1. 概要
オレグ・アナトリエヴィチ・サレンコ(Олег Анатольевич Саленкоオレグ・アナトリエヴィチ・サレンコロシア語、Олег Анатолійович Саленкоオレフ・アナトリヨヴィチ・サレンコウクライナ語、1969年10月25日 - )は、ロシアとウクライナの二重国籍を持つ元サッカー選手である。身長181 cm、体重80 kg。フォワードとして活躍し、特に1994 FIFAワールドカップでグループステージ敗退チームから唯一の得点王(ゴールデンブーツ)を獲得し、同大会カメルーン戦で史上最多となる1試合5得点を記録したことで知られる。また、FIFA世界ユース選手権(現U-20ワールドカップ)とFIFAワールドカップの両方で得点王に輝いた唯一の選手である。彼のプロキャリアは1986年から2001年まで続き、引退後は短期間ながらビーチサッカーの監督も務めた。
2. 幼少期とユースキャリア
オレグ・サレンコの幼少期からプロデビュー前のサッカーキャリア、そして初期のクラブでの活躍について詳述する。
2.1. 出生と背景
サレンコは1969年10月25日、ソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)で生まれた。彼の父親はウクライナ人、母親はロシア人である。
2.2. ユースおよび初期のクラブキャリア
サレンコは地元レニングラードのゼニト・レニングラードで選手生活をスタートさせた。その後、ディナモ・キーウへ移籍し、1989年から1992年にかけて同クラブで91試合に出場し28得点を記録するなどの活躍を見せた。ディナモ・キーウでは、1990年のソビエト連邦トップリーグ優勝とソビエト連邦カップ優勝に貢献した。この時期の彼の得点力の高さは、後の国際舞台での活躍を予感させるものだった。
3. クラブキャリア
プロサッカー選手としてのオレグ・サレンコのクラブ活動は、1986年から2000年までの約15年間にわたり、ソビエト連邦、スペイン、スコットランド、トルコ、ポーランドといった複数の国のクラブで展開された。
3.1. ディナモ・キーウ時代とスペインリーグへの移籍
ディナモ・キーウに所属していた期間、サレンコはクラブの主要選手の一人として活躍した。特に1990年には、チームがソビエト連邦トップリーグとソビエト連邦カップの両方で優勝し、国内二冠を達成する上で重要な貢献を果たした。その後、彼はスペインのプリメーラ・ディビシオンへの移籍を果たし、1993年にCDログロニェスに加入した。ログロニェスでは1993年から1994年にかけて47試合に出場し23得点を挙げるなど、短い期間ながらも印象的な活躍を見せた。
3.2. 主要ヨーロッパクラブでの活躍
ログロニェスでの活躍が認められ、サレンコは1994年にバレンシアCFへ移籍した。バレンシアでは1995年までに25試合に出場し7得点を記録した。その後、1995年にはスコットランドの強豪レンジャーズFCに移籍し、16試合で7得点を挙げて1995-96シーズンのスコティッシュ・プレミアディビジョン優勝に貢献した。1996年からはトルコのイスタンブールスポルASでプレーし、1998年までに18試合で11得点という高い得点率を維持した。1999年には再びスペインに戻り、コルドバCFに在籍したが、ここでは3試合の出場にとどまり得点はなかった。
3.3. 引退と復帰の試み
度重なる怪我の影響により、サレンコは2000年に31歳という若さでプロサッカー選手としてのキャリアに幕を下ろすことになった。しかし、2000年から2001年のシーズンにかけて、彼はポーランドのポゴニ・シュチェチンでプロサッカーへの復帰を試みた。しかし、身体的なコンディションが万全ではなかったため、わずか1試合の出場にとどまり、再び引退を余儀なくされた。
4. 代表キャリア
オレグ・サレンコは、ソビエト連邦、ウクライナ、そしてロシアの各代表チームでプレーした。
4.1. ユース代表
サレンコはソビエト連邦U-20代表チームの一員として、1989年FIFAワールドユース選手権に出場した。この大会で彼は4試合に出場し5得点を挙げ、得点王に輝いた。チームはナイジェリアとの準々決勝でPK戦の末に敗れ、準決勝進出はならなかったものの、サレンコの個人パフォーマンスは際立っていた。
4.2. フル代表
サレンコはフル代表として、ウクライナ代表とロシア代表でプレーした。
彼は1992年のウクライナ代表の初めてのFIFA公認試合となったハンガリーとの親善試合(ウクライナ 1-3 ハンガリー)に1試合のみ出場した。その後、ロシア代表に加わり、1993年から1994年にかけて8試合に出場し6得点を記録した。これらロシア代表での6得点、彼のロシア代表での国際的な活躍は、全て1994 FIFAワールドカップで挙げられたものである。
