1. 概要
平田勝男は、1959年7月31日に長崎県松浦市で生まれた日本の元プロ野球選手(内野手)であり、プロ野球コーチ、野球解説者、野球評論家でもある。
現役時代は阪神タイガースの遊撃手として活躍し、堅実な守備と優れた犠牲バント技術で知られ、ゴールデングラブ賞を4度受賞した。特に1985年の阪神タイガースの日本一に大きく貢献した。
引退後は毎日放送やスポーツニッポンで解説者・評論家を務めた後、阪神タイガースのコーチ、二軍監督、一軍ヘッドコーチを歴任。指導者としても、2021年には二軍でファーム日本選手権優勝やファーム日本新記録となる18連勝を達成し、2023年には一軍ヘッドコーチとしてチームの38年ぶりの日本一に貢献するなど、数々の功績を残している。
その明るくユーモラスな人柄から「ミッキー」の愛称で親しまれ、特に2023年の日本一祝勝会でのスピーチは大きな話題を呼び、アサヒビールのコマーシャルにも起用されるなど、野球界内外で強い存在感を示している。2025年からは再び二軍監督を務める予定である。
2. 生涯
平田勝男の生涯は、選手としての輝かしいキャリアと、指導者としての多大な貢献、そしてメディアでの個性的な活動に彩られている。
2.1. 幼少期・学生時代
平田勝男は1959年7月31日、長崎県松浦市今福町に生まれた。
長崎市の海星高等学校に進学し、2年生で遊撃手のレギュラーに定着。1年先輩の好投手酒井圭一を擁し、第58回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、PL学園高等学校との準決勝で延長戦の末に敗れた。翌年の第49回選抜高等学校野球大会にも出場し、開会式では選手宣誓を務めた。この大会の2回戦(初戦)では、高知県立中村高等学校の山沖之彦投手に抑えられ敗退している。
高校卒業後は明治大学に進学し、当時の野球部監督である島岡吉郎の指導を受けた。東京六大学野球リーグでは在学中に4度の優勝を経験し、全日本大学野球選手権大会で3回、明治神宮野球大会でも1979年に優勝を果たすなど、大学野球界で輝かしい実績を築いた。リーグ通算成績は83試合出場、307打数96安打、打率.313、2本塁打、39打点。ベストナインには4回選出されている。大学時代から犠牲バントの技術に優れており、1980年から2年連続で出場した日米大学野球では、解説者から「平田のバントは百発百中」と評されるほどであった。大学の同期にはエースの森岡真一らがいる。平田が4年時に大学選手権で優勝して以来、明治大学はこの大会でのタイトルから遠ざかっていたが、2019年に優勝した際、当時の1年生であった善波達也明大監督(広澤克実らと同期)は優勝インタビューで平田を含む当時の優勝メンバー9人の名前を挙げ、その功績を称えた。
2.2. 選手時代
1981年のドラフト会議で、横浜大洋ホエールズと阪神タイガースが重複指名した結果、阪神が交渉権を獲得し入団した。
当時、平田は打撃が非力であったため、明治大学の島岡監督はプロでの成功は難しいと考え、社会人野球への進路を勧めていた。入団交渉の際も、平田は別室で待機し、交渉は島岡監督に任されていた。島岡監督は当初、阪神側に対し「平田はプロには行かせない」と断りを入れていたが、阪神の安藤統男新監督(慶大OB)が「六大学時代は島岡さんによくやられました」などと島岡監督を持ち上げたことで、機嫌を良くした島岡監督は、平田を呼び出し「お前、阪神に行け」と即座に命令したと、平田本人が後に語っている。島岡監督は特に早慶に対し強い対抗心を抱いていたという。
入団当時の阪神の遊撃手レギュラーは真弓明信であったが、1983年5月に真弓が故障したことで、平田がその後継として遊撃手のレギュラーに定着した。真弓は復帰後、岡田彰布の故障で空いた二塁手に回った。同年、平田は83試合に先発出場を果たした。
1984年には規定打席に到達し(リーグ29位、打率.268)、同年から1987年まで4年連続でゴールデングラブ賞(当時はダイヤモンドグラブ賞)を獲得するなど、守備の名手として活躍した。山本和行は平田の守備について、「自分の捕れる打球は絶対にエラーしなかった。それだけでも投手としては計算ができるし、安心して投げられる」と高く評価している。また、深い守備位置からでも矢のような送球で打者走者を刺す強肩の持ち主であり、1985年の日本シリーズでも随所で好守備を連発し、チームの勝利に貢献した。
