1. 概要

エドガール・ジャン・フォール(Edgar Jean Faureエドガール・ジャン・フォールフランス語、1908年8月18日 - 1988年3月30日)は、フランスの著名な政治家、弁護士、随筆家、歴史家、伝記作家である。フランス第四共和政期に二度にわたり閣僚評議会議長(首相)を務め(1952年、1955年-1956年)、その後もフランス第五共和政において要職を歴任した。
フォールは、若くして弁護士としてのキャリアをスタートさせ、第二次世界大戦中はフランス抵抗運動に参加し、ニュルンベルク裁判ではフランス側の検察官を務めた。政治家としては、急進党の保守派のリーダーとして活躍し、財務大臣、外務大臣、国民教育大臣、社会問題担当大臣など、多様な閣僚職を経験した。特に国民教育大臣としては、フランスの大学改革を推進し、ユネスコの教育開発国際委員会の委員長として『学習する人間』と題された生涯教育に関する報告書を発表するなど、教育政策に多大な貢献をした。
その政治キャリアを通じて、彼はド・ゴール主義への接近や政党間の変遷を見せ、「風見鶏」と評されることもあったが、本人はユーモラスにこれを受け止めた。また、世界憲法制定を求める国際的な運動にも署名者として関与するなど、グローバルな視点を持っていた。1978年にはその卓越した知性と業績が評価され、アカデミー・フランセーズの会員に選出された。フォールの生涯は、フランスの政治、教育、社会の発展に深く寄与した社会自由主義的政治家の典型として記憶されている。
2. 生涯
エドガール・フォールの生涯は、幼少期から教育、そして第二次世界大戦中の重要な活動に至るまで、多岐にわたる経験に満ちている。
2.1. 幼少期と教育

フォールは1908年8月18日、エロー県ベジエでフランス陸軍軍医の息子として生まれた。彼は近視であったが、幼少期から非常に優秀な学生であり、15歳でバカロレアを取得し、19歳でパリの大学で法学士の学位を取得した。21歳という若さで弁護士会の会員となり、当時フランスで最年少の弁護士となった。パリでの生活中にフランス第三共和政の政治に積極的に関与するようになり、1929年には急進党に入党した。
2.2. 第二次世界大戦と抵抗活動
第二次世界大戦中のドイツによるフランス占領下で、フォールはフランス抵抗運動に参加し、マキの一員として活動した。1942年にはシャルル・ド・ゴールの指揮下にあるアルジェリアの司令部に逃れ、そこでフランス共和国臨時政府の立法部門の責任者に任命された。戦争終結後、彼はニュルンベルク裁判においてフランス側の検察官を務めた。
3. 政治経歴
フォールはフランスの政治家として広範なキャリアを築き、政府、議会、政党指導者として重要な役割を担い、フランスの政策と政治情勢に大きな影響を与えた。特に社会政策や民主主義的発展への貢献が特筆される。
3.1. 政治への参入と党派
フォールはフランス第三共和政期から政治に関与し、1929年に急進党に入党した。1946年にはフランス第四共和政下でジュラ県から急進党公認で国民議会議員に選出された。当時の急進党は、総投票数の10%未満にまで人気が低下していたものの、他のどの政党も明確な多数派を形成できなかったため、政府の形成において不釣り合いに重要な役割を果たすことが多かった。フォールは党内のより保守的な派閥のリーダーであり、ピエール・マンデス=フランス率いる党内左派と対立する立場にあった。
3.2. 首相および閣僚職
フォールは、1952年1月から3月、および1955年2月から1956年1月にかけての二度にわたり閣僚評議会議長(首相)を務めた。彼の内閣は以下の通りである。
期間 | 役職 | 氏名 |
---|---|---|
1952年1月20日 - 3月8日 | 閣僚評議会議長 財務大臣 | エドガール・フォール |
副閣僚評議会議長 国防大臣 | ジョルジュ・ビドー | |
副閣僚評議会議長 | アンリ・クイユ | |
外務大臣 | ロベール・シューマン | |
欧州評議会担当大臣 | ピエール・プフリムラン | |
軍備大臣 | モーリス・ブルジェ=モーヌリ | |
内務大臣 | シャルル・ブリュヌ | |
経済・情報大臣 | ロベール・ビュロン | |
予算大臣 | ピエール・クーラン | |
産業・エネルギー大臣 | ジャン=マリー・ルーヴェル | |
労働・社会保障大臣 | ポール・ベーコン | |
司法大臣 | レオン・マルティノー=デプラ | |
