1. 概要

力道山(本名: 百田 光浩、出生名: 金 信洛)は、1924年に日本統治下の朝鮮で生まれ、日本のプロレス界に多大な影響を与えた伝説的なプロレスラーであり、戦後日本の国民的英雄と称される存在です。彼の生涯は、激動の時代における個人と社会の物語であり、その功績と私生活にまつわる論争は、今なお議論の対象となっています。本稿では、力道山の生い立ちから力士としてのキャリア、プロレス界での輝かしい成功と同時に展開した多角的な実業家としての活動、そして突然の死に至る経緯を詳細に記述します。また、彼の粗暴な性格や暴力団との関連性、財政的困難といった批判的な側面にも触れ、彼が日本社会に残した多大な影響力と、そのレガシーを多角的な視点から分析します。
2. 生い立ちと力士としてのキャリア
力道山の幼少期から、日本への移住、そして力士としての栄光と挫折、引退に至るまでの経緯を詳述します。
2.1. 生誕と背景
力道山は、1924年11月14日、日本統治下の朝鮮の咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で、金信洛(김신락キム・シンラク韓国語)として朝鮮人の両親、金錫泰と全己の末息子として生まれました。金錫泰は儒教的伝統を持つ農場主でしたが、病に苦しんでおり、幼い力道山は父の看病にあたっていました。母と兄たちは農場での仕事に携わっていました。出生年は諸説あり、実際の誕生は1~2年早かった可能性も指摘されています。幼少期にはシルム(朝鮮相撲)を経験し、地域の大会で3位に入賞したこともあります。この頃、長崎県大村市出身の警察官であり、二所ノ関部屋の後援者でもあった百田已之助に目をかけられ、相撲界への誘いを受けましたが、病床の父を看病する義務から、当初は家族に日本への渡航を反対されました。
2.2. 日本への移住と養子縁組
1939年に父の金錫泰が死去した後、力道山は母の反対を押し切って翌年日本へと渡りました。彼は二所ノ関部屋に入門し、当初は相撲の番付に「朝鮮出身」と明記されていました。このため、彼は在日朝鮮人に対する差別やいじめに直面しました。しかし、彼は百田已之助の養子となり、「百田光浩」という日本名を使用するようになりました。同時に、出生地も長崎県大村市であるという虚偽の経歴が作られ、公にはそのように伝えられました。しかし、日本国籍を取得したのは1951年になってからのことです。力士としての四股名は「力道山光浩」と名乗るようになりました。
2.3. 力士としてのキャリアと引退
力道山は1940年5月場所で初土俵を踏み、1946年11月場所に幕内に昇進しました。入幕2場所目となる1947年6月場所では、前頭8枚目で9勝1敗という好成績を収め、横綱羽黒山政司、大関前田山英五郎、同東富士欽壹の3人と相星となり、新設された優勝決定戦に出場しました。この決定戦で羽黒山に敗れたものの、彼は最後の優勝旗手として名を残しました。1948年5月場所では、横綱照國萬藏とこの場所で優勝した大関東富士を破り、さらに横綱前田山には不戦勝で勝利し、殊勲賞を受賞しました。
力道山は1949年5月場所に関脇に昇進しましたが、場所前に肺臓ジストマに罹患した影響で大敗を喫しました。1年後に再度関脇に復帰しましたが、1950年9月場所を前に突然自らまげを切り、廃業しました。表向きは病気による廃業と説明されましたが、「民族の壁に阻まれ大関に昇進できなかったため廃業を決意した」という説は、当時の成績(最後の出場場所は関脇で勝ち越し1点)を考慮すると、事実とは異なります。しかし、幕内での勝率5割8分1厘は戦後の関脇止まりの力士としては最高であり、同世代の鏡里喜代治、栃錦清隆、吉葉山潤之輔とも互角に戦っており、もし力士を続けていれば大関昇進も期待できる逸材でした。
彼の引退には複数の理由が挙げられます。力道山は酔うと周囲に暴れることが多く、師匠である二所ノ関親方(玉ノ海梅吉)からはその素行に関して頻繁に叱責を受けていました。また、金銭問題を含む多くのトラブルを起こしており、これが引退の引き金となったと考えられています。特に、戦後の混乱期に相撲界全体が資金難に陥り、力道山自身も莫大な借金を抱えていたため、経済的な理由から相撲に見切りをつけたとも言われています。二所ノ関親方は慰留に努めましたが、「大関昇進の際にいくら祝儀を受け取れるか」という力道山の問いに答えられなかったことが、廃業の決定打となったとされます。
相撲界引退後、力道山は当初闇市の仲買人としてアメリカ軍関係者と取引し、物資を横流しする商売をしていました。その後、相撲界への復帰を申請しましたが却下され、元後援者である新田新作の建設会社で資材部長として働くことになります。新田は第二次世界大戦中に捕虜収容所でアメリカ人捕虜に食料などを密かに提供しており、その恩返しとして戦後のGHQによる復興事業において、新田の建設会社が優先的に契約を得ていました。また、新田は裏社会とも繋がりがあり、相撲界にも深く関わっていたとされます。これらの裏社会の人物は、地方巡業を組む際に事前に通知し許可を得なければ、興行が妨害される危険性があり、さらに興行収入から相当な割合を徴収していました。この慣習は、後のプロレス興行にも引き継がれることになります。
2.3.1. 力士時代の記録と統計
項目 | 詳細 |
---|---|
通算成績 | 135勝82敗15休 |
勝率 | .622 |
幕内戦歴 | 75勝54敗15休 |
幕内勝率 | .581 |
現役在位 | 23場所 |
幕内在位 | 11場所 |
三役在位 | 6場所(関脇3場所、小結3場所) |
三賞 | 1回(殊勲賞1回 - 1948年5月場所) |
金星 | 2個(東富士欽壹1個、照國萬藏1個) |
各段優勝 | 幕下優勝1回(1944年5月場所)、三段目優勝1回(1942年1月場所) |
場所 | 番付 | 成績 | 備考 |
---|---|---|---|
1940年 | |||
5月場所 | 前相撲 | 初土俵 | |
1941年 | |||
1月場所 | 東序ノ口20 | 5勝3敗 | |
5月場所 | 東序二段45 | 6勝2敗 | |
1942年 | |||
1月場所 | 東三段目51 | 8勝0敗 | 三段目優勝 |
5月場所 | 西幕下34 | 5勝3敗 | |
1943年 | |||
1月場所 | 東幕下21 | 5勝3敗 | |
5月場所 | 東幕下12 | 5勝3敗 | |
1944年 | |||
1月場所 | 西幕下13 | 3勝5敗 | |
5月場所 | 東幕下13 | 5勝0敗 | 幕下優勝 |
11月場所 | 西十両10 | 7勝3敗 | |
1945年 | |||
6月場所 | 東十両4 | 3勝4敗 | |
11月場所 | 西十両7 | 8勝2敗 | |
1946年 | |||
11月場所 | 東前頭17 | 9勝4敗 | 新入幕 |
1947年 | |||
6月場所 | 西前頭8 | 9勝1敗 | 優勝旗手、優勝決定戦敗退(対羽黒山) |
11月場所 | 西前頭3 | 6勝5敗 | |
1948年 | |||
5月場所 | 東前頭2 | 8勝3敗 | 殊勲賞、金星2個(東富士、照國) |
10月場所 | 東小結 | 6勝5敗 | |
1949年 | |||
1月場所 | 西小結 | 8勝5敗 | |
5月場所 | 西関脇 | 3勝12敗 | 肺臓ジストマ罹患 |
9月場所 | 東前頭2 | 8勝7敗 | |
