1. 概要
植村直己は、謙虚で内向的ながらも、極限の自然に単独で挑み続けた比類なき冒険家です。彼は「冒険とは生きて帰ってくること」という信念を抱きながらも、その生涯を「人跡未踏の地」へ踏み入れることに捧げました。世界初の五大陸最高峰登頂、世界初の犬ぞり単独による北極点到達、そして冬季デナリ単独登頂という偉業は、多くの人々に夢と勇気を与え、彼の人柄と冒険哲学は今日に至るまで深く尊敬されています。彼の挑戦は、単なる記録の追求に留まらず、人間が自然とどう向き合うべきか、そして自らの内なる可能性をどこまで広げられるかという問いを、社会に投げかけました。本記事では、植村の人間性、挑戦の意義、そして社会への影響について、多角的な視点から詳細に記述します。
2. 生涯
植村直己は、学生時代に登山を始めて以来、世界各地の山々や極地を探検し、数々の歴史的偉業を成し遂げました。その人生は、常に未踏の挑戦を求め続けるものでした。
2.1. 生い立ち
植村直己は1941年2月12日、兵庫県城崎郡国府村(現在の豊岡市日高町)上郷で、農業を営む植村藤治郎と梅の7人兄弟の末子として生まれました。幼少期は兄4人、姉2人と共に育ちました。彼の名前は、父の3代前の先祖である「植村直助」から「直」の字を取り、干支の「巳」に合わせて「直巳」と名付けられる予定でしたが、村役場の職員が戸籍簿に誤って「直已」と記入したため、戸籍名は「直已」となりました。後に「巳(へび)や已(すでに)より、己(おのれ)の方が格好良い」として、大学時代から「直己」を名乗るようになりました。
1947年4月、国府村立府中小学校(現:豊岡市立府中小学校)に入学。1953年4月には国府村立府中中学校(現:豊岡市立日高東中学校)に進みました。1956年4月に兵庫県立豊岡高等学校に入学し、高校1年の春の遠足で蘇武岳(標高1074 m)に登頂しましたが、この時点では特に山に興味はありませんでした。1959年3月に高校を卒業後、同年4月に豊岡市の新日本運輸に就職し、1か月後には東京の両国支店に転勤しました。1960年2月、新日本運輸を退職します。
2.2. 教育と山岳部活動
1960年4月、植村は明治大学農学部農産製造学科に入学し、山岳部に入部しました。東京の都会の喧騒から逃れ、自然の中で友を得たいという思いからでした。しかし、登山経験も知識もなかったため、5月の新人歓迎合宿での日本アルプス白馬岳の山行では、一番最初に動けなくなり、強い屈辱を感じたといいます。
その後、彼は毎朝約9 kmのジョギングをするなど、独自にトレーニングを重ね、登山に没頭するようになりました。年間120~130日間も山に登ったと記録されています。この時期にガストン・レビュファ著の『星と嵐』や、同郷の加藤文太郎著の『単独行』を読み、感銘を受けました。大学3年の冬には、黒四ダムを出発し、黒部峡谷の阿曽原峠から剱岳、真砂岳を経て弥陀ケ原に至る5日間の単独山行を、テントを持たずに雪洞で過ごしながら実行しました。これは山岳部への無届けで行われたものでしたが、彼の体力と精神力の向上を裏付けるものでした。
大学4年でサブリーダーに昇進した植村は、同期で親友の小林正尚から米国アラスカでデナリ(旧称マッキンリー山)の氷河を歩いた話を聞き、海外の山への憧れを募らせるようになりました。彼の学費は長兄の植村修が仕送りしていました。大学卒業後、台湾の新高山への登山を計画しましたが、当時の渡航規制のためビザが許可されず断念。1964年3月に明治大学農学部を卒業し、同年4月には海外旅行に有利と考え、明治大学法学部に再入学しました。
2.3. 初期冒険と五大陸最高峰登頂
植村直己は、海外へと目を向け、数々の困難な単独行を成功させ、世界初の五大陸最高峰登頂という歴史的な偉業を成し遂げました。
2.3.1. 海外放浪とヨーロッパアルプス登山
1964年、23歳になった植村は、ヨーロッパアルプスの氷河を見ることを決意しましたが、資金が不足していました。そこで、まず生活水準の高いアメリカで資金を稼ぎ、その後ヨーロッパへ向かうことを計画します。家族の大反対を押し切り、5月2日に横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、米国ロサンゼルスへ出発しました。この時、片道の船賃は長兄の植村修が援助してくれましたが、所持金はアルバイトで貯めた110 USD(当時約4万円)と日本円3,500円でした。
ロサンゼルス到着後、フレズノ近くの農場でブドウ摘みなどの仕事に就きましたが、観光ビザしか持っていなかったため、同年9月末に不法就労で移民局に逮捕されました。強制送還は免れたものの、国外退去処分となったため、10月22日にニューヨークから船でフランスのル・アーブルへ向かいました。
同年10月末にシャモニーに入った植村は、11月10日、ヨーロッパ最高峰のモンブラン(標高4807 m)に単独登頂を試みました。しかし3日目、ボッソン氷河の隠れたクレバスに転落し、約2 m落下したところでアイゼンの爪とザックが引っかかり、九死に一生を得ました。この恐ろしい経験から撤退を余儀なくされました。同年年末には、スイスとの国境近くのモルジヌにある、1960年スコーバレーオリンピック男子滑降の金メダリストであるジャン・ヴュアルネが経営するスキー場に就職。ここで資金を稼ぎながら登山活動の拠点としました。
