1. 概要
長谷川清(長谷川清はせがわ きよし日本語、1883年 - 1970年)は、大日本帝国海軍の軍人であり、最終階級は海軍大将であった。また、太平洋戦争中の1940年12月から1944年12月まで、第18代台湾総督を務めた。海軍士官として日露戦争や第一次世界大戦など主要な戦役に参加し、ワシントン駐在海軍武官や海軍次官、艦隊司令長官といった要職を歴任した。特に支那方面艦隊司令長官在任中にはパナイ号事件が発生したが、その際の彼の誠実な対応は国際社会から評価された。台湾総督としては、前任者による急進的な皇民化運動を緩和し、教育の普及に尽力するなど、台湾社会に一定の影響を与えた。戦後はA級戦犯容疑で一時身柄を拘束されたものの、無罪となり釈放された。その後は海上自衛隊創設に向けた諮問委員会の顧問を務めるなど、日本の再建にも貢献した。本稿では、長谷川清の幼少期から海軍経歴、台湾総督としての統治、そして戦後の人生に至るまでを詳細に記述し、特に彼の政策が社会や人々に与えた影響について多角的な視点から分析する。
2. 初期と海軍経歴
長谷川清は、福井県足羽郡社村(現在の福井市)で医師の次男として生まれた。幼少期より海軍への強い志を抱き、その後の人生を海軍軍人として歩むこととなる。
2.1. 幼少期と教育
長谷川清は1883年(明治16年)5月7日に福井県足羽郡社村で、医師である長谷川次仲の次男として生まれた。1896年(明治29年)4月1日に福井中学校に入学し、4年在学中に海軍を志すようになる。その後、1899年(明治32年)12月10日に福井中学校を中途退学し、正則英語学校に転校した。1900年(明治33年)12月17日には海軍兵学校第31期生として入校した。入校時の席次は196名中7番という優秀な成績であった。福井中学校以来の同級生には、後に海軍中将となる津田静枝や海軍少将となる東林岩次郎がいた。
2.2. 海軍兵学校と初期の勤務
1903年(明治36年)12月14日、長谷川は海軍兵学校を173名中6番という好成績で卒業し、海軍少尉候補生として防護巡洋艦松島に乗組んだ。翌1904年(明治37年)1月4日には戦艦八島に転属となった。長谷川の卒業は日露戦争勃発直前であったため、彼の期は通常の長距離航海訓練を経験することができなかった。これは戦後になって再開された慣例であった。同年5月23日には戦艦三笠に乗組んだ。
2.3. 日露戦争と第一次世界大戦への参戦
日露戦争中の1904年(明治37年)8月10日、長谷川は黄海海戦で公務による軽傷を負った。同年9月10日には海軍少尉に任官。1905年(明治38年)5月27日の決定的な日本海海戦にも三笠乗組員として参戦し、同年8月5日には海軍中尉に昇進した。同年9月11日、三笠が佐世保で爆発沈没した際には、公務による重傷を負い入院した。その後、防護巡洋艦厳島に配属され、1906年(明治39年)2月15日から遠洋航海に出発し、同年8月25日に佐世保に帰着した。三笠の再建が完了した5日後には、再び三笠に乗組んだ。1907年(明治40年)2月23日には駆逐艦白妙に配属され、1908年(明治41年)9月25日に海軍大尉に昇進した。
1909年(明治42年)5月25日には海軍大学校乙種学生として入校し、同年11月24日には海軍水雷学校高等科に入学した。1910年(明治43年)5月23日に同校を卒業後、同年5月25日には装甲巡洋艦浅間の分隊長、同年6月24日には防護巡洋艦笠置の分隊長を務めた。同年10月16日からはホノルル、サンフランシスコ、アカプルコなどへの遠洋航海に参加し、1911年(明治44年)3月6日に日本へ帰着した。同年3月11日には第二艦隊参謀に任命され、同年12月1日には海軍水雷学校教官兼分隊長となった。1912年(明治45年)5月22日には兼海軍工機学校教官となり、同年12月1日には海軍大学校甲種学生として入校した。1913年(大正2年)12月1日には海軍少佐に昇進し、1914年(大正3年)5月27日に海軍大学校甲種を16名中2番の成績で卒業した。卒業後、短期間三日月の駆逐艦長を務めた後、第二艦隊司令長官副官に任命された。
