1. 生涯
西田敏行は、その波乱に富んだ幼少期から、俳優としての輝かしいキャリア、そして晩年の健康問題に至るまで、数々の重要な出来事を経験した。
1.1. 幼少期と教育
西田敏行は1947年11月4日、福島県郡山市で、郵政省貯金局に勤務する実父の今井泉と実母の紀惠の間に「今井敏行」として生まれた。父は「何事にも動じず、素早く行動してほしい」という願いを込めて「敏行」と名付けた。父方の祖先は和泉国伯太藩の家老を務めた今井家である。幼くして実父を亡くし、実母が美容師として彼を育てたが、5歳の時に実母が再婚したため、実母の姉である伯母の美代と、その夫である辰治の西田夫妻に引き取られ、養子となった。養父の辰治は1907年生まれの日本陸軍軍人で、戦争中は択捉島に勤務し、終戦後にはシベリア抑留も経験した。戦後は郡山市役所に定年まで勤めたが、生活は厳しく、家族は郡山市の香久山神社の社務所に住んでいたという。
少年時代、養父に連れられて映画館に通い、剣戟映画に夢中になった。特に映画のスクリーンに映る自分をぼんやり夢想していたという。小原田小学校を卒業後、市立第三中学校に入学し、その後小原田中学校の創設に伴い1年次に小原田中学校へ移った。中学時代は国語と英語が得意で、漠然と俳優になることを考え、演劇に興味を持った。しかし、当時の演劇部は女子部員ばかりで、男子はスポーツをするのが一般的だったため、演劇活動に積極的に参加することはなかった。映画で「東京弁」に触れる中で、自身の福島弁が標準語の習得の妨げになるのではないかという危機感を抱き、標準語を習得するため、中学卒業後に上京を決意。俳優を多く輩出しているという雑誌の記事を読み、明治大学付属中野高校へ進学した。
高校ではバレーボール部に入部したが、男子部員に困っていた演劇部の女子部員に請われ、顧問のような形で演劇部にも参加した。1年生の頃は方言が直らず、高校生活に馴染めずに恩賜上野動物園に通い詰めては一日中ゴリラを観察していたため、飼育課長からは「あんなにゴリラの好きな人って生まれて初めて見ました」と評されたという。
1966年(昭和41年)、明治大学農学部に入学すると同時に日本演技アカデミー夜間部に入所した。日本演技アカデミーに熱中し、大学を1年で中退してアカデミーの昼間部に通った。翌1967年にアカデミーを卒業後、友人たちと劇団「シアター67」を結成するが、1年で解散した。この頃のアルバイトの時給は95 JPYだったという。
1.2. 俳優としてのデビューと初期の活動
西田敏行は1967年(昭和42年)、TBSテレビのドラマ『渥美清の泣いてたまるか』でテレビ俳優としてデビューした。1968年(昭和43年)に青年座俳優養成所に入り、1970年(昭和45年)に卒業して青年座座員となった。同年7月の青年座公演『情痴』(作:西島大)で初舞台を踏み、少年Aを演じた。この時、「テアトロ」誌に「西田敏行という俳優が面白い」と評され、西田はこの記事を大切に保管していた。師匠の中台祥浩(1928年-1980年)からは「これからも面白い役者ということをお前の命題にしてやっていけ」と言われ、西田は「今でもうまい役者になりたいとは、思わない」と語るほど、この言葉を胸に刻んだ。1971年(昭和46年)10月の公演『写楽考』(作:矢代静一)では早くも主役に抜擢され、大器の片鱗を見せた。
その後は役者として不遇な時期も経験したが、1976年(昭和51年)にレギュラー出演したTBSのドラマ『いごこち満点』と『三男三女婿一匹』で注目を集めた。特に『三男三女婿一匹』では森繁久彌のアドリブにも堂々と渡り合う硬軟自在で個性的な演技と、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得した。1977年(昭和52年)にはテレビ朝日『特捜最前線』、1978年(昭和53年)には日本テレビ『西遊記』に重要な役でレギュラー出演し、人気を不動のものにした。
さらに1980年(昭和55年)には日本テレビ『池中玄太80キロ』とテレビ朝日『サンキュー先生』で主演を務め、翌1981年(昭和56年)にはNHK大河ドラマ『おんな太閤記』で準主役を務めるなど、連続ドラマへの出演が続いた。歌手としても精力的に活動し、1981年(昭和56年)4月に発売した『もしもピアノが弾けたなら』(『池中玄太80キロ』第2シリーズ主題歌)はミリオンセラーとなる大ヒットを記録した。この頃の体重は81 kgだった。
西田はNHK紅白歌合戦において、司会、歌手、審査員、応援(ナレーションを含めると5パターン)の全ての基本パターンで出演経験がある唯一の人物である。その素朴で飾り気のないキャラクター、ユーモアあふれるトーク、即興の才能、そしてコメディアンとしての才能は、バラエティ番組やコント番組でも注目され、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』をはじめとする数多くの番組に出演し、司会を務めるなど、演劇活動以外でもマルチな才能を発揮した。
1.3. 主な経歴と大衆的な成功
1986年(昭和61年)、映画『植村直己物語』で主演を務めた。この作品は、彼が明治大学農学部の先輩にあたり、映画公開の2年前にデナリで消息を絶った冒険家・植村直己を演じたものである。映画ではモンブラン、エベレスト、デナリ、北極など植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行。7か月に及ぶ長期ロケは過酷を極め、西田は死を覚悟して臨んだという。彼はこの経験を「実際に大自然と対峙し、つくづく抗えないことがあるんだと痛感させられました。同時に、大自然の中に身を置いて芝居をするという経験が、僕に言葉にはならない、いろんなものを与えてくれたという意味で、エポックメーキングになった作品」と語り、自身にとって大きな転機となった作品だと位置づけている。2年後の1988年6月公開の映画『敦煌』でも長期の現地ロケに参加し、一時は「極地俳優」の異名をとった。

