1. 概要
本記事では、ドイツの外交官でありナチス政権下で外務大臣を務めたコンスタンティン・フォン・ノイラートの生涯を概観する。彼の外交官としてのキャリア、ナチス政権下での役割、ベーメン・メーレン保護領総督としての活動、そしてニュルンベルク裁判での判決と晩年について解説する。本節は、人権や社会正義の観点も踏まえた記事全体の方向性を示すものである。
コンスタンティン・ヘルマン・カール・フライヘア・フォン・ノイラート(Konstantin Hermann Karl Freiherr von Neurathドイツ語、1873年2月2日 - 1956年8月14日)は、ドイツの貴族、外交官、政治家である。彼は1932年から1938年までドイツ国外務大臣を務め、1939年から1943年まではベーメン・メーレン保護領総督(国家保護官)を務めた。
ノイラートはナチス政権初期において、ヴェルサイユ条約の無効化や第二次世界大戦前の領土拡大政策を推進するアドルフ・ヒトラーの外交政策において重要な役割を果たした。しかし、彼はしばしば戦術的な理由からヒトラーの目標に反対し、その結果、1938年に熱心なナチ党員であるヨアヒム・フォン・リッベントロップに外務大臣の座を追われた。ベーメン・メーレン保護領総督としての彼の権限は、1941年9月以降は名目的なものとなった。
第二次世界大戦後、ノイラートはニュルンベルク裁判で戦争犯罪人として起訴され、ナチス・ドイツにおける彼の行動と服従に対して懲役15年の判決を受けた。彼は1954年に早期釈放され、その後は故郷の領地で隠棲し、2年後に死去した。
2. 初期生い立ちと背景
コンスタンティン・フォン・ノイラートは、ヴュルテンベルク王国の貴族家庭に生まれ、法学を修めた後、外交官としてのキャリアを歩み始めた。彼の家柄と初期の外交経験は、その後の政治的キャリアに大きな影響を与えた。
2.1. 幼少期と教育
ノイラートは1873年2月2日、ヴュルテンベルク王国クライングラットバッハ(現在のファイヒンゲン・アン・デア・エンツの一部)の荘園に生まれた。彼はシュヴァーベン地方のフライヘア(男爵)の貴族家系であり、ヴュルテンベルク王国の政治的王朝の末裔であった。
彼はテュービンゲン大学とベルリン大学で法学を学び、1897年に卒業した。卒業後、彼は故郷の法律事務所で働き、1901年にドイツ外務省に入省し、公務員としてのキャリアを開始した。
2.2. 家柄と貴族としての立場
ノイラート家はヴュルテンベルク王国の有力な貴族であり、彼の祖父であるコンスタンティン・フランツ・フォン・ノイラートは、ヴュルテンベルク王カール1世(在位1864年 - 1891年)のもとで外務大臣を務めた経歴を持つ。また、彼の父であるコンスタンティン・ゼバスチャン・フォン・ノイラート(1912年死去)は、ドイツ帝国議会の自由保守党議員であり、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム2世の侍従長を務めていた。このような家柄は、ノイラートの社会的・政治的地位を確立し、彼のキャリア形成に有利に働いた。
2.3. 初期外交官としてのキャリア

1901年にドイツ外務省に入省したノイラートは、同年マリー・アウグステ・モーザー・フォン・フィルゼック(1875年 - 1960年)と結婚し、1902年に息子コンスタンティン、1904年に娘ウィニフレッドをもうけた。
1903年から1908年までロンドンのドイツ大使館に副領事として赴任し、1909年からは公使参事官を務めた。1904年にプリンス・オブ・ウェールズ(後のジョージ5世)がヴュルテンベルク王国を訪問した際には、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム2世の侍従長として、ノイラートはロイヤル・ヴィクトリア勲章の名誉ナイト・グランド・クロスを授与された。彼のキャリアは、当時の外務大臣アルフレート・フォン・キーダーレン=ヴェヒターによって大きく推進された。1914年にはコンスタンティノープルのドイツ大使館に派遣された。
