1. Overview

エドガー・マルティネス(Edgar Martínez英語、1963年1月2日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市出身(プエルトリコのDorado, Puerto Ricoドラド英語育ち)の元プロ野球選手(指名打者、三塁手)、野球指導者。右投右打。愛称は「ガー (Gar英語)」や「パピー (Papi英語)」。
シアトル・マリナーズ一筋で1987年から2004年までの18年間にわたりプレーしたフランチャイズ・プレイヤーであり、メジャーリーグ史上において実質的に初めて本格的な指名打者(DH)としてその地位を確立した選手と称されている。特に1995年以降はほぼ指名打者として起用され、その功績を称えて2004年からMLBの最優秀指名打者賞が「エドガー・マルティネス賞」に改称された。
現役時代には7度のMLBオールスター選出、5度のシルバースラッガー賞、2度の首位打者を獲得。通算5,000打席以上で打率.300、出塁率.400、長打率.500を同時に記録したMLB史上18人の選手の一人である。マリナーズは彼の背番号「11」を永久欠番とし、球団殿堂にも彼を迎え入れた。2019年にはアメリカ野球殿堂入りを果たした。
2. 生い立ちと初期のキャリア
マルティネスは1963年1月2日にニューヨーク市で、プエルトリコ出身のホセとクリスティーナ・サルガド・マルティネス夫妻の間に生まれた。彼が2歳の時に両親が離婚し、プエルトリコのドラドにあるMaguayoマグアヨスペイン語地区に住む祖父母に引き取られた。彼は独学で英語とコンピューターの使い方を習得した。11歳の時に両親は和解し、兄と姉はニューヨークに戻って両親と暮らすことになったが、エドガーは祖父母と共にドラドに残ることを選んだ。
マルティネスは1971年のワールドシリーズで同郷のロベルト・クレメンテのプレーを見て野球選手になることを志した。いとこのカルメロ・マルティネスと共に自宅の裏庭で野球をしていたが、スカウトたちはカルメロに注目し、エドガーには関心を寄せなかった。彼はプエルトリコ・インターアメリカン大学で経営管理を学びながら、セミプロ野球でプレーし、昼は家具店のスーパーバイザー、夜はゼネラル・エレクトリックの工場で働く二つの仕事を掛け持ちしていた。
3. 選手経歴
マルティネスのプロ野球選手としてのキャリアは、マイナーリーグでの地道な努力から始まり、怪我によるポジション変更を経て、指名打者としてメジャーリーグ史に名を刻む大打者へと飛躍を遂げた。
3.1. プロ入り前とマイナーリーグ時代
セミプロチームのオーナーの勧めもあり、マルティネスはMLBのシアトル・マリナーズが開催するトライアウトに参加した。工場での夜勤明けで疲労困憊しており、「バットも振れないほど疲れていた」にもかかわらず、マリナーズは1982年12月12日に彼と契約を結んだ。当時の契約金は少額の4000 USDであった。プエルトリコでの収入が良かったため、当初はオファーを断ることも考えていたが、いとこのカルメロに説得されて契約に踏み切った。
1983年、彼はマイナーリーグのノースウェストリーグ、A級ショートシーズンのベリンハム・マリナーズで三塁手としてプロデビューした。しかし、打率.173、本塁打0、わずか18安打と低調な成績に終わった。彼を契約したスカウトは、マリナーズのGMであるハル・ケラーを説得し、シーズン後に彼を将来有望な選手のためのアリゾナ・インディショナルリーグ(AIL)に送った。ケラーは当初、マルティネスがメジャーリーグで通用するとは思っておらず、AILへの派遣をためらっていたが、最終的に送り出し、マルティネスはAILで打率.340を記録した。
1984年には、A級のミッドウェストリーグに所属するワサウ・ティンバーズで打率.303、15本塁打、84四球を記録した。1985年にはAA級のサザンリーグのチャタヌーガ・ルックアウツで111試合に出場して打率.258、AAA級のパシフィックコーストリーグ(PCL)のカルガリー・キャノンズで20試合に出場して打率.353を記録した。1986年もチャタヌーガでプレーし、三塁手としてリーグトップの守備率.960を記録した。1987年にはカルガリーで129試合に出場し、打率.327、10本塁打、31二塁打を記録。打率、安打数、二塁打数、出塁率、出場試合数、四球数でチームをリードした。
3.2. メジャーリーグデビューと初期の苦闘 (1987-1989)
1987年9月12日、マルティネスは三塁手としてMLBデビューを果たし、最初の13試合で打率.372を記録した。しかし、当時のマリナーズはジム・プレスリーを三塁手として起用する方針を固めていたため、彼の出場機会は限られた。
