1. 生涯
杉浦 忠は、選手としての輝かしい現役時代から、指導者、そして野球解説者として多岐にわたる活動を行い、野球界に大きな足跡を残した。
1.1. 幼少期と教育
杉浦忠は1935年9月17日に愛知県挙母町(現:豊田市若宮町)で、5人兄弟の四男として生まれた。父の定治は南総里見八犬伝にちなみ、長男から順に「仁」「智」「孝」「忠」「義信」と名付けたという。小学4年生から野球を始め、中学時代には5番打者として中堅手を守った。
挙母高校時代は無名の速球投手で、当時はオーバースローの本格派だったが、コントロールが悪かったとされる。高校3年の夏は愛知県大会3回戦で敗退した。
1.2. プロ入り前
高校卒業後、杉浦は立教大学に進学。そこで同期の長嶋茂雄、本屋敷錦吾と共に「立教三羽ガラス」と呼ばれ、一躍注目される存在となった。
大学2年時、右目の眼鏡がずれるという自身の問題をきっかけに、投球スタイルをオーバースローからサイドスロー(またはアンダースロー)へと転向した。この転向について杉浦自身は、「上手投げ時代は上下動が激しく、投げるたびに眼鏡がずれて苦労した」「頭の位置を一定にさせるためにサイドスローが良いと考え、やってみると見違えるようにコントロールが良くなった」と語っている。当時の球速はオーバースロー時代の方が速かったという。このフォーム変更は、砂押邦信監督の「砂押排斥事件」後の自主練習期間中に行われたもので、「砂押監督時代なら反対されてできなかったと思う」と述べている。この新しい投球フォームは、後に読売ジャイアンツで30勝を挙げた大友工の連続写真を参考にしたものであった。
また、大学2年生だった1955年頃、杉浦は長嶋と共に野球部の合宿所を抜け出し、地元の球団である中日ドラゴンズの球団事務所を訪れた。彼は「軍隊のような立教野球部が嫌になったので、大学を中退して中日で野球をやり、金を稼ぎたい。契約金はいらない」と訴えたが、当時の球団代表に「大学生は勉強が本分。卒業してから来るように」と諭され、入団を拒否された。もしこの時入団が実現していれば、南海ホークスの優勝パレードは名古屋の広小路で行われ、巨人のV9は中日のV9になっていたかもしれない、と後に惜しまれている。
東京六大学野球リーグでは、1957年春季・秋季リーグ連覇に貢献。特に同年秋の早大戦では、森徹や木次文夫らの強力打線を相手にノーヒットノーランを達成した。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で興津達雄らを擁する専大を破り優勝を果たした。リーグ通算成績は、立教大学OB最多となる36勝12敗、防御率1.19、233奪三振を記録し、ベストナインにも2回選出された。勝利の大半を占める28勝は、フォーム変更後の2年間で挙げたものである。1955年には第2回アジア野球選手権大会の日本代表(東京六大学野球リーグ選抜チーム)にも選出された。
1.3. 現役時代

杉浦忠の現役時代は、特にその初期に驚異的な記録を打ち立て、日本プロ野球史にその名を刻んだ。
1.3.1. 南海ホークス入団と初期の活躍
大学卒業後、杉浦は当初日本ビールや朝日新聞社への入社も検討していたが、1958年に南海ホークスへ入団を決意した。入団に際しては、当時南海の主力選手で大学の先輩でもあった大沢昌芳を通じて、杉浦と長嶋茂雄(後に読売ジャイアンツに入団)の双方が多額の栄養費を受け取っており、両者の南海入団は確実視されていた。しかし、長嶋が巨人へと翻意し入団したのに対し、杉浦は義理堅く南海へと入団したという対比は、現在でも語り草となっている。長嶋が予想に反して巨人へ入団したことを聞き、心配して杉浦の元を訪れた鶴岡(山本)一人監督に対し、杉浦は「心配ですか?僕がそんな男に見えますか?」とだけ言って笑顔を浮かべた。これに対し鶴岡は「その静かな口調の底に、『僕は一度決めたことを破るような男ではありませんよ』という強い鉄石のような心が隠されていた」と後に語っている。
プロ入り後は新人ながら開幕投手を務め、東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を挙げた。試合後、鶴岡が「固くなったのか?」と尋ねると、「固くなりました」と答えたという杉浦だが、味方打線の大量援護もあり、落ち着きを取り戻し勝利を掴んだ。下手投げから浮き上がるような速球と、横に大きく曲がるカーブを武器に、相手打者を翻弄。この年、27勝を挙げて新人王を獲得し、鶴岡監督を「これでやっと西鉄を叩くことが出来る」と大いに喜ばせた。
1.3.2. 黄金の1959年シーズン
1959年は、杉浦にとってまさに「黄金のシーズン」となった。彼は38勝4敗(勝率.905)という、日本プロ野球史上でも驚異的な成績を記録し、南海のリーグ優勝に大きく貢献した。この功績により、杉浦はMVPを満票で獲得した。
同年に行われた日本シリーズでは、読売ジャイアンツを相手に、第1戦から4連投という鉄腕ぶりを発揮し、全ての試合で勝利投手となり南海ホークスを初の日本一へと導いた。この圧倒的な活躍により、杉浦はシーズンに続いて日本シリーズMVPにも選出された。試合後、杉浦は「一人になったら、嬉しさが込み上げてくるでしょう」と言うつもりだったが、「一人になって泣きたい」という言葉が一人歩きしてしまったと、後に自身の著書で語っている。
このシーズン、杉浦は54回2/3連続無失点というパ・リーグ記録も樹立している。この記録は、直前の8月26日から9月9日にかけて43回連続無失点を記録し、一度失点した直後の9月15日から10月20日にかけて達成されたものである。
さらに、杉浦は同年、日本プロ野球史上5人目、リーグ分立後は2人目となる投手五冠王(勝利、防御率、奪三振、完封数、勝率)を達成した。この大記録は、2022年現在までに沢村栄治(1937年春)、ヴィクトル・スタルヒン(1938年秋)、藤本英雄(1943年)、杉下茂(1954年)、江川卓(1981年)、斉藤和巳(2006年)、山本由伸(2021・2022年)の8名しか達成していない偉業である。杉浦の五冠は、各部門で2位以下を大きく引き離しての達成であり、そのスケールの大きさは史上最高ともいえるものだった。また、2013年に田中将大がMVP獲得時に24先発勝利を記録するまで、杉浦が1959年に記録した24先発勝利は、パ・リーグのMVP受賞投手における歴代最多先発勝利記録であった。