3. 第一次世界大戦への従軍
ノイラートは第一次世界大戦中、軍務に就き、負傷しながらも勲章を授与された。
彼は第一次世界大戦中の1914年から1916年まで、擲弾兵連隊の士官として従軍し、1916年に重傷を負った。1914年12月には鉄十字章一級を授与されている。負傷後、彼はオスマン帝国におけるドイツ外交官としての任務(1914年 - 1916年)に復帰した。この期間、彼はアルメニア人虐殺に関するドイツ大使館の公式見解をドイツ領事館に伝える覚書を作成した。この覚書は、オスマン政府の行動を正当化しつつ、ドイツ政府が虐殺の「過剰」に抗議しているかのように見せようとするものであった。1917年には一時的に外交官の職を辞し、叔父のユリウス・フォン・ゾーデンの後を継いでヴュルテンベルク王室政府の長を務めた。
4. ヴァイマル共和国時代の外交官経歴
第一次世界大戦後、ノイラートは外交官としてのキャリアを再開し、デンマーク、イタリア、イギリスで重要な大使職を歴任した。
4.1. デンマーク、イタリア、イギリス大使
1919年、ノイラートはフリードリヒ・エーベルト大統領の承認を得て外交の世界に復帰し、コペンハーゲンのドイツ大使館に公使として着任した。1921年から1930年までローマのドイツ大使を務めたが、この期間、彼はイタリア・ファシズムに過度に感銘を受けることはなかった。
1929年に当時の外務大臣グスタフ・シュトレーゼマンが急死した後、ノイラートはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領によって後任の外務大臣候補として検討されたが、当時の与党からの反対により実現しなかった。1930年にはロンドンのドイツ大使館の長として赴任し、1932年までその職を務めた。
5. ナチス政権下の政治的役割
ノイラートは1932年にドイツに呼び戻され、フランツ・フォン・パーペン内閣で外務大臣に就任した。彼はクルト・フォン・シュライヒャー内閣、そして1933年1月30日の権力掌握以降のアドルフ・ヒトラー内閣でも引き続き外務大臣の職を務めた。
5.1. 外務大臣としての活動

ノイラートは1932年6月1日に大統領内閣として発足したパーペン内閣で外務大臣に就任した。閣僚に貴族が多かったため「男爵内閣」と揶揄されたこの内閣において、ノイラートはヒンデンブルク大統領の強い要望を受けて就任した。1932年6月16日から開催されたローザンヌ会議では、首相パーペンらと共にドイツの賠償問題について交渉し、7月9日に締結されたローザンヌ協定により賠償金額は大幅に減額されたものの、依然として30億30.00 億 RMの支払いが求められた。
1932年12月2日、首相パーペンと国防相クルト・フォン・シュライヒャーの対立が深まる中、ノイラートは蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクと共にシュライヒャーへの断固たる支持を表明し、パーペンの失脚に貢献した。12月3日に成立したシュライヒャー内閣でも外相として留任した。シュライヒャー内閣は1933年1月28日に崩壊したが、1月30日に成立したヒトラー内閣でも外相として引き続き留任した。
ヒトラー政権初期において、ノイラートは貴族出身で国際的な知名度が高く、ヒンデンブルク大統領のお気に入りであったため、ヒトラー、パーペンに次ぐ事実上の政権ナンバー3の地位にあり、経験の乏しいヒトラー内閣に威信を与える役割を担った。
5.1.1. ヒトラー外交政策への関与
ヒトラーの指示を受け、ノイラートは1933年10月14日にドイツを国際連盟から脱退させた。その後、ヒトラーはポーランドとの不可侵条約締結を企図し、ノイラートにその交渉にあたらせた。その結果、1934年1月26日にはポーランドとの間に10年間の不可侵条約が締結された。