1988年、マルティネスはカルガリーでシーズンをスタートしたが、5月初旬にメジャーに昇格した。マリナーズで4試合に出場した後、再びカルガリーに戻され、そこで打率.363を記録し、PCLの首位打者となった。9月には再度昇格し、10試合で打率.389を記録。メジャー2年目となるこの年は、14試合で打率.281、出塁率.351、長打率.406を記録した。
1989年、マリナーズの開幕戦で三塁手として先発出場を果たしたが、成績が安定せず、5月には再びカルガリーに降格となった。カルガリーでは32試合で打率.345を記録したが、マリナーズでは65試合で打率.240にとどまった。レギュラー定着には時間を要したが、レギュラーシーズン終了後、彼はプエルトリコのウィンターリーグでプレーし、43試合で打率.424を記録してリーグの首位打者となり、カルロス・バエガと共にMVPに選ばれた。
3.3. 頭角を現し初の首位打者獲得 (1990-1992)
1990年、マルティネスは9.00 万 USDの1年契約を結び、メジャーで開幕を迎えた。前年の正三塁手だったジム・プレスリーがチームを離れたにもかかわらず、ダーネル・コールズがマリナーズの開幕スタメン三塁手として起用された。しかし、コールズはマリナーズの最初の6試合で5失策を喫し、リーランド監督はコールズを外野に回し、マルティネスを三塁で起用するようになった。この年、マルティネスは144試合に出場し、打率.302、出塁率.397を記録し、いずれもチームトップの成績を残した。
1991年シーズン前、マルティネスは85.00 万 USDの2年契約を結んだ。この年、7月14日までの週で自身初のMLB週間最優秀選手賞を受賞。シーズンを打率.307、出塁率.405、長打率.452と、いずれもキャリアハイの成績で終えた。
1992年には、自身初のオールスターゲームに選出され、7月と8月には2ヶ月連続でMLB月間最優秀選手賞を受賞した。このシーズン中、マルティネスはマリナーズ史上最高額となる1000.00 万 USDの3年契約を結んだ。シーズン終了時、打率.343を記録し、MLB全体の首位打者に輝いた。これはマリナーズ球団史上初の首位打者タイトルであり、球団のシーズン最高打率記録でもあった(この記録は後にイチローによって更新された)。また、リーグトップの46二塁打を記録し(フランク・トーマスと同数でMLBタイ記録)、シーズン最多二塁打の球団記録も樹立した(この記録は後にアレックス・ロドリゲスによって更新された)。シーズン後には、三塁手部門で自身初のシルバースラッガー賞を受賞した。
3.4. 怪我による離脱と指名打者への転向 (1993-1994)
1993年シーズン開幕前、カナダブリティッシュコロンビア州バンクーバーのBCプレイス・スタジアムで行われたエキシビションゲーム中、マルティネスは人工芝の縫い目のほつれに足を引っ掛け、左足のハムストリングを断裂した。この怪我により、彼はシーズン開始から42試合を欠場し、シーズン終了までにさらに2度も故障者リスト入りするなど、出場は42試合にとどまった。
1994年には、シーズン最初の打席で相手投手デニス・マルティネスから右腕に死球を受け、再び故障者リスト入りした。この怪我と1994年から1995年のMLBストライキの影響もあり、彼は1993年と1994年の2シーズンでわずか131試合しか出場できなかった。1994年に出場した89試合では、65試合に三塁手として、23試合に指名打者として出場し、1回だけ代走として登場した。この度重なる怪我により出場機会が減少したことが、球団がマルティネスの打力を惜しみ、彼を指名打者へとポジションを転換させる最大の転機となった。
3.5. 指名打者としての全盛期 (1995-2001)

1995年、マルティネスはフルタイムの指名打者として活躍した。6月には打率.402、出塁率.537、長打率.761を記録し、MLB月間最優秀選手賞とMLB週間最優秀選手賞を受賞した。また、この年にはオールスターゲームにも選出され、打撃部門で11のカテゴリーでキャリアハイを更新した。シーズン終了時には、打率.356で自身2度目のアメリカンリーグ(AL)首位打者を獲得し、これはチーム記録となった。さらにリーグトップの121得点、52二塁打、出塁率.479、OPS1.109(いずれも当時のチーム記録)を記録した。AL MVP投票では、モー・ボーン、アルバート・ベルに次ぐ3位に終わった。この年、彼は2度目のシルバースラッガー賞と自身初となる最優秀指名打者賞を受賞した。
1996年、マルティネスは打率.327を記録し、オールスターゲームに選出された。このシーズンに三塁手として1試合に出場した際、ジョン・マルザノと衝突し、肋骨を4本骨折して21試合を欠場した。同年8月21日、キャリア通算1,000安打を達成した。1997年にもオールスターゲームに選出され、シーズン終了時にはシルバースラッガー賞を受賞した。打率.330でALで2位の成績を残した。マリナーズは1997年ALDSに進出したが、ボルチモア・オリオールズに4試合で敗れた。マルティネスは同シリーズで打率.188に終わったが、2度目の最優秀指名打者賞を受賞した。1998年には打率.320、29本塁打を記録し、出塁率.429でALトップに立ち、3度目の最優秀指名打者賞を受賞した。