1.3.3. 怪我と投球スタイルの変化
1960年も31勝を挙げ、シーズン30勝以上を2度以上記録した投手としては、スタルヒン、野口二郎、別所毅彦、杉下茂、稲尾和久、金田正一、権藤博に次ぐ大記録を達成した。しかし、1961年9月初旬に20勝に到達した後、右手が痺れる不調を訴える。阪大病院での診察では当初2、3日休めば投げられると診断されたが、連投による右腕の血行障害(動脈閉塞)が判明した。杉浦は9月15日に東大病院で太ももの血管を移植する手術を受け、シーズン残りの期間はリハビリに費やし、戦列を離れた。この年5月には通算100勝を達成しており、プロ入りからわずか3年1ヶ月、188試合目での史上5番目に早い記録であった。
1962年には復帰したが、1963年と合わせてそれぞれ14勝にとどまった。故障後は握力が大きく低下し、50球ほど投げただけで腕が強張るようになってしまったという。1964年には症状がやや緩和し20勝を挙げたが、1965年には開幕から6連勝と好調だったものの、5月下旬頃から症状が再び悪化。医師から「3イニング以上は投げられない」と診断されたため、鶴岡監督は6月以降、杉浦をリリーフ専任とし、抑えの切り札として起用することにした。杉浦自身は「僕が(抑えの切り札としては)パ・リーグの元祖ですかね。リリーフ成功率は高かったですよ。前の投手が出したランナーを返したことは無かったと思います。セーブ制度があればかなり行ったでしょうね」と語っている。後に野村克也は、1977年に完投能力を失っていた江夏豊をリリーフに転向させ、成功を収めたが、これは杉浦の起用法を模倣したものである。
杉浦は負傷後、同い年の技巧派アンダースローである皆川睦男が大きく沈むシンカーを武器に、1球で内野ゴロを打たせてアウトを重ねる投球術を見て、これを羨ましがったという。「皆川のようなシンカーを覚えたい」と相談された野村克也は、サイドスローでシンカーを投げようとすると、ボールを放すときに手の捻りを逆回転させなければならず、杉浦の持ち味であるストレートに悪影響を及ぼすとして強く反対し、スライダーを勧めた。しかし杉浦は反対を押し切ってシンカーを習得した。野村は後に、「もし杉浦があのとき、沈む球にこだわらなければ、勝ち星は確実に増えていただろう」と、自身の説得が実らなかったことへの後悔の念を綴っている。
1.3.4. 現役引退
1965年限りでの現役引退を決意していた杉浦だが、翌1966年から南海の一軍投手コーチに就任することが決まっていたものの、ジョー・スタンカの退団などで投手陣が手薄になったため、開幕直前の4月5日にコーチ兼任で現役に復帰した(ただしコーチ兼任は1967年まで)。現役復帰に際し、鶴岡監督は「投球回数は3回まで、救援に使うことになるだろう」とコメントした通り、杉浦は主にリリーフで起用され好成績を残した。しかし故障が完全に癒えることはなく、杉浦は何度も球団に引退の意思を訴えたが、その度に強く慰留された。
1969年オフに野村克也が選手兼任監督に就任した際にも引退を訴えたが、野村から「ベテランと若手、選手とコーチのパイプ役になってベンチにいてくれ、チームとして必要なことだから」と頼み込まれ、痛みに耐えながら現役を続行した。幸い1970年に新人の佐藤道郎が抑えの切り札として定着したこともあり、杉浦は同年オフに改めて引退の意思を野村に伝えた。野村も「なんとか、いままで残ってもらったが、いつまでも無理はいえなかった」と引き留めを断念し、12月4日に球団も引退の申し入れを了承した。
杉浦の引退試合は、翌1971年3月25日に大阪球場で行われた読売ジャイアンツとのオープン戦に充てられた。試合は5回終了時に中断され、エキシビション形式で大学の同窓で親友の長嶋茂雄との対決が実現した。長嶋は杉浦の投じた2球目をセンター前に弾き返しヒットを放つと、マウンドの杉浦のもとへ野村と長嶋が駆け寄り、熱い握手を交わした。この一打は、長嶋から杉浦への友情の証であった。試合後、杉浦は「向こう(長嶋)も真剣に打ってくれて......。妙なことをしてもらうよりあのほうが嬉しかった。悔いのない野球生活でした」と語った。
プロでは完全試合やノーヒットノーランは達成できなかったが、1964年には被安打1本だけの準完全試合を達成している。
通算187勝を挙げたものの、200勝以上が入会基準である名球会には加入していない。そのため、落合博満が「あの杉浦さんが入れない名球会に意味があるの?」と疑問を呈したように、杉浦が日本プロ野球史上屈指の名投手であることに疑問の余地はない。
1.4. 引退後の活動
杉浦忠は現役引退後も、コーチ、野球解説者、そして監督として野球界に貢献し続けた。
1.4.1. コーチ・野球解説者として
現役引退後は、毎日放送解説者、スポーツニッポン評論家(1971年 - 1973年)を務めた。
その後、立教大学の大先輩である西本幸雄監督に請われ、近鉄バファローズ一軍投手コーチ(1974年 - 1977年)を務めた。在任中、1975年には球団史上初のリーグ後期優勝に貢献している。コーチとしては、鈴木啓示に対し「力で投げるんやったら相撲取り呼んでこい」と、リリース時以外は力を抜く投球術を指導。また、太田幸司が村山実のようなスピードを求めてフォーム改造に取り組もうとした際には、「村山のフォームは上半身の使い方が強引で、ある意味邪道。それでも見事に剛球を投げ分けた。形だけ真似してもぶっ壊れるだけだ」と諭して中止させた。さらに村田辰美には肘や下半身の使い方を細かく教えた。