1933年5月、アメリカの代理公使は、「ノイラート男爵は、通常であればナチスによる侮辱や屈辱としか考えられないような事態にも驚くべきほど従順な姿勢を示しており、ナチスが彼をしばらくは名目上の指導者として留めておく可能性は十分にある」と報告している。彼は1933年の国際連盟からのドイツの脱退、1935年の英独海軍協定の交渉、そしてラインラント進駐に関与した。ノイラートはハンス・フランクのドイツ法アカデミーのメンバーにも任命された。
しかし、次第にヒトラーの私的外交顧問であるヨアヒム・フォン・リッベントロップが台頭し、ノイラートの外交活動は制限されることが多くなった。英独海軍協定の交渉に際して、リッベントロップは艦船保有比率をドイツ35対イギリス100で交渉すべきだと提案したが、ノイラートはイギリスが応じないだろうと見て、より要求を下げるべきだと主張した。しかし、ヒトラーはリッベントロップを支持し、1935年6月1日にはリッベントロップをこの問題の全権大使に任命し、イギリスとの交渉にあたらせた。5月2日に仏ソ相互援助条約が締結されていたこともあり、イギリス側がドイツの提案に応じたことで交渉は成功し、1935年6月26日に英独海軍協定が締結された。これによりノイラートの外務省の面目は完全に失われた。1936年3月7日にドイツ軍がラインラント進駐を行った際も、その事後処理外交はリッベントロップが中心となって行った。
1937年1月30日、ナチス政権樹立から4周年を記念して、ヒトラーは残りの非ナチ党員閣僚全員をナチ党に入党させ、個人的に黄金ナチ党員バッジを授与することを決定した。ノイラートもこれを受け入れ、正式にナチ党に入党した(党員番号3,805,229)。さらに、1937年9月には、親衛隊(SS)の名誉親衛隊中将の階級を与えられた。これはドイツ国防軍の中将に相当する。1943年6月19日には親衛隊大将に昇進している。
5.1.2. ホスバッハ覚書と反対意見
1937年11月5日、ホスバッハ覚書として記録されたドイツ国の最高軍事・外交政策指導者とヒトラーとの会議が開催された。この会議でヒトラーは、戦争、より正確には一連の局地的な戦争の時が来たことを述べた。ヒトラーは、レーベンスラウム、アウタルキー、そしてフランスやイギリスとの軍拡競争のために戦争が必要であり、西側諸国が軍拡競争で圧倒的な優位に立つ前に行動することが不可欠であると主張した。彼はさらに、ドイツは1938年には遅くとも1943年までに戦争の準備を整えるべきであると宣言した。
会議に招かれた者の中で、ノイラート、戦争大臣のヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥、陸軍総司令官のヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将から異論が出た。彼らは皆、東ヨーロッパにおけるドイツのいかなる侵略も、フランスの東ヨーロッパにおける同盟システム、いわゆるコルドン・サンテールのためにフランスとの戦争を引き起こすに違いないと信じていた。彼らはさらに、もし仏独戦争が勃発すれば、イギリスがフランスの敗北の危険を冒すよりも介入する可能性が非常に高いため、すぐにヨーロッパ戦争にエスカレートすると信じていた。さらに、彼らは、イギリスとフランスがドイツよりも遅れて再軍備を開始したため、計画された戦争を無視するというヒトラーの仮定は誤りであると主張した。
フリッチュ、ブロンベルク、ノイラートが表明した反対意見は、ドイツが英仏の関与なしにヨーロッパの中心で戦争を開始することはできないという評価と、再軍備にはより多くの時間が必要であるという懸念に完全に集中していた。しかし、彼らは侵略に対するいかなる道徳的な反対も、オーストリアやチェコスロバキアを併合するというヒトラーの基本的な考え方に対する異議も表明しなかった。それでも、長いナイフの夜からわずか3年後という状況で、ヒトラーに道徳的または人道的な議論を提示することは、危険ではないにしても無駄であっただろう。
5.1.3. 外務大臣解任
