1. 生涯初期
ジョージ2世の誕生から即位までの個人的な背景と成長過程は、複雑な家族関係と厳しい教育環境に彩られていました。
1.1. 誕生と幼少期
ジョージは1683年11月9日、ドイツのハノーファーで、当時のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子ゲオルク・ルートヴィヒ(後のジョージ1世)と、ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレの間に生まれました。3年後には妹のゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファーが生まれています。
ジョージの両親は双方とも不倫関係にあり、1694年にはゾフィー・ドロテアが夫を見捨てたという理由で婚姻が解消されました。彼女はアールデン城に幽閉され、子供たちとの面会も禁じられ、以降ジョージと妹が母親に会うことは二度とありませんでした。このような幼少期の環境は、ジョージの性格形成や、後に父ジョージ1世との関係が悪化する一因となったと考えられています。
幼少期のジョージは、4歳まで外交や宮廷の共通語であったフランス語のみを話し、その後、家庭教師ヨハン・ヒルマール・ホルシュタインから`Johann Hilmar Holsteinヨハン・ヒルマール・ホルシュタインドイツ語`を学び始めました。
1.2. 教育と成長の背景
ジョージはフランス語とドイツ語の他に、英語とイタリア語も習得し、特に系譜学、軍事史、戦術を熱心に学びました。これらの学習は、彼の将来の役割、特に軍事への深い関心につながりました。
1702年に又従妹のアン女王がイングランド、スコットランド、アイルランドの王位を継承しましたが、彼女の子供たちはすべて夭逝していました。このため、イングランド議会は1701年王位継承法を制定し、アンの最も近親でプロテスタントであるジョージの祖母ゾフィー・フォン・デア・プファルツとその子孫をイングランドとアイルランドの継承者と定めました。これにより、ジョージは祖母と父に次いで、3王国のうち2国で王位継承順位3位となりました。
1705年にはゾフィー帰化法によってイングランドの臣民として帰化し、1706年にはガーター勲章を授与され、イングランド貴族としてケンブリッジ公爵、ケンブリッジ侯爵、ミルフォード・ヘイヴン伯爵、ノーザラトン子爵、テュークスベリー男爵に叙されました。1707年合同法により、イングランドとスコットランドが合併してグレートブリテン王国が成立し、両国は一体となって1701年王位継承法に基づく王位継承を承認しました。
1705年、ジョージはアンスバッハ侯領を偽名で訪れ、叔母ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファーの後見を受けていたキャロライン・オブ・アーンズバックと出会いました。この出会いは実り多きもので、ジョージはキャロラインに深く魅了され、婚約は7月末には成立しました。1705年9月2日、キャロラインはハノーファーに到着し、その夜にヘレンハウゼン王宮庭園の礼拝堂で結婚式が執り行われました。
ジョージはスペイン継承戦争でのフランドル戦線への参戦を熱望していましたが、父ジョージ1世は彼に後継となる男子が生まれるまでそれを許しませんでした。しかし、1707年2月に長男フレデリック・ルイスが生まれると、ジョージは念願の参戦を果たしました。1708年のアウデナールデの戦いでは、ハノーファー騎兵の前衛として参加し、乗馬と隣の大佐が戦死する中で彼自身は無傷でした。イギリス軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルは、ジョージが「(ハノーファー)軍の先頭に立って突撃し、軍を奮起させたことで極めて目立つ存在となり、このうれしい勝利に大きく貢献した」と高く評価しています。1709年から1713年にかけて、ジョージとキャロラインの間にはさらに3人の娘、アン、アメリア・オブ・グレートブリテン、キャロライン・オブ・グレートブリテンが生まれました。
1714年にはアン女王の健康が悪化し、ホイッグ党はプロテスタントによる継承を確実にするため、ハノーファー家の一員をイングランドに住まわせることを提案しました。ジョージもこの計画に賛成しましたが、アン女王と父ジョージ1世の反対により実現しませんでした。しかし同年にゾフィーとアン女王が相次いで死去したため、ジョージの父が即位し、ジョージはプリンス・オブ・ウェールズとなります。
