1. 生涯
タデウシュ・コシチュシュコの生涯は、ポーランド・リトアニア連邦の貴族の家に生まれ、軍事教育を受けた後、アメリカ独立戦争で活躍し、帰国後は祖国の独立のために戦い、そして亡命生活を送るという波乱に満ちたものであった。
1.1. 出生と初期の経歴
コシチュシュコは1746年2月4日、または12日に、当時のリトアニア大公国ブレスト州メラチョウシュチナ村(現在のベラルーシ領コサヴァ市近郊)で生まれた。彼の先祖はジグムント1世の宮廷に仕えていたベラルーシ系の貴族の末子であった。出生地では東方正教会とローマ・カトリックが併存しており、彼は双方の教会で洗礼を受け、「アンドレーイ」(ポーランド語で「アンジェイ」)と「タデーウシュ」という二つの洗礼名を授かった。
20歳でワルシャワの士官学校を卒業した後、1769年から1774年の間、ドイツ、イタリア、フランスに派遣され、軍事教育と学業を深めた。特にフランスではさらなる研究を追求した。1774年にポーランドへ帰国した後、彼はユゼフ・シルヴェステル・ソスノフスキ家の家庭教師を務めた。この時期に、彼は雇い主の娘との駆け落ちを試みるも失敗し、娘の父親の部下によって暴行を受けるという個人的な経験もしている。その後、彼は再びフランスへ渡った。
1.2. アメリカ独立戦争での従軍

1776年、コシチュシュコは北アメリカへ渡り、アメリカ独立戦争に義勇兵として参加した。彼は大陸軍の大佐として従軍し、その卓越した軍事工学の才能を発揮した。彼はジョージ・ワシントンの副官として戦い、ウェストポイントなどの重要な要塞の設計と建設を監督し、その防御強化に大きく貢献した。
彼の功績が認められ、1783年には大陸会議によって外国人でありながら陸軍准将に昇進した。このアメリカでの経験は、彼にトーマス・ジェファーソンをはじめとする自由主義思想家たちの影響を強く与え、後の彼の思想形成に大きな影響を与えた。
1.3. ポーランド・リトアニア連邦での活動
1784年にポーランドへ帰国したコシチュシュコは、1789年にポーランド・リトアニア連邦軍の少将に任命された。1791年にはヨーロッパ初の成文憲法である「5月3日憲法」を制定した4年議会に議員として参加した。彼は中道左派の政治的立場から、議会を主導した改革派政党「ポーランド愛国党」内部の穏健改革派と急進改革派の間を取り持つ役割を担い、精力的に双方の仲立ちをすることで、国会対策において巧みな政治手腕を発揮した。
しかし、新憲法を巡るロシア帝国の干渉により、1792年にポーランド・ロシア戦争が勃発した。コシチュシュコはロシア軍と戦ったが敗北し、ライプツィヒやパリで亡命生活を送ることとなった。
1.4. コシチュシュコの蜂起
第2次ポーランド分割後の1793年、コシチュシュコはポーランドに戻り、国民的な蜂起を組織し指導した。彼は主にジャコバン派と農民たちを糾合し、1794年3月にクラクフで蜂起を宣言した。この蜂起は「コシチュシュコの蜂起」として知られている。
蜂起中の最大の戦闘である「ラツワヴィツェの戦い」では、ロシア軍に大勝し、一時はワルシャワとヴィリニュスを掌握した。しかし、兵力を次々と補充してきたロシア・プロイセン連合軍に圧倒され、同年10月のマチェヨヴィツェの戦いで自身も戦傷を負い、ロシア軍に捕らえられた。コシチュシュコの蜂起の失敗は、1795年の第3次ポーランド分割へと繋がり、ポーランド国家は123年間にわたり独立を失うこととなった。

1.5. 亡命と晩年
