1. 概要
ジャネット(Jeanette Anne Dimechジャネット・アン・ディメッチ英語、1951年10月10日 - )は、イギリス・ロンドン生まれのスペインの歌手、シンガーソングライターである。本名はジャネット・アン・ディメッチ。1968年にティーンエイジのフォーク・ポップバンド「ピックニック」のリードシンガーとして、「Cállate, niña」のヒットで注目を集めた。その後、1971年にソロアーティストとして復帰し、シングル「ソイ・レベルデ」をリリース。この曲は彼女のキャリアをラテン・バラード歌手として再定義し、スペイン語圏全体で世代を超えたアンセムとなる大ヒットを記録した。
1976年には、カルロス・サウラ監督の映画『カラスの飼育』に彼女の1974年の楽曲「ポルケ・テ・バス」が挿入され、これが大ヒットのきっかけとなり、史上最も有名なスペインのポップソングの一つとなった。この曲は他言語でも多くのバージョンが制作され、特にロシア語の「В Последний Раз」が有名である。「ポルケ・テ・バス」の国際的な成功後、ジャネットはフランスやドイツで活動し、1981年にスペイン市場に復帰。アルバム『コラソン・デ・ポエタ』をリリースし、この中には彼女の最も有名な楽曲が複数含まれている。『コラソン・デ・ポエタ』の商業的成功により、彼女はRCAビクターからさらに2枚のアルバム『Reluz』(1983年)と『Ojos en el sol』(1984年)をリリースしたが、これらは商業的に成功しなかった。彼女の最後のスタジオアルバム『Loca por la música』は1989年に独立レーベルのTwinsからリリースされ、テクノポップの要素を取り入れたスタイルで自身の再構築を図った。
21世紀に入り、ジャネットの功績は再評価され、現在ではカルト・アーティストとして、またスペイン語圏のインディー・ポップシーンに影響を与えた存在と見なされている。2010年には20ミヌートス紙によって「スペイン音楽の伝説であり、インディー・ポップのミューズ」と評された。
2. 幼少期と背景
ジャネット・アン・ディメッチは、1951年10月10日にイギリス・ロンドンのウィルズデン郊外で生まれた。彼女の父親はベルギー領コンゴに住んでいたマルタ人の血を引いており、母親はカナリア諸島出身のスペイン人である。祖父母が貿易業を営んでいたため、彼女はアメリカで育ち、幼少期をシカゴやカリフォルニア州ラ・ハブラで過ごした。
彼女が12歳の時に両親が離婚したため、母親と弟、妹とともにスペインのバルセロナに移住した。
2.1. 幼少期と生い立ち
アメリカで育ったため、スペインへの移住当初は英語しか話せなかった。初めは現地のアメリカンスクールに通っていたが、後に地元のスペイン人の子供たちと親しくなり、彼らの助けを得てスペイン語を習得した。
2.2. 教育と初期の音楽的関心
1960年代にはギターの演奏を学び始め、自身の楽曲の制作も始めた。彼女はアメリカのフォーク・ミュージックに影響を受け、ボブ・ディラン、ドノヴァン、ザ・バーズなどを尊敬していた。
3. 音楽キャリア
ジャネットの音楽キャリアは、初期のバンド活動からソロアーティストとしての成功、そしてその後の活動に至るまで、多様な変遷を遂げた。彼女は独特の歌声と表現力で多くのファンを魅了し、特に1970年代のヒット曲は国際的な評価を得た。
3.1. ピックニック時代
ジャネットは学生バンド「ピックニック」に歌手として加入し、1967年にスペインの童謡「Cállate, niña」(Cállate, niñaカジャテ・ニーニャスペイン語、「静かにして、お嬢ちゃん」の意)のフォークバージョンで一定の成功を収めた。この曲はジャネットも共同で作曲に携わっている。その他、彼らの有名な曲には「Amanecer」(「夜明け」)や「No digas nada」(「何も言わないで」)がある。しかし、楽曲の英語バージョンを録音するかどうかなど、メンバー間の絶え間ない意見の対立が続き、最終的にグループは解散した。
ピックニックの解散後、ジャネットはハンガリー人サッカー選手ラースロー・クリストフと結婚し、ウィーンに移住した。彼女は専業主婦として、また一人娘ブライス(Blythe)の母親として静かな生活を送っていた。
3.2. ソロデビューと初期の成功 (1971-1975)
ピックニック解散後、ジャネットは静かに暮らしていたが、ある日、ピックニック時代に所属していたレコードレーベル「Hispavox」から連絡を受けた。レーベルは、歌手のためのプロジェクトがあり、ジャネットがその一員になるべきだと伝えた。これにより、彼女はスペインに戻り音楽活動を再開した。1971年、ジャネットはソロキャリアを開始するためにバルセロナに定住した。
