1. 幼少期と教育
1.1. 出生と学生時代
鈴木大地は、1967年3月10日に千葉県習志野市で生まれた。現在は東京都在住である。小学2年生の時に、地元の千葉アスレティックセンタースイミングスクール(CAC)で水泳を始めた。全国SC大会の100メートル背泳ぎで銀メダルを獲得するなどの成績を残し、中学時代にはスポーツクラブのセントラルスポーツで鈴木陽二と出会う。以後、選手引退まで鈴木陽二の指導を受けることとなる。
船橋市立船橋高等学校に進学し、高校3年次に1984年ロサンゼルスオリンピックの日本代表に選出され出場した。1985年に市立船橋高校を卒業後、順天堂大学体育学部体育学科(現在のスポーツ健康科学部)に進学した。
大学卒業後、1989年に順天堂大学大学院体育学研究科体育学専攻に進学し、1993年に体育学修士の学位を取得して修了した。その後も学術活動を続け、2007年には順天堂大学医学部から博士(医学)の学位を授与された。この博士論文は、白石安男(東京理科大学経営学部教授)との共同執筆で、健康関連イベント参加者の生活習慣と健康状態に関する研究をテーマとしていた。オリンピックの金メダリストで博士(医学)の学位を授与されたのは、鈴木と同じソウルオリンピックレスリングフリースタイル52kg級金メダリストの佐藤満に次いで、日本では2人目の快挙であった。
2. 競泳選手としての経歴
鈴木大地は、日本の競泳界において画期的な功績を残した選手である。特に、独自の潜水泳法である「バサロ泳法」を駆使し、国際舞台で活躍した。
2.1. バサロ泳法の開発
鈴木は、「黄金の足を持つ」と評されたバサロキックのパイオニアである。この潜水泳法は、アメリカのデビッド・バーコフやジェシー・バサロによって発明された技術であり、アメリカでは「Berkoff Blastoff」として知られている。鈴木は、この泳法を独自に発展させ、競泳の世界に大きなインパクトを与えた。
彼は1984年ロサンゼルスオリンピックにおいて、スタート後約25 m(21回キック)を潜水して泳ぐバサロ泳法を披露した。そして、1988年ソウルオリンピックの決勝では、さらに長い約30 m(27回キック)を潜水して泳ぎ、この技術が金メダル獲得の決定打となった。
鈴木の活躍後、競泳のルールが変更され、潜水距離は一時10 m(後に12.5 m)までに制限された。しかし、その後さらにルールが改正され、現在ではスタート・ターン後の潜水距離は15 mまで認められている(スタートとターンを合わせると最大30 m)。このルール改正と並行して、背泳ぎにおけるクイックターンも公認されるようになり、次の1992年バルセロナオリンピックまでに100メートルで約1.5秒、200メートルで約3秒もの記録短縮が実現するなど、競泳全体の記録向上に繋がった。
2.2. 主な大会での成績
鈴木は、国内外の主要な大会で数々の優れた成績を収めた。
- 1984年ロサンゼルスオリンピック**: 100m背泳ぎで11位、200m背泳ぎで16位という結果であった。400mメドレーリレーでは決勝に進出したものの、惜しくも失格となった。
- 1986年ソウル・アジア大会**: 100m背泳ぎと400mメドレーリレーで金メダルを獲得し、2冠を達成した。
- 1987年ユニバーシアード(ザグレブ)**: 100m背泳ぎと200m背泳ぎで金メダルを獲得した。特に400mメドレーリレーの第1泳者として、100m背泳ぎで1987年の世界最高記録をマークした。
- 1987年パンパシフィック水泳選手権(ブリスベン)**: 100m背泳ぎで銀メダルを獲得した。
公式な世界記録の樹立はなかったものの、FINA競泳ワールドカップの50m背泳ぎ(短水路、当時まだ公式種目ではなかった)で世界最高記録を2回更新する経歴を持つ。また、1988年度の日本選手権水泳競技大会(兼オリンピック選考会)では、専門外の100m自由形に出場して52秒35で優勝した。さらに、短水路ではあるものの、50mバタフライや200m個人メドレーでも日本記録を樹立するなど、多様な種目でその才能を発揮した。
