1. 生い立ちと背景
ベルナール・アッカは1972年4月9日にドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州ボンで、コートジボワール人の両親のもとに生まれた。1974年、2歳の時に日本へ移住し、幼少期は父親の勤務先であったコートジボワール大使館で過ごした。
2. 修業時代
アッカは中学・高校時代に柔道を経験し、初段の腕前を持つ。その後、一時コートジボワールに帰国。1998年には26歳で韓国に渡り、名門延世大学校で2年間(一部情報では3年間)テコンドーの修業に励み、武道家としての基礎を築いた。彼の格闘技のベースは、テコンドー、柔道、そして空手である。
3. 格闘家としてのキャリア
ベルナール・アッカは、総合格闘技、キックボクシング、そしてその他の格闘技の分野で活躍した。
3.1. 総合格闘技 (MMA)
アッカは2007年3月12日、日本の格闘技イベント「HERO'S」の『K-1 Hero's 8』でシン・ヒョンピョを相手にプロ総合格闘技デビューを果たし、1ラウンド1分11秒、右ハイキックからのパンチ連打でTKO勝利を収めた。同年6月2日にはアメリカで開催された『Dynamite!! USA』に出場し、元NFL選手のジョニー・モートンと対戦。1ラウンド38秒、カウンターの右フックで失神KO勝ちを飾り、一躍注目を集めた。この試合後、モートンはテストステロン値の上昇が検出された。
しかし、その後は連敗を経験する。同年7月16日の『HERO'S 9』ではオランダのキックボクサー、メルヴィン・マヌーフに1ラウンド2分13秒、パンチ連打でKO負け。同年10月28日の『HERO'S KOREA 2007』ではポアイ菅沼に1ラウンド3分5秒、腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫した。
連敗を断ち切ったのは2009年8月23日の『DEEP 43 IMPACT』で、柳澤龍志に対し、開始わずか7秒で右ハイキックからのパンチでKO勝利を飾った。その後も同年12月19日の『DEEP CAGE IMPACT 2009』で小阪俊二に1ラウンド34秒、スタンドパンチ連打でTKO勝ち、2010年4月17日の『DEEP 47 IMPACT』ではライトヘビー級王者決定トーナメントのリザーブマッチで加藤実を相手に判定勝ちを収め、3連勝を記録した。
2011年には再び苦戦を強いられる。同年6月24日の『DEEP 54 IMPACT』ではDEEPライトヘビー級タイトルマッチで王者中西良行に挑戦したが、1ラウンド1分7秒、左ハイキックでKO負けを喫し、王座獲得に失敗した。同年10月29日の『DEEP CAGE IMPACT 2011 in TOKYO』では井上俊介に1ラウンド1分30秒、バックハンドブローからのパウンドでKO負け。そして2012年2月18日の『DEEP 57 IMPACT』で悠羽輝に1ラウンド3分35秒、チョークスリーパーで一本負けを喫した後、格闘技選手としての引退を表明し、今後は後進の育成に力を入れることを語った。
引退後も格闘技との関わりは続き、2012年6月15日の『DEEP 58 IMPACT』では引退エキシビションマッチが行われた。このエキシビションは3ラウンド制で、1ラウンドは野地竜太とのキックボクシングルール、2ラウンドは佐藤豪則とのグラップリングルール、3ラウンドは桜井隆多との総合格闘技ルールで行われた。試合後の引退セレモニーでは、友人であるボビー・オロゴンへの憧れや、恩師である足立光や佐伯繁への感謝を述べ、選手を引退してもDEEPを盛り上げていくことを誓った。
勝敗 | 戦績 | 対戦相手 | 勝利方法/敗北方法 | 大会名 | 開催年月日 | ラウンド | 時間 | 場所 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
敗 | 5-6 | 悠羽輝 | チョークスリーパー | DEEP 57 IMPACT ~12年目の現実~ | 2012年2月18日 | 1 | 3:35 | 東京、日本 | ||
敗 | 5-5 | 井上俊介 | KO(パウンド) | DEEP CAGE IMPACT 2011 in TOKYO 2nd ROUND | 2011年10月29日 | 1 | 1:30 | 東京、日本 | ||
敗 | 5-4 | 中西良行 | KO(左ハイキック) | DEEP 54 IMPACT (DEEPライトヘビー級タイトルマッチ) | 2011年6月24日 | 1 | 1:07 | 東京、日本 | ||
勝 | 5-3 | 加藤実 | 判定5-0 | DEEP 47 IMPACT (ライトヘビー級王者決定トーナメント リザーブマッチ) | 2010年4月17日 | 2 | 5:00 | 東京、日本 | ||
勝 | 4-3 | 小阪俊二 | TKO(スタンドパンチ連打) | DEEP CAGE IMPACT 2009 第2部 | 2009年12月19日 | 1 | 0:34 | 東京、日本 | ||