1950年 | |||
1月場所 | 東小結 | 10勝5敗 | |
5月場所 | 西関脇 | 8勝7敗 | |
9月場所 | 西関脇 | 0勝0敗15休 | 廃業 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。
三賞:敢闘賞、殊勲賞、技能賞。その他:金星。
番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
2.3.2. 幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
東冨士欽一 | 2 | 5 | 五ツ海義男 | 2 | 1 | 因州山稔 | 2 | 0 | 大内山平吉 | 1 | 0 |
大熊宗清 | 2 | 0 | 大起男右エ門 | 3 | 1 | 鏡里喜代治 | 2 | 1 | 清美川梅之 | 1 | 0 |
九ヶ錦幸次郎 | 1 | 0 | 国登国生 | 1 | 1 | 高津山芳信 | 2 | 2 | 相模川佶延 | 1 | 0 |
櫻錦利一 | 4 | 3 | 汐ノ海運右エ門 | 4 | 2 | 清水川光男 | 1 | 1 | 信州山由金 | 2 | 0 |
千代ノ山雅信 | 3 | 5 | 常ノ山勝正 | 1 | 0 | 照國萬藏 | 1 | 4 | 輝昇勝彦 | 2 (1) | 0 |
出羽錦忠雄 | 3 | 1 | 栃錦清隆 | 2 | 2 | 羽黒山政司 | 1 | 2 * | 羽嶋山昌乃武 | 4 | 2 |
備州山大八郎 | 3 | 2 | 広瀬川惣吉 | 4 | 0 | 不動岩三男 | 0 | 1 | 前田山英五郎 | 3 (3) | 2 |
増位山大志郎 | 2 | 5 | 三根山耕司 | 3 | 3 | 陸奥ノ里敏男 | 1 | 0 | 八方山計 | 0 | 2 |
吉葉山潤之輔 | 3 | 4 | 若瀬川泰二 | 5 | 1 |
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝の数。
- 他に優勝決定戦で、羽黒山に1敗があります。
2.3.3. 四股名変遷
- 力道山 信洛(りきどうざん のぶらく):1940年5月場所 - 1942年1月場所
- 力道山 光吉(りきどうざん みつよし):1942年5月場所 - 1944年5月場所
- 力道山 光浩(りきどうざん みつひろ):1944年11月場所 - 1950年9月場所
3. プロレスラーとしてのキャリア
力道山がプロレスに転向し、日本の国民的英雄として台頭する過程を詳細に記述します。
3.1. プロレスへの転身
相撲を廃業した後、力道山は二所ノ関部屋の後援者である新田新作が社長を務める新田建設で資材部長として勤務していました。建築現場の監督を務めていた際に、ナイトクラブでの喧嘩をきっかけにハワイ出身の日系人プロレスラー、ハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い、意気投合しました。1951年9月30日からは、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュラインズ」が、連合国軍への慰問と障害者のためのチャリティーを兼ねてプロレス興行を日本で開催しており、ハロルド坂田もその一員でした。力道山は坂田の勧めもあって練習を見学に行き、プロレスへの転向を決意。港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになりました。
1952年2月、力道山はさらなるトレーニングと経験を積むためアメリカへと渡りました。ハワイのホノルルでは、日系人レスラーである沖識名の指導を受け、猛特訓を積みました。このハワイの興行テリトリーはプロモーターのアル・カラシックが支配しており、力道山のハワイ入りや日米交流はカラシックの承認のもとで行われました。カラシックは当時のプロモーターのカルテル「書かれない法律(Inwritten law)」と呼ばれたNWAの一員であり、後に力道山がルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦する際も、NWAに加盟していなかった日本プロレスがテーズを招聘しタイトルマッチを組むことができたのは、カラシックのルートがあったためでした。なお、ハワイでの修行中にルー・テーズに挑みましたが、バックドロップを受けて敗れています。
3.2. スターダムへの台頭と国民的英雄

翌1953年、力道山は帰国し、新田新作と興行師永田貞雄の協力を得て日本プロレスを設立しました。1954年2月には、シャープ兄弟を招聘して全国14連戦の初興行を開催。1953年にテレビ放送が始まった追い風もあり、プロレスは全国的な大ブームを巻き起こしました。この興行でシャープ兄弟組と戦う力道山のタッグパートナーは、戦前戦中に「日本柔道史上最強」と謳われた木村政彦でした。しかし、木村は相手の技を受けるなどプロレス特有のスタイルに馴染めず、シャープ兄弟との試合では常に負け役を担うことになりました。力道山が空手チョップで木村を救い出し、相手レスラーを倒すという一連の展開に木村は不満を募らせ、力道山との間に亀裂が生じました。
後に木村は力道山と袂を分かち、自身の団体で興行を打ちましたが、観客動員は伸びず、金銭的に窮地に陥りました。木村は朝日新聞記者に対し、「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と挑戦を表明しました。この一連の出来事が「昭和の巌流島」と称される謎の試合へと繋がりました。
1954年12月22日、プロレス日本ヘビー級王座の決定戦として、力道山と木村政彦の試合が行われました。この試合は、力道山側有利なルール(レフェリーのハロルド登喜の選定、木村側のみ当身禁止)で行われました。しかし、木村側の証言によれば、この試合は本来、勝敗が決まったプロレスであり、東京を皮切りに全国各地で両者が交互に勝敗を繰り返しながら巡業する予定でした。ところが、初戦で木村の金的蹴りに激怒した力道山が突如として殴りかかり、そのまま張り手と執拗な蹴りの連打で、戸惑う木村政彦を一方的にKOしました。倒れた木村は大量の血を吐き、マットには大きな血だまりができたと言われています。この通常のプロレスとは異なる結末に観客も驚き、会場は静まり返りました。力道山が激怒したとされる金的蹴りについては、スポーツ紙によっては力道山が木村の胴に右足裏での飛び蹴りを浴びせたことが発端とする報道もあり、鮮明な映像がない当時の記録では、事の詳細は不明です。後日、力道山は試合前に木村が渡したとされる「1試合目は引き分け」と書かれた念書をマスコミに公開し、この試合がいわゆる八百長崩れであったと証言しました。後年、力道山と木村は仲介人を得て和解しましたが、この試合の舞台裏については謎が多く、現在でも様々な憶測や意見が交わされ、この試合をモチーフにした小説やエッセーが存在します。近年では、増田俊也によるノンフィクション『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が木村視点での綿密な取材を行い、大きな話題となりました。