1999年、マルティネスは外斜視と診断された。この症状により、彼の右目は時折ずれてしまい、奥行き知覚を失うことがあった。1999年シーズン、彼は出塁率.447でALトップとなり、打率.337を記録した。8月14日には通算1,500安打を達成した。2000年には5度目のオールスターゲーム選出を果たした。この年、キャリアハイとなる37本塁打を放ち、145打点でALトップに立ち、自身初の打点王を獲得した。マリナーズはポストシーズンに進出し、2000年ALDSでシカゴ・ホワイトソックスを破ったが、2000年ALCSでニューヨーク・ヤンキースに敗れた。マルティネスはAL MVP投票で6位に終わり、最優秀指名打者賞を受賞した。
2001年にもオールスターゲームに選出された。打率.306、116打点を記録し、打率3割以上を記録したシーズンは10度目(7年連続)、100打点以上は6度目となった。マリナーズは1906年のシカゴ・カブスと並ぶメジャーリーグ史上最多タイのシーズン116勝を記録した。マルティネスは2001年ALDSで打率.313、2本塁打を記録し、クリーブランド・インディアンスを破ったが、2001年ALCSでは打率.150に終わり、ヤンキースに敗れた。この年、彼はシルバースラッガー賞と最優秀指名打者賞を受賞した。
3.5.1. 「The Double」(1995年ALDS)
1995年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ(ALDS)ではニューヨーク・ヤンキースを相手に、5試合で打率.571を記録し、18度も出塁した。シリーズ第4戦では3点本塁打と満塁本塁打を放ち、6対6の同点に追いつき、11対8での勝利に貢献した。この試合での7打点は、ポストシーズン1試合の最多打点記録に並んだ。この勝利により、5戦先勝のシリーズは2勝2敗となり、最終第5戦にもつれ込んだ。
運命の第5戦、11回裏にマリナーズが5対4で1点ビハインドの状況で、マルティネスはジャック・マクダウェルから2点適時二塁打を放ち、マリナーズは6対5で逆転サヨナラ勝利を収め、シリーズを3勝2敗で制した。この勝利は、マリナーズにとって球団史上初のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ進出となった(マリナーズはその後、クリーブランド・インディアンスとのシリーズに6試合で敗退した)。
この決定的な二塁打は、マリナーズファンによって「ザ・ダブル (The Double英語)」として野球史に語り継がれている。マルティネス自身もこのプレーについて「多くの人が私のキャリアについて語る時、あの二塁打を覚えているだろう。そうだ、あれが私のキャリアを決定づけたと言える」と述べている。マリナーズの1995年のポストシーズンにおける快進撃は、ワシントン州議会がキングドームに代わるシアトル専用の野球スタジアム建設のための資金を可決するに至る、公衆の支持を広げるきっかけとなった。マリナーズのルー・ピネラ監督は、この打席を「シアトルの野球を救ったヒットであり、ランであり、ゲームであり、シリーズであり、シーズンであった」と評した。
3.6. 後期キャリアと引退 (2002-2004)
2002年、マルティネスは足の故障に悩まされ、97試合の出場にとどまった。ハムストリングを痛めて試合を途中退場し、左膝の断裂した腱を修復する手術を受けた。9月8日の時点では打率.301を記録していたものの、シーズン終盤にスランプに陥り、最終的に打率.277でシーズンを終えた。
2003年、マルティネスは再びハムストリングの怪我に苦しんだ。しかし、シーズン前半は打率.304を記録し、オールスターゲームに選出された。5月2日には通算2,000安打を達成した。9月にはファウルボールが足に当たり、足の指を骨折したが、シーズン終了まで出場を続けた(この際、マリナーズはマルティネスのために、つま先に鋼鉄が入った特注のスパイクを用意した)。最終的に打率.294、24本塁打、出塁率.403という好成績を残した。2003年には自身5度目となるシルバースラッガー賞を受賞し、シーズン終了後には球団の慰留もあり、現役を続行した。
2004年、マルティネスは腰の痛み、足の怪我、そして視力の問題に苦しんだ。マリナーズは低迷し、ポストシーズン争いから脱落したため、指名打者にはバッキー・ヤコブセンが起用されるようになった。同年8月9日、マルティネスはシーズン限りでの現役引退を発表した。引退の決断とマリナーズでのキャリアについて、彼は「本当に、とても難しい。心と体はまだプレーしたいと言っている。しかし、体は違うことを言っているのだ。だから、これは良い決断だと感じている」と語った。
