1. 生い立ちと背景
ダイ・バーノンは1894年6月11日、カナダのオタワでデイヴィッド・フレデリック・ウィングフィールド・ヴァーナーとして生まれた。彼は生前、7歳の時に父親から初めてマジックを教わったと語っており、「人生の最初の6年間を無駄にした」と皮肉交じりに付け加えていた。彼の父親は政府職員であり、アマチュアのマジシャンでもあった。
バーノンがマジックに心惹かれたのは、7歳の時に父親に連れられてマジックショーを観に行ったのがきっかけだった。彼が最初に所有した本格的なマジックの書籍は、S. W. ErdnaseS. W. アードナス英語による『The Expert at the Card Tableジ・エキスパート・アット・ザ・カード・テーブル英語』の初期版であった。バーノンは13歳になるまでにこの本の全内容を記憶していたという。また、彼は幼い頃、後に名を馳せる若きマジシャン、クリフ・グリーンと出会っている。グリーンが「どんなマジックをするの?」と尋ねたところ、バーノンはグリーンにカードの名前を言わせ、ポケットから取り出したカードの束の一番上のカードをめくり、それが言われたカードであることを示して「これだよ。君はどんなマジックをするんだい?」と答えたという逸話が残っている。
彼はオンタリオ州キングストンにあるカナダ王立陸軍大学で機械工学を学んだが、第一次世界大戦の頃にはニューヨーク市に移住していた。ニューヨークに移住後、クライド・パワーズのマジックショップの裏部屋で、彼はジェームズ・ウィリアム・エリオット博士やネイト・ライプチヒ、ハリー・ケラーといった当時の著名なマジシャンたちの間で親しまれるようになった。
彼のファーストネーム「ダイ」(Daiダイ英語)は、新聞が「デイヴィッド」の略としてウェールズ語の愛称を使用し始めたことに由来する。また、ヴァーナーが初めてアメリカ合衆国に移住した際、人気のアイススケートペアの男性が「バーノン」という苗字であったため、アメリカ人が彼の苗字をそのスケーターと誤認することが多く、最終的に彼は人々の誤解を訂正するのにうんざりし、「バーノン」を芸名として採用するに至った。
2. キャリアの始まりと発展
バーノンは、その手先の技に関する知識と技術から、長年にわたり愛情を込めて「プロフェッサー」(The Professorザ・プロフェッサー英語)として知られていた。ハリー・フーディーニは、初期には「カードの王様」と自称していたが、彼はあるカードマジックを3回見ればその秘密を見破れると豪語していた。そこでバーノンは、フーディーニに後に「アンビシャス・カード」として知られるトリックを披露した。それは、デッキの一番上のカードを取り除き、それを上から2番目に置き、その後一番上のカードをめくると元のカードが再び現れるというものだった。フーディーニはバーノンがこのトリックを行うのを7回(ある説では5回)見たが、そのたびに「もう一度やってくれ」と懇願し続けた。最終的にフーディーニの妻やバーノンの友人たちが「認めなさい、フーディーニ、あなたは騙されたのよ」と言ったという。この出来事以来、バーノンは何年にもわたり「The Man Who Fooled Houdiniフーディーニを欺いた男英語」という肩書きを自身の広告に使用した。
バーノンはクロースアップマジックのアイデアを得るため、不正なギャンブラーやカード詐欺師たちを積極的に探した。雑誌『The Sphinxザ・スフィンクス英語』による広報活動により、全国のプロマジシャンから尊敬を集めていたにもかかわらず、バーノンは40代になるまで基本的には才能あるアマチュアに過ぎなかった。マジック・キャッスルでの活動を始める以前、彼は数ヶ月以上続く安定したフルタイムの仕事に就いたことは一度もなかった。彼は時折、ナイトクラブや南米を行き来するクルーズ船でマジックを披露したり、第二次世界大戦中にはアメリカ慰問協会(USO)の一員としてフィリピンを巡業したりした。機械工学の学位は、時に青写真の読解者として活用された。
バーノンの主な収入源は、特注のシルエット肖像画の切り抜きであった。これは1920年代から1930年代にかけて、2分ほどの作業で25から50セントを稼ぐことができた才能であり、1938年の最初のアメリカ合衆国の最低賃金が1時間あたり0.25 USDであったことと比較すると、かなり高収入であった。彼はコニーアイランドの同じシルエットアーティストであるE. J. ペリーと友好的な関係にあった。週に数時間のシルエットの切り抜き作業で、通常は家族を養い、手先の技の趣味に資金を供給するのに十分であった。バーノンは初期の人生のほとんどをアメリカ中を旅して、カード詐欺師やカードの手先の技について何かを知っている可能性のある人物を探し回ることに費やした。彼はジャン・ユガードとフレデリック・ブラウの共著『Expert Card Techniqueエキスパート・カード・テクニック英語』に掲載された多くの功績について、しばしば不当に評価が低かったとされるが、後の版ではバーノンの貢献を認める追加の章が含まれている。手先の技の大部分は、バーノンが長年の探求の末に発見したものであった。