1965年、植村は明治大学山岳部のゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)(標高7646 m)登山隊に途中参加するため、2月19日にネパールのカトマンズに入りました。3月31日にベースキャンプを設営し、4月23日にはシェルパのペンバ・テンジンと共に世界初の登頂を果たしました。しかし、計画や準備段階で苦労しなかった自分が登頂し、日本の新聞に大きく取り上げられたことに、他の隊員に対して申し訳ないという気持ちを抱き、日本への帰国を断って海外に残りました。
その後、インドのボンベイ(現:ムンバイ)からフランスのマルセイユ行きの貨客船に乗り、再びモルジヌに戻りましたが、黄疸を発症して1か月の入院生活を送ることになりました。お金を持っていなかった植村の代わりに、ジャン・ヴュアルネが入院費用を支払ってくれました。この頃、植村は山行資金を節約するため、ロープウェイ終点の機械小屋で暮らし、主食はフレンチフライとパン、スープでした。
1966年7月にはモンブラン単独登頂に成功。続いて7月25日にはマッターホルン(標高4478 m)にも単独登頂しました。同年9月23日、マルセイユから船に乗り、ケニアのモンバサへ向かい、アフリカでの山行を開始しました。同年10月16日、ケニア山レナナ峰(標高4985 m)に登頂し、10月24日にはアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(標高5895 m)単独登頂に成功しました。10月29日にはモンバサから船でモルジヌに戻りました。
1967年8月、グリーンランド単独横断の夢を抱き、西海岸のヤコブスハウン氷河を半月間視察しました。しかし、1968年に日本大学隊がグリーンランド横断を達成したため、この夢は一旦消えることになります。
2.3.2. 南米探検とアマゾン川単独筏下り
1967年12月、植村はモルジヌを離れ、12月22日にスペインのバルセロナから南アメリカ行きの船に乗りました。1968年1月7日にはアルゼンチンのブエノスアイレスに到着。同年1月19日、アンデス山脈のエル・プラタ(標高6503 m)に登頂しました。当初は登る予定ではありませんでしたが、アルゼンチン軍によるアコンカグアの登山許可がなかなか下りなかったため、自分の実力を見せつけるために登頂を決行しました。
2月5日には南アメリカ大陸最高峰のアコンカグア(標高6960 m)単独登頂に成功。標高4200 mの山小屋を出発してから15時間15分で登頂を果たしました。2月15日には無名峰(標高5700 m)に初登頂し、母校である明治大学に因んで「明治峰(ピッコ・デ・メイジ)」と命名しました。
その後、ボリビアを経てペルーのリマへ向かい、さらにバスと船を乗り継いで、同年4月にイキトスに入りました。ここで、北アメリカ行きの船が出る河口までアマゾン川を単独で下ることを決意します。4月20日、ペルーのユリマグアスを出発し、バルサの丸太を組んだ全長4 m、幅2.5 mの筏を15 JPYで購入し、「アナ・マリア」と名付けて6月20日にブラジルのマカパに到着するまで、単独で約6000 kmを流れ下りました。食料は主にバナナ、タロイモ、ピラニアでした。この地で、明治大学山岳部の同期であり親友の小林正尚が自動車事故で死去したことを知り、大きな衝撃を受けました。
その後、北アメリカ最高峰のデナリ(旧称マッキンリー山)(標高6194 m)登頂を目指して、米国カリフォルニアの農場で2か月間働いて山行資金を稼ぎ、アラスカに入りました。しかし、当地の国立公園法により4人以下の登山隊の登山が許可されていないため、単独登頂の許可が下りず断念。同年9月14日、サンフォード山(標高4940 m)に登頂しました。同年10月1日、4年5か月ぶりに日本に帰国しました。航空運賃は長兄の植村修が負担しました。植村は27歳になっていました。
2.3.3. エベレストとマッキンリー(デナリ)登頂
日本に帰国後、植村は地下鉄工事の仕事に就きましたが、アコンカグアの冬期単独登頂や、アマゾン川をゴムボートで遡上するという新たな夢を抱いていました。
1969年、日本山岳会が創立65周年事業として世界最高峰のエベレスト(標高8848 m)登山隊の派遣を決定し、同年4月、明治大学山岳部の先輩である大塚博美に誘われ、これに参加することになりました。植村は偵察隊として、同年4月23日に日本を出発し、5月には標高6300 mの南壁基部まで試登し、6月21日に帰国しました。さらに、第2次偵察隊にも参加し、8月20日に日本を出発。9月13日にベースキャンプを設営し、10月31日には小西政継と共に南壁の標高8000 m地点まで到達しました。その後、偵察隊が11月7日にベースキャンプを撤収して帰国した後も、植村はネパールのクムジュン(標高3800 m)に滞在し、シェルパのペンバ・テンジン宅に寄宿しながら、翌年の本隊のための物資調達やシェルパらの予約、さらに高度順化や高所トレーニングを続けました。彼は毎日朝6時半に起き、登山靴を履いて山道を6~7kmマラソンしました。