近鉄退団後、1978年から再び毎日放送解説者を務めた。1994年からは九州朝日放送解説者、スポーツニッポン評論家として活動した。KBCでは、「仏の杉浦、鬼の河村(英文)」という対照的なコンビで人気を博した。柔らかく穏やかな語り口から人気を集めたが、時には叱咤激励のコメントを出すこともあった。当時のキャッチコピーは「マイクの前のジェントルマン」で、後年は「球界の紳士」とも紹介された。1999年に福岡ダイエーホークスが優勝を決めた試合のラジオ放送では、かつての「一人になって泣きたい」というフレーズをもじり、「一人で中洲で酒を飲みたい」と中継内でコメントし、ファンを喜ばせた。翌日のテレビ中継では、副音声での解説を担当。和田安生アナウンサーと「ビールを飲みながら野球を見る」というコンセプトで放送したが、杉浦は酒を飲みながら野球を見るのは初めてであり、放送内で「なかなかええもんやな」と語っている。
1996年には、出身地の豊田市から初となる市栄誉賞を授与された。母校である豊田西高校(旧:挙母高校)の野球部激励会には毎年、他のOBたちとともに出席し、練習の見学では選手とネット越しに話すなど、後輩たちを温かく見守った。「プロ経験者が教えると迷惑がかかる。現役の指導者も困るだろう」との考えから、直接指導は控えていたという。1997年7月5日から8月31日には豊田市郷土資料館で、杉浦の思い出の品を集めた展示会「キミは杉浦を見たか」が開催された。
1.4.2. 監督としての経歴
1985年9月22日、南海ホークスは緊急会見を開き、翌1986年から杉浦が南海の監督を務めることを発表した。これは、当時残っていた16試合を指揮していた穴吹義雄監督にも事前に知らされない形であったが、穴吹は「当然でしょう。こういうのは早く発表した方がいい。土台作れたと思う。あとは杉浦君が花を咲かせてくれるでしょう」と杉浦に期待を寄せた。
1年目の1986年は6位に終わったものの、シーズン前には「香川のサード転向」や「門田・デビッド・グッドウィンの60番トリオ」といった構想を打ち出すなど、新たなチーム作りを目指した。香川の転向は打撃不振により2ヶ月で頓挫し、60番トリオもグッドウィンの度重なる故障で不振に陥ったが、ルーキーの西川佳明が10勝を挙げ、西武の清原和博と新人王争いを演じパ・リーグ特別賞に輝いた。また、終盤には井上祐二を抑えで起用し、その後の定着に繋げた。デビッドは25本塁打、打率.285を記録し、山村善則は115試合に出場、山本和範がチームトップの打率を残した。
1986年オフには一軍打撃コーチに長池徳士を招き、1987年には佐々木誠、湯上谷宏の1・2番コンビが定着した。投手陣では藤本修二が15勝、山内和宏が10勝を挙げ、加藤英司(巨人を自由契約となり、西本幸雄の仲介で移籍)の現役生活最後を飾る奮闘もあって、同年9月初めまで久々に優勝争いを演じ、球団史上最多の観客動員を記録した。また、門田と加藤が通算2000安打を達成し、門田は126試合出場で3年ぶりに31本塁打を放ち、18年目で通算3500塁打、1000得点、2000試合出場という重圧な記録を達成した。
3年目の1988年は、4月23日に「私の目の黒いうちはホークスは売らん」と語っていた川勝傳オーナーが死去するという出来事があった。チームは5月に13勝9敗1分と勝ち越して最下位を脱出し、日本ハムや阪急、ロッテとAクラス争いを展開した。7月末のオールスターブレイクには、新オーナーとなった吉村茂夫が首脳陣を集め「身売りはしない」とチームの動揺を鎮めるように語った。しかし、9月を8勝11敗と負け越し、最終的に4位から順位を落とし5位に終わった。9月10日、遠征先の東京のホテルで長池は杉浦に呼ばれ「オレは今季限りで身を引く。次の監督をやってほしい」と監督就任を要請された。長池は驚き、次期監督はチーフコーチの藤原満と目されていたことから、「順位も上がってきた。杉浦さんが続ければいいじゃないですか」と返したが、杉浦の退任の意思は固いようであった。9月13日、吉村オーナーが大手スーパー・ダイエーと球団売買の交渉をしていると認めた。球団譲渡の条件として「ホークスの名称を残す」「杉浦監督の留任」が挙げられた。この年、門田は本塁打44本、打点125で二冠を獲得し、打率.311、長打率、出塁率、四死球でもリーグで断トツの成績を残し、MVPと正力松太郎賞も授与された。吉田博之は1985年に次ぐ118試合でマスクをかぶり、初の規定打席到達を果たした。チームの得点力はリーグ2位であったが、山内和宏、藤本修二、山内孝徳ら主力が軒並み不振に陥り、チーム防御率は4.07でリーグ4位、失策数は113とリーグ最低であった。
10月12日の西武戦、10月13日の阪急戦と地元・大阪球場で連続サヨナラ勝ちを収め、迎えた10月15日の近鉄戦では、超満員の3万2000人の観衆を飲み込んだ大阪球場で6対4と勝利し、有終の美を飾った。南海としてのホームゲーム最終戦後のセレモニーで、杉浦は「長嶋君が(現役を)引退した時に『読売巨人軍は不滅です』と、こういう言葉を使ったわけですけれども...ホークスは不滅です!」「ありがとうございました、(福岡に)行ってまいります!」との感動的なスピーチを残した。長池は杉浦から「あの話はなくなった」「オレが九州に行き、監督を続けることになった」と聞かされ、さらに新たなコーチ陣を編成するために身を引いてくれたと言われた長池は、「反論のしようもなかった。3日間だけ監督の気分を味わったのだった」と述懐している。
杉浦は引き続き、1989年、福岡ダイエーホークスの初代監督となる。門田がオリックスに移籍し、大型連敗を繰り返して最下位を走ったものの、夏場に巻き返しを図った。トニー・バナザードと新外国人のウィリー・アップショーは夏場によく打ち、特に8月はバナザードが打率.349、8本塁打、23打点の大活躍で月間MVPを獲得。アップショーも打率.326、9本塁打、19打点と打線を牽引した。この2人のガッツあふれるバッティングが、他の選手にも好影響を及ぼし、8月は14勝10敗1分けと初の勝ち越しを記録した。後半に入ると、岸川勝也が当時の日本タイとなるシーズン3本のサヨナラ本塁打を記録するなど打線が粘り強さを発揮。10月5日の西武戦(西武)では8点差をひっくり返し大逆転勝利を挙げるなど(スコアは13対12)、「閉店間際のダイエー野球」は優勝を争う西武・近鉄・オリックスにとって脅威となった。最終的に3球団と互角の勝負を繰り広げ順位を4位まで上げ、優勝した近鉄には13勝11敗2分で勝ち越し、8月以降は28勝19敗3引分けと良い形でシーズンを終了し、シーズン終了後に勇退した。投手陣では吉田豊彦が10勝を挙げてローテーション入りし、加藤伸一が初の二桁勝利となる12勝を挙げた。井上祐二は27セーブでチーム初のタイトル(最優秀救援投手)を獲得した。2年目の村田勝喜や新人・松本卓也の台頭もあり、中継ぎとして矢野実が50試合登板した。野手では佐々木誠、藤本博史、岸川勝也が台頭し、バナザードとアップショーの両外国人選手で67本塁打を打ち、チームの本塁打数は166本でリーグ2位であった。