2. プリンス・オブ・ウェールズ時代
ジョージ2世がプリンス・オブ・ウェールズであった時期は、父ジョージ1世との根深い確執と、その後の政治活動が特徴です。


2.1. ジョージ1世との確執
1714年9月27日、ジョージは父とともにハーグを出港し、2日後にグリニッジに到着しました。翌日には盛大な式典とともにロンドンへ正式に入城しました。ジョージはプリンス・オブ・ウェールズの称号を与えられました。妻キャロラインは10月に娘たちとともにロンドンに到着しましたが、長男フレデリックはハノーファーに残り、家庭教師の元で育てられました。
ジョージにとってロンドンは初めて見るほど大規模な都市で、当時のハノーファーは家屋が1,800軒程度であったのに対し、ロンドンは10万軒もの家屋を持つほど大規模な都市でした。彼の公式入城の際には150万人もの観衆が集まったと推定されています。ジョージは「イングランド人の血しか流れていない」と公言するなど、イングランドへの称賛を惜しまず、その人気を博しました。
1716年から1727年までダブリン大学の総長を務めました。
1716年7月、ジョージ1世がハノーファーに6ヶ月間帰国する際、ジョージは「王国守護兼総督」として限定的ながらもイギリスの統治権を与えられました。彼はイングランド南部のチチェスター、ハヴァント、ポーツマス、ギルフォードを巡る行幸を行い、ハンプトン・コート宮殿では公開で食事をするなど、積極的に大衆との交流を図りました。ドルーリー・レーン劇場ではジョージの暗殺未遂事件も発生し、暗殺者が取り押さえられる前に1人が射殺されましたが、この事件は彼の知名度をさらに高めました。
ジョージ1世はジョージの人気を不信に思い、これが二人の間の関係悪化につながりました。1717年にジョージの次男ジョージ・ウィリアム・オブ・グレートブリテンが誕生した際、家族の間の決定的な確執が生じました。ジョージ1世は慣例に従い初代ニューカッスル公爵を洗礼式の名親に指名しましたが、ニューカッスル公爵を嫌っていたジョージは、洗礼式で彼を「お前は悪党だ。本性を暴露してやる!」("You are a rascal; I shall find you out!"ユー・アー・ア・ラスカル・アイ・シャル・ファインド・ユー・アウト!英語)と口頭で侮辱しました。ニューカッスル公爵はこれを「お前は悪党だ。戦ってやる!」("You are a rascal; I shall fight you!"ユー・アー・ア・ラスカル・アイ・シャル・ファイト・ユー!英語)という決闘の申し込みと誤解したため、ジョージ1世は激怒しました。その結果、ジョージとキャロラインは一時的に軟禁され、後にセント・ジェームズ宮殿を追放されました。二人は宮廷を去りましたが、子供たちはジョージ1世の元に残されました。
ジョージとキャロラインは子供たちに会うことを強く望み、ある時にはジョージ1世の許可なく密かに宮殿を訪れました。この際、キャロラインは卒倒し、ジョージは「子供のように泣いた」と伝えられています。ジョージ1世は後に怒りを和らげ、週に一度の訪問を許可し、最終的にはキャロラインには無条件の訪問許可を与えました。しかし、翌1718年2月には、ジョージ・ウィリアムはジョージが看取る中で生後わずか3ヶ月で亡くなりました。
2.2. 政治活動と和解
宮殿から追放され、父からも避けられたジョージは、その後数年間、ジョージ1世の政策に反対する勢力に接近しました。これらの政策には、グレートブリテンにおける宗教的自由の拡大や、ハノーファーによるスウェーデンのドイツ領獲得などが含まれていました。彼の新しいロンドンの住居であるレスター・ハウスは、ロバート・ウォルポールや第2代タウンゼンド子爵など、1717年に官職を辞任したジョージ1世の政治的対立勢力の集会所となりました。
1719年5月から11月までジョージ1世が再びハノーファーに滞在した際、彼はジョージを王国守護兼総督に任命せず、代わりに摂政委員会を設置しました。1720年、ウォルポールは公衆の団結のためにジョージとジョージ1世の和解を促し、二人はしぶしぶながらこれを受け入れました。これによりウォルポールとタウンゼンドは政権に復帰しました。しかしジョージはすぐにこの和解に幻滅しました。ジョージ1世に引き取られたジョージの3人の娘たちは返還されず、またジョージ1世の不在中に摂政に就任することも引き続き禁じられていたためです。ジョージは、ウォルポールが権力奪回のために彼を巧みに騙して和解させたのだと考えるようになりました。その後数年間、ジョージとキャロラインは静かに暮らし、公然たる政治活動は避けました。この間に、ウィリアム・オーガスタス、メアリー・オブ・グレート・ブリテン、ルイーズ・オブ・グレート・ブリテンの3人の子供が新たに生まれ、彼らはレスター・ハウスと、ジョージの夏期の住居であったリッチモンド・ロッジで育てられました。