第一次世界大戦中の1914年(大正3年)10月、長谷川は第二艦隊参謀として青島の戦いに参戦した。1915年(大正4年)2月には海軍省人事局員となり、1916年(大正5年)4月1日には海軍大臣であった加藤友三郎の次席副官兼秘書官に任命された。
3. 海軍キャリアの発展
長谷川清は海軍士官として、国内外の要職を歴任し、そのキャリアを着実に発展させていった。特にアメリカでの駐在武官としての経験は、その後の彼の国際感覚に大きな影響を与えた。
3.1. ワシントン海軍武官
1917年(大正6年)12月1日、長谷川はアメリカワシントンD.C.の日本大使館付海軍駐在武官補佐官補として派遣された。1918年(大正7年)12月1日には海軍中佐に昇進し、翌1919年(大正8年)3月20日には海軍駐在武官補佐官となった。当時のアメリカでは対日感情が悪化し、黄禍論が高まっていた。海軍武官府では盗聴を危惧する声もあったが、長谷川は武官府庁舎内での日本語使用を一切禁じ、英語のみで会話するようスタッフに命じた。これは彼自身に後ろ暗いところが何もないことを示すためであった。彼は個人的にはアメリカ人が誠実な動機を持っていると信じていた。
長谷川の後任として海軍駐米武官となった山本五十六とは、任務引き継ぎを機に親交を深め、対米重視の立場を鮮明にした。1920年(大正9年)4月1日に帰国した後、海軍省人事局員として勤務した。1923年(大正12年)11月10日には再び駐アメリカ日本大使館付海軍駐在武官として派遣され、1926年(大正15年)4月15日に帰着するまでその任を務めた。
3.2. 艦長・参謀としての経歴
1922年(大正11年)12月1日、長谷川は海軍大佐に昇進し、海軍省人事局第1課長に任命された。1923年(大正12年)11月1日には海軍省軍令部に出仕した。帰国後の1926年(大正15年)5月1日には海防艦日進の艦長を拝命し、同年12月1日には戦艦長門の艦長を務めた。
1927年(昭和2年)12月1日には海軍少将に昇進し、横須賀鎮守府参謀長に任命された。1929年(昭和4年)9月1日には第三水雷戦隊司令官、同年11月30日には第二潜水戦隊司令官を歴任した。翌1930年(昭和5年)12月1日には海軍省艦政本部第五部長に任命され、1931年(昭和6年)12月1日には呉海軍工廠長を務めた。
この頃、連合艦隊司令長官であった同郷の先輩、加藤寛治とは思想が大きく異なっていたが、長谷川は礼節を保ち、良好な関係を維持した。長谷川はまた、思想信条に関わらず、資格のある全ての候補者が海軍兵学校や海軍大学校に入学することを支持していた。特に海軍兵学校と海軍大学校甲種課程の同期であった寺島健中将とは、「どちらが先に死んでも残った方が葬儀委員長を務める」と誓うほどの深い友情を育んだ。寺島は長谷川の死後、その盟約を守り葬儀委員長を務めている。
3.3. 軍縮会議と海軍次官
1932年(昭和7年)10月10日、長谷川は再び海軍省軍令部に出仕した。1933年(昭和8年)4月から10月にかけて、ジュネーヴで開催された世界軍縮会議に随員として参加した。同年12月1日には海軍中将に昇進し、1934年(昭和9年)5月10日には海軍次官兼将官会議議員に就任した。
3.4. 艦隊司令長官
1936年(昭和11年)12月1日、長谷川は第三艦隊司令長官に任命され、艦隊の指揮を執った。1937年(昭和12年)10月20日には支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官に就任した。