1988年(昭和63年)からは映画『釣りバカ日誌』シリーズに出演し、三國連太郎との名コンビで「ハマちゃん」役を演じた。このシリーズは最終の第20作(特別編2本を含めると22作)まで約22年に及ぶ長期シリーズとなり、西田自身の代表作の一つとなった。西田の映画初出演作は、奇しくも三國が主演した『襤褸の旗』(1974年)で、反体制派農民の一人を演じている。
1994年(平成6年)、東宝ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢され、その後7年にわたって出演した。
2000年(平成12年)には、テレビ朝日『ネイチァリングスペシャル「風雪の聖地アンデス縦断4000キロ」- 西田敏行53歳 米大陸最高峰アコンカグアに挑む -』の収録のため、南米最高峰アコンカグア(標高6962 m)登山に挑戦した。この当時、焼肉とビールをこよなく愛する大食漢で大酒飲みでありながら、運動は数か月に1度のゴルフ程度、1日の喫煙量は80本以上のヘビースモーカーという生活で、体重は94 kgに達していた。そのため、中性脂肪が人並外れて高いなど身体的な不安を抱えながらも、8月からネパールでの高地トレーニングを開始した。11月上旬にアタックを開始したが、強風や低温など悪天候に恵まれず、スケジュール的に無理と判断し、高度6830 m地点で登頂を断念している。この挑戦には、『植村直己物語』の撮影以来親交のある小西浩文を登山隊長に迎え、国内有数の登山家がサポーターとして同行した。
2001年(平成13年)には朝日放送テレビ『探偵!ナイトスクープ』の2代目局長に就任し、2019年11月22日放送分まで約19年間にわたりレギュラー出演した。初代局長である上岡龍太郎が2000年3月末で芸能界を引退したため、番組から熱心な打診を受け内諾。しかし、大河ドラマ『葵 徳川三代』の収録とアコンカグア登山のスケジュールが重なり、登場まで局長席に「鋭意交渉中」の札が掛けられた。西田は日本への帰国直後、そのままABCホールに直行して収録に臨み、ニットシャツにジーンズ、無精髭をたくわえたワイルドな姿で登場した。
2009年(平成21年)には里見浩太朗の後を受けて日本俳優連合の第5代理事長に就任し、俳優の資質や地位の向上、権利問題などにも取り組んだ。2010年(平成22年)3月には、『釣りバカ日誌』シリーズで22年にわたり国民に笑いと感動を与え続け、日本映画界に残した数々の功績を讃えられ、三國連太郎と共に第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞した。
1.4. 健康問題と活動の継続
西田敏行は俳優活動中にいくつかの深刻な健康問題を経験したが、その都度回復し、活動を継続した。
2001年(平成13年)11月7日、首の骨が変形し、頸椎の神経が圧迫される「頸椎性脊髄症」を患い入院した。15日に神経圧迫部位を除去する手術を受け、翌月には退院し、仕事に復帰した。
2003年(平成15年)3月3日夜、自宅で心筋梗塞のため倒れ、緊急入院した。処置が早く、症状も安定していたため、28日には退院できた。この入院が原因で、紀伊國屋ホールで主演予定だった青年座の舞台「乳房」(作:市川森一)を降板せざるを得なくなった。この時、親交のあった吉永小百合から「タバコだけはやめてね、西やん」という手紙を受け取り、これに奮起して禁煙を決意した。また、体重も82 kgまで減量した。復帰後のインタビューでは、「ここで死んだら遺作(のタイトル)が『ゲロッパ!』になるが、それだけは避けたかった」と、当時の出演映画のタイトルを交えながらユーモラスに語り、全快をアピールした。
2004年(平成16年)1月1日、前日をもって青年座を退団し、長年マネージャーを務めていた小林保男が設立したオフィスコバックに移籍した。これは自身の健康上の問題に加え、師事していた青年座元プロデューサーの金井彰久が2001年に死去したことが契機となった。
2016年(平成28年)2月1日、自宅ベッドからの転落により首を痛め、「頸椎亜脱臼」と診断された。出演中のドラマ『家族ノカタチ』の撮影は継続したが、予定されていた『探偵!ナイトスクープ』の収録は欠席した。2月26日には同番組の収録に復帰するも、4月19日には腰椎の一部を頸椎に移植する手術を受けた。術後には胆嚢炎を発症し、5月12日には胆嚢の摘出手術も行った。5月19日、『人生の楽園』のナレーションで仕事に復帰し、6月3日には『探偵!ナイトスクープ』の収録でテレビに復帰した。6月11日に退院したが、この入院に関して薬物乱用疑惑などの虚偽情報がインターネット上で拡散された。これに対し、所属事務所は同年8月に警視庁赤坂警察署に被害届を提出し、違法な書き込みに対して刑事・民事両面での責任追及を進める警告文を発表した。同年10月4日、『ドクターX~外科医・大門未知子~』(第4シリーズ)の制作発表会見で、西田は自ら「『シャブ隠しのために入院したらしいぞ』とまで言われた。私は"シャブ中"ではございませんので、一つよろしくお願いします」と述べ、デマを明確に否定した。2017年(平成29年)7月5日、警視庁赤坂署は虚偽の書き込みを行った男女3人を偽計業務妨害容疑で書類送検した。
これらの困難にもかかわらず、西田は精力的な活動を続けた。2018年(平成30年)4月には春の叙勲で旭日小綬章を受章。同年7月30日には故郷の福島県から県民栄誉賞が贈られることが発表され、9月17日に郡山市で表彰式が行われた。2019年(令和元年)11月22日放送分をもって約19年間務めた『探偵!ナイトスクープ』の局長を卒業した。
1.5. 死去
西田敏行は2024年(令和6年)10月17日、東京都世田谷区の自宅でベッドで冷たくなっているところを付き人により発見され、死亡が確認された。76歳没。死亡当日も仕事の予定を入れており、同月8日には映画『劇場版ドクターX FINAL』の完成報告会見に出席したばかりだった。
遺体は即日警察に回送され検案された。警察の検案結果を受け、10月18日に所属事務所が死因は虚血性心疾患であることを明らかにした。葬儀は同月23日、東京都内の寺院で家族葬として執り行われ、戒名は「芸月院敏那覚優居士(げいげついんびんなかくゆうこじ)」と名付けられた。