第二次世界大戦後、日本国民は自信を失い、アメリカに立ち向かえるような国内の英雄を求めていました。力道山はまさにそのような存在となり、外国人レスラー、特にアメリカ人選手を次々と破ることで、日本の国民的士気を高め、絶大な人気を博しました。彼の試合はテレビで放映され、テレビの普及にも大きく貢献しました。NHKのテレビ番組「50年間のテレビ」によれば、力道山の試合は日本で最も視聴されたテレビ番組トップ10のうち2つを占めています。1957年10月6日のルー・テーズとのNWA世界ヘビー級選手権試合(1時間引き分け)は視聴率87.0%を記録し、1963年5月24日のザ・デストロイヤーとのWWA世界ヘビー級選手権試合(1時間2本先取引き分け)は67.0%を記録しましたが、テレビの普及率が高まっていたため、この試合の視聴者数は過去最高となりました。
3.3. 主要な試合と選手権
1955年、力道山はキングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得しました。この時期には、後援者であった新田による日本プロレスの実質的な支配を目論む動きなど、いくつかの危機に直面しました。特に厳しかったのは、第一次プロレスブームの終焉でした。1957年頃には観客動員が低迷し、地方巡業では未払い金も発生していました。
そのような状況下、1958年8月27日、ロサンゼルスでルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得しました。これにより、下火になりかけていたプロレスブームは一気に再燃しました。テーズは力道山を「put over」(引き立て役)として、自身の評判を犠牲にして勝利を譲ることに同意したことで、両者の間には相互の敬意が生まれ、力道山はテーズのこの行為を決して忘れることはありませんでした。力道山はその後も、日本国内外の試合でNWAのいくつかのタイトルを獲得しました。
1959年には第1回ワールド大リーグ戦を開催し優勝。その後1963年まで5年連続優勝を達成しました。1962年にはフレッド・ブラッシーが保持するNAWA世界王座に挑戦し、一時的に奪取と見なされましたが、その後、クレームがつき保留となりました。最終的に、新たに初代WWA世界ヘビー級王者として「追認」されました(WWAはNWAから分裂した団体です)。力道山はテーズやパット・オコーナー、ビル・ミラーのようなストロングスタイル系の選手だけでなく、ブラッシーやジェス・オルテガのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しましたが、後者の方がより相性が良かったようです。
1963年1月には韓国側の招きで韓国を訪問し、金浦国際空港で約60人の体育協会・レスリング関係者に出迎えられました。記者会見で「20年ぶりに母国を訪問でき感無量です。長い間日本語ばかり使っているので、韓国語はさっぱり...」と語り、最後に「カムサ・ハムニダ(ありがとう)」と付け加えました。この模様を『東京中日新聞』が「力道山、二十年ぶりに母国へ」の見出しと写真入りで掲載したところ、これまで自身の出自を隠し続けていた力道山は、帰国後これを知り同新聞に激怒したとされています。
1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権、ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率64.0%を記録し、今日においても歴代視聴率4位にランクされています。この試合では、「四の字固め」を完璧に決められた力道山がギブアップすることなく戦い続けましたが、決着がつかず、レフェリーによって両者試合続行不可能と判断され、引き分けとされました。試合後、自力では絡み合った足を解けぬ両者のリング・シューズの紐を若手レスラーがハサミで切って引き離したと伝わっています。
後述の事件のため、結果的に同年12月7日に浜松市体育館で行われた力道山、グレート東郷、吉村道明組対デストロイヤー、バディ・オースチン、イリオ・デ・パウロ組の試合が生前最後の試合となりました。
3.4. 弟子たちの育成
力道山は、アントニオ猪木、ジャイアント馬場、大木金太郎(김일キム・イル韓国語)といった、日本のプロレス界を牽引することになる著名なレスラーたちを育成しました。彼らは後に「日プロ若手四天王」として、マンモス鈴木と共に名を連ねることになります。
力道山の弟子への指導は非常に厳しく、時には理不尽ともとれるものでした。プロ野球出身で知名度もあり、肉体的に恵まれていた馬場は、デビュー当初から即戦力のスター候補として優遇されていましたが、トレーニングにおいては弱音を吐けば我慢を強要するなど、厳しい「しごき」を受けていました。一方、猪木への対応はさらに冷酷で、靴べらで顔を殴ったり、飼い犬を番犬として教育する際の実験台にしたり、少年の猪木に一升瓶の日本酒を一気飲みさせたり、意味もなくゴルフクラブをフルスイングして側頭部を殴打したり、灰皿を投げつけたりするなどの行為があったと、猪木自身や当時のスポーツ紙記者が証言しています。猪木は後年、当時は本気で殺意を覚えたこともあったと語っています。
一方で、力道山の妻である田中敬子は、猪木について「すぐ主人に呼ばれるタイプ。弟子というか自分の息子みたいにかわいがっていました」「主人が自宅に呼んでいた若手選手は、猪木さんだけ」「部屋に猪木さんを呼ぶと肩を揉ませていたんですが、その時にプロレス以外の事業、仕事の打ち合わせをしたり書類を読んだりしていて、インタビューも猪木さんがいる前で何度も受けていましたね」と証言しており、力道山が猪木にだけわざと事業家としての側面を見せていたことを明らかにしています。理不尽な暴力についても、自身の息子に対する教育もスパルタであったことから、「息子と同じように思っていたから、指導が厳しくなってしまった側面もあるのだろう」と愛情の裏返しであったと語っています。事実、猪木も「オヤジ(力道山)には様々な思いがあったし、自分とは性格が全然違うが商売は上手かった」と実業家としての力道山を高く評価していました。
弟子の中で力道山が本心から最も可愛がっていたのは、同じ朝鮮半島出身の大木金太郎であり、彼を「ヒョンニム」(형님兄貴韓国語)と呼んで慕っていたとも言われています。また、プロレスラーとして一番期待していたのはマンモス鈴木でした。
力道山はトレーニングに関して、ベンチプレスと腹筋、ヒンズースクワットの3つが基本と考えていました。また、筋肉を大きくしたい部位があるという弟子の希望を聞けば、一定期間中ずっと特定の部位のみを鍛えるように命じていました。日本プロレスのボディビル練習生としてトレーニングを開始した新間寿は、胸と腕の筋肉を大きくしたかったところ、力道山から「3ヵ月間、オマエはベンチプレスだけをやれ」と命じられ、当初40 kgも上がらなかったウエイトが55 kgまで上がるようになったと語っています。一方で、体を大きくするための手法の一つとして相撲の稽古が有効だと考えていた節もあり、刺傷事件の当日には、猪木を当時の高砂部屋に一時的に入門させる話までまとまっていましたが、力道山の死去によりその話は消滅しました。
3.5. 得意技
力道山は、その独特のスタイルで観客を魅了し、多くの得意技を持っていました。
- 空手チョップ(空手打ち)
