1. 概要

ジャン・ド・デュヌワ伯(Jean de Dunoisジャン・ド・デュヌワフランス語、1402年11月23日 - 1468年11月24日)は、百年戦争期に活躍したフランスの貴族、軍人である。フランス王シャルル5世の息子であるオルレアン公ルイ1世と愛人マリエット・ダンギャンの庶子として生まれたため、しばしば「オルレアンの庶子」(bâtard d'Orléansバタール・ドルレアンフランス語)と呼ばれた。この呼称は侮蔑的な意味合いはなく、むしろ彼の高い身分を示すものであり、異母兄が捕虜となっている間、王の従兄弟として、また王室の分家の事実上の当主として認められていた。
彼は百年戦争においてフランス軍の主要な指揮官の一人として貢献し、特にジャンヌ・ダルクとの協働でオルレアン包囲戦を解放したことで知られる。また、ノルマンディーやギュイエンヌの征服にも尽力し、戦争終結に大きく貢献した。軍事的な功績に加え、フランス国内の政治的混乱期にも関与し、王室への忠誠と和解を繰り返しながら、デュノワ伯やロングヴィル伯などの重要な爵位を獲得し、オルレアン=ロングヴィル家の始祖となった。
2. 生い立ちと背景
ジャン・ド・デュヌワの出生は、彼の人生とキャリアに大きな影響を与えた。父の早世と異母兄の長期にわたる捕虜生活は、彼が若くしてオルレアン家の事実上の代表者となるきっかけとなった。
2.1. 出生と両親

ジャン・ド・デュヌワは1402年11月23日に、フランス王シャルル6世の弟であるオルレアン公ルイ1世と、その愛人マリエット・ダンギャンの間に庶子として生まれた。彼の異母兄には、後のフランス王ルイ12世の父となるオルレアン公シャルルや、フランス王フランソワ1世の祖父となるアングレーム伯ジャンがいる。
1407年、父ルイ1世はブルゴーニュ公ジャン1世によって暗殺された。その8年後の1415年、異母兄シャルルはアジャンクールの戦いでイングランド軍の捕虜となり、以後25年もの長きにわたりイングランドに拘禁された。もう一人の異母兄ジャンも1412年にイングランドへ護送されている。このため、ジャン・ド・デュヌワはオルレアン家において唯一の成人男性となり、事実上の家長としてその役割を担うことになった。
2.2. 宮廷での養育と初期の活動
父の暗殺と異母兄の捕虜という状況の中、ジャン・ド・デュヌワは宮廷に引き取られ、1歳年下の従弟である王太子シャルル(後のシャルル7世)と共に育てられた。彼はヤマアラシ騎士団の騎士でもあった。
フランス王シャルル6世の治世下でフランス国内は内乱状態にあり、ジャン・ド・デュヌワはアルマニャック派の一員としてこの内乱に参加した。1418年にはブルゴーニュ派によって捕らえられたが、2年後の1420年に解放された。その後、彼は王太子シャルルに仕え、百年戦争におけるイングランド軍との戦いに身を投じることとなる。
3. 軍歴
ジャン・ド・デュヌワの軍歴は、百年戦争におけるフランスの勝利に不可欠なものであった。彼は数々の重要な戦役で指揮を執り、フランス軍を勝利に導いた。
3.1. 百年戦争における役割
ジャン・ド・デュヌワは、王太子シャルル(後のシャルル7世)に忠実に仕え、イングランドとの百年戦争においてフランス軍の主要な指揮官の一人として活躍した。彼の戦略的洞察力と指揮能力は、フランスの劣勢を覆し、最終的な勝利へと導く上で極めて重要な役割を果たした。特に戦争の最終段階において、ギュイエンヌとノルマンディーの征服で顕著な功績を上げた。
3.2. 主要な戦役とジャンヌ・ダルクとの関係
ジャン・ド・デュヌワの軍事キャリアは、数多くの重要な戦役によって彩られている。
1421年のボージェの戦いでは、ラ・イルと共にイングランド軍を打ち破り、騎士の叙勲を受けた。1427年には、再びラ・イルやアルテュール・ド・リッシュモン、エティエンヌ・ド・ヴィニョール(ラ・イル)らと共にモンタルジを包囲していたイングランド軍の囲みを解くことに成功した。翌1428年のニシンの戦い(ルーヴレの戦い)では負傷している。
1428年10月、彼はオルレアン包囲戦においてオルレアン防衛の総司令官となり、ラ・イルやジャン・ポトン・ド・ザントライユらと共にオルレアンに入城し、包囲するイングランド軍と対峙した。この包囲戦は長期にわたり、フランス軍は苦戦を強いられたが、1429年4月29日にジャンヌ・ダルクがオルレアンに入城すると状況は一変した。ジャン・ド・デュヌワはジャンヌ・ダルクと協力し、イングランド側の砦を次々と攻略し、5月にはオルレアンの包囲を完全に解いた。