2.3. 1988年ソウルオリンピックでの金メダル
1988年ソウルオリンピックの男子100m背泳ぎ決勝は、鈴木の選手キャリアにおいて最も輝かしい瞬間であり、日本の競泳史においても特筆すべき出来事となった。決勝戦は、世界記録保持者であり予選を1位で通過したアメリカのデビッド・バーコフ、そして200m背泳ぎ金メダリストであり元世界記録保持者のソ連のイゴール・ポリャンスキーとの激戦となった。これら3選手は、いずれもバサロ泳法を使用していた。
レースは最後まで接戦となり、鈴木は最後、水面すれすれを弧を描かずにリカバリーする独自のゴールタッチで、バーコフに0.13秒差をつけて優勝した。この勝利は、1932年ロサンゼルスオリンピックの清川正二以来、日本人2人目の男子100m背泳ぎ金メダルという快挙であり、表彰式では当時IOC委員であった清川本人からメダルが授与されるという感動的な一幕があった。この決勝で樹立した55秒05の日本記録は、その後の度重なるルール改正にもかかわらず、15年間にわたって更新されることがなく、国内選手にとって大きな壁として立ちはだかった。
ソウルオリンピックでは、100m背泳ぎでの金メダルに加え、200m背泳ぎで15位、400mメドレーリレーで5位に入賞している。この金メダル獲得の功績が評価され、日本スポーツ賞をはじめとする数々の賞を受賞した。
2.4. 日本競泳界への影響
鈴木大地のソウルオリンピックでの金メダル獲得は、当時の日本の競泳界にとってまさに光明であった。1960年代から1980年代にかけての日本の競泳界は、外国勢が飛躍的な記録更新を続ける一方で、水没泳法の禁止といった国際ルールの変更に苦戦を強いられ、「冬の時代」と称されるほどの低迷期にあった。平泳ぎの高橋繁浩や長崎宏子ら世界トップクラスの選手はいたものの、オリンピックでのメダル獲得には至らず、かつての「水泳王国」の面影は薄れていた。オリンピックでは、決勝進出はもちろん、コンソレーションファイナル(現在の準決勝に相当)進出さえ困難な状況が続き、長らく低迷と沈滞が続いていた。
このような状況下で、鈴木がソウルオリンピックで金メダルを獲得したことは、1972年ミュンヘンオリンピックの青木まゆみと田口信教以来16年ぶりの金メダル獲得(日本競泳陣にとってのメダル自体も16年ぶり)という歴史的快挙となった。この勝利は、日本の競泳が復活する大きなきっかけとなり、当時の日本水泳連盟会長であった古橋廣之進は、鈴木の金メダルに「もう一度日本の水泳を復活させたい」と涙を流したという。鈴木の成功は、停滞期にあった日本競泳界に大きな希望を与え、その後の発展へと繋がる転換点となった。
現役生活は1992年4月に終わりを告げた。
3. 引退後の活動
選手引退後、鈴木大地は学術研究、教育、そしてスポーツ行政の分野へと活動の幅を広げ、多様なキャリアを築いてきた。
3.1. 学術・指導者としての活動
大学院を修了した1993年、鈴木は1994年よりコロラド大学ボルダー校で客員研究員として活動を開始した。その後、1998年には日本オリンピック委員会からの派遣を受け、ハーバード大学水泳部のゲストコーチを務めるなど、海外での指導経験も積んだ。
2000年3月に日本に帰国し、母校である順天堂大学の講師および水泳部監督に就任した。この年、順天堂大学水泳部の東翔がジャパンオープンウォータースイムで優勝したことで、鈴木は「日本一の監督」と呼ばれるようになった。2006年には順天堂大学スポーツ健康科学部助教授に昇進。2007年には前述の通り、順天堂大学医学部より博士(医学)の学位を取得している。
2009年には日本水泳連盟の理事に選出され、競泳委員会の委員だけでなく、オープンウォーター、生涯スポーツ、そして日本泳法の統括責任者も兼任した。2010年1月には、世界アンチ・ドーピング機関(WADA)のアスリート委員会委員に選出され、国際的なアンチ・ドーピング活動にも関与するようになった。