3. 主要なマジック技法と理論
ダイ・バーノンは、マジック界に数々の独創的な技法と哲学をもたらした。彼が創案または改良した技術は多岐にわたり、特に彼のマジック哲学は「バーノン・タッチ」(Vernon Touchバーノン・タッチ英語)として知られている。この「バーノン・タッチ」は、バーノンの手にかかったマジックが帯びる独特な雰囲気や、そのパフォーマンスの自然さを指す。彼の有名な理論・概念としては「Be natural, Be yourselfビー・ナチュラル、ビー・ユアセルフ英語」(自然体であれ、自分らしくあれ)など多数があり、これは彼がマジックを演じる際の根本的な姿勢を示している。
彼はカードマジック、コインマジックといったクロースアップマジックの分野で数多くの標準的なエフェクトを考案または改良したことで高く評価されている。また、古典的なマジックであるカップ・アンド・ボールのルーティンは彼によって確立されたものが標準とされており、彼の6連のチャイニーズ・リンキング・リングのルーティン「Symphony of the Ringsシンフォニー・オブ・ザ・リングス英語」は、今日でも最も人気のあるリンキング・リングのルーティンの一つである。
バーノンは多くの作品を古典の改良として残したが、まったく新しい原理の開発においても活躍した。彼の作品の多くは、誰の手でも演じられるように構成されている点が特徴である。これは、特定の人物の特技に依存せず、普遍的な技術と理論に基づいていることを示している。
4. 師事と後世への影響
ダイ・バーノンは、マジック界における指導者(メンター)としての役割を深く担い、多くの著名なマジシャンたちに影響を与えた。その膨大な知識量から「プロフェッサー」の尊称で呼ばれ、世界中のマジシャンから親しまれただけでなく、「マジックの神様」とも謳われている。
彼が直接指導した弟子には、リッキー・ジェイ、パーシ・ディアコニス、ダグ・ヘニング、ラリー・ジェニングス、ブルース・セルボン、マイケル・アンマー、ジョン・カーニー、リチャード・ターナー、マイケル・スキナーなど、今日のマジック界で活躍する多くの名が連なる。特にラリー・ジェニングスは彼に師事し、多大な影響を受けたことで知られる。彼らの多くは、バーノンの技術だけでなく、そのマジック哲学やアプローチから学び、自身のスタイルを確立していった。
バーノンが残した技法や哲学は、後代のマジック界に広範な影響を与え続けている。彼が提唱した「バーノン・タッチ」や「Be natural, Be yourselfビー・ナチュラル、ビー・ユアセルフ英語」といった概念は、単なる技術論に留まらず、マジックの本質的な表現方法について深く問いかけるものであり、現在でも多くのマジシャンにとって指針となっている。彼の貢献により、クロースアップマジックのあり方が再定義され、その芸術性が高められたことは、マジック史における彼の最大の遺産の一つと言えるだろう。
5. マジック・キャッスルと晩年
1963年頃から、ダイ・バーノンはカリフォルニア州ロサンゼルスのハリウッドにある会員制マジック専門ナイトクラブ「マジック・キャッスル」に常駐するようになった。彼はそこで「居住マジシャン」(Magician-in-Residenceマジシャン・イン・レジデンス英語)および主要なアトラクションとして活動し、その晩年の30年間をこの場所で過ごした。マジック・キャッスルは彼の活動拠点となり、多くの若きマジシャンたちを育成する場ともなった。彼はここで前述の著名な弟子たちを指導し、彼らにその知識と技術を惜しみなく伝授した。
バーノンは96歳になった1990年に、公演活動から正式に引退した。しかし、引退後も彼の存在はマジック・キャッスルの象徴であり続けた。
彼のキャリアの中で、1969年には日本のテンヨーの招きを受けて初来日を果たしている。この来日中に、彼は日本のマジシャンである沢浩の演技を絶賛したというエピソードも残されている。
6. 私生活
ダイ・バーノンは1924年にユージェニー「ジーン」ヘイズ(Eugenie "Jeanne" Hayesユージェニー・「ジーン」・ヘイズ英語)と結婚した。彼女もまたマジシャンズ・アシスタントとして活動していた。夫妻にはセオドア(Theodoreセオドア英語)とデレク(Derekデレク英語)という二人の息子がいた。彼の息子の一人もマジシャンである。バーノン夫妻は1950年代までには別居していたが、正式な離婚はしていなかったという。
7. 著作と出版物
ダイ・バーノン自身が関与した著作、および彼のマジック理論や技術を解説・紹介した主要な出版物は以下の通りである。これらの多くはルイス・ガンソンによって編集されたか、ガンソンによって執筆されたものである。
- 『Secrets ($20 Manuscript)シークレッツ(20ドル・マニュスクリプト)英語』 (1930年頃)
- 『Dai Vernon's Select Secretsダイ・バーノンズ・セレクト・シークレッツ英語』 (1941)
- 『The First California Lectureザ・ファースト・カリフォルニア・レクチャー英語』 (1947)
