1. 概要
チェ・ジェウク(최재욱崔在旭韓国語、1940年10月1日 - 2024年11月17日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家である。東亜日報の記者としてキャリアをスタートさせ、後に京郷新聞の社長を務めるなど、ジャーナリズム界で活躍した。1980年代からは政界に転身し、大統領秘書室広報秘書官などの要職を歴任した。特に、1983年にビルマ(現ミャンマー)のラングーンで発生したアウンサン廟爆弾テロ事件では、全斗煥大統領の公式随行員として現地に同行し、重傷を負いながらも奇跡的に生還した数少ない生存者の一人として知られる。この事件で多くの要人が犠牲となる中、彼はこの惨事を生き延びた最後の公式随行員として、その経験は彼のその後の人生と政治活動に大きな影響を与えた。
彼はその後、民主正義党、民主自由党に所属し、第13代および第14代国会議員を2期務めた。また、環境部長官や国務調整室長などの高位公職を歴任し、国家の行政において重要な役割を果たした。その生涯は、ジャーナリストとしての鋭い視点と、公職者としての国家への献身、そしてテロ事件の困難を乗り越えた強靭な精神が特徴であった。彼は2024年11月17日に84歳で死去した。
2. 生涯初期と背景
チェ・ジェウクは、ジャーナリストおよび政治家としてのキャリアを築く前に、その基礎となる幼少期、家族関係、そして学業生活を送った。
2.1. 出生、家族関係、幼少期
チェ・ジェウクは1940年10月1日に慶尚北道高霊郡で生まれた。本貫は慶州崔氏である。家族については、密陽朴氏の女性と結婚し、間に1男1女をもうけた。彼の幼少期の詳細な環境については、具体的な記述は少ないが、大韓民国の激動の時代に生まれ育ち、その後のキャリアを形成する上で重要な時期となった。
2.2. 学歴
チェ・ジェウクは、複数の高等教育機関で学び、法律と行政、メディアに関する専門知識を深めた。
- 慶北高等学校卒業
- 嶺南大学校 法学学士
- 嶺南大学校 大学院 法学修士
- ソウル大学校 行政大学院 国家政策課程修了
- 高麗大学校 言論大学院 最高位課程修了
これらの学歴は、彼がジャーナリストとして社会の動きを分析し、また公職者として政策を立案・実行する上で知識の基盤を提供したと考えられる。
3. 初期キャリアと公職生活
チェ・ジェウクは、ジャーナリストとしての活動を経て、大統領秘書室での勤務、そして歴史的なアウンサン廟テロ事件に遭遇するなど、多岐にわたる初期キャリアを築いた。
3.1. ジャーナリストとしての活動
チェ・ジェウクは、ジャーナリストとしてキャリアをスタートさせ、韓国の主要メディアで活躍した。彼は当初、東亜日報の記者として活動し、言論界でその名を馳せた。その後、1986年から1987年までの期間、京郷新聞の社長を務め、ジャーナリズム分野で重要な役割を担った。彼のジャーナリストとしての経験は、その後の政治活動においても彼の情報分析能力やコミュニケーション能力の形成に影響を与えたとされる。
3.2. 大統領秘書室での勤務
ジャーナリズム界での経験を積んだ後、チェ・ジェウクは公職に転身した。1980年に全斗煥政権が発足すると、彼は青瓦台大統領秘書室の広報秘書官に任命された。この期間、彼は大統領府と国民との間の情報伝達において重要な役割を果たすことになった。また、1987年7月14日から1988年2月24日までは、大統領秘書室の広報首席秘書官兼スポークスマンを務め、政権のスポークスマンとしての責任を担った。
3.3. アウンサン廟テロ事件
1983年10月9日、チェ・ジェウクは全斗煥大統領の東南アジア・大洋州歴訪に公式随行員の一人として同行していた際に、ビルマ(現ミャンマー)のラングーンにあるアウンサン廟で発生したアウンサン廟爆弾テロ事件に巻き込まれた。このテロ事件は北朝鮮によるものであり、全斗煥大統領一行を狙ったものであった。
事件発生時、チェ・ジェウクは壇上で全斗煥大統領の到着を待っていた15人の1級以上の公式随行員の一人であった。爆弾が爆発すると、その場で13人の高位公職者が命を落とすという甚大な被害が出た。この悲劇的な状況の中で、チェ・ジェウクは当時合参議長だったイ・ギベクと共に、奇跡的に生還したわずか2人のうちの1人であった。彼は爆発によって重傷を負ったものの、命を取り留めた。
イ・ギベクが2019年12月16日に死去したことで、チェ・ジェウクはアウンサン廟テロ事件の現場にいた公式随行員の中で、最後まで生き残った人物となった。この事件は、彼の人生に深い傷跡を残したが、同時に彼の公職者としての覚悟を強める契機ともなった。彼はこのテロの生存者として、その後の活動においても事件の記憶と教訓を語り継ぐ存在となった。この事件は、大韓民国にとってだけでなく、国際社会においても北朝鮮のテロ行為の残忍性を示す象徴的な出来事として記憶されている。
