1. 生涯
エーリッヒ・ラーデマッハーは、競泳選手および水球選手として傑出したキャリアを築いたが、その人生は戦時中の苦難によっても特徴づけられた。
1.1. 誕生と幼少期
ラーデマッハーは1901年6月9日、ドイツ帝国のプロイセン王国マクデブルクにハインリッヒ・ラーデマッハーの息子として生まれた。9歳のクリスマスイブに、当時国内最高のスイミングクラブとされた名門SCヘラス・マクデブルクへの入会招待を受け、入会した。「本年の12月23日の役員会において貴殿の申請が承認され、貴殿の息子エーリッヒが当クラブの青少年部門に入会しました」という招待状は、ラーデマッハーを迎え入れることを示した。その後の手紙では、「息子さんを心より歓迎しますが、当クラブの受け入れ条件に最善を尽くせるよう、練習会に定期的に参加させるようお願いいたします」と記されており、彼の才能への期待とクラブへの献身を促した。
1.2. 教育と初期の職業
ラーデマッハーは学生時代に保険事務員としての訓練を受け、後にその職業に就いた。彼の社会活動と職業形成は、選手キャリアと並行して進められた。
1.3. 家族関係
エーリッヒ・ラーデマッハーには、弟のヨアヒム・ラーデマッハーがいた。ヨアヒムもまた水球選手であり、兄のエーリッヒと共に1928年アムステルダムオリンピックと1932年ロサンゼルスオリンピックの両大会でドイツ代表として出場した。エーリッヒの2人の息子、ウルリッヒ・ラーデマッハーとペーター・ラーデマッハーも水泳選手として活躍した。長男のウルリッヒは1954年から1958年にかけてドイツ国内水泳タイトルを11回獲得し、37の国内記録を樹立した。次男のペーターもドイツ水球代表チームでプレーした。
2. 競泳・水球キャリア
ラーデマッハーの選手キャリアは、その卓越した成績と革新的な技術によって国際的な注目を集めた。
2.1. 国内での成績
ラーデマッハーは、ドイツ国内大会で数多くのタイトルを獲得した。1918年には100メートル背泳ぎで国内チャンピオンとなり、これは彼の多くの国内タイトルの中で最初のものだった。1919年から1927年まで(1922年を除く)、彼は100メートル平泳ぎで国内チャンピオンシップを7回制覇した。1928年には200メートル平泳ぎで国内チャンピオンとなり、1924年から1928年には4x100メートル自由形リレーでも国内チャンピオンシップを獲得した。
水球においては、SCヘラス・マクデブルクのゴールキーパーとして、1924年から1926年、1928年から1931年、そして1933年に国内チャンピオンとなった。彼はキャリアを通じて15のドイツ国内記録を樹立している。また、ドイツ国内に留まらず、ハンガリー国内選手権で2回、イギリス国内選手権で1回、チェコスロバキア国内選手権で1回、アメリカ合衆国国内選手権で1回優勝するなど、海外の国内大会でも実績を残した。
当時としては珍しく、ラーデマッハーにはクルト・ベーレンスというマネージャーがおり、ベーレンスはラーデマッハーの米国水泳界での人気を高め、国際ツアーの資金援助も行ったとされる。
2.2. ヨーロッパ選手権での成績
ラーデマッハーは、ヨーロッパ選手権でも輝かしい成績を収めた。1926年ブダペストで開催されたヨーロッパ水泳選手権では、水球チームの一員として銅メダルを獲得し、男子200メートル平泳ぎではヨーロッパチャンピオンに輝いた。1927年ボローニャではこのタイトルを再び防衛し、2連覇を達成した。そして1931年パリでのヨーロッパ選手権では、水球チームとして銀メダルを獲得している。
2.3. オリンピックでの成績
ラーデマッハーは、第一次世界大戦後のドイツが参加を認められなかったため、1920年アントワープオリンピックと1924年パリオリンピックに出場できなかった。
1928年アムステルダムオリンピックでは、200メートル平泳ぎで世界記録2分48秒0を保持しており、金メダルの最有力候補と目されていた。しかし、日本の鶴田義行が当時許可されていた「ほとんど水中を潜って泳ぐ」という予期せぬ戦略を用いた結果、鶴田が2分45秒4の世界新記録でラーデマッハーを破った。ラーデマッハーはこれに次いで銀メダルを獲得した。競泳での惜敗があったものの、この大会では水球ドイツ代表チームのゴールキーパーとして、2試合に出場し、金メダルを獲得し、その雪辱を果たした。
4年後の1932年ロサンゼルスオリンピックでは、水球ドイツ代表チームのゴールキーパーとして3試合に出場し、銀メダルを獲得した。
2.4. 世界記録と主要技術
ラーデマッハーは、選手キャリアを通じて数多くの世界記録を樹立した。特に1925年までに、平泳ぎの全種目(50ヤードから500メートルまで)で世界記録を保持していたという事実は特筆に値する。
彼は400メートル平泳ぎで1920年、1921年、1923年、1925年、1926年に世界記録を樹立した。200メートル平泳ぎでは1922年と1927年に、200ヤード平泳ぎでは1924年に世界記録を樹立。そして1925年には100メートルと500メートル平泳ぎで世界記録を樹立した。
ラーデマッハーは、平泳ぎで腕を水面上に回復させる「飛行平泳ぎ」(flying fishフライングフィッシュ英語)と呼ばれる技術を初めて用いた選手の一人とされている。この技術は、後のバタフライの腕の動きの基礎となり、競泳の歴史に大きな影響を与えた。
2.5. 国際活動とキャリアの終焉
ラーデマッハーは国際的にも活発に活動した。1926年にはアメリカ合衆国をツアーし、11日間で10の記録を樹立した。1927年には日本を訪れ、模範試合を行った。
彼のキャリアの終わりまでに、ラーデマッハーはドイツ代表として42回の国際水球試合に出場し、合計1,012回の優勝を記録している。
3. 後半生と評価
ラーデマッハーの後半生は、戦争の影響とそれに続くスポーツ界からの距離が特徴的であった。しかし、その功績は国内外で高く評価され、後世に名を残している。
3.1. 第二次世界大戦での従軍と戦後の生活
第二次世界大戦中、ラーデマッハーはソビエト連邦との戦線に従軍し、捕虜となった。彼は1947年まで捕虜収容所での生活を余儀なくされた。この期間に顔に恒久的な負傷を負い、その後の人生で写真を撮られることを嫌うようになった。ドイツ帰国後、彼は水泳界から距離を置き、かつてのSCヘラス・マクデブルクのチームメイトたちと共に新たな水泳協会の設立を手伝うことを辞退した。代わりに、彼はブラウンシュヴァイク、その後シュトゥットガルトで保険事務員として働き続けた。
3.2. 栄誉と追悼
エーリッヒ・ラーデマッハーは、その輝かしい功績が称えられ、数々の栄誉を受けている。1972年には国際水泳殿堂入りを果たし、2008年にはドイツスポーツ殿堂にも殿堂入りした。彼の功績を称え、故郷のマクデブルクには彼の名を冠した通りと屋内水泳場がある。

4. 死去
エーリッヒ・ラーデマッハーは1979年4月2日、西ドイツのシュトゥットガルトで77歳で死去した。