- 力道山の代名詞ともいえる絶対的なフィニッシュ・ホールドです。実際には相撲の張り手が元になっており、空手家中村日出夫から指導を受けたとも言われています(大山倍達が教えたという噂もあります)。相手の頚動脈や鎖骨あたりを狙って放つ「袈裟斬りチョップ」や、水平の軌道で腕を横に振って相手の胸板に叩きつける「水平チョップ」「逆水平チョップ」を使い分けていました。キャリア初期は水平打ちを主に使用していましたが、後年は袈裟斬りを得意技としました。
- ヘッドシザーズ・ホイップ
- ジャンプして両足で相手の頭部を挟み込み、その勢いで体を旋回させながら相手を投げ飛ばす技です。ずんぐりとした体型にもかかわらず、力道山は身軽さと跳躍力があり、この技を器用にこなしていました。
- 張り手
- 相撲時代からの得意技で、プロレスにおいても強力な武器となりました。木村政彦との試合でこの張り手を乱打し、相手の戦意を喪失させたことで知られています。
- バックドロップ
- ルー・テーズの絶対的なフィニッシュ・ホールドであり、力道山はテーズとの対戦でこの技を食らい、後にテーズから伝授されて自身の技としました。キャリア後期には、空手チョップと並ぶ主要なフィニッシュ・ホールドとなりました。
- 逆エビ固め
- 若手や格下の相手に対しては、この技をフィニッシュ技として使用することも多々ありました。
- 掬い投げ
- 相撲の投げ技で、プロレスにおいては繋ぎ技として多用されました。
- ヘッドロック
- 相撲時代に鍛え上げられた腕力(かいなぢから)を活かしたヘッドロックは、その威力に定評がありました。
- ボディスラム
- ボディ・プレス
4. 事業活動
レスリング以外に彼が関わった多様な事業活動について説明します。
4.1. 不動産・娯楽事業
壁面に力道山のイニシャル「R」が描かれている。2021年7月時点で現存。
プロレスでの成功を背景に、力道山は実業家としても活動を開始し、数々の不動産や事業を獲得しました。赤坂には、自身の住居を兼ねた高級アパート「リキ・アパート」、ナイトクラブ「クラブ・リキ」、そしてマンションの先駆けともいえる高級賃貸住宅「リキマンション」を建設しました。1973年に死去した俳優の大辻伺郎も晩年にはこのリキマンションに住んでいました。
渋谷には、地上9階建てのプロレス常設会場「リキ・スポーツパレス」(リキ・パレス)を建設しました。この複合施設内には、「リキトルコ」(本格的なトルコ風スチームバス)、ビリヤード場、ボウリング場、そして「リキレストラン」が併設されていました。また、ボクシングジムの経営にも進出しました。
4.2. その他の事業計画
力道山は死の少し前、神奈川県相模湖畔(現在の相模原市緑区)に大規模なゴルフ場「レークサイド・カントリークラブ」の建設に着手していました。この計画には、自動車レース場、射撃場、室内スケートリンク、モーテルなどのレジャー施設も併設される予定でした。広大な土地を購入し、会員権も販売、一部工事も開始されていましたが、彼の突然の死により未完に終わりました。跡地は売却され、現在はさがみ湖MORI MORI(旧称:さがみ湖ピクニックランド→さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト)となっています。さらに、三浦半島の油壺にも土地を購入し、家族で楽しめるマリンリゾートの建設を計画していました。
これらの事業は、力道山のワンマン経営に大きく依存しており、弟子たちのセカンドキャリアを考え、再就職先を用意するという意図も含まれていました。しかし、トップの不慮の死により、関連企業の経営は深刻な混乱に陥りました。リキ・パレス内にあったボクシングジムは力道山の死後自然消滅し、ボウリング場も「ボウリング・ブーム」の到来により競合施設が相次ぐ中で、旧式の設備では追いつかず経営不振に陥りました。リキ・レストランも力道山が死去したことで高級レストランとしての付加価値を失い、リキ・パレス自体が客足が遠のき経営が傾きました。このため、リキ・パレスは融資先の西山興業により担保に取られ、1967年には近畿観光に5.00 億 JPYで売却されました。このリキ・パレス売却問題は、日本プロレスによるリキ・パレス買い取りを主張する吉原功と、これに反対する遠藤幸吉ら日本プロレス経営陣の対立に発展し、遠藤らが吉原が資金を集めて日本プロレスそのものを乗っ取ろうとしていると吹聴して妨害しました。これに激怒した吉原は単身日本プロレスを退職し、後の国際プロレス旗揚げに繋がる契機となりました。
力道山の次男である百田光雄によれば、力道山は死去した時に多くの不動産資産を所有していた一方で、多額の債務も抱えていたといいます。相続税は当時の貨幣価値で「20何億もの税額」であったとされ、力道山の個人遺産はほとんど国に召し上げられたといいます。2000.00 万 JPY(約18.00 万 USD)もの相続税が課せられたのは、彼が数百万円の未払い税金を抱えていたためで、これは2023年時点で9690.00 万 JPY(66.50 万 USD)に相当します。当時の大学初任給が1.50 万 JPYの時代、昭和30年代半ばには力道山の財政は火の車で、4.50 億 JPYの借金を抱えていたこともありました。3人目の妻は、力道山が家に1日1000 JPYしか入れないと記者に暴露し、多くの人を驚かせました。力道山が常に金欠であったのは、超円安時代であった当時、アメリカから一流外国人選手を次々と招聘したため、会場が満員になっても利益が少なかったことに加え、見栄を張って高級外車や寄付に惜しみなく金を使い、さらに、関西や九州の暴力団から興行収入をピンハネされていたことも財政難に繋がりました。また、ジャイアント馬場との間にも、馬場がアメリカで稼いだファイトマネーを巡る金銭トラブルがあり、さらに力道山は馬場が活躍するにつれてその才能に嫉妬し、マスコミを通じて馬場を中傷するようになったとも言われています。これらのトラブルが理由で、馬場は後に力道山のことを「人間として、何一つ良い所のない人でしたね」と語り、特別扱いを受けながらも辟易していた心中を吐露しています。事業に金を使いすぎたため、晩年は手持ちの金がある方の日でも1.00 万 JPY札が財布に1枚しか入っていない日があり、財布を見た記者は驚いたと伝えられています。
5. 私生活と人柄
力道山の私生活、人間関係、そして大衆的な人物としての側面を探求します。
5.1. 結婚と家族生活
力道山は生涯で4人の女性と婚姻関係にあったとされています。最初の妻は朝鮮半島時代に結婚した朴信峰で、彼女との間に娘の朴英淑がいます。二人目は京都の芸妓で、百田兄弟(義浩、光雄)の生母。三人目は日本橋の芸者で、百田兄弟の育ての親。そして最後の妻は、元日本航空の客室乗務員であった田中敬子です。田中敬子との婚姻関係は力道山の没後10か月で終わりました。力道山は最後の妻である田中敬子に深く惚れ込んでいたとされ、結婚に際して当時数多くあった女性関係を全て清算したと言われています。1984年に『週刊プレイボーイ』が、当時タブー視されていた力道山の朝鮮民族出自問題を「もうひとつの力道山物語」として報じ、彼が15歳で来日する時、既に結婚し子供もいたことを明らかにしました。
力道山には息子が3人、娘が2人いました。長男の百田義浩と次男の百田光雄は、いずれもプロレスラー(義浩はリングアナウンサーから転身)となり、全日本プロレスでは役員を務めるなど、後年のプロレス界で重鎮となっています。彼らは父の死後に、彼が朝鮮人であることを知ったと言われています。百田光雄の息子(力道山の孫)である百田力もプロレスラーとしてデビューしています。また、田中敬子が力道山の死の直後に出産した娘の息子(力道山の外孫)は、慶應高校で高校野球選手として活躍した田村圭です。
