 | 1 | 114 | 6 | 0 | 67 | 63 | 3.50 | 1.08 | |
1991年 | 26 | 26 | 6 | 2 | 2 | 15 | 8 | 0 | .652 | 743 | 182.1 | 163 | 25 | 43 | 0 | 3 | 113 | 6 | 0 | 72 | 64 | 3.16 | 1.13 | |
1992年 | 21 | 15 | 1 | 1 | 0 | 5 | 4 | 0 | .556 | 408 | 93.2 | 118 | 15 | 23 | 0 | 1 | 75 | 1 | 0 | 57 | 57 | 5.48 | 1.51 | |
1993年 | 28 | 25 | 9 | 3 | 0 | 17 | 6 | 0 | .739 | 712 | 179.1 | 148 | 16 | 41 | 1 | 2 | 137 | 2 | 0 | 59 | 50 | 2.51 | 1.05 | |
1994年 | 14 | 12 | 1 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | .500 | 332 | 70.2 | 100 | 16 | 28 | 2 | 0 | 61 | 1 | 0 | 53 | 50 | 6.37 | 1.81 | |
1995年 | 22 | 6 | 1 | 0 | 1 | 4 | 7 | 0 | .364 | 242 | 56.2 | 58 | 8 | 18 | 1 | 2 | 48 | 2 | 0 | 30 | 28 | 4.45 | 1.34 | |
1996年 | 25 | 25 | 4 | 0 | 1 | 10 | 8 | 0 | .556 | 626 | 146.1 | 172 | 25 | 36 | 4 | 0 | 85 | 2 | 0 | 76 | 67 | 4.12 | 1.42 | |
1997年 | 25 | 25 | 1 | 1 | 0 | 10 | 8 | 0 | .556 | 620 | 143.1 | 153 | 20 | 43 | 6 | 4 | 94 | 0 | 3 | 71 | 62 | 3.89 | 1.37 | |
1998年 | 28 | 27 | 3 | 0 | 1 | 13 | 8 | 0 | .619 | 728 | 177.2 | 183 | 20 | 29 | 0 | 2 | 100 | 2 | 2 | 70 | 66 | 3.34 | 1.19 | |
1999年 | 7 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | .500 | 144 | 31.1 | 49 | 4 | 8 | 0 | 1 | 13 | 1 | 1 | 25 | 19 | 5.46 | 1.82 | |
2000年 | 29 | 14 | 0 | 0 | 0 | 2 | 8 | 0 | .200 | 426 | 100.2 | 116 | 15 | 20 | 2 | 2 | 57 | 1 | 0 | 51 | 49 | 4.38 | 1.35 | |
2001年 | 14 | 14 | 2 | 1 | 0 | 4 | 5 | 0 | .444 | 318 | 75.0 | 86 | 8 | 15 | 0 | 4 | 32 | 0 | 0 | 37 | 37 | 4.44 | 1.35 | |
2002年 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | 31 | 5.1 | 12 | 1 | 3 | 1 | 1 | 3 | 0 | 0 | 8 | 8 | 13.50 | 2.81 | |
通算:15年 | 301 | 233 | 38 | 9 | 10 | 101 | 88 | 0 | .534 | 6446 | 1534.0 | 1623 | 211 | 380 | 20 | 24 | 998 | 25 | 7 | 743 | 683 | 4.01 | 1.31 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更
7.2. 通算打撃成績
打率.196 92安打 6本塁打 47打点 1盗塁
7.3. タイトルと表彰
- 最多勝利:1回 (1993年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (1991年)
7.4. 節目の記録
- 初登板・初先発・初勝利・初完投・初完封:1988年10月2日、対広島東洋カープ24回戦(横浜スタジアム)
- 初奪三振:同上、4回表に小早川毅彦から
- 1000投球回:1996年10月6日、対広島東洋カープ26回戦(横浜スタジアム)、3回表1死目に達成 ※史上270人目
- 100勝:2001年8月5日、対読売ジャイアンツ21回戦(横浜スタジアム)、9回1失点完投勝利 ※史上117人目
- 1500投球回:2001年8月25日、対ヤクルトスワローズ21回戦(横浜スタジアム)、5回表3死目に藤井秀悟を三振で達成 ※史上148人目
- 初安打:1988年10月16日、対中日ドラゴンズ26回戦(横浜スタジアム)、3回裏に山本昌から
- 初打点:1989年7月15日、対中日ドラゴンズ15回戦(ナゴヤ球場)、2回表に鈴木孝政から
- 初本塁打:1990年9月26日、対読売ジャイアンツ25回戦(東京ドーム)、2回表に槙原寛己からソロ
- オールスターゲーム出場:3回 (1990年、1991年、1993年)
7.5. 背番号と登録名
- 背番号
- 21 (1988年 - 2002年)
- 79 (2003年)
- 71 (2004年 - 2005年)
- 75 (2007年 - 2010年)
- 登録名
- 野村 弘(のむら ひろし) (1988年 - 1989年)
- 野村 弘樹(のむら ひろき)(1990年 - )
8. 主な出演と著作
引退後、野村弘樹はテレビやラジオの番組に出演するだけでなく、書籍の執筆にも携わるなど、多岐にわたるメディア活動を展開している。
8.1. 出演番組
- ニッポン放送ショウアップナイター
- tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE
- J SPORTS STADIUM(広島および中日主催試合を担当)
- すぽると!(2011年 - 2016年。2012年には毎週日曜日のレギュラーを務め、その他平日にも出演)
- enjoy! Baseball(2012年 - )
- L!VE MAJOR LEAGUE BASEBALL
- SWALLOWS BASEBALL L!VE(2013年 - )
- プロ野球ニュース
- ライオンのグータッチ(フジテレビ)グータッチサポーター
8.2. 書籍と映画
- 『PL学園OBはなぜプロ野球で成功するのか?』(橋本清、ぴあ、2009年3月、第9章で野村弘樹が取材を受けている)
- 『立浪&野村が教える! 野球少年が親子でうまくなるプロ思考』(共著:立浪和義 集英社、2012年9月)
- 『孤狼の血 LEVEL2』(2021年8月20日、東映) - 声のみ出演
9. 関連項目
- 広島県出身の人物一覧
- 横浜DeNAベイスターズの選手一覧
10. 外部リンク
- [http://bsobb.net/nomurahiroki/ 野村弘樹公式サイト]