1721年、南海泡沫事件による経済危機が発生し、ウォルポールはこの危機を乗り切ることで政権の頂点に上り詰めます。この時期、ジョージ1世がトーリー党が1701年王位継承法による王位継承を支持しないことを恐れたため、ウォルポール率いるホイッグ党が政界を圧倒的に主導しました。ホイッグ党の権力は非常に大きく、その後半世紀もの間、トーリー党が政権を握ることはありませんでした。
3. 治世
ジョージ2世の治世は、国内外における重要な政策、紛争、そして歴史的事件によって特徴づけられます。この時期は、イギリスの政治体制が立憲君主制へと深く根ざし、議会と大臣の権力が確立されていく過程でもありました。
3.1. 即位と初期の政策


1727年6月22日、ハノーファー滞在中に父ジョージ1世が死去し、43歳のジョージはジョージ2世としてグレートブリテン王位を、またゲオルク2世アウグストとしてハノーファー選帝侯位を継承しました。ジョージ2世は父の葬儀のためにドイツへ赴かないことを決めましたが、これは批判されるどころか、彼がイングランドを深く愛している証拠と見なされ、イングランドの人々から称賛されました。
ジョージ1世は遺言状で、将来的にイギリスとハノーファーの継承をジョージ2世の孫の代で分割するよう定めていましたが、ジョージ2世はこの遺言状を無効としました。イギリスとハノーファーの閣僚は、ジョージ1世には個人的に継承を定める法的権限がないため、遺言状は違法であると判断しました。しかし、一部の批評家は、ジョージ2世が父の遺産を分割したくなかったために遺言状を隠蔽したと推測しました。
ジョージ2世の戴冠式は1727年10月22日にウェストミンスター寺院で執り行われました。作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、この戴冠式のために『司祭ザドク』を含む4つの新しいアンセムの作曲を依頼されました。
ジョージ1世の政権に参加したことでジョージ2世に嫌われていたウォルポールは、即位に伴い更迭され、サー・スペンサー・コンプトンに交代するものと広く予想されていました。実際にジョージ2世は、最初の勅語の起草をウォルポールではなくコンプトンに依頼しましたが、コンプトンはこれをウォルポールに依頼しました。キャロライン王妃は、王室費(国王の公的な支出として議会に認められた年間の固定金額)として、当時としては非常に多額な80.00 万 GBPという寛大な金額を確保したウォルポールを留任させるようジョージ2世に勧めました。ウォルポールが議会で確固たる多数派を形成していたため、ジョージ2世にはウォルポールを留任させるか、大臣の不安定化を招くかの選択肢しかなく、結局彼を留任させました。コンプトンは翌年、ウィルミントン伯爵に叙されました。
ウォルポールは国内政策を主導し、義弟のタウンゼンド子爵が1730年に辞任すると、ジョージ2世の外交政策も支配するようになりました。歴史家の間では、ジョージ2世はイギリスにおいては象徴的な役割しか果たさず、ウォルポールや他の上級閣僚の助言に概ね従い、彼らが主要な決定を下していたと一般的に考えられています。国王はヨーロッパでの戦争に積極的でしたが、閣僚たちはより慎重でした。英西戦争は終結し、ジョージ2世はウォルポールに圧力をかけてポーランド継承戦争にドイツ側で参戦させようとしましたが、これは失敗に終わりました。1733年4月、ウォルポールの物品税法案は与党内からも強い反対を受け撤回を余儀なくされましたが、ジョージ2世はウォルポールを支援し、法案に反対した議員を宮廷の官職から罷免しました。また、1732年にはウォルポールにダウニング街10番地の邸宅を与え、以後歴代のイギリス首相がここに住むことになります。
3.2. 治世中の家族関係
ジョージ2世と、彼の息子で推定相続人であったプリンス・オブ・ウェールズフレデリック・ルイスの関係は、1730年代に悪化の一途を辿りました。フレデリックは両親がイギリスに渡った際にドイツに残され、その後14年間、両親と会うことはありませんでした。1728年にようやくイギリスに渡ったものの、すぐに政治的野党の象徴的存在となりました。ジョージ2世が1729年、1732年、1735年の夏にハノーファーを訪れた際、イギリスの摂政委員会の委員長にはフレデリックではなく、常にキャロライン王妃を任命しました。
