1. 概要

ステファノス・ドラグーミスは、1842年にアテネで生まれ、判事、作家、そして政治家としてギリシャの近代史に重要な足跡を残しました。彼はパリ大学で法学を修め、法務省事務局長を務めた後、ギリシャ議会の議員に選出され、外務大臣、法務大臣、内務大臣など複数の閣僚職を歴任しました。1910年には首相に就任し、グーディ革命後の混乱期における改革政府を率いました。彼の政権は、憲法改正と立法プログラムの推進に尽力しましたが、エレフテリオス・ヴェニゼロスの台頭により短期間でその職を辞しました。首相退任後も、バルカン戦争中にはクレタ島およびマケドニアの総督を務め、また国家分裂期には王党派を支持し、財務大臣を務めるなど、晩年まで政治活動に深く関与しました。特に、マケドニア闘争においては「マケドニア委員会」の設立に貢献し、その活動を積極的に支援しました。
2. 生涯と背景
ステファノス・ドラグーミスは、ギリシャの歴史に名を刻む著名な家系に生まれ、その生い立ちと教育は彼の後の政治的キャリアに大きな影響を与えました。
2.1. 家系背景
ドラグーミスは1842年にアテネで生まれました。彼の祖父であるマルコス・ドラグーミス(1770年 - 1854年)は、現在のカストリア県にあるヴォガツィコ出身の著名なギリシャ人家系に属し、1814年から1821年にかけて活動した革命組織「フィリキ・エテリア」のメンバーでした。また、彼の父であるニコラオス・ドラグーミスは、ギリシャの初代国家元首であるイオアニス・カポディストリアスの秘書を務めていました。このような背景を持つ家族は、ギリシャの独立運動や初期国家建設において重要な役割を果たしており、ステファノス・ドラグーミスもまた、その影響を受けながら成長しました。
2.2. 教育と初期のキャリア
アテネで幼少期を過ごした後、ドラグーミスはフランスのパリ大学に進学し、法学を学びました。学業を終えた後、彼は判事としてのキャリアをスタートさせました。その後、ギリシャの法務省の事務局長に就任し、この職務を通じて行政の実務と政治の裏側に深く関わることとなりました。この初期の公職経験は、彼が後に国会議員や閣僚、そして首相としてギリシャ政治の中枢で活躍するための基盤を築きました。
3. 政治経歴
ステファノス・ドラグーミスは、判事としてのキャリアを積んだ後、ギリシャ政界に深く関与し、国会議員として、また複数の重要な閣僚職を歴任しました。彼の政治経歴は、ギリシャが近代国家としての基盤を固める上で重要な時期と重なります。
3.1. 閣僚職
ドラグーミスは、ギリシャ政治において非常に活発な役割を果たしました。彼は後にギリシャ議会の議員に選出され、政府内で数々の重要な閣僚職を務めました。具体的には、外務大臣、法務大臣、内務大臣といった主要なポストを歴任し、それぞれの職務において国の政策決定と行政運営に貢献しました。これらの経験は、彼が後に首相として国を率いる上での貴重な土台となりました。
3.2. 国会議員としての活動
彼はギリシャ議会の議員として選出された後も、その政治的影響力を発揮し続けました。議会内では、彼の法学の知識と行政経験が重んじられ、様々な法案の審議や政策立案において中心的な役割を担いました。彼の議会での活動は、ギリシャの政治システムが多党制民主主義へと移行していく過程において、安定と改革を求める声に応えるものでした。
4. ギリシャ首相在任
ステファノス・ドラグーミスは、ギリシャが大きな政治的転換期を迎えていた1910年に首相に就任しました。彼の在任期間は短かったものの、その後のギリシャ政治の方向性を決定づける重要な出来事が集中していました。
4.1. 1909年改革政府