この在任中にはパナイ号事件が発生した。長谷川は事態を知るや否や、直ちに米英両国の駐在機関に遺憾の意と謝罪を伝えた。この対応は、後に東京裁判で戦犯として訴追される原因となる重大事件であったにもかかわらず、彼の誠実な態度に感銘を受けた連合国側は、長谷川を無罪と判断し釈放した。
日中戦争勃発初期の盧溝橋事件に際しては、長谷川は即座に支那派遣軍首脳と会談し、事件勃発からわずか2日間で陸海軍の航空隊運用における役割分担を決定し、実行に移した。第二次上海事変における渡洋爆撃は世界初の試みであったが、長谷川の即断がなければその実施は遅れていたことは必至であった。
中国方面艦隊司令長官として、長谷川は複数の中国陸海軍の首脳陣と会談し、その多くが長谷川の礼節ある態度に感服したと伝えられている。日中戦争で対戦した提督であるにもかかわらず、長谷川を非難する者は少なかった。1938年(昭和13年)4月25日には再び横須賀鎮守府司令長官に任命され、1939年(昭和14年)4月1日には海軍大将に昇進した。
4. 台湾総督
長谷川清は1940年(昭和15年)11月27日に第18代台湾総督に任命され、同年12月16日に台北に着任した。

当時の慣例では、総督に任命される軍人は予備役に編入されることが多かったが、及川古志郎海軍大臣は南進策推進のため、長谷川が現役のまま総督となることを強く主張した。及川が長谷川の現役続行に固執したのは、南進策の重要性だけでなく、海軍兵学校同期である長谷川を現役に留めたいという個人的な意向があったとも推測されている。
長谷川は着任式の後の歓迎レセプションで上機嫌になり、給仕の少女を抱き上げて膝の上に座らせ、歓迎に対する謝辞を述べたという逸話がある。これは現代の感覚からすればセクハラに該当する行為であり、当時でも取材班が唖然とするほど開けっぴろげな振る舞いであった。彼は仲間内の宴会でも「愛人でも作って小洒落た小料理屋でもやらせて飲んだくれて暮らせたら最高だ」と本心を吐露し、周囲を驚かせたこともあった。しかし、横須賀の花柳界では人気があったものの、家庭生活は円満であったと伝えられている。
台湾総督としての在任中、長谷川は教育の普及に熱心に取り組み、多大な効果を上げた。具体的には、台北帝国大学予科の設置や、初等普通教育の義務化を強化した。また、前任者の小林躋造が推進した急進的な皇民化運動を緩和したことでも知られている。小林は台湾の民間信仰を日本の神道に置き換えることを目指したが、長谷川はこれを穏健な方向へと修正した。彼は1944年(昭和19年)12月30日に台湾総督を辞任し、軍事参議官へ転出した。後任の総督には、台湾の軍司令官であった陸軍大将の安藤利吉が兼務する形で就任した。
5. 後期の海軍キャリアと戦後
太平洋戦争の終結が迫る中、長谷川清は海軍内で重要な役割を担い、日本の降伏後はA級戦犯容疑で一時身柄を拘束されたが、最終的に無罪となった。戦後も日本の再建に貢献する活動を行った。
5.1. 終戦前後と予備役編入
1940年(昭和15年)5月1日、長谷川は軍事参議官に任命された。鈴木貫太郎内閣組閣の際には、井上成美海軍次官とともに海軍大臣の有力候補の一人に擬せられたが、井上や高木惣吉などが米内光政の続投を工作し、長谷川自身も「どうして米内さんじゃいけないんだ」と米内続投を支持したため、大臣就任には至らなかった。
1945年(昭和20年)2月、軍事参議官であった長谷川は海軍戦力査察使に任命され、火薬廠、鎮守府、水中水上特攻関係を査察した。同年6月1日には高等技術会議議長を兼任し、同年6月12日には、天皇に対し、海軍の戦備は士気は高いものの物資不足で不備であることを報告した。彼は海軍省廃官最終日の同年11月30日まで現役であり、40年以上にわたる海軍での勤務を終え、予備役に編入された。