また、ジョージ2世と義弟であるプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の間の対立により、プロイセンとハノーファーの国境地帯で緊張が高まり、国境への兵力動員や、二人の国王による決闘の提案までなされました。フレデリックとフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の娘ヴィルヘルミーネの結婚に関する交渉は数年間続きましたが、どちらの側も相手の要求する譲歩に応じず、結局この結婚話は立ち消えとなりました。その代わりに、フレデリックは1736年4月にオーガスタ・オブ・サクス=ゴータと結婚しました。
1736年5月、ジョージ2世は再びハノーファーに帰国しましたが、今回はイギリスで不評を買いました。セント・ジェームズ宮殿の門には「妻と6人の子供を貧困の中に残し、いなくなったか家から離れた男」という風刺的な張り紙が貼られました。12月に天候が悪化し、帰国を試みた船が嵐に遭遇すると、ロンドンでは国王が溺死したという噂まで流れました。しかし、ジョージ2世は1737年1月に無事イングランドに戻りました。直後、彼は痔核と発熱で寝込みましたが、フレデリックが「国王は間もなく死ぬ」と触れ回ったため、ジョージ2世は噂を打ち消すために無理を押して社交イベントに出席しました。
フレデリックが議会に王室費の増額を要求したことで、親子間の公然たる口論が勃発しました。倹約家として知られたジョージ2世は示談で解決しようとしましたが、フレデリックはこれを拒否しました。議会は王室費増額案を否決しましたが、ウォルポールの助言に従い、ジョージ2世は不承不承ながらフレデリックへの支給額を増額しました。さらに1737年7月には、フレデリックは娘の誕生にジョージ2世とキャロライン王妃を立ち会わせないため、出産中の妻を夜中に馬車に乗せて連れ出すという行動に出ました。これに対し、ジョージ2世はフレデリックとその家族を宮廷から追放しました。これはジョージ1世がジョージ2世に行った仕打ちとほとんど同じでしたが、唯一の違いはフレデリックの子供を取り上げなかったことでした。
その直後、キャロライン王妃が1737年11月20日に死去しました。ジョージ2世は妻の死に深く悲しみに暮れ、「その敏感さはそれまで皆もが彼にはその感情がないと考えた」ほどであったと伝えられています。彼女は死の床で、悲しむ夫に再婚するよう勧めましたが、ジョージ2世は「Non, j'aurai des maîtresses!」(いや、愛人をつくる!)と答えたといいます。ジョージが結婚以前から愛人を持っていたことは公然の秘密であり、彼はキャロラインにもその関係を知らせていました。ヘンリエッタ・ハワードは、ジョージ1世即位前からジョージ2世の愛人であり、その関係は1734年11月まで続きました。次に愛人となったのはアマーリエ・ゾフィー・フォン・ヴァルモーデン(後にヤーマス女伯)で、彼女の息子ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルモーデン=ギンボルンはジョージ2世の子である可能性がありましたが、ジョージ2世は公的には認知しませんでした。
ジョージ2世はハノーファー選帝侯を兼ねていたため、ハノーファー滞在中はイギリスを留守にすることがありましたが、キャロライン王妃が没する1737年まで、彼女がたびたび摂政を務めました。また、北アメリカ大陸に13番目の植民地であるジョージアが建設されたのもこの治世でした。ジョージアの名はジョージ2世にちなんで名づけられました。ハノーファーにもゲッティンゲン大学が創設されました。
3.3. 主要な戦争と反乱
3.3.1. オーストリア継承戦争とジャコバイトの反乱
ウォルポールの意向に反し、ジョージ2世の喜びとともに、イギリスは1739年にスペインとの戦争を再開しました。このジェンキンスの耳の戦争は、神聖ローマ皇帝カール6世の死後に1740年に勃発したオーストリア継承戦争の一部となりました。この戦争の焦点は、カール6世の娘マリア・テレジアのハプスブルク家領継承権でした。ジョージ2世は1740年と1741年の夏をハノーファーで過ごし、選帝侯としての立場からヨーロッパ外交に直接介入しやすくなりました。
