1. 生涯と背景
ジュセリーノ・クビチェックの個人的な人生と、政治的キャリアの基盤となった背景を説明します。
1.1. 出生と家族

クビチェックは1902年9月12日、ミナスジェライス州ディアマンティーナの貧しい家庭に生まれました。父ジョアン・セザル・デ・オリヴェイラ(1872年-1905年)は行商人でしたが、クビチェックが2歳の時に亡くなりました。その後、母ジュリア・クビチェック(1873年-1973年)によって育てられました。母は学校教師であり、一部チェコ系およびロマ民族の血を引いていました。
1.2. 教育
彼はディアマンティーナの神学校で人文科学の課程を修了しましたが、平均的な学生でした。20歳でミナスジェライス連邦大学に進学し、7年間の学業を経て医師免許を取得しました。卒業後、数ヶ月間ヨーロッパ、特にフランスのパリで生活し、泌尿器科を専門としました。1930年のジェトゥリオ・ヴァルガス大統領の就任を機にブラジルに戻りました。
1.3. 初期経歴
1.3.1. 医師としての活動
ブラジルに戻ったクビチェックは、ミナスジェライス州の軍警察に医師として加わり、軍病院で患者の治療にあたりました。この期間中、彼は憲法制定革命に従軍し、政治家ベネディト・ヴァラダレスと友人になりました。
1.3.2. 政界進出と地方政治
1933年にヴァラダレスが連邦政府の介入者に任命されると、クビチェックは彼の首席補佐官に指名され、これをきっかけに政界に進出しました。1934年には進歩党の支援を受けて連邦代議院議員に初当選しましたが、1937年のエスタード・ノーヴォ体制樹立に伴うクーデターでその任期は剥奪され、一時的に医師としての活動に戻りました。
しかし、1940年にはヴァラダレスによってベロオリゾンテ市長に任命され、1945年10月までその職を務めました。市長として、彼は大規模な公共事業とインフラ整備の推進に意欲を見せました。この時期に、後にブラジリアの設計に中心的な役割を果たすことになる著名な建築家オスカー・ニーマイヤーとの強い専門的関係を築きました。クビチェックは、ニーマイヤーにベロオリゾンテのいくつかの公共建築物の設計を依頼しました。
1945年末には、社会民主党の支援を得て憲法制定議員に再選されました。1950年には、社会民主党の州知事候補指名争いで勝利し、その年の州知事選挙で義理の兄弟ガブリエル・パッソスを破り当選しました。1951年1月31日に知事に就任すると、CEMIG(Companhia Energética de Minas Geraisコンパニーア・エネルジェチカ・ヂ・ミナス・ジェライスポルトガル語)を創設し、道路建設と産業化を優先しました。また、道路、橋、学校、病院の改善にも力を入れました。
2. 大統領在任 (1956-1961)
ブラジル大統領としての在任期間中の主要政策、業績、およびその結果を詳細に扱います。

2.1. 選挙と就任
1954年にジェトゥリオ・ヴァルガス大統領が自殺した後、副大統領ジョアン・カフェ・フィリオが残りの任期を務め、1955年10月に大統領選挙が実施されました。ジュセリーノ・クビチェックは、他の2人の候補者と競い合い大統領選挙への出馬を決定し、1955年2月に正式に立候補を表明しました。
彼は「5年で50年発展」というスローガンを掲げ、エネルギー、農業、産業、教育、交通を重点分野とする開発主義的な政策綱領を発表しました。ブラジル経済の多様化と拡大、そして外国からの投資誘致を強く主張しました。また、リオデジャネイロから内陸部に政府首都を移転し、地域開発を促進するという長年の構想の実現を公約しました。
しかし、クビチェックの就任前には軍事クーデターの噂が広がり、野党の国民民主同盟(União Democrática Nacionalウニアン・デモクラーチカ・ナシオナルポルトガル語、UDN)は、彼がヴァルガスと近しい関係にあり、共産主義者に同情的であると声高に非難しました。これに対し、当時の陸軍大臣エンリケ・テイシェイラ・ロット将軍と高官らは、クビチェックの就任を確実にするために予防的な軍事行動(11月11日の予防クーデター)を起こしました。これにより、ジュセリーノ・クビチェックは1956年1月31日にブラジルの第21代大統領として無事就任しました。後任にはジャニオ・クアドロスが就任し、副大統領はジョアン・グラールが務めました。
2.2. 経済政策と主要事業