死没日付をもって日本国政府より従五位に叙された。また、2024年12月16日には、故郷の福島県郡山市より西田に『名誉市民』の称号が贈られることが、同市議会で関連条例と予算が可決され決定した。2025年2月18日には、増上寺光摂殿(東京都港区)において「お別れの会」が執り行われ、一般の参列者向けの献花台も設置された。
2. 演技活動
西田敏行は、その幅広い演技力で映画、テレビドラマ、舞台演劇、そして吹き替えと多岐にわたるジャンルで活躍し、数多くの印象的な役柄を演じた。
2.1. 映画
西田敏行の映画キャリアは多岐にわたり、特に主演作では、その人情味あふれる演技や個性的なキャラクターが光った。
彼は1974年の『沖田総司』で永倉新八を、同年公開の『襤褸の旗』では反体制派農民の多々良治平を演じ、映画デビューを果たした。1979年には『悪魔が来りて笛を吹く』で主演の金田一耕助を演じ、探偵役にも挑戦した。
1986年の『植村直己物語』では実在の冒険家である植村直己を、1988年の『敦煌』では朱王礼をそれぞれ主演で演じ、極限状態での撮影に挑んだ。特に後者では、自身が初の日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した。
彼の代表作として最も知られるのは、1988年から2009年まで22作が製作された『釣りバカ日誌』シリーズである。このシリーズでは主人公の「ハマちゃん」こと浜崎伝助を演じ、三國連太郎演じる「スーさん」との名コンビで国民的な人気を博した。
1993年には山田洋次監督の『学校』で主演の黒井先生を演じ、再び日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。山田監督とは『学校II』(1996年、主演)、『虹をつかむ男』シリーズ(1996年、1997年、主演)でもタッグを組んだ。
その他の主な出演作として、2002年の『陽はまた昇る』(渡辺謙とダブル主演)、2003年の『ゲロッパ!』(主演)、2006年の三谷幸喜監督作『THE 有頂天ホテル』、『椿山課長の七日間』(主演)などがある。2008年には再び三谷幸喜監督作『ザ・マジックアワー』に出演。2009年には『旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ』と『火天の城』で主演を務めた。
近年では、2010年の『SPACE BATTLESHIP ヤマト』で徳川彦左衛門を、2011年には『星守る犬』(主演)で感動的な演技を見せた。また、北野武監督の『アウトレイジ ビヨンド』(2012年)、『アウトレイジ 最終章』(2017年)ではヤクザの幹部・西野一雄を演じ、その冷徹な役柄で新たな一面を披露した。2013年には三谷幸喜監督の『清須会議』に、2017年には『ナミヤ雑貨店の奇蹟』で主演を務めた。遺作となったのは、2024年公開の『劇場版ドクターX FINAL』である。
2.2. テレビドラマ
西田敏行のテレビドラマにおける活躍は、その幅広い役柄と長期にわたる出演で知られる。特にNHK大河ドラマには数多く出演し、その歴史に名を刻んだ。
彼のキャリア初期には、1970年の『ありがとう』(TBS)、1972年のNHK大河ドラマ『新・平家物語』(北条義時役)などがある。その後、『特捜最前線』(テレビ朝日、1977年-1979年、高杉陽三刑事役)、『西遊記』(日本テレビ、1978年、猪八戒役)で人気を確立した。
1980年には主演ドラマ『池中玄太80キロ』(日本テレビ)が大ヒットし、翌1981年のNHK大河ドラマ『おんな太閤記』では豊臣秀吉役を好演し、その台詞「おかか」(正室ねねの呼称)は当時の流行語となった。
大河ドラマには、1972年の『新・平家物語』から2022年の『鎌倉殿の13人』(後白河法皇役)まで、計14作に出演。これは大河ドラマ史上最多出演記録である。また、1984年の『山河燃ゆ』(天羽忠役)、1990年の『翔ぶが如く』(西郷隆盛役)、1995年の『八代将軍吉宗』(徳川吉宗役)、2000年の『葵 徳川三代』(徳川秀忠役)の4作で主演を務め、これは大河ドラマの主演回数としても歴代最多である。彼は歴代の徳川将軍家の人物を演じることが多く、『八代将軍吉宗』で徳川吉宗、『葵 徳川三代』で徳川秀忠、『功名が辻』(2006年)で徳川家康と、3名の徳川家将軍を演じた。特に『功名が辻』では、家康の肖像画に近づけるため、特殊メイクで福耳を施して演じた。戦国三英傑のうち豊臣秀吉と徳川家康の2人を演じたのは西田が唯一である。
その他の人気テレビドラマシリーズとして、『ドクターX~外科医・大門未知子~』シリーズ(テレビ朝日、2013年-2021年)で蛭間重勝役を演じ、その強烈なキャラクターで視聴者に親しまれた。彼の最後のテレビドラマ出演作は、2024年11月30日放送の『ドクターY~外科医・加地秀樹~ 第7弾』であり、遺作となった。
2.3. 舞台演劇
西田敏行は、テレビや映画での活躍と並行して、舞台演劇にも情熱を注ぎ、数多くの作品に出演した。
青年座座員としての初舞台は1970年の『情痴』であり、その後も『抱擁家族』(1971年)、『写楽考』(1971年、1972年、1977年)、『悲喜劇おんな系図』(1971年)、『明治の柩』(1973年)、『神々の死』(1973年)、『私はルヴィ』(1975年)など、数々の青年座公演に出演した。
外部の舞台では、1978年の『セチュアンの善人』、1979年の『盟三五大切』と『欲望という名の電車』、1981年の『冒険ダン吉の冒険』、1982年の『江戸のろくでなし』、1985年の『弥次喜多』などに出演し、幅広い役柄を演じた。
特に彼の舞台活動で特筆されるのは、東宝ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』におけるテヴィエ役である。1994年から2001年にかけて帝国劇場や梅田コマ劇場で上演されたこの作品で、森繁久彌、上條恒彦に続く3代目テヴィエを演じ、その歌唱力と存在感で観客を魅了した。