阪神が21年ぶりのセ・リーグ制覇、そして球団史上初の日本一に輝いた1985年には、打撃も好調を維持し、主に7番打者として50打点以上を記録した。同年10月10日の対ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)では、プロ入り後、そして野球人生で初めてとなる満塁本塁打を放っている。同年の西武との日本シリーズでは、第1戦で3安打を放ち、シリーズ通算では22打数7安打1打点と、チームの日本一に大きく貢献した。
1988年に村山実が監督に就任すると、遊撃手のレギュラーは和田豊となり、平田は主に控え選手となった。以降は出場試合数が100試合を下回るようになったが、その優れた守備力とバント技術で貴重な控え選手としてチームを支え続けた。1990年は先発出場が8試合にとどまったものの、打撃は好調で、主に代打として打率.347という高成績を残している。
1994年に現役を引退した。10月1日の対広島東洋カープ戦(甲子園)が引退試合となり、2番・遊撃手として先発出場。現役最終打席では、中村勝広監督から「振って来い」と送り出されたが、平田自身の判断で送りバントを成功させた。現役時代は、中西清起、平田、木戸克彦の3人で「NHK TrioNHKトリオ英語」と呼ばれ、親しまれた。
2.3. 指導者・解説者時代
現役引退後は、毎日放送の野球解説者やスポーツニッポンの野球評論家(1995年 - 1996年)として活動した。
1997年には阪神タイガースに一軍内野守備コーチとして復帰。1999年から2000年は一軍守備コーチ、2001年には一軍守備走塁コーチを務めた。コーチ時代も常に大声でチームのムードメーカーであり、指導においては「厳しく楽しく」をモットーとしていた。
2002年、大学の先輩である星野仙一が監督に就任するのを機に、監督専属広報および専属運転手に就任した。その際、送迎車のナンバープレートの数字を「1001」(仙一)など様々に検討した末に「731」にしたところ、星野監督に「何で731なんだ?」と聞かれ、「僕の誕生日です」と答えて怒られそうになったというエピソードがある。
星野監督が勇退した2004年からは、岡田彰布の下で一軍ヘッドコーチとして現場に復帰した。2005年9月7日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)では、9回裏の本塁でのクロスプレーにおける微妙な判定に対し、球審の橘高淳を突き飛ばし、退場処分を受けた。
2007年からは二軍監督を務め、2010年には4年ぶりとなるウエスタン・リーグ優勝を果たしたが、シーズン終了後に退団した。
2011年シーズンからは再び毎日放送の解説者、スポーツニッポンの評論家として活動を再開した。現場復帰後の初仕事は、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した星野仙一へのインタビューであった。
2012年には、野球解説・評論活動と並行して、「芦屋学園スポーツモダニズムプロジェクト」のメンバーに招聘され、同年4月からは同学園が運営する芦屋大学の客員教授に就任している。
2013年からは二軍監督として、2年ぶりに現場に復帰した。2014年も同職を務め、2015年は一軍ヘッドコーチ、2016年からは一軍チーフ兼守備走塁コーチ、2019年からは再び二軍監督を務めた。
2019年6月14日には、前日のオリックス・バファローズ戦で選手交代の通告を怠ったとして、斉藤惇コミッショナーから厳重注意を受けた。