1909年に発生した軍事同盟によるグーディ革命の後、ギリシャの政治情勢は極度の混乱状態にありました。クレタ国の併合問題や軍事改革の必要性など、喫緊の課題が山積していました。1910年1月にキリアコウリス・マヴロミハリスが首相を辞任した後、ドラグーミスは改革政府の一員として首相に任命され、軍事同盟は解散しました。同時期に、エレフテリオス・ヴェニゼロスがクレタ島からアテネに到着し、政治的な存在感を高めつつありました。1910年3月には、ギリシャ議会はギリシャ憲法を改正するための「改訂議会」を招集することを決定しました。ドラグーミス政権は、改革プロセスの円滑な進行を確保し、立法プログラムを完遂するという二重の使命に対し、積極的に対応しました。しかし、9月にはヴェニゼロスがアテネで大規模な集会を組織し、その政治的影響力を確立しました。これを受け、ゲオルギオス1世はヴェニゼロスに組閣を要請し、ドラグーミスは首相を辞任しました。彼の首相在任期間は1910年1月から10月までの約10ヶ月間でした。
5. 後期の活動
首相を退任した後も、ステファノス・ドラグーミスはギリシャの政治舞台で重要な役割を果たし続けました。彼は行政官として、また閣僚として、国の困難な時期に貢献しました。

5.1. クレタおよびマケドニア総督
バルカン戦争中、ドラグーミスはまずクレタ島の総督を務めました。その後、1913年6月にはマケドニアの総督に任命され、これらの地域の行政と統治に深く関与しました。これらの地域は、バルカン戦争の結果としてギリシャ領となったばかりであり、その統治は複雑な課題を伴うものでした。ドラグーミスは、新しく獲得した領土の統合と安定化に尽力しました。
5.2. 国家分裂期とその後の政治活動
ギリシャが「国家分裂」と呼ばれる深刻な政治的危機に直面した時期、ドラグーミスは反ヴェニゼロス派の王党派に与しました。彼は、ヴェニゼロス派がボイコットした1915年12月の議会選挙で議員に再選され、アレクサンドロス・ザイミスおよびステファノス・スクロウディス内閣で財務大臣を務めました。しかし、1917年にヴェニゼロスが1915年5月の議会(「ラザロ議会」として知られる)を復活させた際、ドラグーミスは議員の座を解任されました。それでもなお、彼は政治への情熱を失わず、1920年11月の議会選挙で再び議員として選出され、晩年まで政治活動を続けました。
6. マケドニア紛争関連活動
ステファノス・ドラグーミスは、ギリシャの国益に関わる重要な問題、特にマケドニア闘争において積極的に関与しました。
6.1. マケドニア委員会の設立
ドラグーミスは、1904年にアテネで「マケドニア委員会」(Macedonian Committee)を設立しました。この組織は、当時オスマン帝国の支配下にあったマケドニア地域のギリシャ系住民の権益を保護し、ブルガリアやセルビアとの影響力争いの中でギリシャの立場を強化することを目的としていました。ドラグーミスは、この委員会の設立を通じて、マケドニアにおけるギリシャの主張を擁護し、ギリシャ系の武装組織を支援するなど、マケドニア紛争に深く関与しました。彼のこの活動は、後のバルカン戦争におけるマケドニアのギリシャへの編入に間接的に貢献したと考えられています。
7. 私生活
ステファノス・ドラグーミスの私生活については多くが公にされていませんが、彼の家族、特に息子であるイオーン・ドラグーミスは、ギリシャの近代史において重要な役割を果たした人物として知られています。イオーン・ドラグーミスは、外交官、作家、革命家として活躍し、ギリシャの民族主義運動に大きな影響を与えました。ステファノス・ドラグーミスは、その著名な息子の父として、また家族の伝統を重んじる人物として知られています。
8. 死去
ステファノス・ドラグーミスは、1923年9月17日にアテネで亡くなりました。彼はその生涯を通じて、判事、作家、そして政治家としてギリシャの近代化と発展に貢献し、特に激動の20世紀初頭において、首相や閣僚、総督といった要職を歴任しました。