1.4.3. フロントでの活動
杉浦は1990年にフロント入りし、球団取締役としてホークスの地元福岡への地域密着に尽力した。1993年9月20日に退団が発表されるまで、その役割を全うした。
2. 選手としての特徴
杉浦忠は、その独特な投球スタイルと、他の選手からの高い評価によって、日本プロ野球史に名を残した。また、同時代のライバルである稲尾和久との関係性や、セ・リーグへの独自の対抗心も彼の野球哲学を形成する上で重要な要素であった。
2.1. 投球スタイル
杉浦の最大の武器は、地面ギリギリから浮き上がるようなストレートと、大きく横に曲がるカーブであった。特にカーブの変化は大きく、ストライクと思って空振りした左打者の体に当たってしまうことも珍しくなかったという。野村克也は自身の著書で、榎本喜八が杉浦の外角からの切れ味鋭いカーブに空振りしたのに、球が腹に食い込むように当たったエピソードに触れている。
杉浦の投球フォームは、「手首を立てたアンダースロー」と称される独特な手首の使い方が特徴であった。オーバースローをそのまま上体を横に倒したようなフォームで、腕は肩より下がることはなく、ボールに独特の回転と切れを与えた。これに加え、天性の関節の柔らかさ(特に股関節)がサイドスロー投法に合致し、流れるようなフォームから威力抜群の速球を生む要因となった。このフォームは、巨人の大友工の連続写真を新聞記者からもらい研究した結果、辿り着いたものだという。全盛期には、杉浦が投げるとき、バックネット裏やベンチにいる者にまで、手首を返す「ピシッ」という音が聞こえたと伝えられている。
野村克也は、杉浦の類まれなる下半身の強靭さと、筋肉の質の良さについて語っている。1960年オフにサンフランシスコ・ジャイアンツが来日した際に、触らせてもらったウイリー・メイズの腕の筋肉と、杉浦の腕を触ったときの感触がまるで同じで「おまえの体はメイズ並みだな」とため息が出たという。広瀬叔功も「足も速くて、何より体が柔軟だった」と証言しており、春先の不調時とはいえ「私(広瀬)は南海に入ってから、競走して負けたことはほとんど皆無だった。しかし、スギやん(杉浦)には負かされたことがある」と述べている。
2.2. 各選手からの評価
杉浦忠の投球は、同時代の多くの名選手や野球関係者から絶賛された。
野村克也は、「対戦した中で一番凄かったのは稲尾和久だけど、おれが受けた中では杉浦が最高のピッチャーだ。右打者の背後からカーブが曲がってくるんやで。背中を通る軌道の球がストライクになってくる。しかも真っすぐは明らかに浮き上がってきた」「内角への速いスライダーを右打者に投げさせてみたら、面白いようにバットが折れてさ。本当に楽しかったよ」と賛辞を贈っている。一方で、「捕手としてバッテリーを組んでいると、実に退屈だった。杉浦の投げたいように投げさせていれば、まともな打球は飛ばない。捕手の出る幕はなかった」とも語り、杉浦が日本プロ野球界で数少ない本格派のエースだったと評価している。
南海ホークスの同僚で1954年・1955年に2年連続で最多勝を獲得した宅和本司は、「杉やんの投球を見た時に『上には上がいた』と愕然とした。ピッチングの哲学にしても、ボール一つ無駄にしない。だから私の知る限り、杉やんが敬遠したのを見たことがない。四球を嫌って、いかに最少投球数でアウトを重ねるかを考えた」と語っている。さらに、「阪急の山田久志も素晴らしいアンダースローだったがタイプが違った。杉やんは下から投げるんだが、手首が立って上から投げる軌道を描く。西鉄戦は杉浦と稲尾のエース対決になるわけだが、私がブルペンに行こうと思ったら、親分(鶴岡監督)に『お前はベンチでジッとしとけ』と止められた。今日はリリーフはいらんということだろう。それほど信頼されていた。38勝した2年目なんていつ負けるんだろうと思って見ていた。もうあんなピッチャーは出てこない」と、その信頼性と実力を高く評価した。
1959年の日本シリーズで杉浦と対戦した長嶋茂雄は、「地面に沈み込むようなアンダースローの右腕から投げ込まれる速球が、右打者の背中から外角へと走っていく。まったく打てませんでした」と回顧している。
張本勲は、「パ・リーグの投手のトップ3は、稲尾、杉浦、そして、土橋正幸」と語り、杉浦のカーブについては「すごいのは杉浦さんのカーブ。ウチの西園寺昭夫さんは『当たる!』と尻もちをついた。それが、ググッと曲がってストライク。これを見た杉浦さんがクスクス。つられて球審さんまでクスクス(笑)」と述懐。さらに杉浦が「オレのカーブは大き過ぎて困ったんだ。もう少し小さく鋭く曲がるヤツが欲しいなあ」と嘆いていたことに対し、「何というぜいたくな嘆きでしょう」と驚きを表明している。また、アンダースローの投手では「1位:杉浦忠、2位:秋山登、3位:山田久志」の順で球の威力がある投手と評している。
山田久志も杉浦のカーブについて、「私は杉浦さんの現役時代にかろうじて間に合ってるんです。これは幸運だったですね。杉浦さんのカーブが信じられない曲がり方をするので『カーブについて教えてください』と頼み込んだことがありました。杉浦さんは快く『来なさい』と大阪スタヂアムのロッカーに連れて行ってくれた。で、カーブの投げ方を見せてくれたのですが『エーッ!?』でした。説明するのは難しいのですが、とにかくあんな投げ方はできっこありません。ただ、ヒジから上が立ったままなのは、私と同じでした。これでないとサブマリン投手のボールは速くならんのです」と、その独自性と凄さを語っている。
1958年の秋、来日したセントルイス・カージナルスとの日米親善野球で、カージナルスの14勝2敗という成績の中、日本の2勝のうちの1勝は杉浦が9対2で完投勝利したものであった。この試合で三振したカージナルスの4番打者スタン・ミュージアルは、帰国の際に「あの21番を付けたピッチャーが、もっとも印象に残った」とコメントしている。