フレデリックは1741年イギリス総選挙で野党側として精力的に選挙活動を行い、ウォルポールは安定多数を確保できませんでした。ウォルポールはフレデリックに王室費増額と負債の帳消しを提案して買収を試みましたが、拒否されました。支持を失ったウォルポールは、20年以上にわたる首相職を1742年に辞任しました。後任には、ジョージ2世が1727年の即位時に首相に指名しようと考えていたウィルミントン伯爵が就任しましたが、ウィルミントン伯爵は実権を持たず、実際の権力はウォルポールに次ぐジョージ2世の寵臣であったカートレット男爵が握っていました。1743年にウィルミントンが死去すると、ヘンリー・ペラムが首相に就任しました。


主戦派のカートレットは、マリア・テレジアがオーストリアを継承できなければフランスの勢力が拡大すると主張しました。ジョージ2世はこれに同意し、表面上はマリア・テレジアを支援するためとして、ヘッセンとデンマークの傭兵1万2千人をヨーロッパ大陸に派遣しました。しかし、彼はイギリス閣僚と協議せずに派遣軍をハノーファーに駐留させ、フランス軍の選帝侯領への侵攻を防ごうとしました。イギリス陸軍は20年以上大規模な戦争を経験しておらず、政府はその維持を怠っていました。ジョージ2世は軍隊の専門化と、階級の売買ではなく戦功による昇進を推進しましたが、大きな成功は収められませんでした。
オーストリア、イギリス、オランダ、ハノーファー、ヘッセンの連合軍は、1743年6月27日のデッティンゲンの戦いでフランス軍と交戦しました。ジョージ2世は自ら軍を率いてこの戦いに参加し、フランス軍を撃破しました。これにより、彼は自ら軍を率いて戦闘に参加した最後のイギリス国王となりました。ジョージ2世のこの行動は称賛されましたが、イギリス大衆は国王とカートレットがイギリスの利益よりもハノーファーの利益を優先していると感じ、戦争自体が不人気となりました。カートレットは支持を失い、1744年にジョージ2世の狼狽をよそに辞任しました。
ジョージ2世がカートレットの助言ばかりを受け入れ、大ピットの入閣を求める他の閣僚からの圧力(政府の支持基盤を拡大する目的があった)をはねつけたことで、ペラム内閣との緊張が高まりました。ジョージ2世は、大ピットが以前から政府の方針に反対し、親ハノーファー的と見なされる政策を批判していたため、彼を嫌っていました。1746年2月、ペラムとその支持者たちは辞任しました。ジョージ2世はバース伯爵とカートレットに組閣を命じましたが、どちらも48時間以内に議会の十分な支持を得られないとして辞退しました。これによりペラムは政争に勝利して首相に返り咲き、ジョージ2世は不承不承ながらピットの入閣を認めざるを得ませんでした。
フランスは、カトリック教徒の王位継承者ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(「老僭王」)を支持するジャコバイトによる反乱を支援しました。ジェームズは1688年に廃位されたジェームズ2世の息子です。1715年と1719年の二度の反乱は失敗に終わっていましたが、老僭王の息子チャールズ・エドワード・ステュアート(「若僭王」、「ボニー・プリンス・チャーリー」とも)は1745年7月に、ジャコバイトの支持が最も厚いスコットランドに上陸しました。ハノーファーで夏を過ごしていたジョージ2世は8月末にはロンドンに戻りました。ジャコバイトは9月のプレストンパンズの戦いでイギリス軍を破った後、南のイングランド領へ進軍しました。しかし、ジャコバイトはそれ以上の支持を得ることができず、フランスも支援の約束を破ったため、ジャコバイト軍は士気を失いスコットランドへ撤退しました。
1746年4月27日、チャールズはジョージ2世の軍人肌の息子、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスとカロデンの戦いで対峙しました。これはイギリス本土で戦われた最後の陸上戦となりました。壊滅的な被害を受けたジャコバイト軍は政府軍に打ち破られました。チャールズはフランスへ逃れましたが、多くの支持者が捕らえられ処刑されました。これにより、ジャコバイト主義はほぼ完全に潰され、以降ステュアート家復帰の深刻な試みはなされなくなりました。オーストリア継承戦争自体は、マリア・テレジアがオーストリア女大公として承認される1748年まで続きました。講和はロンドンのグリーン・パーク (ロンドン)での祝祭で祝われ、ヘンデルはこの祝祭のために『王宮の花火の音楽』を作曲しました。
3.3.2. 七年戦争