- 『Dai Vernon's Book of Magicダイ・バーノンズ・ブック・オブ・マジック英語』 (1957)
- 『Dai Vernon Cups and Balls Routineダイ・バーノン・カップス・アンド・ボールズ・ルーティン英語』 (1958)
- 『Dai Vernon's Symphony of the Ringsダイ・バーノンズ・シンフォニー・オブ・ザ・リングス英語』 (1958)
- 『Inner Secrets of Card Magicインナー・シークレッツ・オブ・カード・マジック英語』 (1959)
- 『More Inner Secrets of Card Magicモア・インナー・シークレッツ・オブ・カード・マジック英語』 (1960)
- 『Further Inner Secrets of Card Magicファーザー・インナー・シークレッツ・オブ・カード・マジック英語』 (1961)
- 『Malini & His Magicマリーニ・アンド・ヒズ・マジック英語』 (1962)
- 『Early Vernonアーリー・バーノン英語』 (1962)
- 『Dai Vernon's Tribute to Nate Leipzigダイ・バーノンズ・トリビュート・トゥ・ネイト・ライプチヒ英語』 (1963)
- 『Ultimate Secrets of Card Magicアルティメット・シークレッツ・オブ・カード・マジック英語』 (1967)
- 『Dai Vernon's Expanded Lecture Notesダイ・バーノンズ・イクスパンデッド・レクチャー・ノーツ英語』 (1970)
- 『Dai Vernon's Revelationsダイ・バーノンズ・レヴェレーションズ英語』 (1984)
- 『The Lost Inner Secretsザ・ロスト・インナー・シークレッツ英語』 (1987)
- 『The More Lost Inner Secretsザ・モア・ロスト・インナー・シークレッツ英語』
- 『The Further Lost Inner Secretsザ・ファーザー・ロスト・インナー・シークレッツ英語』
- 『The Fooled Houdini: Dai Vernon a Magical Lifeザ・フールド・フーディーニ:ダイ・バーノン・ア・マジカル・ライフ英語』
- 『The Vernon Touchザ・バーノン・タッチ英語』 (2006)
- 『The Essential Dai Vernonザ・エッセンシャル・ダイ・バーノン英語』 (2009、全集)
8. 死去
ダイ・バーノンは1992年8月21日、カリフォルニア州サンディエゴ郡ラモナの息子エドワード・ウィングフィールド・ヴァーナーの自宅で、98歳で死去した。伝記作家のカール・ジョンソンによると、彼は火葬され、遺灰の入った箱はマジック・キャッスルに持ち帰られ、長年にわたるマジックの人生の写真や記念品で埋め尽くされた壁の高い棚に飾られたという。
9. 遺産と評価
ダイ・バーノンはマジシャンたちの間で、カード、コイン、その他の小道具を使った多くの標準的なクロースアップマジックの考案者または改良者として高く評価されている。彼が確立したカップ・アンド・ボールのルーティンは今日の標準となり、6連のチャイニーズ・リンキング・リングのルーティン「Symphony of the Ringsシンフォニー・オブ・ザ・リングス英語」は、現在でも最も人気のあるルーティンの一つとして用いられている。
彼の生涯と功績は、様々な形で後世に伝えられている。2006年6月には、カナダ人マジシャンであるデヴィッド・ベンによって、バーノンの初の本格的な伝記『Dai Vernon: A Biography, Artist, Magician, Muse (Vol. 1: 1894-1941)ダイ・バーノン:伝記、アーティスト・マジシャン・ミューズ(第1巻:1894-1941)英語』が出版された。これは全2巻の予定の第1巻であり、彼の初期の人生とマジシャンとしての道のりを深く掘り下げている。
また、1999年にはドキュメンタリー映画『Dai Vernon: The Spirit Of Magicダイ・バーノン:マジックの精神英語』が公開され、彼のマジックへの情熱と遺産が描かれた。2003年の映画『シェイド』に登場する「プロフェッサー」(ハル・ホルブルック演)のキャラクターはダイ・バーノンを基にしており、スチュアート・タウンゼント演じる「バーノン」というキャラクターも彼にちなんで名付けられている。
バーノンはその膨大な知識量と、マジック界に残した革新的な貢献から、「プロフェッサー」の尊称で広く知られている。同時代のマジシャンや批評家からも、彼の技術と思想は絶大な尊敬を集め、「マジックの神様」と称されるほどであった。彼の遺産は、単なる技法に留まらず、マジックという芸術形式そのものに対する深い洞察と、後進の育成への献身を通じて、現代のマジック界に脈々と受け継がれている。