1970年2月、日本山岳会エベレスト登山隊の本隊(総隊長:松方三郎、登攀隊長:大塚博美)をカトマンズで迎え入れました。植村は自己分担金を工面できなかったため、荷揚げやルート工作要員としての参加でしたが、その抜群の体力と実績が認められ、5月3日、松浦輝夫と共に東南稜ルートの第1次アタック隊に指名されました。そして5月11日午前9時10分、エベレスト登頂に成功。これは日本人として初めての快挙でした。なお、隊の主目標であった南壁からの初登頂は、標高8050 m地点で断念されました。
植村は日本人初のエベレスト登頂に成功した際、松浦輝夫の前を歩いていましたが、頂上まであと10mのところで松浦に道を譲り、先に頂上に立たせたかったと自著に記しています。しかし、松浦の証言によると、植村に「どうぞ、先に登ってください」と言われた松浦は、植村と肩を組んで2人同時に頂上に立ったとされています。また、エベレスト登頂時、「カメラより山頂の石をみんなに見せた方がいい」と松浦輝夫を説得し、NHKから渡されていた最新型のビデオカメラを山頂に置いてきました。植村は「カメラからテープを抜こうとして、手が滑ってネパール側に落としてしまった」という言い訳を考えたそうです(カメラは翌日、日本の第2次登頂隊によって発見され、無事に日本に戻りました)。エベレストの山頂には、植村がアマゾン川を筏下りしていた頃に日本で交通事故死した、明治大学山岳部同僚・小林正尚の生前の写真を埋めました。一緒に登頂を果たした松浦輝夫も、遠征中に心臓麻痺で死亡した成田潔思の写真を山頂に埋めています。その後、帰国した植村は、小林の家を訪ねて仏壇の前で、「お前の代わりにエベレストに登ったよ。頂上の石も持って来たぞ」と言うなり、声をあげて泣き出しました。
エベレスト登頂の勢いを借りて、同年7月30日に日本を出発し、アラスカに入り、再びデナリ(旧称マッキンリー山)に挑戦しました。エベレスト登頂者であれば特別に入山が許可されるのではないかという"読み"と、高度順化された身体という利点がありました。正式な許可は得られませんでしたが、公園長の好意により、アメリカ隊の隊員として入山する形で"許可"されました。8月17日に軽飛行機でカヒルトナ氷河に入り、8月19日にベースキャンプ(標高2135 m)を出発。8月26日、単独登頂に成功しました。この時点で、植村は世界初の五大陸最高峰登頂者となりました。当時29歳でした。
2.4. 極地探検と南極横断計画
五大陸最高峰登頂の偉業を達成した後、植村直己は新たな目標として、犬ぞりで南極大陸を単独横断することを夢見るようになり、南極関係の資料を集め始めました。
1970年12月21日、エベレスト国際隊参加のためのトレーニングとして、小西政継らの山学同志会隊に加わり、冬期のグランド・ジョラス北壁に挑戦しました。登攀中、ヨーロッパを20年ぶりの大寒波が襲い、6人中4人の隊員は凍傷で手足の指を失いましたが、植村と高久幸雄の2人は無傷で、翌1971年1月1日にウォーカー峰(標高4208 m)に到達し、完登しました。
1971年2月には、BBCが主催し、アメリカ人のノーマン・ディレンファース隊長が率いるエベレスト国際隊に伊藤礼造と共に参加しました。植村にとって2度目となるエベレスト登頂を目指しましたが、4月15日にインド人のハッシュ・バフグナ隊員が遭難死した後、各国からの代表を寄せ集めた国際隊は互いの利害関係が表面化し、"空中分解"しました。それでも植村と伊藤の2人は、酸素ボンベ無しで標高8230 mの第6キャンプまで荷揚げを行いましたが、5月21日、標高8300 m地点で登頂は断念され、失敗に終わりました。植村は30歳でした。
単独行への傾倒が深まる中、1971年3月には最初の著書である『青春を山に賭けて』(毎日新聞社)を出版しました。同年、南極大陸横断の距離に合わせた3000 kmを体感するため、北海道稚内市から九州の鹿児島まで日本列島縦断を徒歩52日間で実現しました。8月30日に宗谷岬を出発し、日本海側を通り、10月20日に国鉄(当時)西鹿児島駅(現:鹿児島中央駅)に到着しました。この旅で彼は靴を3足履きつぶし、体重が5 kg減少しました。
1971年12月30日、アルゼンチンのブエノスアイレスから同国南端のウシュアイアに入りました。1972年1月5日には砕氷船「サンマルティン号」で出航し、同年1月14日、アルゼンチンが南極に持つヘネラル・ベルグラーノ基地に入り、軍用ヘリコプターで内陸を偵察しました。しかし、南極大陸横断のもう片方のマクマード基地を管轄するアメリカ国立科学財団からは、「南極条約により個人的探検は認められない」と拒否されました。同年2月には、アコンカグアの未登攀ルートであった南壁に挑戦しましたが、落石が多く断念しました。
2.4.1. グリーンランドでのエスキモーとの共同生活と犬ぞり単独行
1972年4月11日、植村はグリーンランドのエスキモー集落で犬ぞりの操縦を学び、極地の気候に身体を順化させることを目的として日本を出発しました。同年9月にはグリーンランド最北の村シオラパルクで、エスキモーとの共同生活を開始しました。当初はエスキモー宅に単身寄宿し、後には自分専用の家を借りて住み込みました。ここで彼は衣食住や狩り、釣り、犬ぞりの技術を現地の人々から直接学びました。