2021年、平田が指揮する二軍は7月30日の対オリックス戦(阪神鳴尾浜球場)から9月15日の対ソフトバンク戦(阪神甲子園球場)にかけて、引き分けを挟んだ18連勝を達成し、1999年に読売ジャイアンツが達成した15連勝を上回るファーム日本新記録を樹立した。この連勝は、1999年に読売ジャイアンツが達成した15連勝を上回る快挙であった。同年9月24日には、チームを3年ぶりとなるウエスタン・リーグ優勝に導き、最終的には106試合で65勝34敗7分け、勝率.657という好成績を残した。そして、10月9日のファーム日本選手権ではイースタン・リーグ優勝チームの千葉ロッテマリーンズを破り、ファーム日本一を達成した。
一軍監督に岡田彰布が復帰した2023年からは、再び一軍のヘッドコーチを務めている。この年の現役ドラフトでは、阪神がソフトバンクの大竹耕太郎を指名したが、これは当時二軍監督であった平田がファームで対戦した大竹の力量を高く評価していたためであった。そして、現役時代の1985年以来38年ぶりとなる日本シリーズ制覇を、一軍ヘッドコーチとして経験し、チームの歴史的快挙に大きく貢献した。
2025年からは再び二軍監督を務める予定である。
2.4. メディア出演と人物像
学生時代、平田は試験勉強やレポート提出を疎かにすることがあったが、当時明治大学の教授であった栗本慎一郎は後に、「レポートの文章に、一字一句参考書を楷書で書き写してきたのは平田だけだ。本来はこういう参考書をそのまま書き写したり模写しただけの学生には単位はやらないが、平田の几帳面さに免じて単位を出した」と語るほど、繊細な一面も持ち合わせている。このエピソードは、試験期間が近づくと毎年のように栗本が講義で話していたという。
阪神の指導者としては若手選手に厳しい言葉を投げかけることが多いが、その一方で温かい配慮を見せることもある。二軍監督時代の2019年、阪神鳴尾浜球場で行われた横田慎太郎外野手の引退試合(ウエスタン・リーグのシーズン最終戦である9月26日の対福岡ソフトバンクホークス戦)では、9回表から中堅の守備に就く予定だった横田を、8回表の途中から出場させた。横田は2016年のレギュラーシーズン開幕当初に一軍の正中堅手へ抜擢されながら、翌2017年に脳腫瘍を発症した影響で「打球が二重に見える」といった視覚面の問題を抱えていた。平田によれば、「外野の守備へ必ずダッシュで向かう姿に好感を持っていたので、その姿を最後にファンへ見せたかった」ため、3年近く経験していなかった中堅の守備に予定より早く就かせたという。横田は二死二塁の局面から塚田正義が打ったゴロ(記録は中前安打)を捕球すると、本塁へのノーバウンド送球で二塁走者の水谷瞬を補殺するというファインプレー(いわゆる「奇跡のバックホーム」)で現役生活を締めくくった。
ミッキーマウスに似ていることと、明るく外交的な性格から、阪神の現役選手時代には「ミッキー」という愛称で親しまれていた。MBSラジオの野球解説者に復帰していた時期にも、同局のプロ野球中継で阪神戦の解説を務める場合には、「帰って来たお祭り男」(2012年以降は「トラのお祭り男」)というキャッチフレーズが付けられていた。
一軍コーチの在任中にチームがセ・リーグ優勝や日本シリーズ制覇を果たした際には、祝勝会の「ビールかけ」で数々の逸話を残している。
- 2005年セ・リーグ優勝時の祝勝会では、当時の主力選手だった金本知憲の誘いから、壇上で挨拶を始めた岡田彰布監督(早稲田大学野球部の出身で東京六大学野球リーグの先輩)に対して「よっ!岡田!」と威勢良く呼び捨てにした。さらに、「日本一になったら俺を胴上げしてくれ!」と高らかに叫んだ。しかし、チームはその後の日本シリーズでは千葉ロッテマリーンズに4連敗を喫したため、胴上げは実現しなかった。
- 岡田監督の下で2023年に日本シリーズを(自身の現役時代の1985年以来)38年ぶりに制覇した際の祝勝会(11月6日未明に大阪府内で開催)では、「中締め」の挨拶で登壇すると、「宴も竹中直人(たけなわ)ですが、日もどっぷり暮れたところで、中島みゆき(中締め)させていただきます」というオヤジギャグをいきなり披露し、会場を沸かせた。居合わせた選手に向けて「38年ぶり、岡田監督(と)平田ヘッド(コーチ)の選手の頃に、やっと君らは追いついた。これからは追い越してみろー!」とハッパを掛けた後、アサヒビールがビールかけ用に提供していた「アサヒスーパードライ」の中瓶を手にしながら、代表取材用のテレビカメラに向かって「全国の野球ファンのみなさん、おつかれ生です。スーパードライ!コマーシャル待ってます!」と叫んで祝勝会を締めくくった。