2004年8月10日、本拠地セーフコ・フィールドで行われたミネソタ・ツインズ戦では、試合前からマルティネスに盛大な拍手が送られ続けた。彼はこの試合に3番打者として出場し、初回の第1打席で先制となる9号2点本塁打を放った。ファンはスタンディングオベーションでその活躍に応え、先制の本塁を踏んだイチローは試合後に「一番盛り上がる打席だったでしょうからね。かっこよすぎますよね」とマルティネスの活躍を称賛した。マルティネスはこの年にMLB史上20人目となる通算500二塁打、通算300本塁打を達成し、現役を引退した。通算成績で打率3割、300本塁打、500二塁打、出塁率4割、長打率5割を記録した。シーズン終了後には、その社会やファンへの貢献が評価され、彼が憧れであったロベルト・クレメンテの名を冠するロベルト・クレメンテ賞を受賞した。
4. 選手としての特徴
マルティネスは精巧なバットコントロールと優れた選球眼、そして重要な局面での勝負強さを兼ね備えた打者として知られている。また、指名打者転向後もその打撃力は衰えることなく、多くの記録を樹立した。
4.1. 打撃スタイルと選球眼
マルティネスは、巧みなバットコントロールでフィールド全体に打球を打ち分ける広角打法と、四球を量産する優れた選球眼を持ち味とした。通算打率は右打者ながら.312という高打率を残しており、通算出塁率は4割を大きく超えている。打席では非常に忍耐強く、球をよく見る打者で、相手投手に投げさせる平均球数は毎年MLBで上位に位置していた。
1990年代後半には、同じ中軸を担うケン・グリフィー・ジュニアやアレックス・ロドリゲスと遜色のない打撃成績を残し、特に純粋な打撃力を表すといわれているOPSでは毎年安定して非常に高い水準を保持していた。しかし、出塁を重視するスタイルから目立つことが少なく、他のスター選手の陰に隠れがちであったため、「メジャーで最も過小評価されている打者」とメディアに言われたこともある。
現役時代は選球眼と共に、重要な局面での勝負強さが光ることが多く、巧打のクラッチ・ヒッターとしても知られた。1995年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ最終戦における「The Double」は、後がない劣勢の場面からチームを逆転サヨナラ勝ちに導き、球団史上初めてリーグチャンピオンシップシリーズ進出を果たした、彼の勝負強さを象徴するプレーである。マルティネス自身もこのシーンをキャリアのハイライトに挙げている。
殿堂入り投手であるマリアーノ・リベラは、対戦を恐れた相手がいるかと問われた際、「決して恐れることはなかったが、こう言わせてもらうなら、厳しい状況で対戦したくなかった唯一の打者はエドガー・マルティネスだ。なぜなら、彼を抑えることができなかったからだ。(笑い)彼を抑えられなかった。どんな球を投げても、彼を打ち取れなかった。彼は私の番号以上のものを持っていた。朝食、昼食、夕食、全てを彼に奪われた」と語った。マルティネスはリベラに対し、19打席で11安打、打率.579を記録している。また、殿堂入り投手のペドロ・マルティネス(血縁関係はない)も、エドガー・マルティネスをキャリアで最も対戦が難しかった打者の一人に挙げ、「彼は打席で非常に規律正しく、他の誰もが打ち取られるような球をファウルにすることができた」と評した。
マルティネスは右眼が生まれつき外斜視であったため、目の筋肉を動かす運動を練習メニューに組み込んでいた。特に試合の前には、200 km/h近い速度でバッティングマシンから放たれるテニスボールに書かれた数字を読み取るなどし、動体視力を鍛えるトレーニングをしてから試合に臨んでいたという。
彼は、出塁率(.418)、出場試合数(2055)、二塁打(514)、打点(1261)、得点(1219)、四球(1283)、総塁打(3718)、長打(838)、犠飛(77)、死球(89)、併殺打(190)などでシアトル・マリナーズの球団記録を保持しており、打率(.312)、本塁打(309)、安打(2247)などは球団歴代2位である。また、指名打者として放った本塁打243本は、2007年にフランク・トーマスに更新されるまでMLB歴代1位であった。シーズン記録では、1996年のシーズン四球数123、1995年のシーズン出塁率.479は球団記録である。1試合記録では、1995年6月25日と1996年5月11日の3二塁打(タイ記録。複数回記録したのは他にイチローのみ)、1992年5月3日の2三塁打(タイ記録)、1999年5月17日の5得点(タイ記録)、2004年6月24日の5四球(タイ記録)、2004年5月15日の3敬遠(タイ記録)、2002年8月3日の3犠飛(タイ記録)など、多くの部門で球団記録に並んでいる。
4.2. 守備と走塁