この戦い以降、ジャン・ド・デュヌワはジャンヌ・ダルクと行動を共にし、アランソン公ジャン2世、アンドレ・ド・ラヴァル、ジル・ド・レ、アルテュール・ド・リッシュモン大元帥といった他の司令官たちと合流した。1429年6月18日のパテーの戦いではイングランド軍を壊滅させ、ジャンヌ・ダルクが処刑されるまで彼女の元で戦い続けた。
ジャンヌ・ダルクの死後も、ジャン・ド・デュヌワはフランス軍の主要な指揮官として活躍を続けた。1429年7月のシャルル7世のランスでの戴冠式に出席し、1432年にはリッシュモン大元帥に従ってシャルトルを奪取した。1436年にはパリをイングランドから解放するのに貢献した。
1449年には一軍を率いてノルマンディーの大部分を征服し、ルーアンを陥落させた。1450年には、イングランド軍が反撃を試みたものの、リッシュモン大元帥がフォルミニーの戦いでこれを打ち破ると、ジャン・ド・デュヌワもこれに合流し、ノルマンディーを完全に平定した。さらに1451年にはボルドーを含むギュイエンヌの占領も果たした。イングランドがギュイエンヌを奪回しようと試みたが、1453年のカスティヨンの戦いで敗北し、これにより百年戦争は終結を迎えた。
4. 政治活動
ジャン・ド・デュヌワは、その軍事的功績だけでなく、フランス王国内の複雑な政治状況にも深く関与した。彼は時に王権に反抗し、時に忠実に仕えるという、変化に富んだ政治的キャリアを送った。
4.1. 国内紛争への参加
1439年、シャルル7世が軍制改革と貴族への課税を含む中央集権化政策を発表すると、ジャン・ド・デュヌワはこれに反発した。翌1440年には、アランソン公ジャン2世やブルボン公シャルル1世らと共に、王太子ルイ(後のルイ11世)を擁立して反乱を起こした(プラグリーの乱)。しかし、この反乱はリッシュモン大元帥によって鎮圧され、ジャン・ド・デュヌワは再びシャルル7世に仕えることになった。
シャルル7世の死後、王太子ルイがルイ11世として即位すると、ジャン・ド・デュヌワは新王に対する不満を抱いた。1465年には、ルイ11世に対抗する貴族の同盟である公益同盟に参加した。しかし、彼はこの反乱においても最終的にはルイ11世と和解し、宮廷での地位を回復した。
4.2. 王室への奉仕と和解
プラグリーの乱鎮圧後、ジャン・ド・デュヌワは再びシャルル7世に忠実に仕え、重要な任務を任された。例えば、対立教皇フェリクス5世の退位交渉を務めるなど、外交面でもその手腕を発揮した。
シャルル7世の死後、ルイ11世が即位すると、ジャン・ド・デュヌワは一時的に新王との関係が悪化し、公益同盟に参加するに至った。しかし、彼は政治的な駆け引きの中でルイ11世との和解を選び、その結果、彼の家系であるオルレアン=ロングヴィル家の地位が王室によって正式に認められた。このように、ジャン・ド・デュヌワは王権との緊張と協調を繰り返しながらも、常にフランス王室に奉仕し、その地位を確立し続けた。
5. 爵位と称号
ジャン・ド・デュヌワは、その生涯を通じて数多くの爵位と称号を獲得した。
- フランス大侍従(1403年 - 1468年):1歳からその称号を保持した。
- ヴァルボネの領主(1421年 - 1468年)
- モルタン伯(1424年 - 1425年)
- サン=ソヴール子爵
- ペリゴール伯(1430年 - 1439年)
- クレーの領主
- デュノワ伯(1439年 - 1468年)
- ロングヴィル伯(1443年 - 1468年)
6. 私生活
ジャン・ド・デュヌワの私生活は、2度の結婚と子孫の誕生によって特徴づけられる。
6.1. 結婚と子孫
ジャン・ド・デュヌワは生涯で2度結婚した。
最初の結婚は1422年4月にブールジュでマリー・ルヴェ(1426年死去)と行われたが、この結婚では子供をもうけなかった。
2度目の結婚は1439年10月26日にマリー・ダルクール(1464年死去)と行われた。彼女はパルトネーの領主権を保持していた。この結婚により、彼らは4人の子供をもうけた。
- ジャン(1443年 - 1453年)
- フランソワ1世・ドルレアン=ロングヴィル(1447年 - 1491年):デュノワ伯、タンカルヴィル伯、ロングヴィル伯、モンゴメリ伯などを継承した。1466年7月2日にアニェス・ド・サヴォワ(1445年 - 1508年)と結婚し、その子孫にはルイ1世・ドルレアン=ロングヴィルがいる。
- マリー(1440年 - ?):1466年にパサヴァンおよびモルターニュの領主ルイ・ド・ラ・エーと結婚した。
- カトリーヌ・ドルレアン(1449年 - 1501年):1468年5月14日にルーシー伯ジャン7世・フォン・ザールブリュッケン=コメルシー(1430年 - 1492年)と結婚したが、子供はいなかった。
7. 死去
ジャン・ド・デュヌワは1468年11月24日に66歳で死去した。彼の死後、長男のフランソワがデュノワ伯位を継承した。