クビチェックの経済計画は「目標計画」と呼ばれ、エネルギー、交通、食料、基礎産業、教育、そして最大の目標であるブラジリアの建設という6つの大規模なカテゴリーにわたる31の目標を掲げました。この計画は、産業拡大と国土統合に基づいて、ブラジル経済の多様化と発展を目指しました。
2.2.1. 産業化と外国資本導入
彼の主要プロジェクトは国家産業の発展でしたが、1956年に開始された「目標計画」により、外国投資に対して国内経済が大きく開かれました。彼は輸入されるすべての機械や産業設備を免税とし、外国資本の誘致を助けました。ただし、この免税措置は外国資本が国内資本と提携する場合(「関連資本」)にのみ適用されました。国内市場を拡大するために、彼は寛大な信用政策を展開しました。
クビチェックは自動車産業、造船業、重工業の発展、および水力発電所の建設を推進しました。水力発電産業を除けば、彼は実質的に国家による企業が少ない経済を築き上げました。また、教育についても非常に進歩的な計画を提案しましたが、これは実現されませんでした。
2.2.2. 交通・エネルギーインフラ
クビチェックは地域横断的な道路建設に非常に力を入れました。この政策は、道路建設にのみ焦点を当て、鉄道を軽視したとして批判されました。この決定は今日でも議論の的となっています。道路の建設は、ブラジリアの建設と相まって、アマゾン地域の統合を助けました。重要な例として、ベレン・ブラジリア高速道路の建設があります。以前は、リオデジャネイロやサンパウロからベレンへ行く唯一の方法は大西洋を船で移動することでした。第二次世界大戦中、この脆弱なルートはドイツのUボートによって封鎖され、実質的にすべての商業が中断されました。新首都の建設は、ブラジル全土の地域統合を助け、雇用創出し、ブラジル北東部からの労働力を吸収し、ブラジル中西部およびブラジル北部の経済を刺激しました。
2.2.3. 保健政策
医師としての経験を持つジュセリーノ・クビチェックは、医療改革に強い情熱を抱いていました。彼は、それまで存在しなかった中央保健局を設立し、農村部の医療問題に適切に対処することを公約として掲げました。最も注目すべきはDNERU(Departamento Nacional de Endemias Ruraisデパルタメント・ナシオナル・ヂ・エンデミアス・フハイスポルトガル語)という機関で、これは結核やマラリアへの対処、そして医療アクセスが不十分な地域でのワクチン接種を目的として設立されました。
2.3. ブラジリア建設
2.3.1. 計画と推進背景
国の中心に新しい首都を建設するというアイデアは、すでに1891年、1934年、1946年のブラジル憲法に明記されていましたが、具体的に計画が形成され始めたのは、クビチェックが内陸部の発展を公約した1956年になってからでした。当初、リオデジャネイロからの首都移転は物議を醸し、リオ市内やブラジル全土から賛否両論と反対意見が噴出しました。「リオはどうなる?」というテレビ番組で政治家、住民、専門家による議論が放映され、『Correio da Manhãコヘイオ・ダ・マニャンポルトガル語』紙には読者からの投書が寄せられました。
2.3.2. 建設過程と意義

都市計画家ルシオ・コスタ、建築家オスカー・ニーマイヤー、造園家ロベルト・ブルレ・マルクスが主導した建設作業は、1957年2月に始まりました。200台以上の機械が投入され、3万人以上の労働者(そのほとんどがブラジル北東部出身者)が全国各地から集められました。建設は昼夜を問わず進められ、インコンフィデンシア・ミネイラの義士たちとローマ建国への敬意を表して、1960年4月21日までにブラジリアを完成させるという目標を達成しました。
わずか41ヶ月という期間で、完全な新首都がサバンナの真ん中に突如出現し、道路、政府宮殿、インフラ、生活施設などが完成しました。開城されるやいなや、ブラジリアは都市計画と近代建築の傑作とみなされました。ブラジリアは、ブラジルの最も遠い地域を統合し、無人地域に発展をもたらし、ブラジルの文化的統一・領土的統一を保証するという戦略的な役割を果たしています。
2.3.3. 建設を巡る論争
ブラジリアの建設は、ブラジル広大な領土を結ぶ多くの道路の開発を促進しました。新首都はすぐにブラジルの全地域を統合し、雇用を創出し、ブラジル北東部からの労働力を吸収し、中西部と北部の経済を刺激するのに役立ちました。