1754年にペラムが死去した後、その後任の首相には彼の兄である初代ニューカッスル公爵が就任しました。北米の植民地化を巡るフランスとイギリスの間の敵対関係は継続していました。フランスによるハノーファー侵攻を恐れたジョージ2世は、プロイセン王フリードリヒ2世(彼の甥)が統治するプロイセンと同盟を結びました。一方、ロシアとフランスは、かつての敵であったオーストリアと同盟しました。フランスによるイギリス領ミノルカ島への侵攻がきっかけとなり、1756年に七年戦争が勃発しました。
開戦初期のイギリスの失敗に対する国民の不満が高まり、ニューカッスル公爵は辞任し、首相にはデヴォンシャー公爵が、南部担当国務大臣には大ピットが任命されました。翌年4月、ジョージ2世は自らの好みに合う政権を樹立しようとピットを罷免しましたが、その後3ヶ月間、安定した大臣の組み合わせを形成する試みは失敗に終わりました。例えば、6月にはウォルドグレイヴ伯爵がわずか4日間しか官職を務められませんでした。結局、7月上旬にはピットが呼び戻され、ニューカッスル公爵が首相に復帰しました。ピットは国務大臣として戦争関連政策を主導しました。グレートブリテン、ハノーファー、プロイセン、そして同盟国であるヘッセン=カッセル方伯領とブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領は、フランス、オーストリア、ロシア、スウェーデン、ザクセン選帝侯領といった他のヨーロッパ諸国と戦いました。この戦争はヨーロッパから北アメリカ、インドへと広範囲に及び、ロバート・クライヴがアルコット包囲戦とプラッシーの戦いでフランス軍とその同盟軍に勝利したことで、インドにおけるイギリスの優位が確立しました。

ジョージ2世の息子であるカンバーランド公は北ドイツで国王軍を指揮していました。1757年にハノーファーが侵攻を受けた際、ジョージ2世はカンバーランド公に単独講和を結ぶ全権を与えました。しかし、9月になるとジョージ2世はカンバーランド公が結んだクローステル・ツェーヴェン協定がフランスに非常に有利であるとして激怒し、「私を辱め、自らを貶めた」と述べました。カンバーランド公は自らの意思で軍職を辞任し、ジョージ2世はフランスが停戦後にヘッセン軍の武装解除を行ったことを理由に、協定を無効としました。
1759年の奇跡の年において、イギリス軍はエイブラハム平原の戦いで勝利してケベック・シティーを占領し、西インド諸島ではグアドループ島を占領しました。フランスによるイギリス本土侵攻の計画 (1759年)は、ラゴスの海戦とキブロン湾の海戦での海軍の敗北により失敗に終わり、ハノーファーでもフランス軍が再開した進軍はミンデンの戦いでイギリスとハノーファーの連合軍に敗れ停止しました。
4. 晩年と崩御
ジョージ2世の晩年は、健康状態の悪化と王位継承の準備、そして突然の崩御によって特徴づけられます。
4.1. 王位継承計画と健康状態

1747年イギリス総選挙では、フレデリックが再び野党側として選挙活動を行いましたが、ペラム派は容易に勝利しました。ジョージ2世がかつて行っていたように、フレデリックはレスター・スクウェアの自邸で野党勢力を招いていました。しかし、1751年にフレデリックが突然死去すると、彼の長男であるジョージ王子が王位の推定相続人となりました。国王はフレデリックの未亡人となったオーガスタ・オブ・サクス=ゴータを深く憐れみ、ともに涙を流しました。ジョージ王子が成人(18歳)に達するのは1756年以降であったため、新たな摂政法が制定されました。これにより、ジョージ2世が死去した場合、オーガスタが摂政に就任し、フレデリックの弟であるカンバーランド公率いる委員会が彼女を補佐することになりました。ジョージ2世はまた、新しい遺言状を作成し、カンバーランド公をハノーファーにおける単独の摂政に任命しました。
年末には、ジョージ2世の末娘ルイーズ・オブ・グレート・ブリテンが死去しました。ジョージ2世はこれを「我が家庭にとって破滅的な年だった。私は長男を失った--それはうれしく感じたが--今[ルイーズ]が去った。私は私の子供たちが若いころに彼らを愛さず、彼らが私の部屋へ走ってくることを嫌った。しかし、今はほとんどの父親と同じように彼らを愛している」と嘆きました。
4.2. 崩御
1760年10月には、ジョージ2世は片目が失明し、聴力も低下していました。10月25日の朝、彼はいつものように午前6時に起床し、ホットチョコレートを1杯飲んだ後、一人でクローズ・スツール(ポータブルトイレの一種)に向かいました。数分後、近侍が大きな物音がするのを聞きつけ部屋に入ると、ジョージ2世が床に倒れていました。ジョージ2世はベッドまで運ばれ、アメリア・オブ・グレートブリテン王女へ報せが送られましたが、王女が駆けつける前に息を引き取りました。享年ほぼ77歳で、彼はそれまでのイングランドおよびイギリスの君主の中で最も長寿でした。