『プロ野球ここだけの話』第17回「潜航御礼!サブマリンここだけの話」において、松沼博久、山田久志、渡辺俊介の3名が歴代のアンダースロー三傑について問われた際、三者とも一致して名を挙げた投手が杉浦であった。
なお、杉浦自身が、打者として対戦してみたい投手は「自分自身」であるという。理由は「自分の投げる球がどれほどのものか見てみたいから」と語っている。
2.3. 稲尾和久とのライバル関係
杉浦忠は、現役時代、同世代の大投手である稲尾和久とは数多くの対戦を重ね、互いに高め合うライバルであった。同時に、杉浦は稲尾のマウンドマナーなどから学ぶべき点も多く、稲尾の仕草を自分のものとするように努めたという。
稲尾との投げ合いになったある試合で、稲尾が投げた後の1回裏に杉浦がマウンドに行くと、稲尾が投げたことで投球の際に踏み込んだ部分はそれなりに掘られているはずなのに、マウンドはきれいに均されていた。杉浦は最初は「初回だからかな?」程度に思っていたという。しかし、2回裏、3回裏、それ以降も同様にきれいに均されており、ロージンバッグも常に手の届く位置に置かれていた。「もしや稲尾が均しているのでは?」と感じ、実際にその通りであったため、杉浦は稲尾を「すごいピッチャーだと思った」という。杉浦は「それからはすぐ稲尾の真似をしました」と語っているが、さらに「ぼくはピンチの後ではマウンドが荒れていることなどつい忘れてしまうのですが、彼はたったの一度も、マウンドが荒れた状態でぼくに(マウンドを)渡したことはなかった」と、稲尾の徹底したプロ意識に敬意を表している。
1958年の秋、セントルイス・カージナルスを迎え入れての日米親善野球で、中西太、稲尾と杯を傾ける機会があった。杯を重ねるごとに、杉浦の語気が鋭くなり、やがて二人を捕まえて「太さん、稲尾、ここに座れ」「来年は絶対に勝つからな!」と息巻いたという。中西は「大逆転で優勝を逃がした悔しさが胸の中にたぎっているような声だった」と述懐している。なお、杉浦自身は「途中からプッツンと記憶が切れてしまった」「あとから聞いた」と語っている。
野村克也が著書の中で頻繁に取り上げているエピソードの一つに、ある年のオールスター戦でベンチが一緒になった際、野村が稲尾の癖を熱心に研究していることを杉浦が喋ってしまい(杉浦は野村の研究熱心さを稲尾に誇るつもりで発言した)、稲尾が癖を直して対戦して来たため、新たに研究し直さなければならなくなったというものがある。野村は、「(三人で)セ・リーグの打撃練習を見てたら、杉浦が『サイちゃん(稲尾)、野村はよう研究しとるで』っていうわけだよ。そうしたら、稲尾の顔色がパッと変わった。それだけのことなんだけど、オールスターが終わって稲尾との初対決のとき、1球様子を見たれと思って見逃したら、インコースに来るはずの球が外角に。ありゃと思って稲尾の顔を見たらにたぁっと」と語っている。
杉浦自身の著書によると、稲尾と杉浦が投げ合って勝敗に関わった試合は、24勝24敗の五分である。
2.4. セ・リーグへの対抗精神
杉浦は、稲尾に対しては素直に学び、尊敬の念を抱いていたが、一方で、金田正一、村山実、藤田元司など華やかに脚光を浴びるセ・リーグの投手陣に対しては、徹頭徹尾、逆を行くという強い対抗精神に燃えていた。
杉浦の落ち着いたマウンドさばきや静かな語り口は、そのような対抗心から生まれたものだという。例えば、杉浦の最大の特徴である、ゆっくりしたバックスイング、大きな腕の振り、スローモーションのようなフォームは、「金田、村山、藤田の切れのいい、素早いモーションに対抗して考え出したことなのです。彼らが喜怒哀楽をオーバーに表現すればするほど、ぼくは無表情で、より紳士ぶってやったものです」と、自らの野球観を語っている。
3. 人物・エピソード
杉浦忠は、その冷静で謙虚な性格から「紳士」と称され、多くの人々に愛された。彼の人生には、野球界内外での興味深いエピソードが数多く存在した。
3.1. 人物像
野村克也は、多くの投手が「お山の大将」然とし、自己中心的なタイプが多い中で、杉浦忠は「全く珍しいタイプ」の選手だったと語っている。野村曰く「一言でいえば彼は常に紳士的だった」「いつももの静かで謙虚であり、控えめにしていた」。しかし、その一方で、「電話で珍しく杉浦がつっけんどんな応対をしている時は、相手は決まって奥さんだった」という一面もあった。
杉浦のカラオケの十八番は、志賀勝の「女」であった。特に曲の冒頭にある「志賀勝や!」という台詞の部分を「杉浦や!」に変えて歌い、周囲を笑わせていたという。
杉浦の自宅は老朽化が進み、家族から建て替えの提案があった際、彼は「この家には愛着がある。嫌なら出て行けばいいだろう」と提言を受け入れなかった。後年、KBCの解説者として福岡で活動していた時期も、大阪府堺市の自宅から通っていたという。なお、この自宅は杉浦の没後の2010年12月25日に全焼している。
3.2. 主要な人間関係
杉浦忠は、プロ野球人生において、特に鶴岡一人監督と野村克也選手との間に深い人間関係を築いた。
鶴岡一人監督とは、誰も入り込めないほどの強い絆で結ばれていた。南海の控え捕手であった鈴木孝雄は、二人の関係を「だれも入り込めない仲。でもベタベタしたところは一切ない。周囲には見えない絆だった。でも、あの二人には見えていたのかもしれない」と表現している。杉浦の妻は、杉浦が右腕の血行障害で腕が真っ白になった際、「どうして監督さんに、もう投げられないかもしれませんって言わないの?」と尋ねたところ、「バカヤロー!こういう体になっても投げるのがエースなんだ!」と怒鳴られたというエピソードを語っている。杉浦は鶴岡監督に対して深い尊敬と愛情を抱いており、「おれはサムライの時代に生まれたかった」と語るほど、世のため人のために尽くすことを重んじる人物であった。妻はまた、「勝ち試合は当たり前で、負けてるゲームに投げるのもエースの仕事だと。絶対に自分からマウンドを降りるような人じゃなかったから毎日投げていたような気がします」と、夫のプロとしての矜持を語っている。広瀬叔功は、ある時杉浦に「親分に褒め言葉、言われたことあるか?」と尋ねたところ、杉浦はしばらく考え込んでから「そう言えば、全然ないなあ」と微笑んで答えたという。広瀬も同様に鶴岡から直接褒められたことは無かったといい、「多分、それでいいのだ。言葉にしなくても分かり合えるものはある。人生最大の感激を運んでくれた愛弟子であってさえも、直接には何も語りかけない。それが親分だったし、親分とスギやんの絆には、言葉など不要だったのかもしれない」と述懐している。