4. 政治活動
チェ・ジェウクは、国会議員として2期にわたり活動し、また環境部長官や国務調整室長などの主要な高位公職を歴任した。
4.1. 国会議員としての活動
チェ・ジェウクは、1988年の第13代国会議員選挙で、当時の与党であった民主正義党の全国区(比例代表)から出馬し当選した。これにより、彼は初めて国会議員のバッジをつけた。続いて1992年の第14代国会議員選挙では、大邱広域市達西区乙選挙区から民主自由党の公認を受けて出馬し、再び当選を果たした。これにより、彼は1988年から1996年までの2期8年間、国会議員として活動した。国会議員としては、主に所属政党の政策立案や議会活動に貢献し、地域の代表としても活動を行った。
4.2. 長官および主要公職
国会議員としての活動を終えた後も、チェ・ジェウクは国家の主要な高位公職を歴任し、行政分野でその経験と識見を発揮した。
- 環境部長官**: 1998年3月3日から1999年5月24日まで、第11代環境部長官を務めた。この期間中、彼は国の環境政策の推進に尽力した。
- 国務調整室長**: 2000年1月14日から2000年6月7日まで、第2代国務調整室長を務めた。国務調整室長は、各省庁間の政策調整を担う重要な役職であり、彼は国家行政全般にわたる調整能力を発揮した。
これらの公職を通じて、チェ・ジェウクは多様な分野で政策決定に携わり、大韓民国の発展に貢献した。
4.3. 過去の選挙結果
チェ・ジェウクが出馬した国会議員選挙の選挙結果は以下の通りである。
選挙年度 | 選挙名 | 議員種別 | 選挙区 | 所属政党 | 得票数 | 得票率 | 順位 | 当落 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | 第13代国会議員選挙 | 国会議員 | 比例代表 (全国区20番) | 民主正義党 | 6,670,494票 | 34.0 % | - | 当選 |
1992年 | 第14代国会議員選挙 | 国会議員 | 大邱 達西区乙 | 民主自由党 | 35,616票 | 50.19 % | 1位 | 当選 |
1996年 | 第15代国会議員選挙 | 国会議員 | 大邱 達西区乙 | 自由民主連合 | 37,964票 | 38.55 % | 2位 | 落選 |
彼は1988年の第13代総選挙で比例代表として初当選し、1992年の第14代総選挙では大邱達西区乙選挙区で再選を果たしたが、1996年の第15代総選挙では同選挙区で落選した。
5. 受賞と栄誉
チェ・ジェウクは、ジャーナリストおよび公職者としての功績に対し、生前に複数の勲章や表彰を受けている。
- 1972年:韓国新聞賞
- 1982年:セネガル政府 緑十字勲章
- 1985年:紅條勤政勲章
- 1987年:国民勲章牡丹章
これらの受賞歴は、彼のジャーナリズム分野での貢献、そして国家公職者としての奉仕が国内外で高く評価されたことを示している。特に、アウンサン廟テロ事件での生還後の活動も含め、彼の生涯にわたる貢献が認められたものと言える。
6. 死去
チェ・ジェウクは、2024年11月17日に84歳で死去した。彼は長年にわたり脳梗塞と闘病していた。彼の死去は、韓国の政界およびジャーナリズム界に悲しみをもたらした。
7. 評価と遺産
チェ・ジェウクの生涯は、ジャーナリストから政治家へと転身し、国家の要職を歴任した多才なキャリアによって特徴づけられる。彼は特に、1983年のアウンサン廟爆弾テロ事件の生存者として、その困難な経験を乗り越えながらも、社会への貢献を続けた点で注目される。
ジャーナリスト時代には、東亜日報記者や京郷新聞社長として言論の自由と正確な情報伝達のために尽力した。公職に転じてからは、大統領秘書室の要職や、環境部長官、国務調整室長として、行政の専門知識と政治的手腕を発揮した。特に環境部長官としては、今日の韓国における環境政策の基盤構築に貢献したとされる。
彼の最も記憶される遺産は、アウンサン廟テロ事件における奇跡的な生還とその後の人生である。彼は多くの同僚を失いながらも、その悲劇を乗り越え、その後も国家のために奉仕し続けた。これは、逆境に直面しても公的な義務を全うしようとする彼の強い意志と、国民への献身を示している。彼の生涯は、激動の現代史を生きた一人の人物が、いかにしてジャーナリズム、政治、そして個人的な悲劇の中で自らの役割を果たしたかを示す事例として、後世に語り継がれるであろう。