1973年2月4日、植村は犬ぞりでグリーンランド約3000 kmの単独行に出発しました。この距離は、南極のロス海から南極点を経てウェッデル海までの最短コースと同じです。同年4月30日に成功し、この旅の経験は、シロクマに襲われた翌日に同じシロクマと思われる個体を狩りでしとめ、生肉を食べ、貴重なタンパク質を摂取するなど、極地でのサバイバルに活かされました。特にキビヤックは彼の好物でした。同年6月26日、シオラパルクを去り、同年7月に帰国しました。
この頃、東京都板橋区の住居の近くで、後の妻となる野崎公子と出会い、1974年5月18日、33歳で結婚しました。
2.4.2. 北極点到達とグリーンランド縦断
1974年11月22日、植村は北極圏約1.20 万 kmの犬ぞり単独行を目指し、日本を出発しました。同年12月29日、グリーンランド西部の村ケケッタを出発し、1975年6月12日にカナダのケンブリッジベイに到着、アンダーソンベイで越夏しました。同年12月15日に同地を出発し、1976年5月8日、ゴールであるアラスカのコツビューに到着しました。これは1年半に及ぶ長い旅でした。植村は35歳になっていました。
その後、ベーリング海峡を渡り、シベリアの北極海沿岸からヨーロッパまで犬ぞりで走るという北極海一周を夢見ましたが、ソ連の許可を得るのが困難であるため断念しました。
1976年7月31日、ソ連のエルブルス山(標高5642 m)に登頂しました。
1978年1月30日、世界初の犬ぞりによる単独での北極点到達に挑戦するため日本を出発しました。これは、北極点到達に成功すれば、極地探検家としての実力が認められ、南極への道が開けるという期待からでした。同年2月22日、カナダのエルズミア島のアラートに入り、3月5日、カナダ最北のコロンビア岬を犬と共に約800 kmの犬ぞり単独行の末、4月29日に北極点到達に成功しました。この偉業は、気象衛星「ニンバス6号」が発信する電波を受信し、アメリカ航空宇宙局(NASA)を経由してスミソニアン研究所によって確認されました。なお、植村が北極点に到達する前日の4月28日、日本大学北極点遠征隊の隊員5人が犬ぞりで日本人として初めて北極点に到達していました。
この北極点到達では、無補給ではなく、ツインオッター機による4回の補給を受け、無線や人工衛星による位置確認などの最新科学技術の支援も受けました。これには約2.00 億 JPYもの巨額の費用を要し、「タライの中にボートを浮かべたような」探検だという批判的な意見もありました。しかし植村はナショナルジオグラフィック協会からも資金提供を受け、日本人として初めて『ナショナルジオグラフィック』の表紙を飾りました。植村は37歳でした。
同年、犬ぞりによる単独でのグリーンランド縦断にも成功しました。これは、その内陸氷床が南極大陸の冠氷とそっくりだったため、南極探検の訓練として行われたものです。5月12日に「モーリス・ジェサップ岬」を出発し、7月12日には内陸氷床の最高地点(標高3240 m)を経て、8月22日、グリーンランド南端のヌナタック(岩峰)に到着しました。この縦断では、そりにヨットのような帆を張り、犬の負担を軽減するのに効果を上げました。
犬ぞりによる北極点到達挑戦の際には、テレビ番組制作を担った毎日放送から8mmカメラを託され、冒険中に自分の犬ぞりが氷原の彼方に走り去る場面を撮影しました。周囲には誰もいないことから、その後、彼方から引き返しカメラとフィルムを回収するという貴重な記録映像となりました。当時の番組では、その「歩いて戻って来る植村直己」のユーモラスな様子も放送されました。
帰国後、北極点とグリーンランドの冒険に要した約2.00 億 JPYの支出のうち約7000.00 万 JPYの赤字を埋めるため、同年10月から翌年3月までの半年にわたって、全国で数多くの講演やイベント参加を行いました。1978年10月9日、第26回菊池寛賞を受賞しました。授賞理由は「犬ぞりによる単独北極点到達とグリーンランド縦断...日本青年の成果を内外に高めた二大冒険」に対してでした。1979年2月22日には、イギリスのビクトリア・スポーツ・クラブから、スポーツの分野で最も勇気を発揮した人に贈られる「バラー・イン・スポーツ賞」を受賞しました。
2.4.3. 南極横断計画の挫折
1979年6月6日、植村は中華人民共和国政府に招待されて、チベットのラサに入りました。同年8月、アメリカ国立科学財団から、「植村の南極での計画にアメリカ合衆国は協力できない」との最終回答があり、彼の構想していた南極大陸横断は不可能となりました。
同年12月、ネパールのカラタパール(標高5400 m)に入り、約1か月間、冬期エベレストを偵察しました。1980年、エベレストの冬期登頂を構想しますが、単独での登頂は困難と考え、明治大学山岳部OBを主力とした「日本冬期エベレスト隊」を編成し、植村が隊長となりました。しかし、同年2月18日、冬期エベレスト初登頂にポーランド隊が成功し、植村は先を越されました。
同年4月下旬から約3週間、冬期エベレスト山行の準備のため、ネパールに滞在しました。冬期エベレストのトレーニングとして、冬期のアコンカグア(南アメリカ最高峰)に挑戦するため、同年7月11日、日本を出発。8月5日にベースキャンプに入り、8月13日、松田研一、阿久津悦夫と共に、第2登に成功しました。しかし、計画していた頂上でのビバーク訓練は断念しました。植村は39歳でした。
