1. 概要

インドルジフ・マティヤシュ・トゥルン伯爵(Jindřich Matyáš Thurnインドルジフ・マティヤシュ・トゥルンチェコ語、Heinrich Matthias Graf von Thurn und Valsassinaハインリヒ・マティヤシュ・グラフ・フォン・トゥルン・ウント・ヴァルザッシーナドイツ語、Henrik Mattias von Thurnヘンリク・マティアス・フォン・トゥルンスウェーデン語、Enrico Matteo Conte della Torre di Valsassinaエンリコ・マッテオ・コンテ・デッラ・トーレ・ディ・ヴァルザッシーナイタリア語、Heinrich Matthias von Thurnハインリヒ・マティアス・フォン・トゥルンエストニア語、1567年2月24日 - 1640年1月26日)は、ボヘミア王国の貴族であり、プロテスタント信仰の擁護者であった。彼は神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の中央集権化とカトリック化政策に抵抗し、プラハ窓外投擲事件を主導してボヘミア反乱の指導者の一人となり、その反乱は後の三十年戦争へと拡大した。戦乱の中で、彼は軍事指導者および外交官として重要な役割を果たし、最終的にはスウェーデン軍に仕え、スウェーデン領エストニアで生涯を終えた。トゥルン伯爵は、宗教的自由とボヘミア貴族の権利を守るための闘争を象徴する人物として、歴史にその名を刻んでいる。
2. 初期生と背景
インドルジフ・マティヤシュ・トゥルンは、ボヘミア反乱の核心となる以前の生い立ちと、その活動の基盤を築いた初期のキャリアを通じて、その思想と行動の源泉を形成していった。
2.1. 出生と家系
インドルジフ・マティヤシュ・トゥルンは1567年2月24日にインスブルックで生まれた。彼の父は、チロル大公フェルディナント2世の枢密顧問官を務めたリンツ伯フランツ・ナプス・フォン・トゥルン・ウント・ヴァルザッシーナ(フランチシェク・トゥルン、1508年 - 1586年)である。母はシュリック伯爵夫人バルボラ(1547年 - 1581年)で、シュリック伯ヒエロニムス・シュリックとグライヒェン=トンナ伯爵夫人カタリーナの娘である。トゥルン伯爵の両親は共に熱心なプロテスタントであった。
トゥルン家は、インドルジフの誕生後まもなくリプニツェ領地を購入して移住し、1574年にはモラヴィアへ移った。父の死後、彼はカトリック教徒の叔父ジョン・アンブローズに育てられた。
2.2. 教育と初期の活動
若いトゥルン伯爵は、神聖ローマ帝国のハプスブルク家の大使館に勤務し、イスタンブール、シリア、エジプト、エルサレムといった各地を訪れた。この経験は、彼の視野を広げ、多様な文化や政治情勢に触れる機会を与えた。
1592年からはオスマン帝国軍に対する神聖ローマ帝国軍に仕え、軍人としてのキャリアを積んだ。その功績により、彼は大佐および軍事顧問官の地位にまで昇進した。また、結婚を通じてクロアチア軍政国境地帯を含む広大な領地を獲得した。皇帝は彼がハンガリーでの対トルコ戦役で示した功績を評価し、中央ボヘミアのカールシュテイン城の城代の地位を授けた。1605年には、北東ボヘミアのイェチーン近郊にあるヴェリシュ荘園の領主権を購入し、これによりボヘミアの貴族階級(páni、「領主」)の一員となった。政治的には、トゥルン伯爵はボヘミアのプロテスタント派に加わり、貴族の元帥として活動した。
3. ボヘミア反乱における役割
トゥルン伯爵は、三十年戦争の引き金となったボヘミア反乱において、プロテスタントの権利と自由を擁護する中心的な役割を果たした。彼の行動は、ボヘミアの歴史に大きな影響を与えた。
3.1. 反乱の背景
1617年、熱心なカトリック教徒であるフェルディナント大公(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)が、高齢で子孫のない皇帝マティアスの後継者として、またボヘミア王位の候補者として擁立された。ボヘミアの貴族たちは、故皇帝ルドルフ2世によって授与された国王自由証に明記された信教の自由を尊重することをフェルディナントに要求した。トゥルン伯爵は、このフェルディナントに対するボヘミア側の批判的回答に署名した一人であった。これは、プロテスタントとしての彼の強い信念と、ボヘミア貴族の権利を守るという彼の姿勢を明確に示すものであった。
3.2. プラハ窓外投擲事件
1617年にボヘミア王位を継承したにもかかわらず、フェルディナントはボヘミア貴族の要求に応じる姿勢を見せなかった。さらに、彼らの要求は1619年のフェルディナントの神聖ローマ皇帝選出を阻止することもできなかった。これに対し、1618年、プラハ城で起こった激しい事件において、トゥルン伯爵は貴族の派閥の主要な指導者の一人として行動した。彼は群衆を扇動し、フェルディナントの2人の代表者、ヤロスラフ・ボジタ・フォン・マルティニツとヴィレム・スラヴァタ・フォン・フルム、そして彼らの書記官であるフィリップ・ファブリツィウスを窓から投げ落とすという行為を主導した。この事件は、ボヘミア反乱の直接的な引き金となり、後の三十年戦争へと繋がる決定的な出来事となった。
