1. 幼少期と背景
1.1. 出生と家族
オリセーは1974年9月14日にナイジェリアのデルタ州アバボで生まれた。彼の弟であるアズブイケ・オリセーとエグトゥ・オリセーもプロサッカー選手として活躍している。また、もう一人の兄弟にチャーチル・オリセーがおり、甥にはセク・オリセーがいる。
2. 選手経歴
2.1. クラブキャリア
オリセーは1989年にナイジェリアのジュリアス・バーガーFCでキャリアをスタートさせた。
1991年から1994年にかけては、ベルギーのRFCリエージュでプレーし、リーグ戦75試合に出場し3得点を挙げた。
1994年にはイタリアのACレッジャーナ1919に移籍し、1994-95シーズンにリーグ戦29試合に出場し1得点を記録した。
その後、1995年から1997年までドイツの1.FCケルンに所属し、リーグ戦54試合で4得点を挙げた。
1997年から1999年にかけては、オランダの強豪アヤックスでプレーし、リーグ戦54試合で8得点をマークした。アヤックスでは、1997-98シーズンにエールディヴィジ優勝、1997-98シーズンおよび1998-99シーズンにKNVBカップを制覇するなど、輝かしい成績を収めた。
1999年にはイタリアのユヴェントスFCに移籍したが、ここではリーグ戦8試合の出場にとどまり、得点はなかった。しかし、1999年のUEFAインタートトカップでは優勝を経験した。
2000年からはドイツのボルシア・ドルトムントでプレーし、2001-02シーズンにはブンデスリーガ優勝に貢献した。ドルトムントではリーグ戦53試合に出場し1得点を記録した。
2003年から2004年にかけては、VfLボーフムにレンタル移籍し、32試合に出場して1得点を挙げた。しかし、ボーフム在籍中の2004年3月には、チームメイトのヴァヒド・ハシェミアンに対して人種差別的な発言をされたとされる問題で、頭突きをしたことによりボルシア・ドルトムントから契約を解除された。オリセー自身は、この契約解除に驚きはなかったと述べている。
2005年からはベルギーのKRCヘンクに移籍し、シーズン半分をプレーした後の2006年1月、31歳でプロサッカー選手としての現役引退を表明した。
2.2. 代表キャリア
オリセーは1993年から2002年までナイジェリア代表として55試合に出場し、4得点を挙げた。
彼は1994 FIFAワールドカップで19歳ながら活躍し、チームの決勝トーナメント進出に貢献した。同年のアフリカネイションズカップでも優勝を果たした。
1996年アトランタオリンピックでは、ナイジェリアのU-23代表の一員として金メダル獲得という歴史的快挙を成し遂げた。
1998 FIFAワールドカップでは、スペインとのグループステージマッチで、フェルナンド・イエロがクリアしたボールを約23 mの距離から強烈なシュートで蹴り込み、アンドニ・スビサレッタを含むスペインのゴールキーパーを完全に不意打ちにして、チームを3対2の勝利に導いた。このゴールは、ナイジェリアが2大会連続でベスト16に進出する上で重要な役割を果たした。
2002年アフリカネイションズカップではナイジェリアのキャプテンを務めたものの、その年の後半に規律上の理由からワールドカップの代表メンバーから外された。ワールドカップ選考を逃した後、オリセーは2002年6月に国際サッカーからの引退を発表した。その理由として、未払いの手当や報酬の支払いを求めたことが挙げられており、監督との確執も背景にあったとされる。
彼はCAFによって1998年のアフリカ年間最優秀選手で3位に選出された。
2.3. プレースタイル
オリセーは、フィジカルが強く、同時に技術的にも優れたミッドフィールダーであった。キャリアを通じて主に守備的ミッドフィールダーとしてプレーしたが、ジャーナリストのジョナサン・ウィルソンは2013年の記事で、彼がこの役割をよりクリエイティブに解釈した初期の選手の一例であると指摘している。オリセーはボール奪取だけでなく、ボール保持とパスに重点を置く「ディープライイング・プレイメーカー」として、その独自のプレースタイルを確立した。
3. 監督経歴
3.1. 初期監督活動
オリセーは、ベルギーのR.C.S.ヴェルヴィエトゥワのユースチーム(U-19)でコーチングキャリアをスタートさせた。2008年から2009年のシーズンには、ヴェルヴィエトゥワのトップチームのチーフコーチに昇格した。
2014年から2015年のシーズン中には、ベルギー3部リーグのRCSヴィゼでチーフコーチ兼クラブマネージャーを務めた。