指名打者に転向する前は三塁手としてプレーしていたが、足に不安を抱えていたため、1994年頃から守備機会が極端に減少した。指名打者制のない交流戦などでは、一塁の守備に就くこともあった。
足の故障を繰り返す以前は平均以上の走力を持ち、メジャーデビューは代走で、メジャー初安打も三塁打であった。しかし、故障以降は若い頃の膝の手術から無理ができなくなっていたため、全力疾走する機会は限られており、たいへん鈍足であった。そのため、同じく鈍足のチームメイトであったジョン・オルルドと並んで、イチローに「各駅停車だ」とからかわれるほどで、試合終盤で出塁すると代走を送られることが多かった。しかし、走塁ミスは非常に少なく、盗塁も走力の割には企図することが多かった。
5. コーチ経歴

2015年6月20日、マリナーズはハワード・ジョンソンを解任し、マルティネスを打撃コーチとして雇用した。彼が就任してからの94試合で、チームの打撃成績は著しく改善され、ジョンソンがコーチを務めた68試合での打率.233、1試合平均3.4得点から、打率.260、1試合平均4.6得点に向上した。新しくゼネラルマネージャーに就任したジェリー・ディポトは、ロイド・マクレンドン監督を解任したが、マルティネスは打撃コーチとして残留した。
マルティネスは2018年シーズン終了までマリナーズの打撃コーチを務めた。2018年シーズン後、家族との時間を増やすため、打撃コーチから打撃アドバイザーの役割に移行した。
2024年8月22日にジャレット・デハートが解任された後、マリナーズはマルティネスがシーズン残りの期間、打撃コーチを務めることを発表した。しかし、同年11月25日にはケビン・サイツァーが打撃コーチに就任し、マルティネスは引き続き球団の打撃プログラムを統括する役割を担うことになった。
6. 私生活と社会貢献
マルティネスはホリ・ビーラーとブラインドデートで出会い、1992年10月に結婚した。彼らはワシントン州カークランドに住み、アレックス、テッサ、ジャクリーンという3人の子供がいる。
彼は18年間の現役生活を一貫してシアトル・マリナーズで過ごした、MLBでは珍しいフランチャイズ・プレイヤーである。ファンからは「ガー」や「パピー」の愛称で親しまれ、2008年後半にESPNが実施した「マリナーズの歴史上で最も偉大な選手は誰?」というアンケート調査において、ケン・グリフィー・ジュニアに次いで第2位に選出されている。
マルティネスは社会奉仕活動やファンサービスに熱心であり、人格者としても知られる。現役時代は率先してリーダーシップを取るタイプではなく、寡黙で落ち着いていたが、後輩の面倒見が良く、2000年以降はチームのリーダー的存在であった。ブレット・ブーンは「彼がいるだけで打線が全然違う」と語っており、アレックス・ロドリゲスはマルティネスを「父のような存在」と話している。イチローも「背中で引っ張ってくれる」と語っており、マルティネスの引退後には「打撃に関し、練り上げてきた技術を持った人。ヒット1本の味が違うというか、それぞれに味がある」「シアトルで、エドガーの存在はとてつもない大きさですから」と述べている。
彼は妻のホリと共に、シアトル小児病院に時間と資金を寄付しており、これにはマリナーズが彼の引退を記念して設立した「エドガー・マルティネス筋ジストロフィー研究基金」や、T-モバイル・パークでの毎年恒例の「チルドレンズ・ホスピタル・ウィッシング・ウェル・ナイト」が含まれる。マルティネスはまた、ペアレント・プロジェクト・マッスル・ジストロフィー、オーバーレイク病院、メイク・ア・ウィッシュ財団、ウィッシング・スター財団、ユナイテッドウェイ、エスペランサ、ページ・アヘッド児童文学プログラム、ビッグブラザーズ・ビッグシスターズ、ボーイズ・アンド・ガールズ・クラブ、マリナーズ・ケアなどの団体も支援している。これらの貢献が評価され、2007年6月20日、マルティネスはアイダホ州ボイシのワールド・スポーツ・ヒューマニタリアン殿堂に迎え入れられた。
2005年には、ワシントン州で最初のHispanic bankヒスパニック系銀行英語であるプラザ銀行の創設者の一人となった。2006年には、イメージソース社の2人の幹部と共に企業向け商品カテゴリの会社「ブランデッド・ソリューションズ」を共同設立し、2010年に同社をイメージソースに売却した。2013年シーズンには、マリナーズはマルティネス、地元シェフのイーサン・スタウェル、バーテンダーのアヌ・アプテと協力し、T-モバイル・パーク内に「エドガーズ・カンティーナ」を開設した。
7. 功績と栄誉
マルティネスは、その選手としての卓越した能力と人間性によって、野球界内外から多くの栄誉を受けている。特に指名打者(DH)というポジションの価値を高め、その後の野球界に大きな影響を与えた。
7.1. 野球界、特にDHへの影響