- この一連の挨拶がテレビ・ラジオ番組やYouTubeなどを通じて大きな話題になったことから、アサヒビールは平田に対して「コマーシャル」への出演を打診した。本人が登場する[https://www.youtube.com/watch?v=o9Vc1Td92JM YouTube向けのPR動画「野球ファンのみなさん、おつかれ生です。」篇](56秒)が2023年11月24日からYouTube上のアサヒビールグループ公式チャンネルで配信された。この動画の制作には、平田が祝勝会で絶叫したシーンの映像(朝日放送テレビが撮影)と、CMのテーマソングである竹内まりやの『元気を出して』の音源が使用されている。また、平田がタイガースのユニフォーム姿で「アサヒ生ビール」の中瓶を手にし、「『マルエフ』はもう間違いなく、『スーパードライ』と共に、『野球』だけに『ヒット』商品」と語る映像も新たに収録された。さらに、「『おつかれ生です。』は、スーパードライじゃなく、マルエフなんです。」と大きく記された字幕が添えられている。同年12月からは、この「コマーシャル」が関西地方の映画館などでも上映された。
- アサヒビールは阪神タイガースのオフィシャルスポンサーであり、「日本のみなさん!おつかれ生です。」というフレーズは、「アサヒ生ビール〈マルエフ〉」のCMやポスターに使用されている。平田は「『アサヒ生ビール』のテレビCMが大好き」であったため、このフレーズを祝勝会の「中締め」に拝借したという。一方で、前述のオヤジギャグについては、現役時代のチームメイトであった中西清起がよく使っていたことを明かしている。
- 「アサヒ生ビール」のイメージキャラクターの一人として当時CMに出演していた松下洸平は、祝勝会の翌週(2023年11月14日)に「アサヒ生ビール」関連のイベントへ出演した際に、「『僕に代わって平田コーチがCMに出るんじゃないか』っていう不安がある」「(平田が中締めで)お持ちだった瓶が(同じアサヒビールの製品でも)『スーパードライ』だったので、そこはぜひ『マルエフ』の瓶を持っていただきたかった」とコメントした。一方の平田は、アサヒビールからのCM出演オファーが阪神球団へ届いた直後に、「いやいやいや、とんでもない。僕ごときがおこがましい。勢いで締めのあいさつで『アレ』(フレーズを拝借)しただけなのに、そんな話(出演の打診)をしていただくだけでありがたい。本当はCM(への出番)が欲しいわけじゃなく、(祝勝会で気分が高揚していた)ノリで言っちゃったんで、そこは反省もしている」と語った。
- また、チームの優勝記念旅行でハワイ(アメリカ合衆国)に滞在中の2023年12月13日(現地時間。日本時間12月14日)にも、ホノルルのホテルで開かれた優勝記念パーティーで「『コマーシャル』が殺到しておりますので」と言いながら「中締め」の挨拶に登壇。スタッフに用意させた「アサヒスーパードライ」の中瓶を手に「皆さん。1年間、お疲れ生でした」というフレーズで参加者を労った後、「中締めみゆきの挨拶」と称して「(『宴も竹中直人』と言い掛けたところで)円もね、(ハワイに向けて関西国際空港を出発した13日の時点で1ドルに対する為替レートが)145円。ハワイでのショッピングがなかなか大変な世の中になってきましたが、皆さんハワイを楽しみましょう。エンジョイ!ハワイ!かいさ~ん(解散)!」といったスピーチで場内を沸かせた。
3. プレースタイルと特徴
平田勝男のプレースタイルは、非力ながらも堅実な守備と小技、そして勝負強さを兼ね備えた打撃が特徴であった。
遊撃手として、1984年から1987年まで4年連続でゴールデングラブ賞を受賞するなど、その守備力は球界屈指と評価された。特に、自身の守備範囲内の打球は確実に処理し、失策をしない堅実さは、投手陣からの信頼も厚かった。山本和行は「自分の捕れる打球は絶対にエラーしなかった。それだけでも投手としては計算ができるし、安心して投げられる」と平田の守備を絶賛している。また、深い守備位置からでも矢のような送球で打者走者を刺す強肩の持ち主であり、1985年の日本シリーズでは随所で好守備を連発し、チームの日本一に貢献した。