その他、1990年には『からゆきさん』、1995年には『つくづく赤い風車-小林一茶-』、1999年には『リセット』など、多様な舞台作品に出演し、その演技の幅広さを示した。
2.4. 吹き替え・声優活動
西田敏行は、その特徴的な声質と表現力を活かし、アニメ映画や海外映画の吹き替えにも数多く参加した。
アニメ映画では、1979年の『がんばれ!!タブチくん!!』シリーズで主人公のタブチくんの声を担当し、プロ野球ファンとしての顔も披露した。2012年の沖浦啓之監督作品『ももへの手紙』では、妖怪のイワ役の声を担当し、作品に深みを与えた。
海外映画の吹き替えでは、2005年のアメリカ映画『ロボッツ』でビッグウェルド博士の日本語吹き替えを担当。さらに、2016年のディズニー映画『ジャングル・ブック』では、陽気なクマのバルー役の吹き替えを担当し、劇中歌も披露した。
人形劇にも出演しており、1978年のTBSテレビ『ヤンマーファミリーアワー 飛べ!孫悟空』では牛魔大王役を、2009年のNHK教育『連続人形活劇 新・三銃士』ではベルトラン役を務めた。
3. その他の活動
西田敏行は俳優業にとどまらず、歌手活動、バラエティ番組の司会、CM出演など、多岐にわたる分野でその才能を発揮し、大衆に親しまれた。
3.1. 音楽活動
西田敏行は1977年にシングル『木綿の愛情』で歌手デビューし、その後も精力的に音楽活動を展開した。彼の音楽キャリアで最も成功したのは、1981年にリリースされた『もしもピアノが弾けたなら』である。この曲は、自身が主演を務めた日本テレビ系テレビドラマ『池中玄太80キロII』の主題歌として大ヒットを記録し、彼の代表曲となった。
シングル以外にも、1980年のアルバム『風に抱かれて』に収録された『いかすぜ!この恋』では、彼の持ちネタであるエルヴィス・プレスリーのモノマネで歌い上げ、大滝詠一がプロデュースを担当したことでも知られる。歌詞はプレスリーの楽曲タイトルのみを繋いだユニークなもので、ザ・キング・トーンズがバックコーラスを務めた。
また、CMソングへの参加も多く、1983年には『ブックローン』のCMソング『リブロック』を、1994年にはKDDのCMソング『ぜったいイチバン』を歌い、後者は宴会ソングとしても話題となり、CD化された。
2007年には尾崎紀世彦とのデュエット曲『MY LOVELY TOWN』をリリースし、2011年には東日本大震災復興応援ソングとして多くのアーティストが参加した『花は咲く』プロジェクトの一員として歌唱した。晩年には、長年の親友である松崎しげるの活動50周年記念アルバム『1/2世紀~Self Selection~』に、松崎とのデュエット曲『夢に隠れましょ』が新録曲として収録された。
NHKの『みんなのうた』では、『のらねこ三度笠』(1980年)と『こんな日がほしかった』(1984年)の2曲を歌唱した。
2024年の没後には、その音楽活動における多大な貢献が認められ、第66回日本レコード大賞特別功労賞が追贈された。
3.2. バラエティ・司会
西田敏行は、その親しみやすいキャラクターと即興の才能で、数多くのバラエティ番組やトーク番組でも活躍した。
彼のバラエティ番組における代表的な活動は、朝日放送テレビ(旧:朝日放送)の『探偵!ナイトスクープ』である。2001年1月26日放送分から2019年11月22日放送分まで、約19年間にわたり2代目局長(司会者)を務めた。初代局長である上岡龍太郎の引退後、番組からの熱心な打診を受け、かねてより大ファンだったこの番組の局長に就任した。局長就任後は番組以外でも「局長」と呼ばれることが増え、彼の代で番組の視聴者層は関西地方から全国へと拡大した。
西田局長は、番組内で関西弁交じりで話し、非常に涙もろい一面を見せた。依頼内容に感動的な要素があると、ほぼ毎回のように涙を流す姿は、視聴者から「なぜあれで泣くの?」と聞かれるほど、番組のカラーを大きく変えたとされる。プロデューサーの松本修は、西田の涙について「涙をウリにするのは桂小金治さん以来。小金治さんは噺家で泣かせるが、西田さんは名優。涙の値段が違う」と評した。彼は肉体的な限界を理由に2019年11月に局長を卒業したが、番組メンバーとの交流は、食事会やLINEグループを通じて晩年まで続いた。
その他の主なバラエティ番組としては、松崎しげると共に司会を務めた『ハッスル銀座』(TBS、1975年)、『西田敏行・桜田淳子のもちろん正解』(TBS)、『なんてったって好奇心』(フジテレビ、逸見政孝の後任司会)、『地球は僕らの宝島』(朝日放送)、『平成ふしぎ探検隊』(朝日放送)、『これは知ってナイト』(朝日放送)などがある。フジテレビの『ドリフ大爆笑』では、1983年のクリスマス特番に娘二人とゲスト出演した経験もある。
3.3. CM出演
西田敏行は、その親しみやすく飾らないイメージから、数多くのテレビコマーシャル(CM)に出演し、大衆に強い印象を与えた。
彼のCMキャリアは1975年のビッグジョンから始まり、日清食品「ふとめん味助」(1976年)、キヤノン「カード型電卓・キヤノンカード」(1978年-1979年)、ライオン油脂「ルック・ガラスルック」(1979年)など、様々な企業の広告塔を務めた。
特に長期にわたるCM出演となったのは、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の「ネオソフト」(1982年-1987年)や、大関酒造(1986年-1988年)である。
1994年にはKDD(現:KDDI)の「ゼロゼロイチバン」CMで、自身が歌う『ぜったいイチバン』が話題となり、宴会ソングとしてCD化されるほどの人気を博した。
また、ジャンボ宝くじのCMには、当初は西田敏行に似た新人歌手という設定の「西田夢蔵(にしだ ゆめぞう)」として出演し、話題を呼んだ。西田夢蔵の公表されている生年月日や出身地、血液型は西田敏行と全く同じというユニークな設定だった。2008年・2009年の「ミリオンドリーム」編では、上島竜兵扮する「小夢蔵」(こゆめぞう)と共演し、そのコミカルなやり取りが人気を呼んだ。2010年のサマージャンボからは、西田敏行名義で出演している。
