1. 生涯と経歴
岡野雅行のサッカー選手としてのキャリアは、その幼少期からプロ入りに至るまでの独特な道のりに特徴づけられる。特に、高校時代に自らサッカー部を創設し、強豪チームへと育て上げた経験は、彼の不屈の精神とリーダーシップを示すエピソードとして知られる。
1.1. 幼少期と教育
岡野は神奈川県横浜市港北区に生まれ、横浜市立駒林小学校、横浜市立日吉台西中学校を卒業した。中学校卒業後、ブラジルへのサッカー留学を熱望したが、家族の反対に遭い、親戚の勧めにより島根県松江市の全寮制高校である松江日本大学高等学校(現:立正大学淞南高等学校)へ進学した。
当時、松江日本大学高等学校にはサッカー部が存在しなかったが、岡野は自ら発起人となり、一からサッカー部を創設した。当初はヤンキーと呼ばれる生徒たちが集まる部活動であったが、岡野の指導と努力により、チームは最終的に島根県で3位になるまでの強豪へと成長した。この高校時代の経験は、後にテレビ朝日の番組『激レアさんを連れてきた。』で紹介され、その実話に基づき竜星涼主演で『激アツ!! ヤンキーサッカー部』としてテレビドラマ化された。
1.2. 大学時代とプロ入り前
高校卒業後、岡野はスポーツ推薦により日本大学へ進学し、当時2部リーグに所属していたサッカー部に入部した。しかし、彼の推薦はサッカーによるものではなく、あくまで雑用専門部員としての入部であったため、洗濯係専任や寮の生活係としての日々を送り、大学にも満足に通えない生活を送っていた。
しかし、1年時の天皇杯予選で、当時のコーチであった長島裕明に抜擢されたことをきっかけに頭角を現し始める。それまでは前線へボールを供給するミッドフィールダー的なプレースタイルであったが、ある日、陸上部の選手とトレーニングを行った際、大きなバスケットシューズを履きながらも100m走で10.7秒を記録し、陸上部の選手を上回る俊足の持ち主であることが判明した。これ以降、彼はその俊足を活かしたプレースタイルへと変更していった。
この天皇杯予選では、後に鹿島アントラーズとなる前身チームの住友金属蹴球団と対戦し、ジーコとも相まみえている。試合は日大が前半3-0とリードするも、後半からジーコが投入された住友金属に逆転され、4-5で敗れた。夜は居酒屋でアルバイトをしながら練習に励み、1993年の天皇杯関東大会の筑波大学戦では、試合があるのを忘れて朝まで飲んでいたにもかかわらず、大岩剛、望月重良、藤田俊哉らを擁する強豪相手に5人抜きを含む2得点を挙げ、勝利に貢献した。この活躍により、Jリーグの6クラブ(鹿島、柏レイソル、ガンバ大阪、浦和レッズなど)からオファーが舞い込んだ。中でも浦和レッズが最も熱心であり、「大学を辞めてでも来てくれ」という熱意に動かされ、日本大学を3年で中退し、1994年に浦和レッズへ入団した。同期には山田暢久、岩瀬健、杉山弘一らがいる。
2. クラブキャリア
岡野雅行は、そのプロキャリアにおいて複数のクラブに在籍し、それぞれのチームで重要な役割を果たした。特に浦和レッドダイヤモンズでは、チームの黄金期を支える選手として活躍し、数々のタイトル獲得に貢献した。
2.1. 浦和レッズ
1994年、浦和レッズに加入した岡野は、1年目からJリーグで35試合に出場し、3得点を記録した。1996年には、PKも任されるなど、キャリアハイとなる11得点を挙げ、同年のJリーグベストイレブンと、この年から新設されたJリーグフェアプレー個人賞を受賞した。
1999年には、浦和レッズに在籍したままオランダのアヤックスの練習に参加し、同年6月に帰国した。
2001年シーズンは、当時のチッタ監督の信頼を得られず、J1リーグ第5節のFC東京戦以降はほとんどベンチ外となるなど、出場機会が減少した。
2.2. ヴィッセル神戸
2001年9月、岡野はヴィッセル神戸へ期限付き移籍した。その後、2002年12月にはヴィッセル神戸への完全移籍が発表され、2003年シーズンまで在籍した。
2.3. TSWペガサス
2008年シーズン終了後、浦和レッズを退団した岡野は、2009年2月に香港リーグ1部の天水圍飛馬(TSW PegasusTSWペガサス英語)へ移籍した。同年2月7日の香港リーグデビュー戦で初ゴールを記録した。同年6月、リーグのシーズン終了をもって天水圍飛馬を退団した。
2.4. ガイナーレ鳥取
2009年7月31日、岡野はJFLに所属するガイナーレ鳥取への移籍が発表された。鳥取では、2010年にJFLで優勝し、チームをJ2リーグ昇格に導く重要な役割を果たした。2013年シーズンを最後に現役を引退した。
3. 代表経歴
岡野雅行はサッカー日本代表として、数々の国際大会に出場し、特にFIFAワールドカップ初出場に導いたゴールデンゴールは、彼の代表キャリアにおける最も象徴的な瞬間として語り継がれている。
3.1. 出場大会
1995年1月に開催されたキング・ファハド・カップ(インターコンチネンタルカップ)の日本代表メンバーに選出されたが、同大会では試合出場はなかった。同年9月20日のパラグアイ代表戦で代表初出場を果たした。
1996年にはAFCアジアカップ1996に出場した。