しかし、建設の性急なペースと莫大な財政負担は、ブラジル経済に大きな影響を与えました。建設中には事故が頻繁に発生しましたが、クビチェック政権はこれを最大限に隠蔽しようと努めました。ブラジリア建設を巡っては、汚職疑惑も頻繁に持ち上がりました。クビチェックと関係のある人物が建設で優遇されたという具体的な疑惑がありました。また、この期間中、パナイアール・ド・ブラジルが人員および物資輸送を独占していたことも、さらなる論争の原因となりました。
彼の在任中、『タイム』誌は彼が世界で7番目の富豪であると報じましたが、この主張は証明されませんでした。実際、彼の死後長年にわたり、彼は非常に質素な財産しか持っていなかったことが示されました。しかし、次期大統領候補であったジャニオ・クアドロスは、自身の選挙運動中に「国内から汚職を一掃する」と述べ、この疑惑を利用しました。後に軍事政権下で、クビチェックは汚職疑惑と共産主義グループとの関係について尋問されることになります。
2.4. 経済成果と批判
クビチェックの任期末までに、工業生産は80%増加しましたが、インフレ率は43%に達しました。短期的に見れば経済は活況を呈し、彼の指導の下で産業は強化されました。しかし、エネルギー資源への依存度が高まったため、ブラジルは1973年と1979年のオイルショックによって最も大きな影響を受けた国の一つとなりました。消費量の80%以上を輸入に頼っていたため、原油価格の4倍化はブラジルの債務とスパイラル的なインフレーションに大きく寄与し、批評家はこれを彼の政権の直接的な結果であると非難しました。実際、ブラジルの産業は世界市場での競争力を失い続け、経済は1980年代まで低迷しました。
また、彼の任期末には対外債務が8700.00 万 USDから2.97 億 USDに増加しました。インフレーションと富の不平等が拡大し、農村部でのストライキが都市部にも波及しました。しかし、当時の最低賃金は、ブラジル史上最も高い水準であったとされています。彼は当初、国際通貨基金からの融資を模索しましたが、交渉からは撤退しました。
3. 大統領退任後
大統領職を退いた後の活動と、軍事政権下での政治的試練を扱います。
3.1. 上院議員と政治活動
クビチェックは1961年にゴイアス州選出の上院議員に選出され、1965年の大統領選挙への立候補を模索しました。しかし、1961年1月31日に任期満了に伴い大統領職を退き、後任にはジャニオ・クアドロスが就任しました。
3.2. 軍事政権下の弾圧と亡命
1964年の軍事クーデター以降、クビチェックは軍部から汚職と共産主義者との関連を理由に告発され、その上院議員としての任期は剥奪され、政治的権利が10年間停止されました。これ以降、彼は自ら課した亡命生活を送り、アメリカ合衆国やヨーロッパの様々な都市を巡りました。
1967年3月にはブラジルに帰国し、カルロス・ラセルダやジョアン・グラールらと共に、軍事独裁政権に反対する「広範戦線(Frente Amplaフレンチ・アンプラポルトガル語)」の組織に参加しました。しかし、「広範戦線」はわずか1年後に軍部によって解体され、クビチェックも短期間投獄されました。彼は政治的権利の停止期間が終了した10年後に政界復帰を目指していましたが、1975年10月にはブラジル文学アカデミーの議席を求めて出馬するも落選しました。彼はミナスジェライス州文学アカデミーの34番目の議席を占めていました。
4. 死と評価
クビチェックの死因、それに対する歴史的評価と遺産、そして社会文化的な影響を照らします。

4.1. 死因と論争
クビチェックは1976年8月22日、リオデジャネイロ州ヘゼンデ市近郊で自動車事故により死去しました。ブラジリアでの彼の埋葬には35万人もの弔問客が参列しました。彼の遺体は現在、1981年に開館したJK記念館に埋葬されています。
4.1.1. 交通事故と暗殺疑惑
当時の検視報告と公式発表によれば、事故は通常の交通事故によるものとされました。しかし、彼の家族はこの結論に異議を唱え、20年後に遺体の掘り起こしを求め、クビチェックが殺害されたのではないかと疑念を抱きました。この検視の結果は、以前の報告を裏付けるものでした。