会議で表明された懸念に対し、ヒトラーはブロンベルク、フリッチュ、ノイラートといった11月の会議で懸念を表明した者たちを排除することで、軍事・外交政策決定機構に対する統制を強化した。1938年2月4日、ノイラートは外務大臣を解任され、ブロンベルクとフリッチュも職を失った(ブロンベルク・フリッチュ事件)。ノイラートは自身の職務が軽視されていると感じ、1937年11月5日のホスバッハ覚書で詳述されたヒトラーの攻撃的な戦争計画に反対していた。彼はドイツには再軍備のためにもっと時間が必要だと考えていた。
ノイラートの後任にはヨアヒム・フォン・リッベントロップが就任したが、ノイラートは解任による国際的な懸念を和らげるため、無任所大臣として閣内に留まった。また、彼は外交問題についてヒトラーに助言する目的の、名目上の超内閣である秘密閣僚評議会の議長にも任命された。書類上はノイラートが昇進したかのように見えたが、この機関は紙上のみの存在であり、ヘルマン・ゲーリングは後に「1分たりとも」開催されなかったと証言している。
6. ベーメン・メーレン保護領国家保護官

6.1. 任命と統治
1939年3月、ノイラートは占領下のベーメン・メーレン保護領の国家保護官に任命され、保護領におけるヒトラーの個人的な代表を務めた。ヒトラーがノイラートを選んだのは、ドイツによるチェコスロバキア占領に対する国際的な怒りを鎮めるためでもあった。
プラハ城に到着後まもなく、ノイラートは厳しい報道検閲を導入し、政党や労働組合を禁止した。彼は1939年10月から11月にかけての学生抗議活動に対し、厳しい弾圧を命じた(学生抗議者1,200人が強制収容所に送られ、9人が処刑された)。彼はまた、ニュルンベルク法に従いチェコ系ユダヤ人の迫害を監督した。これらの措置は過酷であったものの、ノイラートの統治は全体的にナチスの基準から見れば比較的穏健であった。特に、彼は警察署長カール・ヘルマン・フランクの過剰な行動を抑制しようと試みた。
6.2. 統治下の抑圧と抵抗
ノイラートの統治下では、チェコ人やユダヤ人に対する抑圧政策が実施された。彼は学生運動への弾圧を主導し、多数の学生を強制収容所に送り、処刑した。また、ニュルンベルク法に基づき、チェコ系ユダヤ人の迫害を監督した。
しかし、ノイラートは強権的な統治を求めるヒトラーからは失望され、全体的には穏健な統治を行った。彼はカール・ヘルマン・フランクの専横を抑え、多くのチェコ人を投獄の運命から守ろうと試みた。ノイラートはヒトラーにチェコを独立させるべきだと進言したと証言している。しかし、イギリス検事デーヴィット・マクスウェル=ファイフは、ノイラートがヒトラーに提出したチェコの完全植民地化を求める報告書を証拠として提出し、ノイラートの主張を崩した。その報告書の中でノイラートは「人種的にドイツ人と融合できるチェコ人だけを保護領に残しておき、ドイツ人と水と油のようなチェコ人は追放するか『特別処置』を下すことが必要である」と主張していた。ノイラートはこれに動揺し、「フランクが勝手に書いたものであり、私は知らない」と主張したが、ファイフはヒトラー、ノイラート、フランクの三者会談記録を提出し、この会談でノイラートが先の報告の内容を裏書きしてヒトラーから承認を得ていたことを示した。ノイラートはこれに対して一切反論できなかった。
6.3. 実権の喪失
1941年9月、ヒトラーはノイラートの統治が「あまりにも寛大」であると判断し、彼から日常的な権限を剥奪した。ラインハルト・ハイドリヒが彼の副官に任命されたが、実質的にはハイドリヒが真の権力を握った。ハイドリヒは1942年に暗殺され、クルト・ダリューゲが後を継いだ。ノイラートは公式には国家保護官のままであったが、実権は失われていた。彼は1941年に辞任しようとしたが、辞任は1943年8月まで受理されず、最終的に元内務大臣のヴィルヘルム・フリックが後任となった。1943年6月21日、ノイラートはSS-オーバーグルッペンフューラーの名誉階級に昇進した。これは三つ星将軍に相当する。
7. 思想と党籍