打撃面では、犠牲バントの技術が非常に高く、大学時代から「百発百中」と評されるほどであった。1985年の日本一の年には、7番打者ながら50打点以上を記録するなど、勝負強さも持ち合わせていた。現役晩年には代打としても高い打率を残し、チームに貢献した。
4. 記録と受賞歴
平田勝男が選手として残した主な記録と受賞歴は以下の通りである。
4.1. 年度別打撃成績
年 | 所属 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 故意四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982 | 阪神 | 23 | 22 | 17 | 3 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 1 | 2 | 0 | .235 | .350 | .235 | .585 |
1983 | 100 | 340 | 292 | 33 | 73 | 12 | 1 | 2 | 93 | 28 | 1 | 2 | 22 | 1 | 20 | 1 | 5 | 25 | 8 | .250 | .308 | .318 | .627 | |
1984 | 128 | 493 | 437 | 42 | 117 | 24 | 1 | 6 | 161 | 41 | 2 | 0 | 24 | 2 | 28 | 0 | 2 | 26 | 9 | .268 | .313 | .368 | .682 | |
1985 | 125 | 455 | 402 | 47 | 105 | 15 | 2 | 7 | 145 | 53 | 6 | 2 | 25 | 1 | 23 | 0 | 4 | 35 | 12 | .261 | .307 | .361 | .668 | |
1986 | 124 | 448 | 405 | 47 | 108 | 15 | 1 | 5 | 140 | 33 | 1 | 2 | 22 | 0 | 16 | 0 | 5 | 41 | 7 | .267 | .303 | .346 | .648 | |
1987 | 126 | 454 | 418 | 30 | 109 | 15 | 0 | 3 | 133 | 21 | 3 | 2 | 13 | 0 | 21 | 0 | 2 | 42 | 16 | .261 | .299 | .318 | .618 | |
1988 | 90 | 200 | 180 | 12 | 51 | 9 | 1 | 0 | 62 | 16 | 0 | 3 | 7 | 1 | 10 | 1 | 2 | 24 | 3 | .283 | .326 | .344 | .671 | |
1989 | 89 | 119 | 102 | 7 | 14 | 3 | 1 | 0 | 19 | 6 | 1 | 0 | 9 | 1 | 6 | 2 | 1 | 9 | 3 | .137 | .191 | .186 | .377 | |
1990 | 60 | 84 | 72 | 6 | 25 | 3 | 0 | 0 | 28 | 10 | 0 | 2 | 6 | 1 | 5 | 0 | 0 | 6 | 4 | .347 | .385 | .389 | .774 | |
1991 | 44 | 54 | 49 | 5 | 13 | 1 | 0 | 0 | 14 | 2 | 0 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 1 | 8 | 1 | .265 | .308 | .286 | .593 | |
1992 | 40 | 55 | 48 | 2 | 8 | 2 | 0 | 0 | 10 | 6 | 3 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 2 | 8 | 2 | .167 | .200 | .208 | .408 | |