力道山の娘である朴英淑(朴信峰との間に生まれた娘)の夫である朴明哲(박명철パク・ミョンチョル韓国語)は、2009年頃から朝鮮民主主義人民共和国国防委員会の参事となり、その後体育相を務めています。朴明哲の妹である朴明善は、朝鮮労働党軽工業部副部長を務めており、力道山ファミリーが北朝鮮で重用されていることが報じられました。
5.2. 性格と論争
力道山は粗暴な性格で、感情の起伏が激しい人物でした。機嫌が良い時には、ボーイに1.00 万 JPY札(当時の大卒公務員の一か月分の給与に相当する高額)のチップを渡すこともありましたが、機嫌が悪い時には飲食店での暴力沙汰が日常茶飯事であり、その度に金銭で表沙汰になるのを防いでいました。1957年10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊には「力道山また暴れる」と報じられたこともありました。彼はまた、タブロイドや雑誌で頻繁に報じられる有名人でもありました。
張本勲によれば、力道山は酒を飲むと暴れ、大きな手で木やガラスのテーブルを叩き割ったり、薄いガラスのコップを「美味しい」と言って食べたりすることもあったといいます。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激高しやすい性格が一因であるだけでなく、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤や鎮痛剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出掛けてトラブルを引き起こしたという証言もあります。また、リングで殴り合っても、その後の飲み会で対戦相手と仲良く飲んでいる姿が頻繁に見られたことから、プロレスが八百長ではないかと疑われる要因が強まったとも言われています。
阪急ブレーブスに在籍していたロベルト・バルボンは、テレビで力道山の試合を見て、チームメイトから「こういう素晴らしい試合のことを日本では八百長と言うんだ」と嘘の知識を教えられました。バルボンは報道陣の前で「リキ、八百長」と口走ってしまい、後日、これを伝え聞いた力道山本人が怒鳴り込んできたため、バルボンは謝罪し、事の顛末を聞いた力道山はバルボンと和解しました。金田正一とは友人関係にあり、プロ野球選手の森徹とは義兄弟の盃を交わしていました。森の母が戦時中に満州で料亭を経営しており、力士時代の力道山が慰問団として満州巡業に訪れた際に知り合い、戦後も交流が続きました。力道山は昔の恩義を感じ、森徹を実の弟のように可愛がったといいます。後に力道山の妻となる田中敬子を引き合わせたのも森の母でした。力道山が入院した際も、森徹はほぼ毎日病院に見舞いに訪れていましたが、力道山の死の当日、狩猟のため伊豆にいた徹は、母から危篤の連絡を受け、マイカーを飛ばして病院に駆けつけましたが、その途中でラジオの訃報を聞き、臨終には間に合いませんでした。
力道山は酒に酔って暴れることを新聞や週刊誌に頻繁に報じられましたが、安藤昇の自伝によると、実際は下戸であり、これらの報道は「力道山は酒に強い」というイメージを与えるためのパフォーマンスに過ぎなかったとも言われています。晩年には大野伴睦(自由民主党副総裁、日本プロレスコミッショナー、力道山の相談役)から禁酒を命じられていました。しかし、刺傷事件の当日は、高砂親方(前田山)がロサンゼルス巡業への協力を求めて朝から力道山の家を訪れ頭を下げた日であったため、上機嫌になって特別に酒を飲んでいました。また、自身の自伝には妻に常に拳銃を携帯させていたと記されています。
教養度は高かったと言われています。井上ひさしは『私家版日本語文法』の中で、力道山が1952年に書いた直筆の葉書を取り上げ、漢字の使用が豊富かつ正確で文法も正確であること、そして句読点がほとんど使われていないにもかかわらず文意が極めて明確であることを指摘しています。力道山の葬儀が行われた池上本門寺は、日本プロレスを支えた児玉誉士夫や大映社長の永田雅一が総代、大野伴睦も檀家であったことから、その縁もあって行われました。
5.3. トラブル
力士時代、力道山はカツオ遠洋漁船「力道山丸」(40 t)の共同船主になっていましたが、1949年に250.00 万 JPYの保険をかけた力道山丸が火災となり、保険金詐欺疑惑が取り沙汰されました。1950年6月、力道山は高知警察署で事情聴取を受け、保険契約は他の船主に利用されたものだと弁明しました。逮捕状まで出る騒ぎとなりましたが、最終的に船を売却した相手の自作自演と認定され、彼は無罪となりました。しかし、逮捕状騒動の後には進駐軍の関係者と親交を深め、アロハシャツとオートバイで場所入りするなど、アメリカかぶれとなったため、角界関係者からは眉を顰められ、保険金詐欺の嫌疑が晴れたにもかかわらずイメージで損しました。結局、この騒動による周囲の偏見も廃業を決める一因となったとされています。
プロレスラーに転向後も、その粗暴な性格のため、多数のトラブルを引き起こしています。例えば、山口組ともめて監禁寸前になったり、安藤組に対して誠実な対応を取らなかったため付け回されて家に帰れなくなったり、フィリピンマフィアの顔役を橋から川に投げ込んで揉めたりするなど、当時のプロレス興行が暴力団と密接な関係にあるにもかかわらず、配慮に欠けた行動を繰り返したため、命を狙われることも少なくありませんでした。相手が暴力団とはいえ、これらのトラブルの中には、力道山がもう少し慎重に対応していれば防げたものも多数あったと言われています。当時の日本では暴対法のような暴力団に毅然とした態度で臨む法整備も不十分であり、また太平洋戦争終結からまだ10年程度しか経過していなかったため、戦後の混乱に乗じて暴力団が日本の表社会にも浸透し、その影響力を表社会にも堂々と行使できる世情であったことも背景にあります。
5.4. 趣味
力道山の趣味は狩猟などがありました。彼は合法的な猟銃を複数所持していたとされています。また、一時期将棋に興味を持った時期があり、プロ棋士の剱持松二らと親交がありました。剱持からはアマチュア三段の免状を授与されていますが、実際は「ほとんど指していなかった」とのことで、実力がどの程度だったかは不明です。
自身の強靭な肉体に対する過信があったことは事実で、客人の前でジャイアント馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、アントニオ猪木を走行中の自動車から突き落としたりして、「強靭な肉体があるからプロレスラーはケロっとしている」というアピールを好んで行いました。試合中にアキレス腱が切れたこともありましたが、気にすることなくそのまま試合を続けたといいます。また、相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露したとされています。
彼は、大きいイメージを持たせるため、実際より4 cm身長をサバ読みしていました。これにより、彼が活躍した世代のレスラーは、概ね4 cm程度の身長をサバ読みしていることが多いです。
6. 死

力道山の死に至る経緯と、その後の状況を詳細に説明します。
6.1. 刺傷事件