5.2. 戦後の身柄拘束と裁判
第二次世界大戦終結後の1946年後半、長谷川は他の多くの主要な政治家や軍司令官と同様に、アメリカ占領当局によってA級戦犯容疑者として逮捕された。彼はパナイ号事件発生時に中国における海軍部隊の司令官であったため、連合国軍総司令部 (GHQ) の将校から尋問を受けた。しかし、長谷川はアメリカとイギリスの将校に正式な謝罪を行い、その誠実な態度が法廷に感銘を与え、無罪判決を受けて釈放された。1947年(昭和22年)1月14日に巣鴨刑務所から釈放された後、同年11月28日には公職追放の仮指定を受けた。
5.3. 海上自衛隊創設への貢献
1951年(昭和26年)1月24日、長谷川は旧大日本帝国海軍士官で構成される新海軍再建委員会の顧問として、海上自衛隊の創設を監督する諮問委員会に参加した。また、1952年(昭和27年)11月1日には水交会の顧問も務めた。
6. 私生活
長谷川清の私生活は、彼の公的な経歴とは異なる側面を見せる。温厚な人柄と家族との関係は、彼の人間性をより深く理解する上で重要である。
6.1. 家族関係
長谷川清の妻は須磨子であった。長男は三井物産に勤務した長谷川肇、次女は長谷川康子である。
6.2. 人物像と人間関係
長谷川清は、温厚で懐が深く、度量の広い人物であったと伝えられている。決断が早く、思い立ったら即実行をモットーとしていたが、一方で対話を重視し、たとえ敵対する相手であろうと徹底的に会話を持ち、相手の面子を立てるために頭を下げることも辞さなかったという。対英米協調条約派と対英米強硬艦隊派との対立が相次ぎ、外に対してはイギリス、中国、アメリカとの関係が漸次悪化した時期に活躍したにもかかわらず、長谷川に対する誹謗中傷がほとんど聞かれないことからも、その人望の篤さが窺える。
井上成美は、歴代のほとんどの海軍大将を無為無策の無能者として酷評し「3等扱い」していたことで知られているが、長谷川に対しては「2等大将扱い」として一定の評価を与えていた。鈴木貫太郎内閣組閣時に、共に米内光政を海軍大臣に推した長谷川の言動を「さすがは長谷川さんだ。今の政治家に必要なのは長谷川さんのような態度だ」と絶賛している。また、伏見宮博恭王が軍令部総長を辞任した際の後任に誰が良いか尋ねられた際、井上は「長谷川さんです。駄目なら永野修身さんでしょう」と答えている。結果的には長谷川が台湾総督であったために永野が総長となり、井上は「無理にでも長谷川さんを推しておけばよかった」と後悔していたという。
7. 栄典
長谷川清は、その功績により日本および外国から数々の栄誉を授与された。
- 勲一等瑞宝章(1934年4月29日)
- 勲一等旭日大綬章(1938年8月13日)
- 功一級金鵄勲章(1942年4月4日)
- ドイツ国ドイツ鷲大十字勲章(1937年11月22日)
- 中華民国政府:特級同光勲章(1944年7月20日)
8. 死と遺産
長谷川清は第二次世界大戦終結から25年目の節目にこの世を去り、その生涯は日本の近代史に深く刻まれることとなった。
8.1. 死
長谷川清は1970年(昭和45年)9月2日、東京都目黒区の自宅にて脳内出血のため死去した。享年87歳であった。告別式は同年9月9日に青山葬儀所で行われた。彼の墓所は鎌倉市の鎌倉霊園にある。
8.2. 遺産と影響
長谷川清の死後も、彼の業績や人柄は後世に語り継がれている。彼の孫は映画監督・脚本家である実相寺昭雄である。実相寺は著書「怪獣な日々」(ちくま文庫)の中で、「(祖父が死んだのは)わたしが作った最初の長篇劇映画『無常』を見た後だったから、祖父には刺激が強すぎたのかもしれない」と語っている。