1993 | 29 | 29 | 28 | 1 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .214 | .207 | .250 | .457 | |
1994 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
通算:13年 | 979 | 2754 | 2450 | 235 | 633 | 100 | 7 | 23 | 816 | 220 | 19 | 14 | 138 | 8 | 133 | 4 | 25 | 229 | 65 | .258 | .302 | .333 | .635 |
4.2. 表彰
- ゴールデングラブ賞:4回(遊撃手部門:1984年 - 1987年)
- ヤナセ・阪神タイガースMVP賞:1回(1984年) ※受賞者第1号
4.3. 初記録
- 初出場:1982年4月7日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤ球場)、6回表に宇田東植の代打として出場
- 初安打:1982年7月31日、対読売ジャイアンツ19回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に新浦壽夫から単打
- 初打点:1982年9月2日、対横浜大洋ホエールズ23回戦(横浜スタジアム)、7回表に平松政次から適時打
- 初先発出場:1983年5月7日、対ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場)、「2番・遊撃手」として先発出場
- 初本塁打:1983年5月28日、対読売ジャイアンツ8回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に新浦壽夫からソロ本塁打
4.4. その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回(1985年)
4.5. 背番号
- 30(1982年 - 1994年)
- 71(1997年 - 2001年)
- 78(2004年 - 2010年、2015年 - )
- 72(2013年 - 2014年)
5. 指導者としての功績
平田勝男は、選手としての実績に加え、指導者としても阪神タイガースに多大な貢献をしてきた。
コーチ時代は常に大声でチームのムードメーカーであり、「厳しく楽しく」を指導のモットーとしていた。2005年9月7日の対中日ドラゴンズ戦で、球審を突き飛ばし退場処分を受けたエピソードは、彼の情熱的な指導姿勢を示すものである。
二軍監督としては、2010年にウエスタン・リーグ優勝を達成。さらに2014年には2014 WBSC U-21ワールドカップの野球日本代表監督を務め、チームを銀メダルへと導いた。
2019年6月14日には、選手交代の通告を怠ったとして斉藤惇コミッショナーから厳重注意を受けたが、その後の2021年には、自身の指揮する二軍が7月30日から9月15日にかけて引き分けを挟んだ18連勝というファーム日本新記録を樹立した。この連勝は、1999年に読売ジャイアンツが達成した15連勝を上回る快挙であった。同年9月24日には、チームを3年ぶりとなるウエスタン・リーグ優勝に導き、最終的には106試合で65勝34敗7分け、勝率.657という好成績を残した。そして、10月9日のファーム日本選手権ではイースタン・リーグ優勝チームの千葉ロッテマリーンズを破り、ファーム日本一を達成した。
2023年に岡田彰布が一軍監督に復帰すると、平田も一軍ヘッドコーチとしてチームに合流。この年、阪神は現役ドラフトでソフトバンクの大竹耕太郎を指名したが、これは当時二軍監督であった平田がファームで対戦した大竹の力量を高く評価していたことが背景にあった。そして、現役時代の1985年以来38年ぶりとなる日本シリーズ制覇を、一軍ヘッドコーチとして経験し、チームの歴史的快挙に大きく貢献した。