同年10月30日、エベレスト冬期登頂を目指して日本を出発しました。ポーランド隊に冬期登頂を先越されたことにより、植村の隊は登攀以外に学術的な性格も併せ持つこととなりました。しかし、翌1981年1月12日、標高7100 m地点で登攀隊員の竹中昇が死亡し、また悪天候に阻まれ、同年1月27日、登頂を断念しました。竹中昇の死因は不明でしたが、この失敗は植村に大きな影響を与えました。同年2月14日、帰国しました。植村は40歳でした。
長年の夢だった南極大陸約3000 km犬ぞり単独行と南極大陸最高峰のビンソン・マシフ単独登頂の計画について、1981年、アルゼンチン軍の協力が得られることとなりました。ただし、アメリカの協力が得られないため南極大陸横断は不可能となったことから、ビンソン・マシフまでの往復での3000 km犬ぞり行となりました。同年12月、テレビと雑誌の取材のため、アルゼンチンを訪問し、南極のマランビ基地に7日間滞在しました。
1982年1月24日、南極3000 km犬ぞり単独行とビンソン・マシフ単独登頂に挑戦するため、日本を出発しました。同年2月10日、アルゼンチン最南端の港であるウシュアイアから砕氷船「イリサール」で出港し、2月13日、南極半島にある同軍のサンマルチン基地に到着しました。同基地で出発を待つ間、3月19日にフォークランド紛争が勃発し、同年12月22日、軍が協力を撤回したため断念しました。1983年3月16日、約1年間の南極生活を終えて帰国しました。植村は42歳でした。
2.5. マッキンリー(デナリ)冬季単独登頂と消息不明
長年の夢であった南極大陸横断計画が頓挫した後、植村直己は再び原点に戻る決意を固め、野外学校の設立という新たな構想を抱くようになりました。
2.5.1. 登頂準備と過程
1983年8月、野外学校を開設するための適地を求めて、北海道帯広市を視察しました。同年10月20日、植村は日本を出発し、ごく限られた人にしか今回の旅行を知らせませんでした。10月24日、ミネソタ州にある野外学校『アウトワード・バウンド・スクール (OBS)』に、生徒として参加することを希望しましたが、「世界のウエムラ」として準指導員(無報酬)として迎え入れられました。1984年1月16日、ミネソタを去り、1月18日にはシカゴでアメリカ企業のデュポンの社員と会談しました。これは、彼の南極計画への支援に関するものだと考えられています。
同年1月21日、デナリ(旧称マッキンリー山)冬期単独登頂を目指すため、アラスカのアンカレッジに入り、1月24日にはタルキートナに到着しました。この地で宿泊した「ラティチュード62」というロッジ風のホテルは、北緯62度というホテルの位置にちなんで名付けられました。1月26日、軽飛行機でデナリのカヒルトナ氷河に降り立ちました。2月1日、ベースキャンプ(標高2200 m)から登攀を開始しました。
デナリの冬期登頂は非常に危険であり、氷河の割れ目であるクレバスは雪で隠れて見えないことが多く、単独での挑戦は特に危険視されていました。植村は、クレバスに落ちた際に、体に括り付けた竹竿がストッパーとなり、自力で脱出できる「自己救助装置」を考案し、これを持参しました。彼はまた、雪洞で寝泊まりすることでテントを携帯せず、燃料も節約し、冷たい食料を食べることで装備を軽くする計画でした。
2.5.2. 頂上到達と消息不明
1984年2月12日午後6時50分、植村は世界初のデナリ冬期単独登頂を果たしました。この日は、奇しくも植村の43歳の誕生日でした。頂上には、彼が日本から送ってもらった日の丸の旗を立てました。
しかし、翌2月13日午前11時、軽飛行機との無線交信を最後に連絡が途絶えました。彼は登頂に成功したこと、現在位置が6096 m(20,000フィート)であることを伝えましたが、この「20,000フィート」という言葉が植村の最後の言葉となりました。交信が途絶えた時点で既に電波状態が悪化しており、植村の姿は視認できませんでした。山頂付近は強風が吹き荒れ、気温はマイナス-45.55555555555556 °C (-50 °F)(約マイナス-46 °C)に達していました。
2月15日、植村がクレバスへの転落防止に使用した竹竿が標高2900 mの氷河上で発見されましたが、植村本人の姿は見つかりませんでした。最後の交信から3日後の2月16日には、軽飛行機のパイロットが、標高4900 m地点の雪洞で植村と思われる人物が手を振っているのを視認しましたが、天候も視界も悪かったために見失いました。デナリ国立公園管理事務所は、軽飛行機2機とヘリコプター1機で広範囲の捜索を展開しました。
2.5.3. 捜索活動と最後の日記
2月20日、同公園管理事務所による捜索活動に参加していた2人の登山家が、標高4200 m地点の雪洞で、植村の日記、カメラ、フィルムなどを発見しました。日記はベースキャンプを出発した日である2月1日から2月6日まで書かれており、厳しい状況下での奮闘が記されていました。特に、クレバスへの転落、マイナス-40 °Cの寒さ、凍った肉、不十分なシェルターなどの困難が描写されていました。日記の記述からは、彼が冷静さを保ち、歌を歌って集中力を維持していたことがうかがえます。最後の日記の記述は「何が何でもマッキンリー登るぞ」と締めくくられていました。