マルティネスは選手生活のほとんどを指名打者(DH)専任として過ごし、好成績を残し続けた初めての選手であった。彼が活躍するまでは、指名打者には好打者の例が少なく、指名打者のイメージを変えた選手でもある。彼の引退後、MLBはマルティネスに敬意を表し、最優秀指名打者賞を「エドガー・マルティネス賞」と改称した。皮肉なことに、マリナーズで打撃コーチとしてマルティネスを指導したポール・モリターも最優秀指名打者賞の受賞歴があるが、この改称によって教え子の名前を冠した賞を受賞することになった。
7.2. 球団およびリーグからの表彰

シアトル・マリナーズの永久欠番に2017年指定。
2003年9月9日、セーフコ・フィールドでの試合前のセレモニーで、ヒスパニック系野球博物館殿堂に迎え入れられた。2004年10月、彼の引退後、シアトルのセーフコ・フィールドに隣接するサウス・アトランティック・ストリート(州道519号線)の一部が「エドガー・マルティネス・ドライブ・サウス」と改称された。引退セレモニーでは、マリナーズからアーティストミシェル・ラッシュワースが描いた「彼の高く足を上げる打撃スタイル」を特徴とする肖像画が贈呈された。
2005年、ファン投票により「ラティーノ・レジェンズ・チーム」の三塁手に選出された。マリナーズは彼の背番号「11」を彼の引退後、他のどの選手にも与えなかった。2007年6月2日、マリナーズはマルティネスをシアトル・マリナーズ球団殿堂に迎え入れ、2017年8月12日には彼の背番号11番を永久欠番とした。マリナーズでの永久欠番はケン・グリフィー・ジュニアの24番に次いで球団史上2人目である。2021年には、シアトルのT-モバイル・パークの外にマルティネスの銅像が設置された。
彼の名を冠したComplejo Deportivo Edgar Martinezスペイン語(エドガー・マルティネス・スポーツ複合施設)がドラドのヒギラル地区に建設された。2017年のハリケーン・マリアとハリケーン・イルマによって構造的損傷を受けたが、2021年に70.00 万 USDをかけて修復が完了した。この複合施設には野球場、陸上競技場、バスケットボールコート、ジムがあり、学校のスポーツ大会に利用されている。
7.3. アメリカ野球殿堂入り
2010年、アメリカ野球殿堂入りの資格を初めて得たが、殿堂入りに必要な得票率75%に対し、36.2%にとどまった。一部のスポーツライターは、彼の打撃成績が指名打者としての「一面的」なキャリアを克服するには不十分だと感じていた。しかし、他の評論家は、試合の勝利を維持するために1イニングを投げるクローザー(試合の他の側面、例えば打撃や走塁には関与しない)の専門性と彼の貢献を比較し、DHとしての功績を評価する議論が展開された。
その後も得票率は30%台で推移していたが、2017年には58.6%、2018年には70.4%と徐々に得票率を伸ばした。そして、全米野球記者協会(BBWAA)による投票資格取得最終年である2019年の投票において、85.4%の得票率を獲得し、ついに殿堂入りを果たした。彼はケン・グリフィー・ジュニアに次いでマリナーズから殿堂入りした2人目の選手となった。また、レッド・ラフィング、ジョー・メドウィック、ラルフ・カイナー、ジム・ライス、ティム・レインズに続き、資格取得最終年に殿堂入りした6人目の選手となった。彼は、同じく殿堂入りを果たしたマリアーノ・リベラ(資格取得1年目で満票選出)と、故ロイ・ハラデイ(資格取得1年目、死後選出)と共に殿堂入りを果たした。
8. 通算成績
8.1. 打撃・守備成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 刺 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | OPS | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987 | SEA | 13 | 46 | 43 | 6 | 16 | 5 | 2 | 0 | 25 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 5 | 0 | .372 | .413 | .581 | .994 |
1988 | 14 | 38 | 32 | 0 | 9 | 4 | 0 | 0 | 13 | 5 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4 | 0 | 0 | 7 | 0 | .281 | .351 | .406 | .758 | |
1989 | 65 | 196 | 171 | 20 | 41 | 5 | 0 | 2 | 52 | 20 | 2 | 1 | 2 | 3 | 17 | 1 | 3 | 26 | 3 | .240 | .314 | .304 | .619 | |
1990 | 144 | 570 | 487 | 71 | 147 | 27 | 2 | 11 | 211 | 49 | 1 | 4 | 1 | 3 | 74 | 3 | 5 | 62 | 13 | .302 | .397 | .433 | .830 | |