その後の解剖により、ジョージ2世が大動脈解離による右心室破裂で死亡したことが明らかになりました。彼の死後、孫のジョージ王子がジョージ3世として王位を継承しました。ジョージ2世は1760年11月11日にウェストミンスター寺院に埋葬されました。彼は、自らの遺言により、妻キャロライン王妃の棺と自身の棺の横板を取り外すように指示し、二人の遺体が寄り添うことができるようにしました。彼はウェストミンスター寺院に埋葬された最後のイギリス国王となりました。彼の崩御は、七年戦争とフランスとの植民地戦争が1763年のパリ条約で終結する約3年前でしたが、この時までにイギリスの勝利はほぼ確実なものとなっていました。
5. 遺産と評価
ジョージ2世の統治期間は、イギリスが世界的な大国としての地位を確立し、国内の政治制度が立憲君主制へと移行する上で重要な影響を与えました。彼の後世への貢献と、それに対する多様な歴史的評価が今日まで議論されています。
5.1. 文化・制度的貢献


ジョージ2世は、大英博物館が設立された4年後の1757年に王立図書館の蔵書を寄贈しました。彼は読書や美術、科学に特段の興味を示さず、余暇は乗馬での鹿狩りやカードゲームを好んでいました。しかし、1737年にはハノーファー選帝侯領初の大学であるゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンを創設し、1748年には同大学を訪問しました。1902年には、彼を記念して小惑星359番がジョージアと命名されました。また、1716年から1727年までダブリン大学の総長を務め、1754年にはニューヨーク市のキングス・カレッジ(後のコロンビア大学)に勅許状を授与しました。1732年に王室勅許状によって設立されたジョージア植民地も彼にちなんで名づけられました。
ジョージ2世の治世中、イギリスの権益は世界中で拡大し、ジャコバイトのハノーヴァー朝に対する脅威は最終的に鎮圧され、イギリスにおける議会と大臣の権力が確立されました。
5.2. 歴史的評価と批判
同時代人、例えばジョン・ハーヴィー (第2代ハーヴィー男爵)やホレス・ウォルポールの回想録では、ジョージ2世は妻や閣僚に支配された弱い道化として描かれていました。19世紀から20世紀前半に書かれた彼の伝記の多くは、これらの偏向した記述に頼っていました。しかし、20世紀後半になると、現存する書簡などの学術的な分析が進み、ジョージ2世は以前考えられていたほど無能ではなかったことが示されました。
ジョージ2世は閣僚からの手紙に適切な意見を註釈として書き残しており、これは彼が特に外交政策に対して深い知識と関心を持っていたことを裏付けています。彼は、嫌いな閣僚や軍の指揮官の任命を阻止したり、彼らを閑職に追いやったりする影響力を持っていました。しかし、このような学術的な再評価をもってしても、「弱々しくばかげた王」という大衆の印象を完全に払拭することはできませんでした。例えば、彼の倹約さはしばしば嘲笑の対象となりましたが、彼の伝記作家たちは浪費よりは質素の方が良いと擁護しています。
初代チャールモント伯爵は、感情に正直であることは欺瞞よりも良いとしてジョージ2世の短気を許し、「彼の気性は衝動的で短気だったが、気だてがよく、正直なものだった。王族として、感情を偽装する術は全くなかったが、彼はいつも表裏がなかった。彼は人を怒らせるかもしれないが、人を欺くことは決してしなかった」と記しています。第2代ウォルドグレイヴ伯爵は、「誰も避けられない、最も輝かしい性格をも汚すシミや汚れが時間とともに落ちた後、彼が愛国王として数えられ、その政府の治下で人々が最も幸福に生きた王として記憶されることを、わたしは完全に信じている」と書いています。
ジョージ2世は歴史において主要な役割を演じなかったかもしれませんが、時にはその影響力を発揮し、立憲政治を擁護しました。エリザベス・モンタギューはジョージ2世について、「彼とともに、私たちの法律と自由は安全であった。彼は国民からの大きな信頼と、外国政府からの尊敬を得ていた。その性格の安定性により、この不安定な時代において彼は大きな影響力を行使することができた。[...]彼の性格は、史詩の主題とはならないかもしれないが、歴史の落ち着いたページでは立派に見えるだろう」と評しました。
6. 称号、敬称、紋章
ジョージ2世が生涯を通じて使用した公式な称号、敬称、そして彼の紋章は、彼の生涯の段階と統治権を反映していました。