1970年代初頭、彼女はヒットシングル「ソイ・レベルデ」(Soy rebelde「私は反抗的」スペイン語)でソロキャリアをスタートさせた。このシングルでは、レコードレーベルが彼女の名前を「Jeanette」と誤って表記したが、それ以降、このスペルが彼女の芸名として定着した。「ソイ・レベルデ」はまずスペイン語圏で成功を収め、その後、フランス語版(「L'inconnu qui m'aimera」)、日本語版(「あまのじゃく」)、英語版が制作され、その影響力を広げた。この曲と、マヌエル・アレハンドロが手がけた「Estoy triste」(「私は悲しい」)や「Oye mamá, oye papá」(「聞いて、ママ、パパ」)といった他の楽曲が、彼女をスペインのアーティストとして確立させた。
1973年には、ホセ・ルイス・ペラレスが作詞・作曲したアルバム『Palabras, promesas』(Palabras, promesas「言葉、約束」スペイン語)がリリースされた。このアルバムには、1971年から1973年の間にリリースおよび録音されたすべてのシングルが収録されている。
3.3. 国際的ブレイク:「ポルケ・テ・バス」 (1976-1977)
彼女最大の成功作は、ホセ・ルイス・ペラレスが作詞・作曲した「ポルケ・テ・バス」(Porque te vas「あなたが行ってしまうから」スペイン語)である。この曲は、1976年のカルロス・サウラ監督の映画『カラスの飼育』(Cría Cuervos「カラスを育てる」スペイン語)で使用されたことで、国際的な大ヒットとなった。

「ポルケ・テ・バス」は各国のチャートで好成績を収め、オーストリアでは13位、スイスでは4位、ドイツでは1位を記録した。1977年2月12日、ジャネットは人気のあるドイツのテレビ番組『Musikladen』でこの曲を披露した。この曲はロシアでも人気を博し、現在でも全国放送のラジオ局「Retro FM」で頻繁に流されている。また、ポーランドの全国ラジオでも、当時から現在に至るまでよく耳にされる曲である。この曲は映画に採用される2年前にスペインでリリースされていたが、その時点での成功は控えめであった。映画への採用が、この曲を大成功へと導いた主な要因となった。
3.4. その後のソロ活動 (1977-1980)
ジャネットは著名なフランスの作曲家アンドレ・ポップと協力し、1977年にアルバム『Todo es nuevo』(Todo es nuevo「すべてが新しい」スペイン語)を制作した。このアルバムにはスペイン語版とフランス語版の2種類が存在した。アルバム自体の評判は芳しくなかったが、収録曲の「¿Por qué voy a cambiar?」(¿Por qué voy a cambiar?「なぜ変わる必要があるの?」スペイン語、フランス語版では「Tzeinerlin'」)は、1977年10月8日放送のドイツの番組『Musikladen』でも披露された。この曲は、ハーマンズ・ハーミッツの「Years May Come, Years May Go」のカバーバージョンである。
3.5. 『コラソン・デ・ポエタ』とそれに続くアルバム (1981-1989)
1981年、ジャネットは彼女のキャリアで最高の売上を記録したアルバム『コラソン・デ・ポエタ』をリリースした。このアルバムはマヌエル・アレハンドロが作曲、編曲、指揮を手がけ、「Corazón de poeta」(Corazón de poeta「詩人の心」スペイン語)、「Frente a Frente」(Frente a Frente「対面して」スペイン語)、そして「El muchacho de los ojos tristes」(El muchacho de los ojos tristes「悲しい目の少年」スペイン語)という3曲のヒットシングルを生み出した。
特にこのアルバムは、ヴィンテージアルバムとして世界中で数百万枚を売り上げ、多くのラテンアメリカ諸国で成功を収めた。スペインでは1週間にわたりアルバムチャートの1位を獲得した。シングルでは「Frente a frente」がチャートに20週間ランクインし、最高4位を記録。「Corazón de poeta」は10週間ランクインし、最高13位を記録した。