4.2.1. 1994 FIFAワールドカップ
サレンコは1994年6月28日にアメリカで行われた1994 FIFAワールドカップのグループステージ最終戦、カメルーン戦でワールドカップ史上最多となる1試合5得点を達成し、ロシアの6-1の勝利に貢献した。この試合に至るまでのスウェーデン戦で挙げた1得点と合わせ、彼は大会通算6得点を記録した。
サレンコは、ブルガリアのフリスト・ストイチコフと共に、この大会の得点王であるゴールデンブーツに輝いた。しかし、ロシアはグループステージで敗退しており、サレンコがわずか3試合の出場で得点王を獲得したのに対し、ストイチコフが所属するブルガリアは準決勝まで進み、合計7試合を戦って4位という成績を収めた。このように、サレンコはワールドカップのグループステージで敗退したチームから得点王を獲得した唯一の選手という、特異な記録を樹立した。
5. 引退後の活動
選手引退後のオレグ・サレンコは、サッカー界で異なる役割を担い、また事業活動にも従事した。
5.1. ビーチサッカー監督としてのキャリア
2003年、サレンコはウクライナのビーチサッカー代表チームの監督に任命された。彼の指揮の下、チームはポルトガルで開催された「ムンディアリート」と呼ばれる大会に出場した。チームは3試合を戦い、アメリカに6-5で勝利したものの、ブラジルとスペインには敗れた。この大会後、彼は監督を解任された。
5.2. その他の活動
ビーチサッカー監督としての活動の後、サレンコはウクライナサッカー連盟の支援スタッフの一員としてサッカー界に関わり続けた。しかし、その後はサッカー界から離れ、自身の事業活動に注力している。
6. キャリア統計
オレグ・サレンコのプロキャリアにおけるクラブおよび代表での統計を以下に示す。
6.1. クラブ
年 | クラブ | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
1986-1988 | ゼニト・レニングラード | 47 | 10 |
1989-1992 | ディナモ・キーウ | 91 | 28 |
1993-1994 | CDログロニェス | 47 | 23 |
1994-1995 | バレンシアCF | 25 | 7 |
1995 | レンジャーズFC | 16 | 7 |
1996-1998 | イスタンブールスポルAS | 18 | 11 |
1999-2000 | コルドバCF | 3 | 0 |
2000-2001 | ポゴニ・シュチェチン | 1 | 0 |
合計 | 248 | 86 |
6.2. 代表
サレンコの代表チームごとの出場と得点数は以下の通り。
代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
ウクライナ | |||
1992 | 1 | 0 | |
合計 | 1 | 0 | |
ロシア | |||
1993 | 1 | 0 | |
1994 | 7 | 6 | |
合計 | 8 | 6 | |
キャリア通算 | 9 | 6 |
6.2.1. 国際試合での得点
スコアと結果はロシアの得点を先に記載。
7. 獲得タイトル
オレグ・サレンコがプロキャリアを通じて獲得した主要なクラブおよび個人のタイトルを以下に示す。
7.1. クラブタイトル
- ソビエト連邦トップリーグ: 1990 (ディナモ・キーウ)
- ソビエト連邦カップ: 1990 (ディナモ・キーウ)
- スコティッシュ・プレミアディビジョン: 1995-96 (レンジャーズFC)
7.2. 個人タイトル
- FIFA世界ユース選手権ゴールデンシュー: 1989
- FIFAワールドカップゴールデンブーツ: 1994
8. 遺産と記録
オレグ・サレンコは、サッカーの歴史においていくつかのユニークで際立った記録を残している。
- FIFAワールドカップ単一試合最多ゴール記録**: 1994 FIFAワールドカップのカメルーン戦で記録した5ゴールは、ワールドカップ史上1試合での最多得点記録である。
- FIFA U-20ワールドカップとFIFAワールドカップの両方での得点王**: 彼は1989 FIFAワールドユース選手権と1994 FIFAワールドカップの両方で得点王を獲得した唯一の選手である。この功績は、異なる年代の主要国際大会で一貫して高い得点能力を発揮した彼の並外れた才能を示している。
- グループステージ敗退チームからのワールドカップ得点王**: 1994 FIFAワールドカップで、ロシアがグループステージで敗退したにもかかわらず、サレンコが得点王(ゴールデンブーツ)に輝いたことは、ワールドカップ史上唯一の例である。これは、彼の個人技がチームの成績を上回るほどの際立ったものであったことを示している。