1. 概要
クリュニーのユーグ(Hugues de Clunyフランス語、Hugues le Grandフランス語、Hugues de Semurフランス語、1024年5月13日 - 1109年4月29日)は、フランスのクリュニー修道院の第6代修道院長を務めた人物である。彼は中世における最も影響力のある修道会指導者の一人であり、その在任期間は60年以上に及び、クリュニー修道院がその栄華の頂点に達した時期と重なる。また、彼はカトリック教会において聖人として崇敬されており、「熱病からの守護者」としても知られる。ユーグは、修道院の拡大とクリュニー改革の推進に尽力し、特にヨーロッパ最大の宗教建築物の一つであるクリュニー修道院第三聖堂の建設を指揮した。さらに、彼は叙任権闘争における神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世間の調停役を試みるなど、当時の政治・外交においても重要な役割を果たした。
2. 生涯
クリュニーのユーグの生涯は、貴族としての出自から修道生活への道、そしてクリュニー修道院長としての長きにわたる活動に特徴づけられる。
2.1. 出生と幼年期
ユーグは1024年5月13日、ブルゴーニュ地方のスミュール=アン=ブリヨンで生まれた。彼はブルゴーニュの最も高貴な家系の一つに連なり、スミュール卿ダルマス1世とヴェルジー家のアレムベルジュ・ド・ヴェルジーの長男であった。母方の祖父はブルゴーニュ公アンリ1世である。彼の父はユーグが騎士の道を歩むことを望んだが、ユーグ自身はその道に対する強い嫌悪を示し、学問への傾倒を明確にした。そのため、父は彼を大叔父にあたるオセール司教のシャロンのユーグに預け、司祭職への準備を託した。
2.2. 教育と修道生活への入門
ユーグは、大叔父であるシャロンのユーグ司教の庇護のもと、サン=マルセル修道院付属の修道院学校で初期教育を受けた。1037年にはシャロン=シュル=ソーヌのサン=マルセル修道院に入院している。14歳でクリュニー修道院の修練院に入り、15歳で修道誓願を立てた。その後、彼は修道院の司祭となり、1044年には司祭に叙階され、さらにクリュニーの副修道院長に昇進した。
2.3. 修道院長就任と初期の活動
1048年、ユーグはトゥール司教のブルーノ・フォン・エギスハイム=ダグスブルク(後の教皇レオ9世)に随行し、ローマへ向かった。翌年の1049年、副修道院長であったユーグは、先代のオディロの後継者として、クリュニー修道院長に選出された。彼は24歳でその職に就き、その後60年以上にわたってこの地位に留まった。在任中、ユーグはヨーロッパ各地のクリュニー修道会に属する教会を積極的に訪問した。また、彼は数多くの重要な公会議や国会に参加し、教会政治の舞台で活動した。具体的には、1049年のランス公会議、1050年、1059年、1063年のローマ地方議会、1054年のトゥール公会議、そして1072年のヴォルムス国会に出席している。1058年3月にはフィレンツェに滞在し、そこで教皇ステファヌス9世の臨終に立ち会った。
3. 主要な業績と活動
ユーグの修道院長在任期間は、クリュニー修道院の最盛期と重なり、数多くの重要な業績を残した。
3.1. クリュニー第3聖堂の建設
ユーグは、当時ヨーロッパ最大の宗教建築物であったクリュニー第3聖堂(聖ペテロとパウロの聖堂)の建設責任者であった。この壮大な建築プロジェクトは1088年に着工された。聖堂の建設資金は、主にカスティーリャ王国とレオン王国の国王からの多額の寄付によって賄われた。具体的には、レオン王フェルナンド1世は1053年から1065年にかけて毎年1,000アウレウス金貨を寄付することを定めた。この寄付は1077年にレオン王アルフォンソ6世によって再確認され、1090年にはその額が倍の2,000アウレウス金貨に増額された。この金額は、クリュニー修道院が受け取った年間寄付金の中で過去最大のものであった。


クリュニー第3聖堂は、全長187 mにも及ぶ巨大な規模を誇った。その構造は、拝廊、5つの身廊、待合室、放射状礼拝堂を備えた細長い聖歌隊席、二重の翼廊、そして5つの塔が特徴であった。この聖堂は、16世紀にバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂が再建されるまで、ヨーロッパで最も大きな宗教建築物であった。1085年10月には、かつてクリュニーの副修道院長であった教皇ウルバヌス2世が、この聖堂の主祭壇を奉献した。