2月25日、標高4900 m地点の雪洞でも植村の所有物が発見されましたが、本人は発見できませんでした。2月26日、デナリ国立公園管理事務所は、「植村の生存の可能性は100%ない」として捜索を打ち切りました。
その後、明治大学山岳部OBで構成される「炉辺会(ろばたかい)」による捜索が行われました。第1次捜索隊は、3月6日に標高5200 m地点の雪洞に残された植村の装備を発見しましたが、植村本人を発見することはできませんでした。3月8日、炉辺会による捜索も打ち切られました。植村と最後に無線交信できた2月13日が、彼の命日とされています。
4月下旬から5月にかけて、炉辺会によって再度デナリ山での捜索が行われました。今回は、前回捜索できなかった標高5200 mから山頂までを中心に捜索が行われ、植村が山頂に立てた「日の丸」の旗が回収されましたが、植村本人を発見することはできませんでした。
植村の消息が絶たれたというニュースが報じられると、多数の人々から植村の捜索費に充ててほしいとの義援金が寄せられました。その受け皿として、1984年3月1日、『植村直己の会』が設立され、明治大学体育課がその受付窓口となりました。同年12月25日までに、3,116件、約2950.00 万 JPYの義援金が寄せられました。
3. 人物と冒険哲学
植村直己は、その内向的で謙虚な性格と、極限の自然に挑む強い意志を併せ持っていました。彼の冒険は、単なる記録達成に留まらない深い哲学に裏打ちされていました。
3.1. 人間的側面
植村家は代々農家で、直己の祖父は損得抜きで困っている人を助ける性格だったといいます。植村もこの祖父の血を引いており、登山隊に加わる際には、自分が主役になるよりも常にメンバーを影でサポートするような立場に立つことが多かったとされています。
高校時代は、友人と共に学校の池の鯉を焼いて食べるなどのいたずらもしましたが、成績も平凡で目立たない地味な存在でした。彼の顔を覚えている級友は少ないほどだったといいます。
明治大学山岳部に入部した当初は、登山経験や知識がないため、よく転ぶことから、童謡『どんぐりころころ』からの連想で「ドングリ」というあだ名(ニックネーム)を付けられ、入部当初は馬鹿にされることもありました。しかし、同期の仲間と肩を並べたいと密かに山行を重ね、その陰の努力が実り、大学4年のときにサブリーダーに選ばれるほどの実力をつけました。
1965年、未踏のゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)に初登頂した際の隊長・高橋進は、植村について、世界を股にかけて無銭旅行などには思い切った無鉄砲なことを平気でやる反面、先輩から一言でも怒られると、すくんでしまって返事もできないような純情さ、気の弱さを人一倍持っている、と評しています。
数々の冒険の成功から大胆不敵な面がクローズアップされていますが、実際には人一倍臆病な性格で、十分な計画と準備を経て必ず成功するという目算なしには決して実行しなかったとされています。彼は体力以外に取り立てて優れている面があるわけではない自分に対して常に劣等感を抱いており、記者会見などで自分が持ち上げられることを極度に嫌いました。しかし、妻・公子や多くの知人が指摘するように、逆にその劣等感をバネにして数々の冒険を成功させたともいえます。人前に立つのは大の苦手で、資金集めの講演会や記者会見で大勢の聴衆を前に話をする際は、第一声を発するまでしばらく気持ちを落ち着けなければなりませんでした。しかし、口下手ながらも自身の体験に基づいた講演は、多くの聴衆に感動を与えました。
3.2. 冒険スタイルと哲学
植村はアマゾン川単独筏下り、犬ぞりによる北極点到達単独行、犬ぞりによるグリーンランド縦断単独行など、数々の有名な冒険を単独で達成しました。
彼の単独行の特徴としては、登山における高度順化を目的とはせず、冒険する現地で生活し、現地の人々の生活に慣れ、技術を習得するような「生活順化」を重視した点が挙げられます。特に、犬ぞり行に先立つ約5か月間、単身グリーンランドのエスキモーと共同生活し、衣食住や狩り・釣り・犬ぞりの技術などを極地に暮らす人々から直接学ぶことに努めました。それらは、犬ぞり行でシロクマに襲われた翌日に同じシロクマと思われる個体を狩りでしとめ、さばいて生肉を食べ、極地では貴重なタンパク質を摂取するなど、彼のサバイバルに活かされました。また、キビヤックは、特異な製法と強烈な異臭で知られる食品ですが、植村はこれが大好物でした。
冬山単独行では、1964年11月、モンブランでクレバスに落ちた際に、アイゼンと荷物が引っかかり九死に一生を得た経験から、何本もの竹竿をストッパーとして身体に括り付けていました。この竹竿は途中でデポ(デポジットの略。荷物を登路の途中に一時的に置いておくこと。)していくものでしたが、植村が行方不明となった最後のデナリ(旧称マッキンリー山)の山行においても、腰に竹竿を括り付けて登攀していく姿が映像に残されています。
4. 功績と評価
植村直己は、その類稀な冒険を通じて日本社会に大きな影響を与え、その功績は死後も高く評価され続けています。
4.1. 叙勲と栄誉