2025年からは再び二軍監督を務める予定であり、その指導力と実績は高く評価されている。
6. 評価と影響
平田勝男は、選手としても指導者としても、野球界に多大な評価と影響を与えてきた人物である。
選手時代は、堅実な守備と優れた犠牲バント技術でチームを支え、特に1985年の日本一に貢献した守備の名手として記憶されている。投手であった山本和行が彼の守備を絶賛したことからも、その貢献度の高さがうかがえる。
指導者としては、若手選手に厳しい言葉を投げかける一方で、横田慎太郎の引退試合での配慮に見られるように、選手への深い愛情と人間性を持ち合わせている。ファーム日本新記録となる18連勝やファーム日本一、そして2023年の日本シリーズ制覇への貢献など、チームを勝利に導く確かな手腕を発揮してきた。
また、その明るくユーモラスな人柄は、チームのムードメーカーとしてだけでなく、メディアを通じて多くのファンに親しまれている。特に2023年の日本一祝勝会での「おつかれ生です。」発言は、アサヒビールのコマーシャル起用や公式グッズ化にまで発展する社会現象となり、彼の持つ影響力の大きさを象徴する出来事となった。このエピソードは、彼の飾らない人柄と、野球ファンとの強い繋がりを示している。
過去には球審への接触による退場処分や、選手交代通告の不備による厳重注意など、情熱ゆえの行動や管理面での指摘もあったが、それらを含めても、平田勝男は阪神タイガースの歴史において不可欠な存在であり、その存在感は野球界全体に及んでいると言える。
7. 関連情報
平田勝男に関連する主な人物、チーム、出来事、メディア出演、広告は以下の通りである。
- 関連人物**
- 酒井圭一
- 山沖之彦
- 島岡吉郎
- 森岡真一
- 善波達也
- 広澤克実
- 安藤統男
- 真弓明信
- 岡田彰布
- 山本和行
- 村山実
- 和田豊
- 中村勝広
- 中西清起
- 木戸克彦
- 星野仙一
- 橘高淳
- 栗本慎一郎
- 横田慎太郎
- 塚田正義
- 水谷瞬
- 金本知憲
- 竹中直人
- 中島みゆき
- 松下洸平
- 大竹耕太郎
- 宇田東植
- 新浦壽夫
- 平松政次
- 関連チーム・組織**
- 海星高等学校
- PL学園高等学校
- 高知県立中村高等学校
- 明治大学
- 日産自動車
- 横浜大洋ホエールズ
- 阪神タイガース
- 中日ドラゴンズ
- ヤクルトスワローズ
- 西武ライオンズ
- 広島東洋カープ
- 東北楽天ゴールデンイーグルス
- 芦屋学園
- 芦屋大学
- オリックス・バファローズ
- 福岡ソフトバンクホークス
- 読売ジャイアンツ
- 千葉ロッテマリーンズ
- 関連出来事**
- 全国高等学校野球選手権大会
- 選抜高等学校野球大会
- 東京六大学野球リーグ
- 全日本大学野球選手権大会
- 明治神宮野球大会
- 日米大学野球
- ドラフト会議
- セントラル・リーグ
- 日本シリーズ
- ウエスタン・リーグ
- ファーム日本選手権
- 現役ドラフト
- WBSC U-21ワールドカップ
- メディア出演**
- 毎日放送
- スポーツニッポン
- MBSテレビ(侍プロ野球、猛虎ファイル→withタイガース'12、せやねん!、ちちんぷいぷい)
- MBSラジオ(MBSタイガースライブ、MBSとらぐみタイガースライブ!木曜日)
- ABCラジオ(堀江政生のほり×ナビ)
- YouTube
- 広告**
- アサヒビール「アサヒ生ビール〈マルエフ〉」(2023年11月24日 - )
- 外部リンク**
- [https://npb.jp/bis/players/71973865.html 平田勝男(阪神タイガース)] - NPB.jp 日本野球機構
- [https://www.baseball-reference.com/register/player.fcgi?id=hirata000kat Katsuo Hirata Stats] - Baseball-Reference.com
- [https://sp.baseball.findfriends.jp/player/19590051/ 選手情報] - 週刊ベースボールONLINE