3.2. クリュニー改革修道会の拡大
ユーグは、クリュニー修道会の改革精神を広め、その影響力をヨーロッパ全土に拡大させることに貢献した。1079年、フランス王フィリップ1世はパリのサン=マルタン=デ=シャン修道会をクリュニー修道院に譲渡し、これによってクリュニーの影響力はさらに強化された。また、1089年にはイングランドで最初のクリュニー修道会修道院であるルイス聖パンクラース修道院を設立した。さらに、ブルゴーニュのクレメンティアが結婚した後、彼女はフランドルのサン=ベルタン修道院をユーグに寄進した。この出来事は、ロワール川以北へのクリュニー修道会の拡大を促し、フランドルにおける修道院改革のきっかけとなった。
4. 政治的影響力と外交活動
ユーグは、その高い地位と人格により、中世の政治と外交の舞台において多大な影響力を行使した。
4.1. 王室および教皇庁との関係
ユーグは、カスティーリャとレオンの王室とも密接な関係を築いていた。特に、レオン王アルフォンソ6世がその兄弟であるサンチョ2世の投獄から解放される際には、ユーグの影響力が及んだとされている。

また、教皇ウルバヌス2世はユーグの指導のもとクリュニーで副修道院長を務めていた経緯があり、この深い関係性により、ユーグは11世紀後半において最も強力で影響力のある人物の一人となった。彼は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の代父でもあったため、叙任権闘争において教皇グレゴリウス7世とハインリヒ4世の間で調停役を務めようと試みた。この出来事はカノッサの屈辱として知られるが、彼の調停は最終的には成功しなかった。
4.2. 外交的貢献
ユーグは、教会を代表してドイツやハンガリーにおいて活発な外交活動を展開し、重要な外交的任務を遂行した。彼の外交努力は、中世ヨーロッパにおける教会の影響力維持と拡大に貢献した。
5. 死
クリュニーのユーグは、1109年4月29日の復活祭の月曜日の夜、クリュニー修道院の聖母礼拝堂で85歳で永眠した。
6. 遺産と評価
クリュニーのユーグは、その生涯を通じて教会と修道院制度に計り知れない影響を与え、後世に多大な遺産を残した。
6.1. 列聖と崇敬
ユーグは、その死後、カトリック教会によって聖人として列聖され、広く崇敬されている。1120年1月6日、クリュニーを訪れた教皇カリストゥス2世は、修道士たちの要請に応じ、ユーグを聖人に加えた。彼の記念日は4月29日である。彼はまた、「熱病からの守護者」としても信仰の対象となっている。『ローマ殉教記』には、彼が「現在のフランス、ブルゴーニュ地方のクリュニーにおいて、61年間にわたってこの地の修道院を健全に治め、常に施しと祈りに専念し、修道院の規律の守護者であり、精力的に推進し、聖なる教会を熱心に管理し、宣教者であった修道院長」であると記されている。ユーグの伝記『聖ユーグの人生(Vie de Saint-Huguesフランス語)』は、修道士であり後にフラスカーティの枢機卿となったパリのジルによって書かれた。
6.2. 歴史的評価と影響
ユーグの修道院長在任期間は、クリュニー修道院がその最盛期を迎え、精神的、政治的、文化的中心地としての地位を確立した時代と重なる。彼はクリュニー改革修道会の拡大に決定的な役割を果たし、その影響はヨーロッパ全土に及んだ。彼のリーダーシップのもと、クリュニーは中世の教会改革運動において重要な推進力となり、その修道院制度は多くの地域で模範とされた。彼の業績は、修道院制度の発展のみならず、中世社会全体の精神生活や文化、さらには政治情勢にも深く影響を与えた。
6.3. 遺骨とその運命
ユーグの遺骨は、その死後も崇敬の対象であったが、16世紀に発生したユグノー戦争の混乱の中で悲劇的な運命を辿った。1562年(一部の資料では1575年)にユグノーがクリュニー修道院を略奪した際、ユーグを含む聖人たちの遺体は焼かれ、その灰は風に撒き散らされたとされる。この事件により、彼の遺体は失われた。