蜂起の失敗と自身の捕縛後、コシチュシュコは1796年にロシアのエカチェリーナ2世の死後、後継者であるパーヴェル1世によって恩赦を受け、釈放された。彼はまずアメリカ合衆国へ移住し、その後ヨーロッパに戻ってフランスへ亡命した。しかし、ナポレオンの帝国思想や、それに基づくポーランド政策には同調せず、協力することはなかった。
その後、コシチュシュコはスイスに移住し、ゾーロトゥルンで晩年を過ごした。彼はこの地で腸チフスに罹患し、1817年10月15日に客死した。
2. 思想と哲学
コシチュシュコは、アメリカ独立戦争での経験を通じて、自由主義思想に深く影響を受けた。彼はトーマス・ジェファーソンと親交を深め、人権に関する理想を共有した。彼の思想は、単なる国家の独立だけでなく、個人の自由と平等を重視するものであった。
1798年には、彼の民主主義と人権への深い信念を示す重要な行動として、遺言書を作成した。この遺言書では、アメリカ合衆国に残した自身の財産を、アメリカの奴隷たちの教育と解放のために寄付することを明記していた。しかし、彼の死後、この遺言の執行は困難を極め、彼が意図した通りに資金が使用されることはなかった。
3. 個人的側面と逸話
コシチュシュコは、その公的な業績だけでなく、人間的な側面や逸話も多く残している。
アメリカ独立戦争中、フィラデルフィアでのことである。ジョージ・ワシントンがコシチュシュコに「タディー(タデウシュ)、君のそのコシチュシュコっていう姓は私たちには発音しにくいよ」と冗談めかして言ったところ、コシチュシュコは即座に「ジョージ、僕の姓が言いにくいって? 君のワシントン(Wa-shing-ton)も僕のコシチュシコ(Koś-ciu-szko)も、どちらもたったの3音節なのにかい?」と切り返したという。この逸話は、彼の機知に富んだ性格と、ワシントンとの親密な関係を示している。
また、初期の経歴において、ユゼフ・シルヴェステル・ソスノフスキ家の家庭教師をしていた際に、雇い主の娘との駆け落ちを試みたが失敗に終わったという個人的な出来事も伝えられている。
4. 死
タデウシュ・コシチュシュコは、1817年10月15日にスイスのゾーロトゥルンで客死した。死因は腸チフスであった。
5. 歴史的評価と遺産
タデウシュ・コシチュシュコは、ポーランド、リトアニア、ベラルーシ、そしてアメリカ合衆国において、共通の国民的英雄として高く評価されている。彼の軍事的才能と民主主義への献身は、後世に大きな影響を与えた。
彼の指導したコシチュシュコの蜂起は、最終的には失敗に終わったものの、ポーランドの独立への強い意志を示し、その後のナポレオン戦争期におけるポーランド軍団の結成や、19世紀の独立運動に影響を与えた。蜂起の失敗は第3次ポーランド分割とポーランド国家の消滅という悲劇的な結果を招いたが、その記憶はポーランド人のナショナリズムと独立への渇望を維持する上で重要な役割を果たした。
また、ロシアの著名な劇作家ミハイル・アルツィバーシェフは、コシチュシュコの曾孫にあたる。
6. 記念と関連事項
タデウシュ・コシチュシュコの名は、彼の功績を称え、世界各地の記念碑、場所、機関、軍事部隊に冠されている。
- コシチュシコ山:ポーランドの元首都クラクフにある人工の山で、タデウシュ・コシチュシュコを称えて造営された。
- キャンプ・コシチュシュコ:ポーランドのポズナンに所在するアメリカ陸軍の基地。基地名は、タデウシュ・コシチュシュコにちなむ。
- コジオスコ山:オーストラリア大陸の最高峰。
- 第303コシチュシコ戦闘機中隊 (イギリス空軍):イギリス空軍所属の戦闘機中隊。ポーランド侵攻時に脱出したポーランド空軍パイロットで編成された。