野村克也との関係は、現役時代は非常に良好であった。杉浦、野村、広瀬叔功の三人は、地元でも遠征先でも常に連れ立って遊び回り、下戸の野村も機嫌よく酒の席に付き合っていたという。そのため、三人揃っての門限破りも日常茶飯事であり、鶴岡監督からは黒澤明監督の映画『隠し砦の三悪人』をもじって「南海の三悪人」と呼ばれていた。杉浦は、野村が三冠王を獲得した1965年12月に刊行した初の著書に寄せたコメントで、「ボクが言うのもおかしいが、野村君という人間をいちばんよく知っているのは、ボクじゃないかと思う。とにかく頭のいい男だ。そのおかげで、ボクのピッチングがどれだけ救われたかわからない」と野村への信頼と感謝を語っている。
しかし、この友情は杉浦の引退直後に野村と伊東芳枝(後の野村沙知代)とのダブル不倫が始まったことで崩壊へと向かう。南海に留まって沙知代と激しく衝突していた広瀬とは異なり、引退後は南海を離れて解説者および近鉄のコーチを務めていた杉浦は直接関わりを持つことはなかった。しかし、1977年9月に野村が沙知代の度重なる現場介入を理由にシーズン途中で監督を解任されると、野村は同年10月に『週刊文春』に発表した「独占手記」と題する文章の中で、自分が解任に追い込まれた原因は鶴岡派の陰謀によるものであり、「鶴岡親分の最優秀門下生」である杉浦が監督になれなかったために様々な嫌がらせをされたと主張した。また、1969年オフの兼任監督就任直後に杉浦が引退しようとしたのは、自身が監督になれなかった事への腹いせであるとし、その時に杉浦に対して面と向かって「お前、監督になりたかったんとちがうか」と言ってやったと主張した。さらに野村は、1965年11月に鶴岡が南海退団の意思を表明した際に、他の幹部選手達と共に鶴岡邸へ退団を思い止まるよう頼みに行った際、鶴岡から「三冠王?......ちゃんちゃらおかしいよ」「ホームラン王?......ちゃんちゃらおかしいよ」「ほんとに南海に貢献したのは杉浦だけじゃ」と言われたと主張した。しかし実際には、鶴岡は1960年代前半の時点で「自分の後任は、第一候補は蔭山、第二候補が野村」とする構想を周囲に明示しており、この構想は球団内で広く共有されていたため、野村が繰り返し主張した杉浦の監督就任工作は実在しない。
3.3. その他のエピソード
杉浦忠の生涯は、野球における偉大な功績だけでなく、人間味あふれる様々なエピソードによって彩られている。
- 幻のメジャーリーガー第一号**:1960年の秋、優勝争いをしていたシカゴ・ホワイトソックスから、南海ホークスに「杉浦を貸してほしい」との申し入れがあった。残り十数試合のみのレンタルであったが、これが実現していれば、杉浦は日本人大リーガー第一号となるところであった。鶴岡監督も「日本野球のためになる。チャンスだから、やってこい」と賛成し、パスポートも取得し、渡米寸前まで話は進んだ。しかし、直前になって、大毎と優勝争いをしており、優勝の望みが一縷でもある以上出すわけにはいかない、との理由で球団からストップがかかり、実現しなかった。
- 立教時代の脱走歴**:当時の東京六大学野球部では、立教大学と明治大学の野球部のしごきの激しさは群を抜いていた。砂押邦信監督のスパルタ訓練に悲鳴をあげ、合宿所では上級生の鉄の規律に震え上がり、合宿所を抜け出したことが二度ほどあるという。一つは1年生の春のシーズン終了後、肩を痛め「もう肩は治らないのではないか」と思い詰め、また上級生のしごきのすさまじさに押しつぶされそうになり実家に帰った際で、この時は砂押監督の指示で部のマネジャーが迎えに来て、しぶしぶ合宿所に戻った。もう一つは大学2年生だった1955年頃、野球部の合宿所を抜け出し、中日ドラゴンズへの入団を図った際である。
- 読売ジャイアンツへの反感**:1948年オフシーズンに別所毅彦が南海から読売ジャイアンツへ移籍した事件(通称「別所引き抜き事件」)の経緯を報じる記事を見て、「なんて汚いことをするんだ」と感じた杉浦は、それ以来「アンチ巨人」になったと語られている。
4. 死去と遺産
杉浦忠は、その輝かしい野球人生の幕を閉じてもなお、日本野球界に多大な影響を与え続けた。
4.1. 死去
2001年11月11日、杉浦はプロ野球マスターズリーグ・大阪ロマンズのヘッドコーチとして遠征で宿泊していた札幌市中央区のホテルで、急性心筋梗塞のため死去した。享年66歳。
浄土真宗本願寺派堺別院で行われた告別式では、山門前に集まったファンが掲げる南海ホークスの球団旗と、球団歌「南海ホークスの歌」の合唱で見送られ、その死を悼んだ。
4.2. 遺産
杉浦忠の功績を称え、プロ野球マスターズリーグの最優秀投手に与えられる「杉浦賞」にその名を冠している。
また、彼の母校である愛知県立豊田西高等学校のグラウンド脇には、杉浦が南海ホークスのユニフォーム姿で立つ胸像(高さ1.85 m)が建立されており、故郷の野球少年たちを見守り続けている。
杉浦忠は1995年に野球殿堂入りを果たした。彼の、特に1959年に記録した38勝や投手五冠達成といった歴史的な偉業、そしてその「球界の紳士」としての生き様は、日本野球史に深く刻まれ、後世に多大な影響を与え続けている。
5. 詳細情報
5.1. 年度別投手成績