彼の公式な称号は、「ジョージ2世、神の恩寵により、グレートブリテン、フランス、アイルランドの王、信仰の擁護者、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公、神聖ローマ帝国の大出納官および選帝侯」でした。
- 1706年**:ケンブリッジ公爵および侯爵、ミルフォード・ヘイヴン伯爵、ノーザラトン子爵、テュークスベリー男爵
- 1714年8月 - 9月**:殿下ジョージ・オーガスタス、グレートブリテン王子、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯子、コーンウォール公爵およびロスシー公爵など
- 1714年9月 - 1727年6月**:プリンス・オブ・ウェールズ殿下など
- 1727年6月 - 1760年10月**:国王陛下
ジョージが1714年にプリンス・オブ・ウェールズになると、王室紋章の使用が許可されましたが、右下のハノーファーを示す部分にはギュールズ(赤色)単色のインエスカッシャン(小盾)が追加され、さらに全体に3つのアージェント(銀色)の垂れがあるホワイト・レイブルが加えられました。クレストには、彼の地位を示すアーチが一つあるコロネットが含まれていました。国王に即位した後は、父ジョージ1世が使用した紋章と全く同じものを使用しました。
7. 家族
ジョージ2世の家族は、彼の治世の重要な側面を形成しました。
7.1. 祖先
ジョージ2世の祖先は以下の通りです。
世代 | 祖先名 | 血縁関係 | |
---|---|---|---|
ジョージ2世 | 父: ジョージ1世 | 祖父: エルンスト・アウグスト | 曽祖父: ゲオルク |
曽祖母: アンナ・エレオノーレ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット | |||
祖母: ゾフィー | 曽祖父: フリードリヒ5世 | ||
曽祖母: エリザベス・ステュアート | |||
母: ゾフィー・ドロテア | 祖父: ゲオルク・ヴィルヘルム | 曽祖父: ゲオルク | |
曽祖母: アンナ・エレオノーレ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット | |||
祖母: エレオノール・ドルブリューズ | 曽祖父: アレクサンドル・デミエール・ドールブリューズ | ||
曽祖母: ジャケット・プッスール・ド・ヴァンドレ |
エリザベス・ステュアートはイングランド王ジェームズ1世と王妃アンの長女であり、チャールズ1世の姉にあたります。彼女の子女のうち、アン女王在位時点で存命かつプロテスタントであったゾフィー・フォン・デア・プファルツが継承権を持ち、今日でもその子孫のみがイギリスの王位継承権を有しています。
7.2. 子女
ジョージ2世とキャロライン王妃の間には、10回から11回の妊娠があり、8人の子供が生きて生まれました。うち1人は乳幼児期に亡くなり、7人が成人しました。

名前 | 生年 | 没年 | 備考 |
---|---|---|---|
フレデリック・ルイス | 1707年2月1日 | 1751年3月31日 | 1736年にオーガスタ・オブ・サクス=ゴータと結婚し、子をもうけました。後のジョージ3世の父です。 |
アン、プリンセス・ロイヤル | 1709年11月2日 | 1759年1月12日 | 1734年にオラニエ公ウィレム4世と結婚し、子をもうけました。 |
アメリア王女 | 1711年6月10日 | 1786年10月31日 | 未婚で子はいませんでした。 |
キャロライン王女 | 1713年6月10日 | 1757年12月28日 | 未婚で子はいませんでした。 |
死産の子(男子) | 1716年11月20日 | ||
ジョージ・ウィリアム王子 | 1717年11月13日 | 1718年2月17日 | 幼児期に亡くなりました。 |
流産 | 1718年 | ||
ウィリアム、カンバーランド公 | 1721年4月26日 | 1765年10月31日 | 未婚で子はいませんでした。 |
メアリー王女 | 1723年3月5日 | 1772年1月14日 | 1740年にヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世と結婚し、子をもうけました。 |
ルイーズ王女 | 1724年12月18日 | 1751年12月19日 | 1743年にデンマークおよびノルウェー国王フレゼリク5世と結婚し、子をもうけました。 |
流産 | 1725年7月 |