1991 | 150 | 642 | 544 | 98 | 167 | 35 | 1 | 14 | 246 | 52 | 0 | 3 | 2 | 4 | 84 | 9 | 8 | 72 | 19 | .307 | .405 | .452 | .857 | |
1992 | 135 | 592 | 528 | 100 | 181 | 46 | 3 | 18 | 287 | 73 | 14 | 4 | 1 | 5 | 54 | 2 | 4 | 61 | 15 | .343 | .404 | .544 | .948 | |
1993 | 42 | 165 | 135 | 20 | 32 | 7 | 0 | 4 | 51 | 13 | 0 | 0 | 1 | 1 | 28 | 1 | 0 | 19 | 4 | .237 | .366 | .378 | .744 | |
1994 | 89 | 387 | 326 | 47 | 93 | 23 | 1 | 13 | 157 | 51 | 6 | 2 | 2 | 3 | 53 | 3 | 3 | 42 | 2 | .285 | .387 | .482 | .869 | |
1995 | 145 | 639 | 511 | 121 | 182 | 52 | 0 | 29 | 321 | 113 | 4 | 3 | 0 | 4 | 116 | 19 | 8 | 87 | 11 | .356 | .479 | .628 | 1.107 | |
1996 | 139 | 634 | 499 | 121 | 163 | 52 | 2 | 26 | 297 | 103 | 3 | 3 | 0 | 4 | 123 | 12 | 8 | 84 | 15 | .327 | .464 | .595 | 1.059 | |
1997 | 155 | 678 | 542 | 104 | 179 | 35 | 1 | 28 | 300 | 108 | 2 | 4 | 0 | 6 | 119 | 11 | 11 | 86 | 21 | .330 | .456 | .554 | 1.009 | |
1998 | 154 | 672 | 556 | 86 | 179 | 46 | 1 | 29 | 314 | 102 | 1 | 1 | 0 | 7 | 106 | 4 | 3 | 96 | 13 | .322 | .429 | .565 | .993 | |
1999 | 142 | 608 | 502 | 86 | 169 | 35 | 1 | 24 | 278 | 86 | 7 | 2 | 0 | 3 | 97 | 6 | 6 | 99 | 12 | .337 | .447 | .554 | 1.001 | |
2000 | 153 | 665 | 556 | 100 | 180 | 31 | 0 | 37 | 322 | 145 | 3 | 0 | 0 | 8 | 96 | 8 | 5 | 95 | 13 | .324 | .423 | .579 | 1.002 | |
2001 | 132 | 581 | 470 | 80 | 144 | 40 | 1 | 23 | 255 | 116 | 4 | 1 | 0 | 9 | 93 | 9 | 9 | 90 | 11 | .306 | .423 | .543 | .966 | |
2002 | 97 | 407 | 328 | 42 | 91 | 23 | 0 | 15 | 159 | 59 | 1 | 1 | 0 | 6 | 67 | 8 | 6 | 69 | 6 | .277 | .403 | .485 | .888 | |
2003 | 145 | 603 | 497 | 72 | 146 | 25 | 0 | 24 | 243 | 98 | 0 | 1 | 0 | 7 | 92 | 7 | 7 | 95 | 17 | .294 | .406 | .489 | .895 | |
2004 | 141 | 549 | 486 | 45 | 128 | 23 | 0 | 12 | 187 | 63 | 1 | 0 | 0 | 3 | 58 | 10 | 2 | 107 | 15 | .263 | .342 | .385 | .727 | |
MLB:18年 | 2055 | 8672 | 7213 | 1219 | 2247 | 514 | 15 | 309 | 3718 | 1261 | 49 | 30 | 10 | 77 | 1283 | 89 | 1202 | 190 | .312 | .418 | .515 | .933 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年 度 | 球 団 | 一塁(1B) | 三塁(3B) | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