1963年12月8日午後10時30分、力道山は遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員である村田勝志と口論になりました。力道山は村田に足を踏まれたと主張し、謝罪を求めました。村田は踏んだ覚えはないと反論し、口論はエスカレートしました。村田が「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放ち、懐中に手をやったため、力道山は刃物を取り出すのではないかと思い、「わかった。仲直りしよう」と提案しました。しかし、村田は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。和解を諦めた力道山は村田の顎を拳で突き飛ばし、壁に激突した村田は顎がガクガクになりました。さらに力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打したため、村田は「殺される」と思い、登山ナイフを抜いて下から力道山の左下腹部を刺しました。ナイフの刃は根元まで刺さったものの、出血は衣服の上に染み出ていなかったといいます。両者すぐにその場を離れ、力道山は知己の院長がいる山王病院に搬送されました。
6.2. 医学的合併症と逝去
山王病院で応急手当を受けた力道山は、その日のうちに帰宅しました。その後、村田の所属団体の長である小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を謝罪に訪問。「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「うん、うん、わかったよ」と声を絞り出すように言ったとされています。
しかし、容態が悪化したため翌9日未明に山王病院の501号室に入院。聖路加病院から外科医長を招き精密検査を行った結果、小腸が4か所切れていることが判明し、同日早朝に十数針を縫合する手術を受け、成功しました。この時点で全治2週間と診断されました。山王病院は産科婦人科が中心の病院でしたが、力道山がここを選んだのは、院長がタニマチであったこともあり、この暴力沙汰の顛末が表沙汰にならないようにするためだったとされます。側近たちは、同じ赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めましたが、力道山は嫌がったといいます。
術後の経過は順調であったとされていますが、受傷から7日目となる12月15日、腹膜炎による腸閉塞を起こしていたため、午後2時30分に再手術を行いました。力道山はストレッチャーに乗せられ手術室に向かう際、妻の敬子に対し「どんなに金がかかってもいい。どんな薬を使ってもいい。最善の治療を頼むと先生に伝えておいてくれ。俺はまだ死にたくない」と言い残したとされています。この手術も成功したと報告されており、敬子は医師の勧めで一旦自宅に戻りましたが、力道山はその後再び目覚めることなく昏睡状態が続き、午後9時頃に医師の知らせを受けて敬子が病院に駆けつけた時には、既に危篤状態であったとされています。手術から約6時間後の午後9時50分頃、力道山の死亡が確認されました。看取った敬子は夫の死の現実を認識し、その場で気を失ったとされています。なお、臨終の際に力道山が「三本の指を差し出した」という俗説が当時から伝わっていましたが、吉村義雄やミツ・ヒライらの後年の関係者の証言で虚構とされています。

力道山の遺体は翌16日午後に慶應大学病院の法医学教室に移されて司法解剖が行われました。慶應病院には付き人の田中と山本小鉄が同行して遺体に付き添いました。死因は正式には穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎とされています。腸閉塞を起こした理由として、執刀医は「(最初の手術の際に)腹部内に200~300ccの血液が流れ込み、腸内の内容物が溢れたことや、錆びたナイフで刺された際に入り込んだ細菌を完全に殺菌しきれなかった」事が要因と、力道山の死亡時に発表しています。
死因には異論が提唱されていました。手術の際、麻酔を担当した外科医が、筋弛緩剤を注射した後に気管チューブの気管挿管を失敗し、窒息したという医療過誤のためという説がかつて存在しました。2003年には、力道山の妻である田中敬子が医療過誤が死因であると公式に発表しました。しかし、2019年にこの医療過誤説を否定する報告が出されました。気管挿管失敗は力道山の死から30年後に発刊された書籍での「現場に居た医学生からの伝聞」とされていましたが、当時市中病院で医学生が麻酔に関わった可能性はなく、手術も麻酔も熟練した医師によって行われていたことが判明しています。また、死亡当時の証言や記録にも気管挿管に関する記載が残っていないことから、医療過誤の可能性は低く、死因は当初発表通りの穿孔性化膿性腹膜炎からの敗血症性ショックが妥当とされています。また、付け人であったミツ・ヒライによれば、刺される直前のオフにゴルフ場でプレイした際に、力道山が胸を押さえてうずくまる姿を目撃し、力道山から「誰にも言うな」と口止めされたと後年述懐しており、先の司法解剖でも内臓の状態が極めて悪かったことも明らかになっています。
6.3. 葬儀とその後

力道山の葬儀は1963年12月20日、東京都大田区の池上本門寺で執り行われました。彼の弟子であるアントニオ猪木、ジャイアント馬場、大木金太郎をはじめ、キャリアを通じて対戦した様々なレスラー、さらに児玉誉士夫、正力松太郎、伴淳三郎、美空ひばりなど各界の著名人を含め、1万人以上が参列しました。戒名は「大光院力道日源居士」です。墓所は池上本門寺の他に、彼の「実家」とされる長崎県大村市の長安寺にも分骨されています。
力道山を刺した村田勝志は、犯行の当夜、彼が所属する大日本興業の上部団体である住吉一家と対立関係にあり、力道山とつながりの深い東声会の組員らにより暴行を受け、右目裂傷の重傷を負い入院していました。村田は1964年10月に致死罪で有罪となり、8年間服役し、1972年に釈放されました。釈放後、村田は毎年12月15日(力道山の命日)には力道山の墓参りを欠かさず、力道山の息子たちにも毎年電話で謝罪を続けていました。また、釈放後には高位のヤクザとなりました。村田は2013年4月9日、満74歳で糖尿病により東京都内の病院で病死しました。
7. 遺産と評価
力道山は、戦後日本の社会、文化、そしてプロレス界に計り知れない影響を与えました。彼のレガシーは多岐にわたり、様々な形で評価されています。
7.1. 日本社会と文化への影響
力道山は、第二次世界大戦で敗戦国となった日本において、国民の士気を高める象徴的な存在となりました。彼は外国人レスラーを次々と倒す姿を通じて、日本人にある種の愛国的な感情と活力を与えました。特に、テレビの普及に大きく貢献したことは特筆に値します。「内閣総理大臣の名前は知らなくても、力道山の名前を知らない者はいない」とまで言われ、彼の試合が放映される時間帯には「街頭テレビ」に人々が群がり、テレビの購入を促進しました。
力道山の人気は絶大で、1959年5月24日には当時の岸信介首相が岐阜駅に到着した際、遊説中に大勢の聴衆が駅のホームに降り立つ力道山を見かけるや否や、皆そちらへ流出してしまったという逸話が残っています。彼のバックには東声会などの暴力団がついており、力道山のプロレス興行はこれらの組織に莫大な富をもたらしたとも言われています(ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』など)。