ノイラートは1937年にナチ党に入党し、同年9月には親衛隊(SS)に名誉親衛隊中将として入隊した。1943年6月19日には親衛隊大将に昇進している。彼のナチ党への入党は、政権樹立から4周年を記念してヒトラーが非ナチ党員閣僚全員に黄金ナチ党員バッジを授与したことによるもので、彼の政治的所属はナチス体制下での地位を維持するためのものであった。
8. ニュルンベルク裁判と投獄

第二次世界大戦終結後、ノイラートはフランス軍に逮捕され、ニュルンベルク裁判で主要な戦争犯罪人として起訴された。
8.1. 裁判と有罪判決
ノイラートは、起訴第一事項「共同謀議」、第二事項「平和に対する罪」、第三事項「戦争犯罪」、第四事項「人道に対する罪」の全ての訴因で起訴された。彼の弁護はオットー・フォン・リューディングハウゼンが担当した。弁護戦略は、後任の外務大臣であり、同じく被告であったヨアヒム・フォン・リッベントロップの方が、ナチス国家で犯された残虐行為に対してノイラートよりも責任が大きいという点に重点を置いていた。
ニュルンベルク裁判において、ノイラートは後列の一番端、ハンス・フリッチェの隣の席に座り、目立たない被告であった。この時期、彼はすでに初期の老人性認知症の傾向が見られた。ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉によるウェクスラー・ベルビュー成人知能検査では、ノイラートの知能指数は125であった。
1946年6月22日、ノイラートは検察の反対尋問を受けた。ヴェルサイユ条約の一方的破棄について追及されると、彼は「ヴェルサイユ条約はドイツ国民が耐えられるものではなかった」「私は平和的手段でヴェルサイユ条約を取り除くべきだと考えていた」と証言した。1936年3月のラインラント進駐については、「仏ソ相互援助条約交渉はドイツの西部国境の脅威であったため、一個師団の兵力でラインラントを象徴的に占領することはヴェルサイユ条約の違反とはならない」と主張した。1938年3月のオーストリア併合については、「フランツ・フォン・パーペンが自分の頭越しにヒトラーと相談して決めたことだ」と証言し、自身の関与を否定した。
ベーメン・メーレン保護領総督時代の行動については、「私はカール・ヘルマン・フランクの専横を抑え、多くのチェコ人を投獄の運命から守った」「私はヒトラーにチェコを独立させてやるべきだと進言した」と証言した。しかし、イギリス検事デーヴィット・マクスウェル=ファイフは、ノイラートがヒトラーに提出したチェコの完全植民地化を求める報告書を証拠として提出し、彼の主張を覆した。この報告書の中で、ノイラートは「人種的にドイツ人と融合できるチェコ人だけを保護領に残しておき、ドイツ人と水と油のようなチェコ人は追放するか『特別処置』を下すことが必要である」と主張していた。ノイラートはこれに動揺し、「フランクが勝手に書いたものであり、私は知らない」と主張したが、ファイフはヒトラー、ノイラート、フランクの三者会談記録を提出し、この会談でノイラートが先の報告の内容を裏書きしてヒトラーから承認を得ていたことを示した。ノイラートはこれに対して一切反論できなかった。彼は辛うじて「しかし私は間もなく辞職した。一切の責任は私の後任であるラインハルト・ハイドリヒにある」と述べて証言台を離れた。
1946年10月1日、国際軍事裁判所はノイラートについて、「国際連盟の下における軍縮会議から脱退するようヒトラーに勧告した」「ラインラントを再占領せんとするヒトラーの決定に重要な関与があった」「自己の統治領域(ベーメン・メーレン保護領)においてドイツが東方で行う侵略戦争に重要な役割を果たした」「戦争犯罪や人道に対する犯罪が彼の統治下で行われた」として、四つの訴因すべてにおいて有罪と判決した。