3.2. ナイジェリア代表監督
2015年7月14日、オリセーはナイジェリアサッカー連盟(NFF)によってナイジェリア代表(スーパーイーグルス)のチーフコーチに任命された。彼の在任期間中、ナイジェリア代表は14試合でわずか2敗という印象的な成績を残し、19得点を挙げ、6失点に抑えた。彼はCHAN2016のルワンダ大会への出場権を獲得し、2018 FIFAワールドカップ・アフリカ予選のグループステージ進出にも貢献した。チーフコーチとしての初戦となったアフリカネイションズカップ予選のタンザニア戦では引き分けに終わった。
しかし、2016年2月26日午前2時28分、アフリカネイションズカップ予選のエジプト戦を1か月後に控えた時期に、ナイジェリア代表監督を辞任した。わずか8か月の在任期間であったが、契約違反、サポート不足、選手やアシスタントコーチ、そして彼自身への賃金未払いなどが辞任の主な理由とされている。
3.3. ヨーロッパクラブ監督
2016年12月27日、オリセーはオランダの2部リーグに所属するフォルトゥナ・シッタートの新監督に就任することが発表され、初陣を勝利で飾った。
しかし、2018年2月14日にフォルトゥナ・シッタートの監督を解雇された。オリセー自身は、クラブ運営における違法行為への参加を拒否したことが解雇の理由であると主張している。
その後、2年間クラブに所属していなかったが、2020年3月にはベルギーの2クラブからのオファーを断り、適切なオファーを待っていると述べた。
2022年6月には、ドイツのレギオナルリーガに所属するSVシュトラーレンの新監督に就任した。しかし、わずか2か月後の2022年8月、チームが5試合で5敗を喫したことを受け、監督の職を辞任した。
4. 私生活
サンデー・オリセーの兄弟には、プロサッカー選手であるアズブイケ・オリセーとエグトゥ・オリセーがいる。また、別の兄弟にチャーチル・オリセーがおり、甥にはセク・オリセーがいる。
5. タイトル・栄誉
アヤックス
- エールディヴィジ: 1997-98
- KNVBカップ: 1997-98、1998-99
ユヴェントスFC
- UEFAインタートトカップ: 1999
ボルシア・ドルトムント
- ブンデスリーガ: 2001-02
- UEFAカップ: 準優勝 2001-02
ナイジェリア U23
- オリンピック 金メダル: 1996
ナイジェリア
- アフリカネイションズカップ: 1994
- アフリカ・アジアカップ・オブ・ネイションズ: 1995
個人
- CAF アフリカ年間最優秀選手 3位: 1998
6. 評価と影響
6.1. 肯定的評価
オリセーは、そのフィジカルの強さと技術的な才能を兼ね備えたミッドフィールダーとして高く評価されている。特に、ボール保持とパスを重視する「ディープライイング・プレイメーカー」としての彼の革新的な役割は、現代サッカーにおける守備的ミッドフィールダーの進化の初期例と見なされている。ナイジェリア代表での彼の貢献は多大であり、アトランタオリンピックでの金メダル、アフリカネイションズカップでの優勝、そして2度のFIFAワールドカップ出場は、ナイジェリアサッカー史における彼の地位を確固たるものにしている。1998 FIFAワールドカップのスペイン戦で決めた劇的なゴールは、彼のキャリアを象徴する記憶に残る瞬間であり、ナイジェリアの勝利に決定的な影響を与えた。1998年にはCAFによってアフリカ年間最優秀選手で3位に選ばれるなど、その実力は国際的にも認められていた。
6.2. 批判と論争
オリセーのキャリアは、その成功と共にいくつかの論争や規律問題にも見舞われた。
選手時代には、VfLボーフムへのレンタル中にチームメイトのヴァヒド・ハシェミアンに頭突きをしたことで、所属元であるボルシア・ドルトムントから契約解除された。この事件は、人種差別的な発言が原因であったとオリセーは主張している。
ナイジェリア代表においては、2002 FIFAワールドカップのメンバーから規律上の理由で外された後、未払いの手当や報酬を巡るナイジェリアサッカー協会との確執を理由に、代表からの引退を表明した。
監督としても、ナイジェリア代表監督をわずか8か月で辞任している。この辞任は、契約違反、協会からのサポート不足、選手やコーチ陣、そして彼自身への賃金未払いなどが複合的に絡んだ結果であった。