1997年、1998 FIFAワールドカップ・アジア予選に参加したが、最終予選では出場機会がないままアジア第3代表決定戦のイラン代表戦を迎えた。この試合に延長戦の開始から出場し、ゴールデンゴールを決め、日本代表を初のワールドカップ本大会出場に導き、一躍時の人となった。この活躍を受けて、1998年1月には浦和レッズの筆頭株主である三菱自動車工業より、岡野本人が希望した車種であるパジェロエボリューションが贈呈された。
1998年には1998 FIFAワールドカップ日本代表に選出され、グループリーグ第2戦のクロアチア代表戦で後半16分から途中出場した。
1999年にはコパ・アメリカ1999に出場した。この大会が彼にとっての日本代表での最後の試合となった。
3.2. 代表でのゴール
岡野は日本代表として通算2得点を記録している。その中でも、1997年のワールドカップ予選での決勝ゴールは、日本サッカー史に残る重要な得点として記憶されている。
4. プレースタイルとニックネーム
岡野雅行のプレースタイルは、その驚異的なスピードに集約される。彼は「爆発的なスピード」と称される俊足で、長髪を振り乱しながらピッチを縦横無尽に駆け回る姿が特徴的であった。
足元の技術は拙いと評されることもあったが、その圧倒的なスピードは相手ディフェンダーにとって大きな脅威となり、多くのチャンスを生み出した。高校時代にバスケットシューズを履いて100m走を10.7秒で走ったというエピソードは、彼の天性の身体能力を物語っている。
こうしたプレースタイルと、そのワイルドな風貌から、「野人」(野人やじん日本語)という愛称で親しまれた。この愛称は、彼のプレースタイルだけでなく、その人柄やエネルギッシュなキャラクターをも表すものとして、広く浸透した。
5. 個人成績
岡野雅行のプロキャリアにおけるクラブ別および代表チームでの詳細な出場記録、得点記録を以下に示す。
5.1. クラブ別成績
クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | リーグカップ | アジア | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
浦和レッズ | 1994 | J1 | 35 | 3 | 3 | 0 | 2 | 0 | - | 40 | 3 | |
1995 | 44 | 5 | 3 | 0 | - | - | 47 | 5 | ||||
1996 | 30 | 11 | 3 | 2 | 13 | 2 | - | 46 | 15 | |||
1997 | 23 | 4 | 2 | 1 | 0 | 0 | - | 25 | 5 | |||
1998 | 34 | 7 | 2 | 1 | 0 | 0 | - | 36 | 8 | |||
1999 | 11 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | - | 15 | 0 | |||
2000 | J2 | 26 | 6 | 4 | 1 | 2 | 0 | - | 32 | 7 | ||
2001 | J1 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | 9 | 0 | ||
合計 | 211 | 36 | 17 | 5 | 22 | 2 | 0 | 0 | 250 | 43 | ||
ヴィッセル神戸 | 2001 | J1 | 11 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | - | 13 | 3 | |
2002 | 24 | 1 | 1 | 0 | 5 | 0 | - | 30 | 1 | |||
2003 | 23 | 0 | 2 | 0 | 6 | 1 | - | 31 | 1 | |||
合計 | 58 | 4 | 5 | 0 | 11 | 1 | 0 | 0 | 74 | 5 | ||
浦和レッズ | 2004 | J1 | 15 | 1 | 2 | 0 | 8 | 2 | - | 25 | 3 | |
2005 | 20 | 1 | 4 | 0 | 7 | 0 | - | 31 | 1 | |||
2006 | 8 | 0 | 2 | 0 | 6 | 0 | - | 16 | 0 | |||
2007 | 11 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 6 | 0 | 19 | 0 | ||
2008 | 4 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | ||
合計 | 58 | 2 | 9 | 0 | 25 | 2 | 6 | 0 | 98 | 4 | ||
TSWペガサス | 2008/09 | ファーストディビジョン | 9 | 1 | 4 | 0 | 1 | 0 | - | 14 | 1 | |
ガイナーレ鳥取 | 2009 | JFL | 7 | 1 | 1 | 0 | - | - | 8 | 1 | ||
2010 | 16 | 0 | 0 | 0 | - | - | 16 | 0 | ||||
2011 | J2 | 13 | 0 | 1 | 0 | - | - | 14 | 0 | |||
2012 | 20 | 0 | 0 | 0 | - | - | 20 | 0 | ||||