1984年4月19日、植村直己は国民栄誉賞を受賞しました。功績名は「世界五大陸最高峰登頂などの功」とされています。また、同年6月11日には、母校である明治大学名誉博士の学位が贈呈されました。
彼の死後、その功績を称え、優れた冒険家を顕彰するために「植村直己冒険賞」(主催:豊岡市)が設けられました。
4.2. 記念施設と追悼活動


植村の功績を後世に伝えるため、様々な記念施設が設立され、追悼活動が行われています。1984年6月16日には、デンマーク政府が、1978年のグリーンランド縦断の到達点であったヌナタック峰(標高2540 m)を、史上初のグリーンランド縦断という植村の業績を後世に残すために「ヌナタック・ウエムラ峰」と改称すると発表しました。同年9月20日、グリーンランド縦断犬ぞり単独行のゴール近くのナルサスワックで、植村の功績を伝えるレリーフの除幕式が行われました。
1985年8月、植村が構想していた野外学校が、有志によって『植村直己・帯広野外学校』(北海道帯広市)として開校され、植村の妻・公子が名誉校長となりました。
1992年、東京都板橋区に『植村記念財団』(事業主体:板橋区)が設立され、『植村冒険館』が開館しました。これは、植村がデナリ(旧称マッキンリー)で消息を絶つまで約15年間住んでいた地にある施設です。

1994年4月10日には、故郷である兵庫県豊岡市日高町に、日高町立(現:豊岡市立)の『植村直己冒険館』が開館しました。
4.3. 墓碑
植村の墓碑は、故郷の兵庫県豊岡市にある頼光寺と、東京都板橋区の乗蓮寺に建立されています。頼光寺の墓碑の字は西堀栄三郎の筆によるもので、ヒラリー卿から贈られた「A BRAVE MAN AND GREAT ADVENTURER」の言葉が刻まれた副碑もあります。乗蓮寺の墓碑銘の追悼詩は草野心平によるものです。
4.4. 大衆的認識と影響
植村は、頻繁に講演を行い、自身の旅について執筆しました。彼が著した冒険記は、特に子供たちに人気を博し、多くの若者に冒険の精神と夢を与えました。彼の人間的な魅力は、ジャーナリストジョナサン・ウォーターマンの言葉を借りれば、「彼の単独での功績と同じくらい素晴らしいのは、彼の純粋な謙虚さと飾らない人柄であった。彼の偉大さのもう一つの側面は、出会うすべての人々への深い関心にあった」と評されるように、多くの人々に愛されました。
4.5. 悲劇的な最期への反応

植村は生前に「冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である」という言葉を残していました。しかし、彼の最期はデナリ冬季単独登頂後の下山中の消息不明という悲劇的なものでした。
1984年3月8日の捜索打ち切りの知らせを受けて、翌3月9日、妻・公子が明治大学で記者会見に応じました。記者からの「もし生きていたら、どういうことを言いたいですか?」という問いに対し、公子は「常に『冒険とは生きて帰ること』って偉そうに言ってましたので、ちょっとだらしがないじゃないの、って(言いたいです)」と、悲しみをこらえながらも、夫への率直な思いを語りました。また、「どんな旅にも全部反対しました。でも『俺にはこれしかない』って言ってました。(そして、)反対しても出かけていく人でした」と、夫の強固な意志を明かしました。
植村が消息を絶った後、標高4200 mの雪洞で発見された日記には、登頂アタック前の最後の日である2月6日の日付で、「何が何でもマッキンリー登るぞ」と書かれていました。これについて、登山家の野口健は、「何がなんでも」という言葉は素人が使う言葉であり、その言葉を変えれば「いかなる状況下においても決行せよ」という意味であると解釈し、「自然を相手に、植村さんなら、そんなことするべきではないってよくわかってるはずですよね。だから、その彼がどうしてなのか、と。」と疑問を呈しました。
彼の死は、多くの人々に大きな悲しみと衝撃を与えましたが、「生きて帰ることが冒険の前提」という彼の言葉は、彼自身の死によって、その意味をより深く、そして重く問いかけるものとなりました。彼の死は、人間が自然に挑むことの尊さと、その代償について、社会に深く考えさせるきっかけとなりました。
5. 著書とメディア
植村直己は、自らの冒険を数多くの著書として残し、また彼の生涯は様々なメディアで取り上げられました。
5.1. 主要著書
- 『青春を山に賭けて』(毎日新聞社、1971年):彼の生い立ちから1971年1月のグランド・ジョラス完登までを綴った、最初の冒険記。
- 『極北に駆ける』(文藝春秋、1974年):北極圏での体験を記した作品。
- 『北極圏一万二千キロ』(文藝春秋、1976年):グリーンランドからアラスカへの犬ぞり旅の詳細。
- 『北極点グリーンランド単独行』(文藝春秋、1978年):北極点到達とグリーンランド縦断の記録。
- 『冒険』(毎日新聞社、1980年):これまでの冒険を振り返った著書。
- 『エベレストを越えて』(文藝春秋、1982年):エベレストへの挑戦と、その後の南極への夢について記述。
5.2. 関連書籍と出版物
植村直己をテーマにした書籍は多数出版されており、彼の生涯や冒険哲学、人柄を多角的に描いています。
- 高橋進『登頂ゴジュンバ・カン』(茗溪堂、1967年):植村が参加した明治大学ヒマラヤ登山隊の記録。
- 中島祥和『遥かなるマッキンリー:植村直己の愛と冒険』(講談社、1984年):植村の親友が綴った伝記。