その他の主要なCM出演には、プリマハム、日本航空、エッソ、東京ガス、第一生命(一家で出演したシリーズもあった)、ブックローン(CMソングも担当)、大東建託、ミツカン「味ぽん」、アサヒビール、エスビー食品「5/8チップ」、朝日ソーラー、NTT西日本、はるやま商事、トヨタ自動車「カムリ」、カネボウホームプロダクツ「旅の宿」、日本石油、三菱電機、公共広告機構(現:ACジャパン)、サッポロビール、カルピス「健茶王」、アース製薬「アースレッドシリーズ」(2002年-2004年)、ユーキャンの通信講座、アートネイチャー、エバーライフ「皇潤」、コイケヤ「ポテトチップスPREMIUM」、眼鏡市場、スズキ「アルトエコ」、SUNTORY「WHISKY 響」(ナレーション)、マクドナルドジャパン「チキンタツタ」などがある。
4. 思想と信条
西田敏行は、単なる俳優という枠を超え、自身の思想や信条を明確に持ち、社会問題に対して積極的に発言し、行動したことで知られる。
4.1. 反戦平和主義
西田敏行の強い反戦平和主義の信条は、母親からの影響を大きく受けている。彼は、「戦争は絶対してはいけない、という思いは母から受け継いだ僕の信条」と語り、「子供の頃から、母はよく、日本が二度と戦争をしちゃ駄目よ、あなたが兵隊に行くような事があったら絶対嫌だって、ずっと目を潤ませていつも言ってたんだ」と、母親の言葉が自身に強く響いたことを明かしている。また、「戦争というものは勝者も敗者も何も得るものはないんだという彼女の言葉は強く響いている」とも述べている。
1960年代、明治大学在学中には学生運動に参加し、「後世を戒めるべく、偽札製造や生物化学兵器開発などに携わっていた登戸研究所の跡地を、日本が侵略戦争をした証拠として保存せよ」と要求した。彼の活動は、後に明治大学平和教育登戸研究所資料館の開設に繋がった。
西田は、「日本に二度と戦争をさせないためには、より多くの国民に本当の歴史を知り、過去に犯した過ちを反省してもらわねばならない」という考えの持ち主だった。この信念に基づき、山田洋次、黒柳徹子、森村誠一らと共に、写真・実物・戦争体験者による証言などで731部隊と100細菌部隊、南京大虐殺、従軍慰安婦問題など、日本による侵略戦争での暴行を暴く「平和のための戦争展」(日本中国友好協会主催)の呼びかけ人を務めた。これは、日本の過去の戦争犯罪から目を背けず、歴史の真実を直視することの重要性を訴える活動であった。
彼は、戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認が規定されている日本国憲法第9条を「絶対守るべきだ」と強い護憲派の姿勢を示し、「平和を願うこんな美しい条文は他の国にはない」と憲法9条を礼賛した。また、軍国主義とその象徴と見なされる靖国神社に対しては批判的な発言もしている。
しんぶん赤旗日曜版創刊55周年にはお祝いのメッセージを寄せ、「『赤旗』日曜版には、日本が二度と戦争をする事がないよう、ますます頑張ってほしい」と激励した。また、「日本は平和ボケしてる、って声を時々聞くけど、なんで緊張を強いるんだろう。平和なら、ぼけててもいいんじゃないの」とも発言しており、平和であることの価値を強調する姿勢を示した。
4.2. 政治的見解と社会参加
西田敏行は「団塊の世代の役者としてケジメのつけ方がある」「役者も政治的にならなければ」と述べるなど、自身の政治信条を度々表明した。彼の政治的見解はリベラル色が強く、特に日本国憲法第9条の擁護や靖国神社批判など、護憲・反戦の姿勢を鮮明にした。
しかし、長年の友人である武田鉄矢や、自身が司会を務めた『探偵!ナイトスクープ』の構成作家であった百田尚樹、探偵のカンニング竹山、顧問を務めた桂ざこばなど、保守的姿勢を持つ人物とも交流や共演が多かった。彼らの逝去時には、武田、百田、竹山や『あすなろ三三七拍子』で共演したほんこんも西田を追悼するコメントを出している。
映画『ゲロッパ!』や『釣りバカ日誌19 ようこそ!鈴木建設御一行様』などで共演していた元俳優でれいわ新選組代表の山本太郎とは、山本が政治家に転身した後も交流が続いていたことを、山本自身がXで西田を追悼した際に明かしている。しかし、山本は西田とは異なり、福島第一原子力発電所事故による福島県産の食品への風評被害を増幅させるような発言を行っていた経緯もあり、コメント欄では「亡くなられた西田敏行さんを選挙に利用してんじゃねえよ」などといった批判が殺到したこともあった。
西田は東日本大震災発生後、故郷の福島県が甚大な被害を受けたことを受け、積極的に支援活動を行った。2011年4月2日には、福島県郡山市のスーパーを訪問し、県産の野菜やイチゴ、キュウリなどを試食して安全性のアピールにひと役買った。この際、涙ながらに「美しい福島を汚したのは誰だ!誰が福島をこんなにしたんだ!本当に本当に腹が立つ。福島はどんなことがあっても負けねぇぞ!」と絶叫し、故郷への強い思いを示した。4日にはTBS系『みのもんたの朝ズバッ!』に生出演し、福島第一原発事故の影響で福島県産の牛肉について不確定な発表が行われたことに対し、「あきれて物が言えないですよ。風評被害というのは、一度立っちゃうと、払拭するまでものすごい時間がかかっちゃう」と怒りをあらわにした。同日の朝日新聞朝刊では、「我慢強い人が多い福島ですけど、今度だけは、ね。東京電力や原発を進めてきた政治家たちに怒りの声を張り上げたい」と心境を寄せている。2019年には、カンニング竹山の著書『福島のことなんて、誰もしらねぇじゃねえかよ!』に登場して対談を行い、福島県産の農作物などに対する風評被害への悔しさを滲ませた。東京の飲食店で「福島の女は嫁にもらえない」という不適切な発言を耳にした際、西田が激怒したというエピソードも明かされている。
2011年6月14日には、東京都内で行われた東日本大震災被災者支援発表会見に出席し、「原発の反対は現実的でないと言われてきたが、もろくも事故を引き起こした」と憤慨した。宮城県出身の菅原文太と共に「原発はNO!」と語り、脱原発を訴えた。2020年に開館した東日本大震災・原子力災害伝承館の解説映像でナレーションを務めている。