商船大臣 | アンドレ・モリス | |
国民教育大臣 | ピエール=オリヴィエ・ラピー | |
退役軍人・戦没者大臣 | エマニュエル・タンプル | |
農業大臣 | カミーユ・ローランス | |
海外フランス大臣 | ルイ・ジャキノ | |
公共事業・運輸・観光大臣 | アントワーヌ・ピネー | |
公衆衛生・人口大臣 | ポール・リベイユル | |
復興・都市計画大臣 | ウジェーヌ・クロディウス=プティ | |
郵政・電信・電話大臣 | ロジェ・デュシェ | |
商業大臣 | エドゥアール・ボンヌフース | |
提携国大臣 | ジャン・ルトゥルノー | |
国務大臣 | ジョゼフ・ラニエル フランソワ・ミッテラン | |
1955年2月23日 - 1956年2月1日 | 閣僚評議会議長 | エドガール・フォール |
外務大臣 | アントワーヌ・ピネー | |
国防・軍事大臣 | ピエール・ケーニッヒ(1955年10月6日よりピエール・ビロット) | |
内務大臣 | モーリス・ブルジェ=モーヌリ(1955年12月1日よりエドガール・フォールが暫定兼任) | |
財務・経済大臣 | ピエール・プフリムラン | |
商業・産業大臣 | アンドレ・モリス | |
労働・社会保障大臣 | ポール・ベーコン | |
司法大臣 | ロベール・シューマン | |
商船大臣 | ポール・アンティエ | |
国民教育大臣 | ジャン・ベルトワン | |
退役軍人・戦没者大臣 | レイモン・トリブーレ(1955年10月6日よりヴァンサン・バディ) | |
農業大臣 | ジャン・スーベール | |
海外フランス大臣 | ピエール=アンリ・タイトゲン | |
公共事業・運輸・観光大臣 | エドゥアール・コルニジョン=モリニエ | |
公衆衛生・人口大臣 | ベルナール・ラファイ | |
復興・住宅大臣 | ロジェ・デュシェ | |
郵政大臣 | エドゥアール・ボンヌフース | |
モロッコ・チュニジア問題大臣 | ピエール・ジュリー(1955年10月20日に廃止) |
首相在任中、フォールは多数の閣僚職を歴任した。具体的には、1949年から1950年には財務担当国務長官、1950年から1951年には予算大臣、1951年から1952年には司法大臣を務めた。その後、1953年から1955年には財務・経済大臣、1958年5月から6月には財務・経済・計画大臣、1966年から1968年には農業大臣、1968年から1969年には国民教育大臣、1972年から1973年には国務大臣兼社会問題担当大臣を務めた。1955年3月16日にはイギリスに続き水素爆弾の製造計画を発表したが、批判を受けて翌月に撤回している。
3.3. 議会および立法活動
フォールは1946年から1958年までジュラ県選出の国民議会議員を務め、その後1967年から1980年までドゥー県選出の国民議会議員を務めた。1973年から1978年まで国民議会議長を務め、フランスの立法府において重要な役割を果たした。1978年には国民議会議長としての再任を目指したが、ジャック・シャバン=デルマスに敗れた。また、1959年から1967年まではジュラ県選出の上院議員を務め、1980年には再びドゥー県選出の上院議員となり、1988年に死去するまでその職にあった。
3.4. 地方政府での活動
フォールは地方政治においても活発に活動した。彼は1947年から1971年、そして1983年から1988年までジュラ県ポール=レネーの市長を務め、1971年から1977年まではポンタルリエの市長を務めた。1949年から1967年までジュラ県県議会議長を務め、その後1967年から1979年までドゥー県県議会議員を務めた。さらに、1974年から1981年、そして1982年から1988年までフランシュ=コンテ地域圏の地域圏議会議長を務めた。1985年には欧州地域議会会議(AER)の初代議長となり、1988年までその職を務めるなど、その創設と初期の発展に重要な役割を果たした。
3.5. 政治的変遷と党派的連携
フォールの政治的見解はフランス第四共和政期に変化し、当初はフランス第五共和政に反対し、1962年の国民投票では大統領選挙の普通選挙化に反対票を投じた。しかし、最終的にはド・ゴール主義に傾倒し、ゴーリスト政党である新共和連合に参加した。1963年には党の非公式代表として中華人民共和国を訪問している。1974年のフランス大統領選挙では、候補者として擁立される動きもあったが、フォールは立候補を固辞し、ゴーリスト候補のジャック・シャバン=デルマスではなく、ヴァレリー・ジスカール・デスタンを支持した。