- 本多勝一、武田文男『植村直己の冒険を考える』(朝日新聞社、1984年):植村の冒険が現代社会に与えた影響を考察。
- 明治大学山岳部炉辺会『極北に消ゆ:植村直己捜索報告・追悼集』(山と溪谷社、1985年):消息不明後の捜索活動の詳細と追悼文。
- 長尾三郎『マッキンリーに死す:植村直己の栄光と修羅』(講談社、1986年):デナリ(旧称マッキンリー山)での最期を描いたノンフィクション。第8回講談社ノンフィクション賞受賞作品。
- 文藝春秋『植村直己の世界』(文藝春秋、1986年):植村の生涯を多角的に紹介した書籍。
- 文藝春秋『植村直己記念館:HOMAGE TO NAOMI UEMURA』(文藝春秋、1991年):植村の冒険の全てをカラーで再現した決定版。
- 植村修『弟・植村直己』(編集工房ノア、1999年):植村の長兄が綴った回想録。
- 『Coyote(コヨーテ)〈No.37:2009年7月号 / 特集:「いざ、南極へ:植村直己が向った旅の先」〉』(スイッチ・パブリッシング、2009年):植村による南極偵察日記のほぼ全文を収録。
- 湯川豊『植村直己・夢の軌跡』(文藝春秋、2014年):植村の生涯を深く掘り下げた評伝。
5.3. 映像作品とテレビ番組
植村直己の冒険は、多数のドキュメンタリーや映画、テレビ番組として制作され、その偉業が広く伝えられました。
- ドキュメンタリー『全記録! 植村直己 北極点に立つ』(毎日放送、1978年)
- ドキュメンタリー『植村直己 北極点を越えて4000キロ:孤独の165日』(毎日放送、1978年):芸術祭受賞作品。
- ドキュメンタリー『遙かなり・厳冬のエベレスト:植村直己 壮絶の58日』(毎日放送、1981年)
- ドキュメンタリー『植村直己 南極に挑む:夢大陸ひとりぼっち』(毎日放送、1982年)
- テレビドラマ『あの人は風でした:植村直己とその妻』(TBS系『日立テレビシティ』、1985年):植村直己役を西川きよし、妻・公子役を十朱幸代が演じた。
- 映画『植村直己物語』(佐藤純彌監督、1986年):植村直己役を西田敏行、妻・公子役を倍賞千恵子が演じた。植村直己の後半生を描いた伝記物語。
- ドキュメンタリー『偉大なる冒険家・植村直己に捧げる:1984年2月20日 マッキンリー快晴無風、さようならナオミ』(テレビ朝日、1984年7月2日)
- ドキュメンタリー『驚きももの木20世紀:植村直己・悲劇の山の謎』(朝日放送、1996年2月2日)
- ドキュメンタリー『こだわり人物伝:笑顔の冒険家 植村直己』(NHK教育、2010年8月度)
- ドキュメンタリー『歴史秘話ヒストリア:植村直己 北極圏1万2千キロ大冒険』(NHK総合、2014年4月16日)
5.4. 音楽とその他メディア
植村直己を讃えるために創作された音楽作品も存在します。
- 『風を切って』(作曲:橋本祥路、作詞:土肥武、1987年):植村の功績を讃えた歌付き合奏曲。教育芸術社刊の小学校5年生用音楽教科書に採用されました。
- 『星のクライマー』(作曲:REIMY、作詞:松任谷由実、1984年):植村をモデルに作られた曲で、麗美のアルバム『"R"』(1984年)や松任谷由実のアルバム『Yuming Compositions: FACES』(2003年)に収録されています。
6. 主な登山・冒険年表
植村直己の生涯における主要な登山および探検活動を以下に示します。
- 1965年4月23日 - ゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)登頂(明治大学山岳部遠征隊の一員として、シェルパ1人と共に登頂)《世界初》
- 1966年
- 7月 - モンブラン単独登頂 - ヨーロッパ大陸最高峰
- 10月24日 - キリマンジャロ単独登頂 - アフリカ大陸最高峰
- 1968年
- 2月5日 - アコンカグア単独登頂 - 南アメリカ大陸最高峰
- 4月20日 - 6月20日 - アマゾン川約6000 km単独筏下り
- 1970年
- 5月11日 - エベレスト登頂(日本山岳会遠征隊の一員として、松浦輝夫と共に日本人初登頂) - 世界最高峰
- 8月26日 - デナリ(旧称マッキンリー山)単独初登頂 - 北アメリカ大陸最高峰『世界初の五大陸最高峰登頂達成』
- 1971年
- 1月1日 - グランド・ジョラス冬期北壁完登(共同登攀)
- 8月30日 - 10月20日 - 日本列島約3000 kmを徒歩で縦断
- 1972年9月11日 - 1973年6月26日 - グリーンランド北端シオラパルクでエスキモーと共同生活
- 1973年2月4日 - 4月30日 - グリーンランド約3000 km犬ぞり単独行
- 1974年12月29日 - 1976年5月8日 - 北極圏約1.20 万 km犬ぞり単独行
- 1976年7月 - エルブルス登頂 - ヨーロッパ大陸最高峰
- 1978年
- 4月29日 - 犬ぞり単独行で北極点到達《世界初》
- 8月22日 - 犬ぞり単独行でグリーンランド縦断
- 1980年8月13日 - アコンカグア冬期第2登(共同登攀)
- 1984年2月12日 - デナリ(旧称マッキンリー山)冬期単独登頂《世界初》