勝 | 3-3 | 柳澤龍志 | KO(右ハイキック) | DEEP 43 IMPACT | 2009年8月23日 | 1 | 0:07 | 東京、日本 | ||
敗 | 2-3 | RYO | 判定0-3 | DEEP 42 IMPACT | 2009年6月30日 | 2 | 5:00 | 東京、日本 | ||
敗 | 2-2 | ポアイ菅沼 | 腕ひしぎ十字固め | HERO'S KOREA 2007 | 2007年10月28日 | 1 | 3:05 | ソウル、韓国 | ||
敗 | 2-1 | メルヴィン・マヌーフ | KO(スタンドパンチ連打) | HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント開幕戦 | 2007年7月16日 | 1 | 2:13 | 横浜、日本 | ||
勝 | 2-0 | ジョニー・モートン | KO(右フック) | Dynamite | USA | 2007年6月2日 | 1 | 0:38 | ロサンゼルス、カリフォルニア州、アメリカ合衆国 | キャッチウェイト(97 kg (213 lb))戦。モートンはテストステロン値の上昇が検出された。 |
勝 | 1-0 | シン・ヒョンピョ | TKO(スタンドパンチ連打) | HERO'S 2007 開幕戦 ~名古屋初上陸~ | 2007年3月12日 | 1 | 1:11 | 名古屋、日本 |
3.2. キックボクシング
アッカはキックボクシングにも挑戦し、2007年12月31日の『K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!』で日本のレジェンドである武蔵とK-1ルールで対戦。1ラウンド序盤にパンチ連打を見せるもスタミナ切れで失速し、3ラウンド1分26秒、武蔵のカウンターの左フックで失神KO負けを喫した。
2008年4月26日には全日本キックボクシング連盟に参戦し、西脇恵一に判定勝ち。同年6月29日の『K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKA』で行われたK-1 JAPAN GPでは1回戦で中迫強と対戦し、判定負け。同年8月16日の『日韓親善国際格闘技大会 GLADIATOR』では高森啓吾に1ラウンド1分36秒、左フックでKO負けを喫した。
2009年4月3日には初参戦となったシュートボクシングで岩下雅大と対戦し、判定勝ちを収めた。しかし、2011年9月23日の『RISEN 83』ではラオウマルにKO負けを喫し、キックボクシングの戦績は2勝4敗となった。
勝敗 | 戦績 | 対戦相手 | 勝利方法/敗北方法 | 大会名 | 開催年月日 | ラウンド | 時間 | 場所 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
敗 | 2-4 | ラオウマル | KO | RISEN 83 | 2011年9月23日 | 3 | 東京、日本 | ||
勝 | 2-3 | 岩下雅大 | 判定2-0 | SHOOT BOXING 2009 武志道-bushido- 其の弐 | 2009年4月3日 | 3 | 3:00 | 日本 | |
敗 | 1-3 | 高森啓吾 | KO(左フック) | 日韓親善国際格闘技大会 GLADIATOR (K-1ルール) | 2008年8月16日 | 1 | 1:36 | 日本 | |
敗 | 1-2 | 中迫強 | 判定0-3 | K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKA (K-1 JAPAN GP 2008 1回戦) | 2008年6月29日 | 3 | 3:00 | 福岡、日本 | |
勝 | 1-1 | 西脇恵一 | 判定2-0 | 全日本キックボクシング連盟「Spring Storm」 | 2008年4月26日 | 3 | 3:00 | 日本 | |
敗 | 0-1 | 武蔵 | KO(左フック) | K-1 PREMIUM 2007 Dynamite | 2007年12月31日 | 3 | 1:26 | 大阪、日本 |
3.3. その他の格闘技
アッカは総合格闘技やキックボクシング以外にも、サンボの大会に出場している。2009年4月12日には第7回東日本サンボ選手権大会の+90kg級に出場し、決勝で守光博史(木口道場)に敗れたものの、準優勝の成績を収めた。
4. エンターテイメント活動
ベルナール・アッカは格闘家としての活動と並行して、コメディアン、俳優、声優など多岐にわたるエンターテイメント活動を展開した。
4.1. コメディアンとしての活動
2001年、アッカはレックス・ジョーンズと共にお笑いコンビ塩コショーを結成し、コメディアンとしてのキャリアをスタートさせた。塩コショーは2008年3月15日に解散を発表し、アッカは芸人活動を休止し、本格的に格闘家としての道を進むこととなった。
4.2. テレビ・映像・声優活動
アッカは様々なメディアで活躍している。2003年には、シンガーソングライター林明日香のデビューCD「ake-kaze」のミュージックビデオに出演し、モデルとしても活動した。