4. 著作と知的貢献
フォールは政治家としての活動以外にも、文学作品、歴史研究、教育改革への関与、国際的な教育イニシアチブを通じて多大な知的貢献を行った。
4.1. 著作目録
フォールが著した主要な書籍やエッセイは以下の通りである。これらは歴史、哲学、社会批評、さらには探偵小説など多岐にわたる。
- Pascal: le procès des provinciales (パスカル:プロヴァンシアルの裁判), Firmin Didot, 1930年
- Le Pétrole dans la paix et dans la guerre (平和と戦争における石油), Nouvelle revue critique, 1938年
- Pour rencontrer M. Marshes (マーシュ氏に会うために), Sequana Éditeur, 1942年(探偵小説、Ed Faure名義)
- L'installation du président Fitz Mole (フィッツ・モール大統領の就任), Sequana Éditeur(探偵小説、Ed Faure名義)
- Mr Langois n'est pas toujours égal à lui-même (ラングロワ氏は常に彼自身と等しいわけではない), Julliard, 1950年(小説、Edgar Sanday名義)
- Le serpent et la tortue (蛇と亀:中国人民の問題), Juillard, 1957年
- La disgrâce de Turgot (チュルゴーの失脚), Gallimard, 1961年(邦訳『チュルゴーの失脚 1776年5月12日のドラマ』上・下、渡辺恭彦訳、法政大学出版局、2007年)
- La capitation de Dioclétien (ディオクレティアヌスの人頭税), Sirey, 1961年(法学博士論文)
- Prévoir le présent (現在を予測する), Gallimard, 1966年
- L'éducation nationale et la participation (国民教育と参加), Plon, 1968年
- Philosophie d'une réforme (改革の哲学), Plon, 1969年
- L'âme du combat (闘争の魂), Fayard, 1969年
- Ce que je crois (私の信じること), Grasset, 1971年
- Pour un nouveau contrat social (新しい社会契約のために), Seuil, 1973年
- Au-delà du dialogue avec Philippe Sollers (フィリップ・ソレールとの対話を超えて), Balland, 1977年
- La Banqueroute de Law (ローの破産), Gallimard, 1977年
- La philosophie de Karl Popper et la société politique d'ouverture (カール・ポパーの哲学と開かれた政治社会), Firmin Didot, 1981年
- Mémoires I, "Avoir toujours raison, c'est un grand tort" (回想録I:「常に正しいことは大きな間違いである」), Plon, 1982年
- Mémoires II, "Si tel doit être mon destin ce soir" (回想録II:「もし今夜それが私の運命であるならば」), Plon, 1984年
- Discours prononcé pour la réception de Senghor à l'Académie française (サンゴールのアカデミー・フランセーズ入会演説), 1984年3月29日
4.2. 教育への貢献

フォールは1968年から1969年まで国民教育大臣を務め、フランスの大学改革を推進する責任者であった。彼は、フランス五月革命の過程で大学運営の新たな改編案を提示した。また、ユネスコの教育開発国際委員会の委員長として、1970年には『学習する人間』(Learning To be、原題は「未来の学習」)と題された生涯教育に関する報告書を発表し、世界の教育政策に大きな影響を与えた。