一方で裁判所は、「ノイラートが1939年9月1日に逮捕されたチェコ人の多く、さらに同年秋に逮捕された学生の多くを釈放するよう保安警察やゲシュタポに干渉していること、また1941年にヒトラーが彼の政府が苛烈ではないことを叱責していること」を減刑理由として考慮した。裁判所は、ノイラートのほとんどの人道に対する罪は、ベーメン・メーレン保護領の総督としての短い在任期間、特にチェコ抵抗運動の鎮圧や複数の大学生の即決処刑中に実行されたと認定した。最終的に、ノイラートは有罪判決を受け、懲役15年の刑を宣告された。
8.2. 投獄と釈放
ノイラートを含む禁固刑を受けた7人の戦争犯罪人たちは、しばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、1947年7月18日にDC-3機でベルリンへ移送され、護送車でシュパンダウ刑務所に送られ、そこに投獄された。
同刑務所の米軍管理官ユージン・バード大佐はノイラートの第一印象について、「彼はとても丁寧で老紳士と言った印象を受けた。優れたマナーを身につけているようだった。二・三言話すだけの時でも微笑を絶やさなかった」と語っている。
ノイラートはチョコレートが好きで、刑務所の所員の誰かを取り込んだらしく、チョコレートを隠し持って食べていた。刑務所側はやがてこれに気付いたが、ノイラートを問い詰めてもチョコレートを渡した人物の名前を明かそうとはしなかった。
また、ノイラートはかなり健康を害しており、やがて作業はできなくなった。失語症にもなった。刑務所の医師も、ノイラートが早足で歩くのは危険であり、階段を下りる時にはアルベルト・シュペーアやバルドゥール・フォン・シーラッハなど若い囚人に支えさせたほうがよいと述べていた。
1953年7月には心臓発作で危険な容態に陥った。さらに1954年9月2日にも心臓発作で危篤状態に陥り、ノイラートの死去に備えて刑務所内に埋葬する準備が進められたが、奇跡的にノイラートの容態は持ち直した。アメリカ・イギリス・フランスはかねてから彼を釈放するよう求めていたが、ソ連が反対し続けたせいで実現していなかった。しかしこの件の後にソ連が突然釈放に同意したため、ついにノイラートの釈放が決定した。1954年11月6日にノイラートは釈放された。
9. 私生活
ノイラートは1901年5月30日にシュトゥットガルトでマリー・アウグステ・モーザー・フォン・フィルゼックと結婚した。彼には1902年に生まれた息子コンスタンティンと、1904年に生まれた娘ウィニフレッドの二人の子供がいた。
10. 死去
ノイラートは1954年に釈放された後、故郷の領地であるエンツヴァイヒンゲン(現在のファイヒンゲン・アン・デア・エンツの一部)に隠棲した。彼は釈放から2年後の1956年8月14日に、喘息の発作に襲われて83歳で死去した。
11. 評価と影響
ノイラートの生涯と行動は、外交官としての功績と、ナチス体制下での協力という二つの側面から歴史的に評価されている。
11.1. 歴史的評価
ノイラートは、ヴァイマル共和国時代からナチス政権初期にかけて、ドイツの外交政策において一定の役割を果たした。彼は国際連盟からの脱退や英独海軍協定の交渉、ラインラント進駐といったヒトラーの初期の外交政策の推進に関与した。彼の貴族としての出自と国際的な知名度は、経験の乏しいヒトラー内閣に「威信」を与える役割を果たした。
11.2. 批判と論争
ノイラートに対する批判と論争の主な点は、彼のナチス政権への協力、特に戦争犯罪や人道に対する罪への関与である。彼は外務大臣としてヒトラーの侵略的な外交政策を推進し、ベーメン・メーレン保護領総督としてはチェコ人やユダヤ人に対する抑圧政策を監督した。
ニュルンベルク裁判での彼の弁護は、自身の責任を軽減しようとするものであったが、裁判所は彼の行動が戦争犯罪および人道に対する罪に該当すると認定した。特に、チェコにおける学生運動の弾圧やユダヤ人迫害への関与は、彼の責任を明確にするものであった。彼の「穏健な統治」という主張も、完全な植民地化を求める報告書が提出されたことで、その信憑性が問われた。彼の反対意見は、道徳的なものではなく、ドイツの再軍備に時間が必要であるという戦術的な懸念に基づくものであったとされている。