年 度 | 所 属 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ | ブ | ホ | ル ド | 勝 率 | 打 者 | イ ニ ン グ | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ | ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | WHIP | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1958年せんきゅうひゃくごじゅうはちねん日本語 | 南海 | 53 | 34 | 14 | 1 | 3 | 27 | 12 | -- | -- | .692 | 1187 | 299.0 | 235 | 11 | 72 | 4 | 13 | 215 | 4 | 0 | 91 | 68 | 2.05 | 1.03 |
1959年せんきゅうひゃくごじゅうきゅうねん日本語 | 69 | 35 | 19 | 9 | 9 | 38 | 4 | -- | -- | .905 | 1377 | 371.1 | 245 | 17 | 35 | 2 | 11 | 336 | 2 | 0 | 67 | 58 | 1.40 | 0.75 | |
1960年せんきゅうひゃくろくじゅうねん日本語 | 57 | 29 | 22 | 4 | 8 | 31 | 11 | -- | -- | .738 | 1284 | 332.2 | 266 | 28 | 44 | 5 | 5 | 317 | 1 | 0 | 85 | 76 | 2.05 | 0.93 | |
1961年せんきゅうひゃくろくじゅういちねん日本語 | 53 | 20 | 12 | 1 | 1 | 20 | 9 | -- | -- | .690 | 946 | 241.2 | 202 | 24 | 31 | 3 | 10 | 190 | 1 | 0 | 85 | 75 | 2.79 | 0.96 | |
1962年せんきゅうひゃくろくじゅうにねん日本語 | 43 | 18 | 6 | 1 | 1 | 14 | 15 | -- | -- | .483 | 705 | 172.2 | 165 | 12 | 36 | 4 | 5 | 96 | 1 | 0 | 68 | 59 | 3.07 | 1.16 | |
1963年せんきゅうひゃくろくじゅうさんねん日本語 | 51 | 24 | 9 | 1 | 3 | 14 | 16 | -- | -- | .467 | 990 | 252.2 | 217 | 30 | 46 | 5 | 1 | 156 | 1 | 0 | 86 | 74 | 2.63 | 1.04 | |
1964年せんきゅうひゃくろくじゅうよねん日本語 | 56 | 33 | 9 | 1 | 3 | 20 | 15 | -- | -- | .571 | 1100 | 270.2 | 253 | 28 | 52 | 4 | 9 | 162 | 1 | 0 | 103 | 91 | 3.02 | 1.13 | |
1965年せんきゅうひゃくろくじゅうごねん日本語 | 36 | 8 | 3 | 0 | 0 | 8 | 1 | -- | -- | .889 | 429 | 111.1 | 85 | 10 | 16 | 0 | 2 | 82 | 0 | 0 | 27 | 27 | 2.19 | 0.91 | |
1966年せんきゅうひゃくろくじゅうろくねん日本語 | 27 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | -- | -- | .333 | 191 | 51.0 | 42 | 6 | 3 | 0 | 0 | 39 | 0 | 0 | 16 | 14 | 2.47 | 0.88 | |
1967年せんきゅうひゃくろくじゅうななねん日本語 | 45 | 4 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | -- | -- | .500 | 384 | 98.1 | 82 | 9 | 16 | 2 | 2 | 68 | 0 | 0 | 29 | 26 | 2.39 | 1.00 | |
1968年せんきゅうひゃくろくじゅうはちねん日本語 | 41 | 7 | 0 | 0 | 0 | 5 | 6 | -- | -- | .455 | 457 | 111.0 | 100 | 8 | 32 | 6 | 4 | 53 | 1 | 0 | 39 | 33 | 2.68 | 1.19 | |
1969年せんきゅうひゃくろくじゅうきゅうねん日本語 | 30 | 5 | 1 | 0 | 0 | 2 | 7 | -- | -- | .222 | 268 | 65.1 | 68 | 8 | 16 | 1 | 3 | 33 | 0 | 0 | 33 | 30 | 4.15 | 1.29 | |
1970年せんきゅうひゃくななじゅうねん日本語 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 141 | 35.2 | 28 | 4 | 10 | 1 | 2 | 9 | 0 | 0 | 13 | 11 | 2.75 | 1.07 | |
通算:13年 | 577 | 217 | 95 | 18 | 28 | 187 | 106 | -- | -- | .638 | 9459 | 2413.1 | 1988 | 195 | 409 | 37 | 67 | 1756 | 12 | 0 | 742 | 642 | 2.39 | 0.99 |
- 各年度の太字はリーグ最高
5.2. 年度別監督成績
年 度 | 球 団 | 順 位 | 試 合 | 勝 利 | 敗 戦 | 引 分 | 勝 率 | ゲ | ム 差 | 本 塁 打 | 打 率 | 防 御 率 | 年 齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年せんきゅうひゃくはちじゅうろくねん日本語 | 南海 ダイエー | 6位 | 130 | 49 | 73 | 8 | .402 | 21.5 | 136 | .251 | 4.46 | 51歳 |
1987年せんきゅうひゃくはちじゅうななねん日本語 | 4位 | 130 | 57 | 63 | 10 | .475 | 16.0 | 132 | .261 | 3.86 | 52歳 | |