2013 | 10 | 0 | 1 | 0 | - | - | 11 | 0 | ||||
合計 | 66 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 69 | 1 | ||
キャリア通算 | 402 | 44 | 38 | 5 | 59 | 5 | 6 | 0 | 505 | 54 |
5.2. 代表別成績
代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
日本 | 1995 | 3 | 0 |
1996 | 11 | 1 | |
1997 | 5 | 1 | |
1998 | 5 | 0 | |
1999 | 1 | 0 | |
合計 | 25 | 2 |
6. タイトル
岡野雅行は、そのプロサッカー選手としてのキャリアにおいて、所属クラブで数々のチームタイトルを獲得したほか、個人としても栄誉ある賞を受賞している。また、サッカー以外の分野でも特筆すべきタイトルを獲得している。
6.1. クラブでのタイトル
; 浦和レッズ
- J1リーグ:1回(2006年)
- J1リーグ 2ndステージ:1回(2004年)
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回(2005年、2006年)
- FUJI XEROX SUPER CUP:1回(2006年)
- AFCチャンピオンズリーグ:1回(2007年)
; ガイナーレ鳥取
- 日本フットボールリーグ:1回(2010年)
6.2. 個人タイトル
- Jリーグベストイレブン:1回(1996年)
- Jリーグフェアプレー個人賞:1回(1996年)
- Jリーグ功労選手賞(2014年)
- 彩の国特別功労賞(1997年)
6.3. その他
; DDTプロレスリング
- アイアンマンヘビーメタル級王座(第1515代)
7. 引退後
2013年シーズンを最後に現役を引退した岡野雅行は、その後もサッカー界に深く関わり続けている。
2013年12月25日、現役引退と同時に、最後に所属したガイナーレ鳥取のゼネラルマネージャー(GM)に就任した。2014年末には、これまでの功績が称えられ、Jリーグ功労選手賞を受賞した。
2015年2月15日には、ガイナーレ鳥取の選手がお世話になった食堂「はしや」の女将の義娘である内間智美(内間安路の妻)が発症した肛門管癌の治療費を募る「内間さんを支援する会」の発起人を務め、社会貢献活動にも積極的に取り組んだ。
2017年4月27日には、ガイナーレ鳥取の代表取締役GMに就任し、クラブ経営の責任者として手腕を振るった。
2017年12月11日放送のテレビ朝日系番組『激レアさんを連れてきた。』に、「サッカー経験ゼロのヤンキー達を集めてサッカー部を作り強豪チームにする、という『ROOKIES』(ルーキーズ)ばりの体験をしたのに、その話をあまりしていない」激レアさんとして出演した。この番組で、サッカー部のなかった全寮制高校でヤンキーだらけのサッカー部を立ち上げ、県内有数の強豪チームとなった松江日本大学高等学校時代のエピソードを披露し、大きな反響を呼んだ。この実話は、翌2018年9月に竜星涼主演で『激アツ!! ヤンキーサッカー部』としてテレビドラマ化された。
2024年12月23日、ガイナーレ鳥取の代表取締役GMを退任し、同日付で南葛SCの事業本部長に就任することが発表された。さらに、2025年1月には、自身が長く在籍した古巣である浦和レッズのブランドアンバサダーに就任することが決定した。
8. 功績と影響
岡野雅行は、そのサッカー選手としての功績だけでなく、その個性的なキャラクターと人生経験を通じて、サッカー界や社会に大きな影響を与えた。
8.1. メディアでの活動
岡野の高校時代の経験は、テレビ朝日系の人気番組『激レアさんを連れてきた。』で取り上げられ、その実話に基づき『激アツ!! ヤンキーサッカー部』としてテレビドラマ化された。これは、彼の人生が多くの人々に感動とインスピレーションを与える物語として認識された証である。
また、現役時代にはサントリー『デカビタC』や三菱自動車『チャレンジャー』などのCMに出演し、その知名度をさらに高めた。『デカビタC』では三浦知良や城彰二との共演も果たしている。引退後も中海テレビ放送のCMに出演するなど、メディアでの活動を続けている。
2009年には、自身の半生を綴った著書『野人伝』を新潮社から出版し、その波乱万丈なキャリアと人間性を広く伝えた。
9. 人物
岡野雅行は、サッカー選手としてのキャリア以外にも、その個性的な家族構成や人柄にまつわるエピソードで知られている。身長は175 cm、体重は71 kgで、利き足は右足であった。
彼の祖父は、著名な書家であり文化功労者である手島右卿である。また、叔父は崇教真光総裁の岡田晃弥である。
プロ入り前のエピソードとして、日本大学サッカー部に入部した際、当初は雑用専門部員であり、洗濯係専任や寮の生活係を一手に引き受ける日々を送っていた。しかし、コーチの目に留まり、その隠れた才能が開花した。特に、バスケットシューズを履いて100m走で10.7秒を記録したというエピソードは、彼の驚異的な身体能力と、その後のプレースタイル確立に大きな影響を与えた出来事として語り継がれている。