3.3. ボヘミア軍司令官としての活動
窓外投擲事件の後、トゥルンはボヘミアの身分制議会によって選出されたプロテスタント信仰の擁護者30人の一人に選ばれた。1618年5月23日にボヘミアのプロテスタント住民の反乱が勃発すると、トゥルンはボヘミア国民軍の総司令官に就任した。彼の指揮は、一連の非効率な戦役と、彼の支配が及ばない部分もあった作戦計画の不備によって特徴づけられた。これらの問題は、皇帝軍が反乱を迅速に鎮圧しようとする努力を阻んだものの、同時にボヘミア軍の戦略的限界と困難を浮き彫りにした。彼はフェルディナントをボヘミア王位から追放する動きに加わり、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新たなボヘミア王に選出する際に中心的な役割を果たした。
3.4. 白山の戦いと亡命
1620年、トゥルン伯爵は白山の戦いにおいて、ボヘミア軍の連隊長として指揮を執った。しかし、この戦いでボヘミア軍は壊滅的な敗北を喫した。この敗北の結果、フェルディナントはトゥルンを、他のプロテスタント貴族(反乱の指導者を含む)や市民と同様に追放した。これにより、トゥルンはボヘミアにあった全ての領地を没収され、祖国を追われることとなった。この強制亡命は、彼のその後の人生と三十年戦争における継続的な活動の転機となった。
4. 亡命生活と晩年の活動
故郷を追われたトゥルン伯爵は、亡命後もハプスブルク家に対抗する闘争を継続し、三十年戦争において重要な軍事・外交活動を展開した。彼の晩年は、捕虜生活とエストニアへの隠退、そして最期を迎えるまでの波乱に満ちたものであった。
4.1. 継続的な軍事・外交活動
亡命後、トゥルン伯爵はハプスブルク家に対する戦いと政治交渉に引き続き参加し、外交官と兵士の両方の役割をこなした。1626年にはシレジアで一部の部隊の指揮を執った。その後、スウェーデン王グスタフ・アドルフの軍で中将として勤務した。しかし、彼の唯一の息子であるフランティシェク・ベルンハルト伯爵は、スウェーデン軍の大佐にまで昇進していたが、1628年にポーランド戦役中に病に倒れ、死去した。この息子の死は、トゥルン伯爵にとって大きな悲しみとなった。
4.2. 捕虜生活、隠退、そして死去
1633年10月11日、トゥルン伯爵はザクセンのシュタイナウ・アン・デア・オーデル近郊で、8,000の兵力とともにヴァレンシュタインの軍と対峙し、捕虜となった。しかし、彼はすぐに身代金によって釈放され、家族の新たな領地であるエストニアのパルヌ(ペルナウ)へ隠退した。
トゥルン伯爵はパルヌで生涯を終え、1640年1月26日に死去した。彼の遺体はタリン聖マリア大聖堂に埋葬された。彼の相続人は、フランティシェク・ベルンハルトとマグダレナ・フォン・ハルデックの息子である未成年の孫、ハインリヒ・フォン・トゥルン=ヴァルザッシーナ(1628年 - 1656年)であった。
5. 著書
トゥルン伯爵は、ドイツ語で「弁論書」(Defensionsschrift)と題された小冊子を執筆した。この著作は、1618年のプラハ窓外投擲事件における彼の役割を、彼の宗教的信念に対する意図的かつ意識的な擁護であったと正当化するものであった。この小冊子はスウェーデンで出版された。
6. 歴史的評価
インドルジフ・マティヤシュ・トゥルン伯爵の生涯と活動は、三十年戦争の勃発とプロテスタントの大義に深く結びついており、その歴史的評価は多岐にわたる。彼は宗教的自由を求める闘争の象徴であり、その行動はヨーロッパ全体の歴史の流れを大きく変えるきっかけとなった。
6.1. 歴史的意義
トゥルン伯爵は、1618年のプラハ窓外投擲事件を主導し、これにより直接的にボヘミア反乱を誘発した。この反乱は、ハプスブルク家の中央集権化とカトリック化政策に対するプロテスタントの抵抗運動であり、やがて全ヨーロッパを巻き込む三十年戦争へと発展した。彼の行動は、単なる貴族の反乱に留まらず、宗教的自由とボヘミア貴族の伝統的権利を擁護するものであり、普遍的な市民的自由を求める動きの先駆けと見なすことができる。彼はプロテスタントの大義の象徴として、その後の戦乱におけるプロテスタント陣営の精神的支柱の一つとなった。
6.2. 批判と論争
トゥルン伯爵の軍事指揮能力には、批判的な見方も存在する。彼はボヘミア軍の総司令官として「非効率な戦役」や「作戦計画の不備」を経験しており、これが反乱を迅速に鎮圧しようとする皇帝の努力を阻んだ一方で、ボヘミア軍自身の戦略的な限界も露呈した。
また、彼の行動が直接的に三十年戦争という壊滅的な紛争を引き起こしたことについても、歴史的な論争の対象となる。彼の信念に基づく行動は称賛される一方で、それがもたらした大規模な破壊と人命の損失に対する責任についても議論されることがある。しかし、彼の行動は、当時の宗教的・政治的緊張が高まっていた状況下での必然的な結果であったという見解も存在する。