声優としては、2008年4月から2011年3月まで放送されたテレビアニメ『遊☆戯☆王5D's』で実況のMC役を務め、声優デビューを果たした。同アニメを原作としたゲーム『遊☆戯☆王5D's STARDUST ACCELERATOR -WORLD CHAMPIONSHIP 2009-』や『遊☆戯☆王ゼアル デュエルターミナル』でも同じくMC役で出演している。また、2009年放送の『メタルファイト ベイブレード』では多良場役を担当した。
テレビ番組では、2003年10月4日放送のフジテレビ系『めちゃ×2イケてるッ!』の「岡女体育祭」で飯田圭織の父親役を演じた。また、SASUKEの第19回大会にも出場したが、ファーストステージの「ジャンピングスパイダー」で失敗に終わっている。2014年4月29日放送の日本テレビ『AKBINGO!』には「ベル」名義で審査員として出演し、2015年4月26日放送の日本テレビ『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』では刑執行人として登場した。
ドラマでは、2011年6月1日に配信が開始されたNTTドコモの携帯専用放送局BeeTVのドラマ『3枚目のボディガード~ボクはキミだけを守りぬく~』に出演。2012年9月23日・30日放送の『仮面ライダーウィザード』第4・5話ではファントム・ケットシー(人間態・声)役で出演。2013年7月スタートのドラマ『超絶☆絶叫ランド』ではチャーリー役を演じた。2014年にはNHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』に弥助役で出演した。2014年12月28日放送の『仮面ライダードライブ』第12話ではガンマン役で出演した。
映画では、2009年8月29日公開の『20世紀少年 最終章 ぼくらの旗』の撮影に参加したが、劇場公開版では出演シーンがカットされた。しかし、2010年8月27日の金曜ロードショー枠で放送された未公開エンディングでようやくその姿が公開された。本人は後からこの事実を知り、外出中で出演シーンを見逃したとブログで語っている。2013年6月22日公開の映画『Moon Dream』ではキング・ダダ役、2014年公開の『TOKYO TRIBE』ではジャダキンス役、2017年公開の『帰ってきた動物戦隊ジュウオウジャー お命頂戴!地球王者決定戦』ではコウキ役を演じた。
ラジオでは、Bayfmの『TOKYO BAY LINE 7300』に出演経験がある。
5. プロレスラーとしてのキャリア
2014年11月30日、アッカはDDTプロレスリングでプロレスデビューを果たした。彼は第1009代アイアンマンヘビーメタル級王座保持者であるタレントのLiLiCoのボディーガードとして登場した。同年12月13日には平田一喜との初試合を行い、ハイキックで勝利を収めた。しかし、DDTでの2戦目では高木三四郎に敗れている。2015年のDDT新年興行で、アッカは高木三四郎に「プロレスがしたいです」と直訴し、DDTのさいたまスーパーアリーナ興行への参戦が決定した。
6. 私生活
ベルナール・アッカは、日本語、フランス語、韓国語、英語、ドイツ語など、複数の言語を流暢に話すことができる。
かつては日本人の女性と結婚し、妻の両親と同居しながら日本で暮らしていた。この結婚生活の際、彼は自身をアニメ『サザエさん』に登場するマスオさんになぞらえ、「風呂は最後。(テレビの)チャンネル権もないです」と語っていた。格闘家としてデビューし、2戦目の勝利を祝う席で義父から「チャンネル権もあげようかな」と言われたエピソードもある。このことから、「闘うマスオさん芸人」という異名を持つようになった。
現在は離婚しており、家賃11.00 万 JPYのアパートで一人暮らしをしている。友人であるボビー・オロゴンとは親交が深く、かつてボビーから「オマエの家(妻の実家)に気を使ってんだよ」と言われ、遊びに誘われなかった時期があったという逸話も残っている。
24歳の時、フジテレビのモノマネ番組に出演し、古畑任三郎や出川哲朗などのモノマネを披露した。当時はラジオDJも務めており、流暢な日本語を話すため、ラジオのリスナーからは外国人だと信じてもらえなかったが、テレビ出演を機にようやく信じてもらえたと喜んでいたという。
格闘技引退後は、トレーニングジムのトレーナーやバーのセキュリティーとして勤務しており、将来的には自身のジムを開設することを目指している。
7. 評価と影響
ベルナール・アッカは、格闘家、コメディアン、俳優、声優、プロレスラーと、非常に多岐にわたる分野で活動した稀有な存在である。特に、その身体能力の高さからお笑い芸人から総合格闘家へと転身した異色のキャリアは、多くの人々に驚きと注目を集めた。
「闘うマスオさん芸人」という親しみやすいキャラクターと、リング上での迫力あるファイト、そしてテレビでのユーモラスな姿とのギャップが、彼の人気を確立した要因の一つである。彼の存在は、エンターテイメントとスポーツの垣根を越えた活躍の可能性を示し、多様な才能を持つ人物として日本のメディアに大きな影響を与えた。引退後もトレーナーとして後進の育成に意欲を見せるなど、その活動は多方面にわたる。