さらに、1966年(昭和41年)には、エドウィン・O・ライシャワーらとともにOECDの教育調査団に参加し、「日本の教育政策」に関する報告を行った。この報告書では、日本の教育が高度経済成長に大きく貢献していること、特に初等教育が高い評価を受ける一方で、大学を頂点とする高等教育の硬直化や階層化が課題であると指摘された。また、教育の国際化の必要性も強調された。
5. 国際政策と関係
フォールは国際問題にも深く関与し、グローバル・ガバナンスの推進や重要な外交交流に貢献した。
5.1. グローバル政策と世界憲法
フォールは、世界憲法を起草するための会議を招集する合意の署名者の一人であった。この動きは、人類史上初めて世界制憲議会が開催され、地球連邦憲法が起草・採択されるきっかけとなった国際的なグローバル・ガバナンス運動への彼の関与を示している。
5.2. 外交活動
1963年にはド・ゴール主義政党の非公式代表として中華人民共和国を訪問するなど、重要な外交活動を行った。また、前述の通り、1966年にはOECDの教育調査団の一員として日本を訪れ、日本の教育政策に関する報告書をまとめるなど、国際的な教育協力にも尽力した。
6. 思想と哲学
フォールの政治思想はキャリアを通じて変遷し、その実用主義的な側面は世間の認識や批判の対象となったが、彼はそれをユーモアで乗り越えた。
6.1. 政治思想と変遷
フォールは、その政治キャリアを通じて急進党の中道主義から次第に右傾化し、フランス第五共和政成立に際しては当初反対の立場であったが、最終的にはド・ゴール主義に傾倒し、ゴーリスト政党に参加した。その後もヴァレリー・ジスカール・デスタンのフランス民主連合、さらには共和国連合へと渡り歩いた経歴から、「出世第一主義者」や「風見鶏」という批判的なニックネームがつけられることもあった。しかし、フォール自身はユーモアに溢れた人物であり、この「風見鶏」という悪口に対して「回るのは風見鶏ではない。風が回すのだ」と答えたことで知られている。この言葉は、彼が自身の政治的実用主義を肯定的に捉え、時勢の変化に対応する柔軟性を重視していたことを示唆している。
7. 私生活
フォールの私生活は、彼の結婚と家族関係に焦点を当てると、簡潔に概観できる。
7.1. 結婚と家族
1931年、フォールは作家のルシー・マイヤーと結婚した。ルシーは絹商人の娘であった。彼らは1ヶ月間のソビエト連邦への新婚旅行に出かけた。
8. 死去
エドガール・フォールは1988年3月30日に死去した。彼の墓はパリのパッシー墓地にある。

9. 評価と遺産
フォールのキャリアは、その功績と批判の両面からバランスの取れた評価がなされており、フランス社会と政治に永続的な影響を与えた。
9.1. 肯定的評価
フォールは、その政策への貢献、特に国民教育大臣としての大学改革への取り組みや、ユネスコ報告書『学習する人間』を通じた生涯教育の推進において肯定的に評価されている。これらの活動は、フランスの教育システムの現代化と国際的な教育思想の発展に大きく寄与した。また、1978年にはその卓越した知性と文才が認められ、アカデミー・フランセーズの会員に選出されたことは、彼の知的功績に対する高い評価を示すものである。
9.2. 批判と論争
フォールの政治キャリアは、「キャリア主義者」という告発や、急進党からド・ゴール主義、そしてフランス民主連合へと党派を転々とした「風見鶏」というニックネームに象徴されるイデオロギー的変遷を巡る批判と論争に常に晒されてきた。これらの批判は、彼の政治的実用主義を日和見主義と見なす見方から生じたものである。しかし、彼自身は「回るのは風見鶏ではない。風が回すのだ」という言葉で、自身の政治的柔軟性を擁護した。
9.3. 影響と認識
フォールの仕事とアイデアは、フランスの政治、教育、社会に永続的な影響を与えた。特に、彼が推進した教育改革は、現代フランスの高等教育システムの基礎を築く上で重要な役割を果たした。また、アカデミー・フランセーズ会員としての認識は、彼が単なる政治家にとどまらず、フランスの知的・文化的生活においても重要な人物であったことを示している。彼の政治的実用主義とユーモアのセンスは、複雑な政治状況を生き抜く上での彼の特徴として記憶されている。