2013年には順天堂大学スポーツ健康科学部スポーツ科学科コーチング科学コースの教授に就任。学外では日本オリンピック委員会アスリート委員会委員を退任する一方で、日本水泳連盟会長、日本オリンピアンズ協会会長に就任するなど、日本のスポーツ界の要職を歴任した。他にも、世界オリンピアン協会(WOA)理事や日本アンチ・ドーピング機構理事も務めていた。
公職以外でも、オリンピックや世界水泳選手権などで解説者を務めるほか、講演者、執筆者として多方面で活躍。また、水泳教室での指導者としても、後進の育成に尽力した。2014年には、日本選手権水泳競技大会(競泳)の大会ポスターに起用され、金メダルの瞬間の写真に「うれしいに決まってます」という当時の優勝コメントが添えられたデザインは、多くの人々に感動を与えた。
3.2. スポーツ行政官としてのキャリア

2015年、鈴木大地は日本のスポーツ行政における重要な役割を担うこととなる。同年10月1日、新たに設置されたスポーツ庁の初代長官に就任した。同時に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事にも選出された。スポーツ庁長官の職は副業が禁止された国家公務員であるため、鈴木はそれまでに務めていた全ての役職を辞任した。
スポーツ庁は、文部科学省の外局として、様々な政府省庁が実施していたスポーツ関連の機能やプロジェクトを統合・調整することを主な役割としている。特に、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、日本の競技力向上を図ることが主要な任務とされた。スポーツ庁は発足時121人体制で、多岐にわたるスポーツ政策の推進を担った。
長官在任中、鈴木は国際的なスポーツ界での役割も拡大させた。2016年10月にはアジア水泳連盟副会長に就任。2017年7月には、世界の水泳競技を統括する国際水泳連盟(現世界水泳連盟)の理事にも選出され、国際的なスポーツガバナンスにおける日本のプレゼンスを高めることに貢献した。
2020年9月11日、鈴木は5年間の任期満了に伴い、9月末をもってスポーツ庁長官を退任することが閣議で決定された。後任には、2004年アテネオリンピックハンマー投金メダリストであり、当時東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会のスポーツディレクターを務めていた室伏広治が就任した。退任を控えた9月25日の記者会見で、鈴木は「5年後、10年後にスポーツ庁をつくって良かったと言われるよう努めてきた」と述べ、自身の在任期間を振り返った。しかし、本来であれば東京オリンピック・パラリンピックの終了後に退任する予定であったため、大会の開催を見ずに退任することに対し「何となく心残りもある」と率直な思いを語った。最終登庁日となった9月30日には職員への挨拶を行い、東京オリンピック・パラリンピックの開催を見ずに退任することについて「これもまた人生ということで前向きにとらえていきたい」と述べた。
なお、長官退任と前後して、鈴木の故郷である千葉県で2021年3月に行われる知事選挙への出馬が一部で取り沙汰された。鈴木自身も一時的に立候補に意欲を示したものの、地元選出議員の石井準一や、スポーツ庁長官就任に尽力した森喜朗などから反対や難色を示す声があり、これらを受けて2020年10月に出馬を断念することを明らかにした。
3.3. 国際水泳殿堂入りとその他の活動
スポーツ庁長官を退任した後も、鈴木大地はスポーツ界での活動を精力的に続けている。
2020年、鈴木は「世界を驚かせた。鈴木氏は、困難と考えられていた金メダルを獲得した」と選考され、国際水泳殿堂への殿堂入りが発表された。当初は国際水泳殿堂クラスオブ2020として2019年に発表されていたが、COVID-19パンデミックの影響で2020年の殿堂入り式典が延期され、2021年に正式に殿堂入りを果たした。