その後数年間で、彼女はアルバム『Reluz』(1983年)、『Ojos en el Sol』(1984年)、『Loca por la Música』(1989年)をリリースし、一連のシングルも発表した。その後、売上は減少したものの、彼女自身は依然として人気を保ち、過去のカタログは継続的にベストアルバムとして再パッケージされた。
4. レガシーと影響
ジャネットの功績は21世紀に入ってから再評価され、彼女は現在、カルト・アーティストとして、またスペイン語圏のインディー・ポップシーンに影響を与えた存在と見なされている。彼女の独特の歌声と、感情豊かな表現は、後の世代のアーティストに多大な影響を与えた。特に、「ポルケ・テ・バス」のような普遍的なテーマを扱った楽曲は、国境を越えて多くの人々に愛され、その文化的影響力は今日でも続いている。
5. ディスコグラフィ
5.1. シングル
- Brenner's Folk**
- 1966年: "Daurat Oest/Ho se/Clara Lluna/Amor Perdut"
- Pic-Nic**
- 1967年: "Cállate, niña/Negra estrella"
- 1968年: "Amanecer/No digas nada"
- 1968年: "Me olvidarás/Él es distinto a ti"
- 1968年: "Hush, Little Baby/Blamin's Not Hard To Do/You Heard My Voice"
- Jeanette**
- 1971年: "ソイ・レベルデ/Oye papá, oye mamá"
- 1972年: "Estoy triste/No digas nada"
- 1973年: "Palabras, promesas/Debajo del platanero"
- 1974年: "ポルケ・テ・バス/Seguiré amando"
- 1975年: "Hoy nos hemos dicho adiós/El mundo con amor"
- 1977年: "Todo es nuevo/Pequeña preciosa"
- 1978年: "No digas buenas noches/Heaven, please, don't let it rain tonight"
- 1978年: "Voy a tener un niño/De mujer a mujer"
- 1981年: "Frente a frente/Cuando estoy con él"
- 1981年: "コラソン・デ・ポエタ/Comiénzame a vivir"
- 1981年: "Sorrow/A Heart so warm and so tender"
- 1982年: "El muchacho de los ojos tristes/Toda la noche oliendo a ti"
- 1983年: "Reluz/Más de cien sentidos"
- 1983年: "Con qué derecho/No me fio más"
- 1984年: "Amiga mía/Baila conmigo"
- 1984年: "Ojos en el sol/Buenas noches"
- 1989年: "China/Por nada del mundo"
- 1989年: "Loca por la música/Sinceridad"
5.2. アルバム
- Pic-Nic**
- 1968年: 『Pic-Nic』
- 1969年: 『Cállate niña』(国際再リリース)
- Jeanette**
- 1973年: 『Palabras, promesas』
- 1976年: 『Porque te vas』
- 1977年: 『Todo es nuevo』
- 1981年: 『コラソン・デ・ポエタ』
- 1983年: 『Reluz』
- 1984年: 『Ojos en el sol』
- 1988年: 『Loca por la música』
5.3. コンピレーション
- 1995年: 『Sus Más Lindas Canciones』
- 1996年: 『Sigo rebelde』
- 1998年: 『Coleccion Original』
- 2002年: 『Soy Rebelde』
- 2003年: 『15 Canciones Favoritas』
- 2004年: 『15 de Colección』
- 2005年: 『20 Éxitos Originales』
- 2008年: 『Lo Esencial』
- 2015年: 『De Cerca: 20 Canciones Esenciales』