1988年せんきゅうひゃくはちじゅうはちねん日本語 | 5位 | 130 | 58 | 71 | 1 | .450 | 17.5 | 162 | .267 | 4.07 | 53歳 | |
1989年せんきゅうひゃくはちじゅうきゅうねん日本語 | 4位 | 130 | 59 | 64 | 7 | .480 | 11.0 | 166 | .257 | 4.74 | 54歳 | |
通算:4年 | 520 | 223 | 271 | 26 | .451 | Bクラス4回 |
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
5.3. タイトル・表彰
杉浦忠が獲得した主要なタイトルと表彰は以下の通りである。
- タイトル**
- 最多勝利:1回 (1959年)
- 最優秀防御率:1回 (1959年)
- 最多奪三振:2回 (1959年、1960年) ※当時連盟表彰なし、パシフィック・リーグでは1989年より表彰
- 最高勝率:1回 (1959年)
- 表彰**
- 最高殊勲選手(MVP):1回 (1959年)
- 新人王 (1958年)
- ベストナイン:1回 (1959年)
- 野球殿堂競技者表彰(1995年)
- 最優秀投手:1回 (1959年)
- 日本シリーズMVP:1回 (1959年)
- 日本シリーズ最優秀投手賞:1回 (1959年)
- 豊田市栄誉賞(1996年)
5.4. 記録
杉浦忠がプロ野球で達成した主要な記録は以下の通りである。
- 初記録**
- 初登板・初先発・初勝利:1958年4月5日、対東映フライヤーズ1回戦(駒澤野球場)、7回2失点
- 初奪三振:同上、1回裏に毒島章一から
- 初完投勝利:1958年4月20日、対毎日大映オリオンズ2回戦(川崎球場)、9回2失点
- 初完封勝利:1958年9月24日、対東映フライヤーズ22回戦(大阪スタヂアム)
- 節目の記録**
- 1000投球回:1959年10月2日、対阪急ブレーブス28回戦(阪急西宮球場) ※史上89人目
- 100勝:1961年5月6日、対西鉄ライオンズ5回戦(平和台野球場) ※史上32人目
- 1000奪三振:1961年7月29日、対西鉄ライオンズ17回戦(大阪スタヂアム)、9回表に城戸則文から ※史上23人目
- 1500投球回:1963年6月27日、対東映フライヤーズ13回戦(明治神宮野球場) ※史上48人目
- 150勝:1964年5月26日、対東京オリオンズ14回戦(大阪スタヂアム) ※史上17人目
- 1500奪三振:1965年5月2日、対阪急ブレーブス5回戦(阪急西宮球場)、8回裏にダリル・スペンサーから ※史上13人目
- 2000投球回:1965年5月19日、対東映フライヤーズ7回戦(大阪スタヂアム) ※史上28人目
- 500試合登板:1968年5月24日、対阪急ブレーブス9回戦(阪急西宮球場)、6回裏2死に3番手で救援登板・完了、3回1/3を無失点 ※史上22人目
- その他の記録**
- 投手三冠王:1回 (1959年)※史上9人目
- 投手4冠:1回 (1959年)※史上6人目
- 投手5冠:1回 (1959年)※史上5人目、パ・リーグ初、20世紀のパ・リーグ史上唯一
- シーズン勝ち越し34:1959年 ※歴代最多
- 54.2イニング連続無失点(1959年9月15日 - 10月20日)
- 新人から3年連続開幕投手(1958年 - 1960年) ※2リーグ制以降唯一の記録だったが、後に則本昂大が4年連続(2013年 - 2016年)で更新
- 初回先頭打者から3者連続被本塁打:1964年7月17日、対阪急ブレーブス戦(大阪球場)、1回表に衆樹資宏、河野旭輝、ダリル・スペンサーに被本塁打 ※史上初
- 日本シリーズ4連投4連勝:1959年 ※稲尾和久以来史上2人目、無敗は唯一
- 日本シリーズ4勝:同上 ※稲尾和久以来史上2人目
- オールスターゲーム出場:6回 (1958年 - 1961年、1964年、1965年)
5.5. 背番号
杉浦忠が選手、コーチ、監督として使用した背番号は以下の通りである。
- 21 (1958年 - 1970年)
- この背番号は、杉浦が六大学選抜チームでフィリピン遠征をした際に着けていたもので、当初球団が用意していた14番から変更してもらったという。これは、杉浦が「カウント2ストライク1ボールと追い込み、そこから勝負するのが投手」という自身の哲学を持っていたことに由来する。引退試合時の新聞報道では「永久欠番になる」と記されたが、正式に球団がこれを定めたかは不明で、1971年には着用者はいなかったものの、同年のドラフト会議で1位指名された野崎恒男が1972年から使用することになり、「欠番」扱いは1シーズンのみであった。
- 70 (1974年 - 1977年)
- 71 (1986年 - 1988年)
- 81 (1989年)
5.6. 著書
杉浦忠は、自身の野球人生や哲学について記した著書を出版している。
- 『僕の愛した野球』(海鳥社:1995年9月)
5.7. 関連番組出演
杉浦忠が野球解説者として出演した主なテレビ・ラジオ番組は以下の通りである。
- MBSベースボールパーク (MBSラジオ)
- KBC解説者時代にも火曜から木曜にネット受けで出演していた。
- S☆1 BASEBALL (毎日放送時代に出演したTBS系列の中継番組の現行統一タイトル)
- 稀にTBS制作分(大洋対巨人戦など)にも出演することがあった。
- KBCホークスナイター (KBCラジオ)
- 毎日放送解説者時代にも火曜から木曜、1973年までの土曜・日曜にネット受けで出演していた。
- スーパーベースボール (毎日放送時代( - 1973年)およびKBC時代に出演したNETテレビ→テレビ朝日系列の中継番組の現行統一タイトル)
- 毎日放送時代にはNETテレビ・広島ホームテレビ制作中継に出演することもあった。
- BASEBALL Real&Live (毎日放送時代( - 1973年)に出演した東京12チャンネル→テレビ東京系列の中継番組の現行タイトル)