2013年5月26日に東京競馬場で行われた第80回東京優駿(日本ダービー)では、国歌「君が代」を独唱。この日のレースで武豊が騎乗した1番人気キズナが優勝したことに対し、「第80回という記念すべき日本ダービーで東日本大震災の復興の合言葉である"絆"という名の馬に出合えたことは、私が被災地の福島出身でもあり、非常に縁を感じることができました。こんなにドラマチックな日本ダービーを体験したのは初めて」とコメントした。
4.3. 中国との交流と友好活動
西田敏行は、中国との交流と深い縁を持っていた。
彼の名前「敏行」は、実父が「何事にも動じず素早く行動してほしい」という願いを込めて付けたもので、「君子は言に訥にして行ないに敏ならんと欲す」という『論語』里仁編の言葉に由来するとされている。
彼が大ブレークを果たした『西遊記』で猪八戒役を好演したことや、人生初の日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した映画『敦煌』も中国に繋がりの深い作品であったこと、そして、『日中国交回復15周年記念 中国大秘境 世界初公開!~幻の西域~パンダと西遊記の里』の中国取材や『敦煌』の中国ロケをきっかけに、中国で多くの人々と触れ合い、交流を深めたことから、中国との縁を大切にしていこうと志を立てた。1987年には日本中国文化交流協会(日中友好七団体の一つ)に入会し、以来30数年間、同協会の仲間たちと共に、日本国民に向けて中国文化を体験する機会を提供する各種イベント(東京国際映画祭の「中国映画週間」企画、チャイナフェスティバルなど)の開設・開催・支援を続けた。
また、汶川大地震やコロナ禍など、中国が災害に見舞われた際にも、駐日中国大使館を通じて義援金を寄付している。日中友好を提唱し、日中国交正常化に特別な思いを抱えており、これを実現した田中角栄に対しては「ノーベル平和賞を受賞してもよかったのに」と高く評価していた。
反戦平和主義者であり、対中友好人士として中国のファンからは「敏々(敏敏mǐnmin中国語)」という愛称で敬愛されていた。2016年2月中旬に西田が頸椎亜脱臼で怪我をしたことが報道された同日、中国のファンからは1000通以上のお見舞いメッセージが西田の所属事務所に届いた。同年2月27日には、中国の国営テレビ局であるCCTVが、その映画専門チャンネル『影人1+1』という番組で「我々中国人民の古き良き友人・西田敏行さんへのお見舞い」として『釣りバカ日誌』19、20を2本連続で放送した。
西田は毎年、春節(中国旧暦新年)の挨拶を送り、映画・テレビ業界における日中の交流・協力を深め、両国の人々の心を繋げる作品を多く作るよう呼びかけていた。中国外務省は2024年10月に西田が死去したことが伝えられた翌日の記者会見において、同省報道官の毛寧が「両国人民の友好的な感情増進のために貢献した」と述べ、哀悼の意を示した。これは、2014年に死去した高倉健以来、中国外務省が亡くなった日本人俳優に弔意を表した10年ぶりの事例であった。
生前の長きにわたる反戦平和および日中文化芸術交流への寄与が称えられ、2024年12月27日に開催された第9回「孔子賞」(世界孔子協会・世界孔子基金会など主催)授賞式で「孔子平和芸術賞」が追贈された。
4.4. 田中角栄役への強い思い
西田敏行は生前、日本の元首相である田中角栄を演じたいという強い思いを度々語っていた。彼は、全日本空輸の機内誌『翼の王国』(2007年8月号)でのインタビューをはじめ、自伝『役者人生、泣き笑い』(2016年)、『徹子の部屋』(2016年12月8日放送)、『伊集院光とらじおと』(2016年12月12日放送)、『朝日新聞』(2017年1月8日号)、『橋幸夫の地球楽団』(2017年3月26日放送)などでこの願望を表明していた。
田中角栄の魅力について、西田は「人としても政治家としても、清濁併せのんだ魅力がある。あの風貌と香具師(やし)のような声。人たらしの才。でも、ヒーローでもヒールでもなく、普通のオヤジが『角栄』を演じ切ったのかもしれないとも思うんです」と語っていた。「日本人って、あの手のおやじに一種の憧憬(しょうけい)の気持ちを持ってますよね。清廉なおやじもいいけど、清濁併せのむようなおやじに引かれる。角栄さんを功罪合わせて演じてみたい」とも述べ、田中角栄の人間的な魅力と、その多面的な側面を演じたいという役者としての深い願望を示していた。
様々な事情や西田の逝去により、この田中角栄役を演じることは叶わなかった。しかし、西田は亡くなる1年前の2023年にもプライベートで同様の発言をしており、カンニング竹山のコメントによれば、「(田中の紆余曲折な半生を思想など関係なく)それをね、役者としてそれを、やりてぇんだよな、どうしてもなー。なかなか難しいらしいんだよな、でも」と語っていたという。
また、西田は「沖縄返還で佐藤栄作元首相がノーベル平和賞をもらったけど、日中国交回復をなしとげた角栄さんが受賞してもよかったのに、と僕は思ってます」と、田中角栄の外交的功績を高く評価していた。さらに、「中国のトップレベルの俳優に周恩来役をやってもらって」「日中国交回復で周恩来と体当たりでマオタイ酒を交わした名場面を演じてみたいのです」と、日中友好の象徴的な場面を演じることへの強い意欲も示していた。「日中の国交が回復した際の周恩来とのやりとりだけを抽出して2時間ぐらいのドラマにしても面白いななんて思っています」と、具体的な構想まで語っていた。
5. 受賞と栄典
西田敏行は、その長年にわたる俳優活動と社会貢献に対し、国家的な勲章や褒章、そして数々の映画、ドラマ、音楽の賞を受けている。
5.1. 勲章と褒章
国家からの栄誉として、西田敏行は以下の勲章と褒章を受章している。
- 2008年(平成20年):紫綬褒章を受章。芸術・学術・スポーツ分野での功績が認められた。
- 2018年(平成30年):春の叙勲で旭日小綬章を受章。公共に尽くした功労が評価された。
- 2024年(令和6年):死去に伴い、日本国政府より従五位に叙された。