スポーツ庁長官退任後は、順天堂大学大学院スポーツ健康科学研究科特任教授を経て、スポーツ健康学部副学部長・教授に再任された。2021年には、順天堂大学スポーツ健康医科学推進機構の機構長に就任している。同年6月からは、再び日本水泳連盟会長の職を務めている。
2022年には、AICJ中・高等学校の理事長に就任。
2023年5月には、アジア大学スポーツ連盟の理事に選出され、2027年までの4年間の任期を務めることになった。同年11月には、国際大学スポーツ連盟(FISU)の理事にも就任し、こちらも4年間の任期を務める。これにより、国際的な大学スポーツ振興における役割も担うこととなった。
4. 著作・出版物
鈴木大地は、自身の水泳経験やスポーツ科学の知見に基づき、多数の書籍や論文を執筆している。
4.1. 著書
- 『スイミング・エクササイズ-スイミングを科学するエクササイズ・ブック』大泉書店、1997年
- 『スイミング入門』大泉書店、1998年
- 『日本人の誰でも泳げるようになる本』中経出版、2000年(藤本秀樹と共編著)
- 『スイミングQ&A教室(背泳ぎ編)お悩み解決』ベースボール・マガジン社、2004年
- 『誰もがすいすい泳げる本』中経出版、2007年(藤本秀樹と共編著)
- 『保健衛生と健康スポーツ科学』篠原出版新社、2006年(稲葉裕、白石安男、丸山克俊、高橋卓也、松葉剛、助友裕子、高井茂、元永拓郎、安松幹展との共著)
- 『鈴木大地メソッド』毎日新聞社、2014年
- 『僕がトップになれたのは人と違うことをしてきたから』マガジンハウス、2014年
4.2. 訳書
- E.W.マグリシオ『スイミング・ファステスト』ベースボール・マガジン社、2005年(高橋繁浩と共訳)
5. 人物・エピソード
鈴木大地は、競技生活を離れた後も、メディアを通じてその知名度を維持し、また、その私生活や多岐にわたる逸話が知られている。
5.1. メディア出演
鈴木はテレビ番組など、メディアにも多数出演している。
- めざまし8(月1回準レギュラー)
- シューイチ(月1回準レギュラー)
5.2. 個人生活と逸話
鈴木大地は、私生活においては離婚と再婚を経験し、2児の父親である。
2016年7月31日に投開票された東京都知事選挙に際し、一部メディアで出馬が取り沙汰されたが、本人は「やりかけのプロジェクトがあるし、途中で投げ出すわけにはいかない」と否定。ソウルオリンピックでの自身の優勝タイム55秒05を引き合いに出し、「出馬は5505%ない」と発言し、話題となった。また、2021年3月21日投開票の千葉県知事選挙への出馬も一時検討されたが、最終的に辞退している。
幼少期は相撲が好きで、輪島や北の湖の熱戦を祖父とともにテレビで見ては、「どうしたらあのような巨体になれるのか」と、力士と自分との体格差に驚いていたという。中学校時代までは競泳選手であった貴ノ花利彰とは交流があり、彼が二子山時代に会食した際、「あなたは実業家になったらいい。水泳じゃ食っていけないだろう」と言われたエピソードがある。しかし、2017年に行われた経営コンサルタントで相撲記事の執筆も行う斎藤ますみとの対談では、「相撲が子供たちのいじめ防止に繋がるのでは?」という意見に対し、「顔を張られて鼻血を出して土俵を降りる大相撲力士の姿が暴力的なイメージに見えるので、正直子供に相撲を勧めたい気持ちは起こりにくくなる」と返しており、スポーツにおける暴力性への懸念を示している。
野球の始球式では、2016年の横浜DeNAベイスターズ主催試合で左投げを、2018年の第90回記念選抜高等学校野球大会開幕試合では右投げを披露するなど、両腕で投球経験がある。
また、近視であるため、1988年のソウルオリンピックで金メダルを獲得した際には、掲示板に近づいてやっと優勝したことを認識できたという逸話も残っている。