1987 | SEA | - | 12 | 13 | 19 | 0 | 1 | 1.000 | |||||
1988 | - | 13 | 5 | 8 | 1 | 1 | .929 | ||||||
1989 | - | 61 | 40 | 72 | 6 | 9 | .949 | ||||||
1990 | - | 143 | 89 | 259 | 27 | 16 | .928 | ||||||
1991 | - | 144 | 84 | 299 | 15 | 25 | .962 | ||||||
1992 | 2 | 16 | 2 | 0 | 1 | 1.000 | 103 | 72 | 209 | 17 | 24 | .943 | |
1993 | - | 16 | 5 | 11 | 2 | 1 | .889 | ||||||
1994 | - | 64 | 44 | 128 | 9 | 13 | .950 | ||||||
1995 | 3 | 29 | 1 | 1 | 0 | .968 | 4 | 1 | 3 | 1 | 0 | .800 | |
1996 | 4 | 28 | 1 | 1 | 3 | .967 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
1997 | 7 | 86 | 4 | 1 | 5 | .986 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | |
1998 | 4 | 22 | 6 | 0 | 3 | 1.000 | - | ||||||
1999 | 5 | 29 | 2 | 0 | 2 | 1.000 | - | ||||||
2000 | 2 | 12 | 1 | 0 | 3 | 1.000 | - | ||||||
2001 | 1 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||
2004 | - | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ||||||
MLB | 28 | 212 | 17 | 3 | 17 | .987 | 564 | 354 | 1008 | 78 | 90 | .946 |
- 各年度の太字はリーグ最高
8.2. タイトルと表彰
- 首位打者:2回(1992年、1995年)
- 打点王:1回(2000年)
- シルバースラッガー賞:5回
- 三塁手部門:1回(1992年)
- 指名打者部門:4回(1995年、1997年、2001年、2003年)
- 最優秀指名打者賞:5回(1995年、1997年、1998年、2000年、2001年)
- ロベルト・クレメンテ賞:1回(2004年)
- シアトル・マリナーズ球団MVP:2回(1992年、1995年)
- 月間MVP:5回(1992年7月、1992年8月、1995年6月、2000年5月、2003年5月)
- 週間MVP:7回
8.3. 記録と主要な業績
- オールスターゲーム選出:7回(1992年、1995年、1996年、1997年、2000年、2001年、2003年)
- スポーティングニュース年間ベストナイン:4回(1992年、1995年、1997年、2001年)
- 通算5,000打席以上で打率.300、出塁率.400、長打率.500を記録したMLB史上18人の選手の一人。
- MLB記録
- シーズン指名打者打率:.356(1995年)
- シアトル・マリナーズ球団記録
- 通算試合:2055
- 通算打席:8672
- 通算打数:7213
- 通算得点:1219
- 通算二塁打:514
- 通算打点:1261
- 通算塁打:3718
- 通算長打:838
- 通算四球:1283
- 通算犠飛:77
- 通算死球:89
- 通算併殺打:190
- 通算出塁率:.418
- シーズン四球:123(1996年)
- シーズン出塁率:.479(1995年)
- 1試合二塁打数:3(1995年6月25日、1996年5月11日)※タイ記録。複数回記録した選手は他にイチローのみ。
- 1試合三塁打数:2(1992年5月3日)※タイ記録。
- 1試合得点数:5(1999年5月17日)※タイ記録。
- 1試合四球数:5(2004年6月24日)※タイ記録。
- 1試合敬遠数:3(2004年5月15日)※タイ記録。
- 1試合犠飛数:3(2002年8月3日)※タイ記録。
- 背番号
- 11(1987年 - 2004年、2015年 - 2018年)
- シアトル・マリナーズ球団殿堂入り:2007年
- 永久欠番『11』:2017年制定
- アメリカ野球殿堂入り:2019年