- 2024年(令和6年):故郷である福島県郡山市から名誉市民の称号が贈られた。

5.2. 映画・ドラマ賞
西田敏行は、その優れた演技力で数々の映画賞、ドラマ賞を受賞し、日本の映画界・テレビ界において確固たる地位を築いた。
- 日本アカデミー賞**
彼は日本アカデミー賞において、以下の賞を受賞している。
- 1989年(第12回):最優秀主演男優賞 『敦煌』
- 1994年(第17回):最優秀主演男優賞 『学校』
- 2010年(第33回):会長功労賞 『釣りバカ日誌』シリーズ(長年の貢献に対して)
- 2025年(第48回):協会栄誉賞(没後)
また、以下の作品で優秀主演男優賞や優秀助演男優賞にノミネートされている。
- 1985年(第8回):優秀助演男優賞 『天国の駅 HEAVEN STATION』
- 1987年(第10回):優秀主演男優賞 『植村直己物語』
- 1993年(第16回):優秀主演男優賞 『寒椿』、優秀助演男優賞 『おろしや国酔夢譚』
- 1997年(第20回):優秀主演男優賞 『学校II』
- 2004年(第27回):優秀主演男優賞 『ゲロッパ!』『釣りバカ日誌14』
- 2018年(第41回):優秀助演男優賞 『ナミヤ雑貨店の奇蹟』
- その他の映画賞**
- ドラマ賞**
5.3. 音楽・その他の賞
西田敏行は、音楽活動やその他の幅広い分野においても、その才能と貢献が認められ、様々な賞を受賞している。
- 音楽賞**
- その他の賞**
6. 評価と影響
西田敏行は、その長いキャリアと多岐にわたる活動を通じて、日本社会および文化全般に多大な影響を与え、多角的な評価を受けている。
6.1. 大河ドラマにおける特別な地位
西田敏行は、NHK大河ドラマに数多く出演し、その歴史において特別な地位を築いた。1972年(昭和47年)の『新・平家物語』から、2022年(令和4年)放送の『鎌倉殿の13人』まで、出演作品数は計14作にのぼり、これは大河ドラマ出演俳優の中で最多記録である。
さらに、『山河燃ゆ』(1984年)、『翔ぶが如く』(1990年)、『八代将軍吉宗』(1995年)、『葵 徳川三代』(2000年)の4作で主演を務め、これも大河ドラマにおける主演回数で最多記録である。
彼は歴代の徳川将軍家の人物を演じることが多く、『八代将軍吉宗』では徳川吉宗、『葵 徳川三代』では徳川秀忠、『功名が辻』(2006年)では徳川家康と、3名の徳川家将軍を演じた。特に『功名が辻』では、家康の肖像画に近づけるため、特殊メイクで福耳を施して演じた。また、『おんな太閤記』(1981年)では豊臣秀吉を演じ、その台詞「おかか」(正室ねねの呼称)は当時の流行語となった。戦国三英傑のうち、豊臣秀吉と徳川家康の2人以上を大河ドラマで演じたのは西田が唯一の俳優である。
1990年の『翔ぶが如く』で西郷隆盛役の出演依頼を受けた際、故郷(会津)の友人に相談したところ、「長州は駄目だが、薩摩なら大丈夫だ」と言われたため出演を引き受けたというエピソードがある。後に、彼の養父である西田家の祖先が薩摩藩士の子孫であることがNHK総合『ファミリーヒストリー』(2017年10月4日放送)で判明し、高祖父や祖父が薩英戦争や西南戦争に従軍していたことが明らかになった。また、2013年の『八重の桜』では西郷頼母役で出演し、西郷隆盛と西郷頼母の両方を演じたのは、日本テレビの年末時代劇に出演していた里見浩太朗に次いで2人目である。
6.2. 『探偵!ナイトスクープ』への影響
西田敏行が長期間2代目局長(司会者)を務めた人気バラエティ番組『探偵!ナイトスクープ』は、彼の存在によって番組のアイデンティティと大衆的人気に大きな影響を与えた。
西田は2001年から2019年まで約19年間にわたり局長を務め、上岡龍太郎から引き継いだ番組を、彼の個性を前面に出した新たなスタイルへと変革させた。特に、彼の「涙もろさ」は番組の代名詞となり、依頼内容に少しでも感動的な要素があると、ほぼ毎回のように涙を流す姿は視聴者に強い印象を与えた。この涙は、番組の人間ドラマとしての側面を際立たせ、視聴者の共感を呼び、関西圏を超えて全国的な人気を獲得する大きな要因となった。番組プロデューサーの松本修は、西田の涙について「涙をウリにするのは桂小金治さん以来。小金治さんは噺家で泣かせるが、西田さんは名優。涙の値段が違う」と評し、その演技力と人間性が番組にもたらした価値を高く評価した。
また、番組内で関西弁交じりで話す姿も人気を博し、大阪でタクシーを利用すると、運転手に「なんであれで泣くの?」と聞かれることがあるほど、そのキャラクターは関西の人々に浸透していた。
西田は2019年11月に局長を卒業したが、番組メンバーとの交流は、食事会やLINEグループを通じて晩年まで続いた。これは、彼が単なる司会者としてではなく、番組の仲間たちと深い絆を築いていたことの証であり、彼の人間的な魅力が番組にもたらした影響の大きさを物語っている。
6.3. 主要人物との親交
西田敏行は、その人柄から多くの著名人と深い親交を結び、それが彼の人生と演技活動にも影響を与えた。
特に歌手の松崎しげるとは、売れ始める前(松崎24歳、西田26歳)からの飲み友達で、毎晩のように飲み歩いては互いの愚痴を吐き出し励まし合ったという。二人は、知り合いの飲食店で「客の出す3つの『お題』を入れて即興で歌を作る」という、落語の三題噺のようなネタを披露し、当時の六本木界隈では有名になった。松崎はもちろん、西田も歌唱力と音楽的センスがあったため、二人の即興デュエットは人気を博した。この噂を聞きつけたTBSのスタッフが二人を進行役に起用したテレビ番組が『ハッスル銀座』(1975年)であり、これがきっかけで二人はブレイクし、生涯無二の親友同士であった。その後も柴俊夫や田中健、志垣太郎と共に「五人会」を結成するなど、親交は続いた。