1963年12月15日に力道山が死去した日には、落語家四代目鈴々舎馬風も死去しましたが、スポーツ紙の一面が力道山の死で埋め尽くされたため、馬風の訃報はベタ記事扱いとなりました。しかし、そのことをマクラ(いわゆる導入のネタ)にした噺家はいなかったといいます。プロレス時代は「日本で天皇の次に有名な人物」という評価まで下されました。国民的な知名度と政界との繋がりがあったにもかかわらず、力道山が政界進出を希望していたと明確に聞いた者は存在しませんでした。
7.2. プロレスリングへの貢献
力道山は、その素行面で多くの問題を抱えていた一方で、プロレスラーとしては比類のないスター性とカリスマ性を備えており、日本のプロレス界の礎を築いた最大の功労者であることは間違いありません。彼は日本プロレスを設立し、プロレスというジャンルを日本に確立しました。彼の指導の下、アントニオ猪木やジャイアント馬場といった後世のプロレス界を担う人材が育ち、日本プロレスの基礎を築きました。
7.3. 栄誉と受賞歴
力道山の功績は、日本だけでなく海外でも高く評価されています。
- 日本プロレスリング協会
- インターナショナル・ヘビー級王座(1回)
- NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版)(1回) - w / 遠藤幸吉
- WWA世界ヘビー級王座(ロサンゼルス版)(1回)
- 全アジアヘビー級王座(1回)
- 全アジアタッグ王座(4回) - w / 豊登
- 日本ヘビー級王座(1回)
- JWA全日本タッグ王座(1回) - w / 豊登
- ワールド大リーグ(5回)
- インターナショナル・プロレスリング殿堂
- 2021年殿堂入り
- メイプルリーフプロレスリング
- PWAチャンピオンズ・グラール(1回) - w / 豊登(1962年、2024年に復活)
- ミッドパシフィックプロモーションズ
- NWAハワイタッグチーム王座(3回) - w / ボビー・ブランズ(1回)、東富士(1回)、遠藤幸吉(1回)
- ナショナル・レスリング・アライアンス
- NWA殿堂(2011年殿堂入り)
- NWAサンフランシスコ
- NWAパシフィックコーストタッグチーム王座(サンフランシスコ版)(1回) - w / デニス・クラリー
- プロレスリング殿堂と博物館
- 2006年殿堂入り
- レスリング・オブザーバー・ニュースレター
- レスリング・オブザーバー・ニュースレター殿堂(1996年殿堂入り)
- WWE
- WWE殿堂(2017年レガシー部門殿堂入り) 力道山は、WWE殿堂において、在日コリアンとして初の、またアントニオ猪木、藤波辰爾に次いで3人目のプロレスラーとして殿堂入りしました。
2002年には、ジョン・モリナロによる雑誌記事「史上最高のレスラー100人」において、リック・フレアー、ルー・テーズに次ぐ史上3位のプロレスラーとして選出されています。
7.4. 批判と論争
力道山は、その生涯において多くの批判と論争に晒されてきました。粗暴な性格、私生活でのトラブル、そして暴力団組織との関与疑惑は、彼の国民的英雄としてのイメージとは裏腹な側面を浮き彫りにしています。
力士時代からその感情の起伏の激しさと粗暴な行動は周囲に知られており、引退の一因ともなりました。プロレスラー転向後も、酒に酔っての暴力沙汰は日常茶飯事であり、その都度金銭で解決されていました。晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤や鎮痛剤を服用し、試合後にそのまま飲み屋へ出かけてトラブルを引き起こしたという証言もあります。また、試合後にリングで殴り合った相手と仲良く酒を酌み交わす姿は、プロレスの八百長ではないかという疑惑を強める一因にもなりました。
彼の出自についても論争がありました。相撲時代には番付に「朝鮮出身」と明記されていた時期もありましたが、養子縁組後は「長崎県出身」と公称していました。力道山は生前、自身が朝鮮人であることをほとんど公にしていませんでした。しかし、試合中に白人レスラーに対して「この、朝鮮人野郎」と罵声を浴びせる口癖があったとされ、これは彼の内部に複雑な葛藤があったことを示唆しています。
実業家としての活動も、ワンマン経営に依存していたため、彼の死後には多くの関連企業が経営危機に陥りました。莫大な負債や、彼の個人的な浪費癖、そして興行収入が暴力団にピンハネされていた事実も、彼の財政状態を常に逼迫させていました。
さらに、彼の生涯を巡る数々のトラブル、特に暴力団との関与については、批判の対象となってきました。山口組との衝突で監禁寸前になったり、安藤組に対して誠実な対応を取らなかったために付け回されたり、フィリピンマフィアの顔役を橋から川に投げ込んだりするなど、当時のプロレス興行が暴力団と密接な関係にあったとはいえ、配慮に欠けた行動を繰り返したため、命を狙われることも少なくありませんでした。これらのトラブルの中には、力道山がもう少し慎重に対応していれば防げたものも多数あったとも指摘されています。
ジャイアント馬場との間にも、馬場がアメリカで稼いだファイトマネーにまつわる金銭トラブルがあり、さらに力道山は馬場が活躍するにつれてその才能に嫉妬し、マスコミを通じて馬場を中傷するようになったとも言われています。これらの金銭トラブルや嫉妬が理由で、馬場は後に力道山のことを「人間として、何一つ良い所のない人でしたね」と語り、特別扱いを受けながらも辟易していた心中を吐露しています。
8. 家族
力道山の直系および傍系の家族構成員に関する詳細な情報と、彼らの職業や北朝鮮との関連性を含みます。
- 妻:生涯で田中敬子を含め4人の女性と婚姻関係にあったとされます。朝鮮半島時代に結婚した朴信峰、京都の芸妓、日本橋の芸者、そして田中敬子(元日本航空客室乗務員)です。
- 息子:
- 百田義浩:長男。リングアナウンサーからプロレスラーへ転身。後に全日本プロレス役員を務めるなど、プロレス界の重鎮となりました。
- 百田光雄:次男。プロレスラーとして活動し、1989年には世界ジュニアヘビー級王座を獲得。2021年に73歳で引退しました。
- 孫:
- 百田力:百田光雄の息子。プロレスラーとして、祖父の死後50周年を記念する2013年12月16日にデビューしました。
- 田村圭:田中敬子と力道山の死後に生まれた娘の息子(外孫)。慶應高校に進学し、高校野球で活躍しました。
- 娘:
- 朴英淑:朝鮮半島時代に結婚した朴信峰との間に生まれた娘。
- 義理の息子:
- 朴明哲(박명철パク・ミョンチョル韓国語):朴英淑の夫。2009年頃から朝鮮民主主義人民共和国国防委員会の参事となり、その後体育相を務めています。
- 義理の妹:
- 朴明善:朴明哲の妹。朝鮮労働党軽工業部副部長を務めています。
力道山の息子たちは、父の死後に彼が朝鮮人であることを知ったと言われています。ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げした際には、田中敬子、百田義浩、百田光雄の百田家は揃って経営に参画し、馬場は百田家の「お墨付き」を得る形となりました。
9. ポピュラー文化