さらに、フォルトゥナ・シッタートの監督時代には、クラブ運営における違法行為への参加を拒否したことを理由に解雇されたと彼自身が主張しており、この疑惑は透明性に関する問題として注目を集めた。
ドイツのSVシュトラーレンでは、わずか2か月で辞任し、5試合全てを敗戦で終えるなど、監督としての短期間での結果不振も記録されている。
7. キャリア統計
7.1. クラブ別出場記録
クラブ | シーズン | リーグ | カップ | 大陸大会 | その他 | 合計 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||||
リエージュ | 1990-91 | ベルギーファーストディビジョン | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | ||||||||
1991-92 | 16 | 1 | - | 16 | 1 | |||||||||||
1992-93 | 30 | 2 | - | 30 | 2 | |||||||||||
1993-94 | 26 | 0 | - | 26 | 0 | |||||||||||
合計 | 75 | 3 | - | 75 | 3 | |||||||||||
レッジャーナ | 1994-95 | セリエA | 29 | 1 | 4 | 0 | - | - | 33 | 1 | ||||||
ケルン | 1995-96 | ブンデスリーガ | 24 | 0 | 0 | 0 | - | - | 24 | 0 | ||||||
1996-97 | 30 | 4 | 1 | 0 | - | - | 31 | 4 | ||||||||
合計 | 54 | 4 | 1 | 0 | - | - | 55 | 4 | ||||||||
アヤックス | 1997-98 | エールディヴィジ | 29 | 5 | 5 | 0 | 8 | 1 | - | 42 | 6 | |||||
1998-99 | 25 | 3 | 3 | 0 | 5 | 0 | 1 | 0 | 34 | 3 | ||||||
合計 | 54 | 8 | 8 | 0 | 13 | 1 | 1 | 0 | 76 | 9 | ||||||
ユヴェントス | 1999-2000 | セリエA | 8 | 0 | 1 | 0 | 10 | 1 | 0 | 0 | 19 | 1 | ||||
ドルトムント | 2000-01 | ブンデスリーガ | 22 | 0 | 2 | 0 | - | - | 24 | 0 | ||||||
2001-02 | 18 | 1 | 0 | 0 | 13 | 1 | 0 | 0 | 31 | 2 | ||||||
2002-03 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | ||||||
2004-05 | 11 | 0 | 2 | 1 | 2 | 0 | - | 15 | 1 | |||||||
合計 | 53 | 1 | 4 | 1 | 15 | 1 | 0 | 0 | 72 | 3 | ||||||
ボーフム (レンタル) | 2002-03 | ブンデスリーガ | 11 | 0 | 1 | 0 | - | - | 12 | 0 | ||||||
2003-04 | 21 | 1 | 0 | 0 | - | 1 | 0 | 22 | 1 | |||||||
合計 | 32 | 1 | 1 | 0 | - | 1 | 0 | 34 | 1 | |||||||
ヘンク | 2005-06 | ベルギーファーストディビジョン | 16 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | - | 19 | 0 | |||||
キャリア通算 | 321 | 18 | 20 | 1 | 40 | 3 | 2 | 0 | 383 | 22 |
7.2. 代表出場記録
代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
ナイジェリア | 1993 | 1 | 0 |
1994 | 12 | 0 | |
1995 | 3 | 1 | |
1996 | 1 | 0 | |
1997 | 4 | 1 | |
1998 | 7 | 1 | |
1999 | 3 | 0 | |
2000 | 10 | 1 | |
2001 | 7 | 0 | |
2002 | 7 | 0 | |
合計 | 55 | 4 |