プロ野球界では、日本プロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルスファンクラブ名誉会員に名を連ねる一方で、自身は熱心な阪神タイガースファンである。1979年にはいしいひさいち原作のアニメ映画『がんばれ!!タブチくん!!』で主人公のタブチくんの声を担当し、映画のモデルである元阪神タイガースの田淵幸一と今日まで長く親交を続けた。西田が司会をしていた『探偵!ナイトスクープ』にも、田淵との親交から田淵が顧問としてゲスト出演したことがあった。
6.4. 東日本大震災復興支援活動
西田敏行は、故郷である福島県が甚大な被害を受けた東日本大震災に対し、積極的に復興支援活動を行った。
震災後、彼は中畑清らとともに復興応援CMに出演し、被災地へのエールを送った。
2011年4月2日には、故郷の福島県郡山市のスーパーを訪問し、県産の野菜やイチゴ、キュウリなどを試食して安全性のアピールに一役買った。この際、彼は涙に目を潤ませながら、「美しい福島を汚したのは誰だ!誰が福島をこんなにしたんだ!本当に本当に腹が立つ。福島はどんなことがあっても負けねぇぞ!」と絶叫し、故郷への深い愛情と怒りを表明した。
4日には早朝からTBS系『みのもんたの朝ズバッ!』に生出演し、福島第1原発事故の影響で、福島県産の牛肉について不安を煽るような不確定な発表が行われ、撤回・修正されたことに対し、「あきれて物が言えないですよ。風評被害というのは、一度立っちゃうと、払拭するまでものすごい時間がかかっちゃう」と怒りをあらわにした。同じ日の朝日新聞朝刊でも、「我慢強い人が多い福島ですけど、今度だけは、ね。東京電力や原発を進めてきた政治家たちに怒りの声を張り上げたい」と心境を寄せ、風評被害の深刻さと、それに対する政府や電力会社への強い不満を表明した。2019年には、当時『探偵!ナイトスクープ』で共演していたカンニング竹山の著書『福島のことなんて、誰もしらねぇじゃねえかよ!』の対談の中で、福島県産の農作物などに対する不買運動や風評被害への悔しさを滲ませ、「福島の女は嫁にもらえない」などと隣の席で発言していた男性数人に対し、西田が激怒したというエピソードも明かされている。
2011年6月14日、東京都内で行われた東日本大震災被災者支援発表会見に出席した際も、彼はNPOふるさと回帰支援センターの主催する、岩手・宮城・福島3県の被災者に向けた他県への移住支援について言及し、「原発の反対は現実的でないと言われてきたが、もろくも事故を引き起こした」と述べ、原発推進政策への憤りを表明した。宮城県出身の菅原文太も会見で「原発の是非を問う国民投票をすべき」と訴え、両者ともに「原発はNO!」と語るなど、脱原発の姿勢を明確にした。
彼の活動は、被災地への具体的な支援だけでなく、福島の現状と復興への思いを日本全国に伝える重要な役割を果たした。2020年に開館した東日本大震災・原子力災害伝承館の解説映像でナレーションを務めるなど、震災の記憶を後世に伝える活動にも尽力した。
6.5. 大衆的イメージとエピソード
西田敏行は、その卓越した演技力に加え、ユーモラスで親しみやすい人柄から「西やん」の愛称で多くの人々に愛された。彼の素朴で飾らないキャラクターは、様々なエピソードを通じて大衆に浸透した。
イメージ的に「いい人」的な役柄が多い中で、フジテレビのドラマ『白い巨塔』(2003年)では、金に物を言わせて根回しをする悪役の財前又一を演じた。この役を演じるにあたり、意地汚いイメージを出すため、西田自身の提案により、付け髭にカツラを着用して演じた(作中でカツラ着用者という設定)。製作発表の席では駄洒落を交え「私の役名は財前又一(またいち)ですので、財前ヌーとは読まないで下さい。」と述べ、笑いを誘った。その4年後には『白い巨塔』と同じ山崎豊子原作の『華麗なる一族』(2007年)に、又一とは対照的に「いい人」である大川一郎役で出演している。この役は、又一と同じく主人公万俵鉄平(演:木村拓哉)の妻の父、いわゆる義父である。また、タクシーに乗るシーンで、共演者である勝村政信が顔バレしないか心配し気を遣った際、西田がドライバーに「俳優の西田敏行です」と語ったというエピソードも残されている。
打ち上げなどでは、『即興ソング』以外にも旺盛なサービス精神と芸達者ぶりを披露し、周囲を笑いに巻き込んだ。持ちネタとして、エルヴィス・プレスリーや丹波哲郎のモノマネなどがあり、晩年には「シャンソン風『与作』」(北島三郎の『与作』のカラオケに合わせて、でたらめなフランス語を駆使して「シャンソン風」に歌い上げる。サビの部分は「与作」を「ピエール」に変え、語りかける)が『SMAP×SMAP』など、ゲスト出演したバラエティ番組で紹介され、人気を集めた。
学研の小学生向けに書かれた自伝では、自身の母親について語っている。幼少期に風邪をひいて寝込んでいると、鼻が詰まり眠れずにいたら、母が西田少年の鼻に口を当てて鼻水を吸い取ったというエピソードを引用し、母親の偉大さとありがたみを子供たちに伝えた。
渥美清の代表作である映画『男はつらいよ』シリーズでは、実現しなかった第49作『寅次郎花へんろ』にマドンナの田中裕子の兄役での出演が予定されていた。また、渥美清の死去後、二代目寅さん役の最有力候補とされたこともあった。1986年に主演した『泣いてたまるか』は、渥美清が多く主演した作品のリメイクである。
7. 著書
西田敏行は俳優活動の傍ら、自らの経験や思想、作品への思いを綴った著書も発表している。
- 『しゃべって、人生』シンコー・ミュージック、1984年
- 『西田敏行地球愛である記 アラスカ365日と赤道横断4万キロ ネイチャリングスペシャル』全国朝日放送、1991年
- 『魅せられて石川県 西田敏行さんたち8人が語る』ジュディ・オング、松井昌雄、永井豪、桂文珍、徳田八十吉、川勝平太、竹村節子共著、ベストセラーズ、2007年
- 『バカ卒業 映画『釣りバカ日誌』のハマちゃん役を語ろう』小学館、2009年
- 『役者人生、泣き笑い』河出書房新社、2016年。初めての自叙伝であり、美少年だった中学時代や『釣りバカ日誌』への思いなどが語られている。
8. 外部リンク
- [https://www.nishidatoshiyuki.com/ 公式サイト]
- [https://www.imdb.com/name/nm0632664/ IMDb]