力道山は、人気絶頂期に映画スターとしても活躍しました。彼の生涯や活躍は、様々なメディアで題材とされ、現在まで語り継がれています。

9.1. 映画
力道山自身が出演した映画は29本にのぼります。
- 薔薇と拳銃(1953年、新生プロ)監督:志村敏夫、主演:鶴田浩二 ※映画デビュー作
- 力道山大いに怒る(1954年、伊勢プロ)
- 力道山の逆襲(1954年、伊勢プロ)
- 力道山の鉄腕巨人(1954年、新東宝)監督:並木鏡太郎、共演:松島トモ子
- お月様には悪いけど(1954年、日活)
- 力道山に挑む木村(1954年、伊勢プロ)
- 大学は出たけれど(1955年、松竹大船)監督:野村芳太郎
- 力道山対山口六段 打つ蹴る投げる!(1955年、伊勢プロ)
- 力道山 勝利の記録(1955年、伊勢プロ)
- やがて青空(1955年、東京映画)
- 力道山対キングコング(1955年、伊勢プロ)
- 続力道山対キングコング(1955年、伊勢プロ)
- 力道山対キングコング決勝戦(1955年、伊勢プロ)
- 力道山物語 怒濤の男(1955年、日活)監督:森永健次郎、共演:河津清三郎、美空ひばり
- 力道山、東富士・大暴れ(1955年、伊勢プロ)
- 続力道山、東富士・大暴れ(1955年、伊勢プロ)
- 力道山・オルテガ・最後の決戦(1955年、伊勢プロ)
- 力道山の世界征服(1956年、日活)
- 力道山空手チョップの嵐 東京大会(1956年、日活)
- 再び捲起す空手旋風 大阪大会(1956年、日活)
- 力道山・シャープ最後の決戦(1956年、日活)
- 力道山、鉄腕の勝利(1956年、日活)
- プロレス世界選手権 挑戦資格決定戦 力道山・タムライス「61分3本勝負」(1956年、日活)
- 力道山 男の魂(1956年、協同プロ)監督:内川清一郎、共演:宮城まり子、森繁久彌
- 力道・タムライス 最後の激闘(1956年、日活)
- 怒れ!力道山(1956年、東映東京)監督:小沢茂弘、共演:早川雪洲、杉狂児、益田喜頓。この映画には、国会議員に指示された鉄砲や日本刀で武装したヤクザとキャバレーで格闘して負傷するシーンがあり、力道山の実際の死に方に似ていると話題を呼びました。
- 純情部隊(1957年、東映東京)監督:マキノ雅弘、共演:星美智子、東千代之介
- 頭突きと空手チョップ(1957年、大映)
- ルー・テーズ対力道山 世界選手権争奪戦(1957年、相模映画)
- プロレス・ワールド・大リーグ戦 世紀の血闘(1959年、日本プロレス協会)
- 激闘(1959年、松竹大船)監督:岩城其美夫、共演:南原伸二、三上真一郎 ※生前最終作
9.2. テレビドラマ
- 力道山の夢(1955年10月16日、日本テレビ)脚本:青江舜二郎、共演:伊藤彰敏、伊東絹子 ※単発ドラマ
- チャンピオン太(1962年、NAC・フジテレビ)原作:梶原一騎 ※連続ドラマ
9.3. 力道山を題材とする作品
力道山を題材とした作品も数多く制作されています。
- 映画
- プロレスWリーグ 血ぬられた王者(1968年、東映)監督:野田幸男 ※ドキュメンタリー映画
- ザ・力道山(1983年)監督:高橋伴明、音楽:山下洋輔 ※ドキュメンタリー映画
- 力道山(2004年)日韓共同制作。ソル・ギョングが力道山を演じました。
- 北朝鮮でも力道山に関する作品が製作されています。
- テレビの記録映画
- アナザーストーリーズ 運命の分岐点・力道山の知られざる真実(NHK総合テレビ...2022年6月17日)
- MC:松嶋菜々子
- 証言者:田原総一朗、張本勲、徳光和夫、百田光男他
- アナザーストーリーズ 運命の分岐点・力道山の知られざる真実(NHK総合テレビ...2022年6月17日)
- 音楽
- ゆけ!!力道山 ー サザンオールスターズの34枚目シングル(1993年11月20日発売)、クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)のカップリング曲。力道山をテーマにした楽曲です。
- CM
- 小野薬品工業:1962年頃、滋養剤『リキホルモ』のイメージキャラクターを務めました。
- ロート製薬:1990年頃、『パンシロン』のCMに力道山が戦っているVTRが挿入されていました。
9.4. 著書
- 「空手チョップ世界を行く - 力道山自伝」ベースボール・マガジン社 1962年
10. 関連項目
- ゆけ!!力道山 ー サザンオールスターズの34枚目シングル(1993年11月20日発売)、クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)のカップリング曲。力道山をテーマにした楽曲。
- CR力道山
- 力道山(映画)
- 力道山OB会&プロレス
- 富士通ゼネラル - 力道山のスポンサーを前身である八欧電機→ゼネラルが務めた(シャープ兄弟のスポンサーはシャープの前身である早川電機)。
- 三菱電機 - 八欧電機との関係が切れた後のメインスポンサー。力道山の死後も日本プロレスとの関係は続いた。
- エディ・タウンゼント - 力道山に招請されて来日したボクシングトレーナー。
- 大野伴睦 - 自由民主党副総裁、日本プロレスリングコミッショナー。
- 押山保明 - 無声映画の監督、映画プロデューサーから日本プロレス宣伝部長に就任。
- 木村政彦 - 史上最強と称された柔道家。昭和の巌流島の決戦の際、力道山の裏切り=ブック破りの為にその栄光を汚された。
- 若ノ花勝治 - 力道山関取時代の付き人、弟弟子。
- 張本勲 - 同じ朝鮮出身ということで交友があった。
- 若木竹丸 - 力道山の肉体改造に多大な影響を与えた。
- 中村日出夫 - 同じ朝鮮人の彼を力道山は兄貴分として慕った。空手チョップはこの中村が伝授したとされる。
- 児玉誉士夫 - 日韓国交樹立の前段階として力道山に韓国訪問を要請した。
- 町井久之 - 韓国訪問は町井のコネクションを通じて行われた。
- 今里広記 - 有力な後援者。
- 長谷川町子 - 彼女の自伝によれば家出していた際の宿泊先で彼の死を新聞で知り、家出中に抱いていた心境の変化が起きたという(彼女にとってはターニングポイントだったらしい)。
- 伊集院浩 - 毎日新聞社運動部部長。力道山からボクシングジムの会長に推されて就任したものの力道山との確執から自殺。
- ロシアンモンキー - 力道山の物まねを取り入れたネタを行う芸人。
11. 外部リンク
- [http://www.jmdb.ne.jp/person/p0372750.htm 日本映画データベース: 力道山]
- [http://www.tvdrama-db.com/name/p/key-%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1 力道山 - テレビドラマデータベース]
- [http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3874 Sumo Reference: Rikidozan Mitsuhiro Rikishi Information]
- [https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Rikidozan Wikimedia Commons: Rikidozan]