しかし、2000年4月26日、元リオデジャネイロ州知事レオネル・ブリゾラは、1976年に数ヶ月の間に相次いで死去した元大統領ジョアン・グラールとクビチェックが、米国が支援したコンドル作戦の一環として暗殺されたと主張し、国家真実委員会による調査を要請しました。グラールは心臓発作、クビチェックは自動車事故で死亡したと当初報告されていました。
4.1.2. 真実究明委員会の調査結果
2013年12月10日、サンパウロ市の「ウラジミール・ヘルツォークの真実委員会」は、クビチェックの死因は軍部による暗殺であったと発表しました。しかし、この時点では証拠などの詳細は明らかにされていませんでした。その後、2014年3月27日、国家真実委員会は、クビチェックが暗殺されたのではないと結論づけ、従来の報告を支持しました。このように、彼の死因については公式調査と一部の調査結果の間で結論が異なり、現在も議論が続いています。
4.2. 歴史的評価と遺産
4.2.1. 「現代ブラジルの父」としての評価
「JK」の愛称で広く親しまれたクビチェックは、ブラジル国民から「現代ブラジルの父」としてしばしば称えられています。彼は国家の発展と近代化に大きく貢献した人物として、ブラジル史において最も高く評価される政治家の一人とされています。
4.2.2. 主要業績への肯定的・批判的視点
クビチェックの主要な業績、特にブラジリアの建設や経済発展は高く評価されています。ブラジリアは、都市計画と近代建築の傑作とみなされ、ブラジル国内の遠隔地を統合し、未開拓地域に発展をもたらし、ブラジルの文化的統一・領土的統一を保証する戦略的役割を果たしました。工業生産の大幅な増加も彼の経済政策の成功を示す側面です。
しかし、彼の政策がもたらした経済的・社会的問題点に対する批判的な視点も存在します。ブラジリア建設の莫大な費用は、対外債務の急増、高いインフレーション、所得格差の拡大といった経済的な副作用を引き起こし、これらが1960年代から1980年代にかけての経済停滞の一因となったとされています。また、建設における労働者の劣悪な環境や事故の隠蔽疑惑、汚職の指摘も存在します。これらの問題は、彼の「5年で50年発展」という急速な開発が代償を伴ったことを示しています。
4.3. 栄誉と文化的影響


4.3.1. 記念碑、名称、社会的尊敬
クビチェックの功績を称えるため、ブラジル国内には数多くの記念碑や施設が命名されています。ブラジリア国際空港は「プレジデント・ジュセリーノ・クビチェック国際空港」と名付けられており、ブラジリアには「ジュセリーノ・クビチェック橋」も存在します。また、ジュセリーノ・クビチェック水力発電所やクビチェック・プラザ・ホテルといった施設も彼の名を冠しています。サンタマリア市の一地区には「ジュセリーノ・クビチェック」という地名もあります。彼の肖像は、かつて発行されていた旧10.00 万 BRL紙幣や、1986年のデノミネーションに伴い発行された100 BRL紙幣にも使用されました。これらの記念や命名は、彼がブラジル国民から受けた深い尊敬を示しています。
4.3.2. 外国からの栄誉
クビチェックは以下の外国からの栄誉を受けています。
- アステカの鷲勲章(メキシコ)
- イサベル・カトリック勲章(スペイン)
- トマーシュ・ガリッグ・マサリク勲章1級(チェコ、死後追贈)
- キリスト勲章グランクロス(ポルトガル)
- ドイツ連邦共和国功労勲章大十字特別章(ドイツ)
- 大英帝国勲章名誉ナイト・グランド・クロス(イギリス)
4.3.3. 大衆メディアでの描写
2006年、ブラジルの大手テレビ局ヘジ・グローボは、クビチェックの生涯を題材としたミニシリーズ『JKジェイ・カポルトガル語』を制作しました。この作品では、ワグネル・モウラが18歳から43歳までのクビチェックを、ジョゼ・ウィルケルが44歳から75歳までのクビチェックを演じ、彼のイメージが広く大衆に伝えられました。
5. 私生活
公開されている彼の個人的な人生に関する情報を提供します。
5.1. 結婚と子供
クビチェックは1931年にサラ・レモスと結婚しました。夫妻の間には1943年に娘マルシア・クビチェックが生まれ、1947年にはマリア・エステラを養子として迎えました。娘のマルシア・クビチェック(1943年-2000年)は、1980年にキューバ系アメリカ人のバレエスター、フェルナンド・ブジョネスと結婚しました。マルシア自身も政治家として活動し、1987年には国民会議に選出され、1991年から1994年まで連邦直轄区の副知事を務めました。