1. 概要
ジェームズ・ローリー・"ディコン"・ホワイト(James Laurie "Deacon" White英語、1847年12月2日 - 1939年7月7日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ケイトン出身のプロ野球選手であり、野球のプロフェッショナル時代初期の20年間における主要なスター選手の一人でした。彼は1870年代のベアハンド捕手として傑出しており、その年代で他のどの選手よりも多くの試合で捕手を務めました。1873年から1877年にかけて、ナショナル・アソシエーション(NA)で3回、ナショナルリーグ(NL)で2回と、5年連続で優勝チームの主要な一員となりました。
ホワイトは1871年に野球初のプロリーグであるナショナル・アソシエーションで最初の打席に立った選手であり、その初打席でリーグ初のヒットを記録しました。NAの5シーズンで打率.347を記録した後、1876年に設立されたナショナルリーグの最初の2シーズンで打点王に輝きました。また、1877年には一時的に一塁手に転向し、打率.387でリーグ首位打者、さらに長打率、安打数、三塁打数、塁打数でもリーグトップの成績を収めました。キャリア後半には三塁手としても優れた選手となり、39歳で打率.303を記録し、1887年のデトロイト・ウルバリンズの優勝に大きく貢献しました。20年間のキャリアを通じて、ホワイトは打率.312を記録し、キャップ・アンソンを除くどの選手よりも多くの打点(988)を挙げました。引退時には、通算試合数、打席数、安打数、塁打数において歴代上位に名を連ねました。
敬虔な信仰心を持ち、禁煙家であった彼は、当時の野球界における選手の権利擁護にも積極的に関与しました。特に、当時の選手契約を巡る争いにおいては、選手組合の設立を支持し、その発展に貢献しました。また、個人的な信念として「地球平面説」を信じていたことでも知られています。長らくアメリカ野球殿堂入りが見送られていましたが、2013年にプリインテグレーション時代委員会によって殿堂入りを果たし、その功績が改めて評価されました。
2. 生涯
ジェームズ・ローリー・"ディコン"・ホワイトは、ニューヨーク州ケイトンで農夫のレスター・S・ホワイト(1820年頃生まれ)と妻のアデライン(1823年頃生まれ)の息子として生まれました。
2.1. 幼少期と家族
ホワイト夫妻には少なくとも8人の子供がいました。オスカー・リーロイ(1844年頃生まれ)、ジェームズ、エルマー・メルビル(1851年頃生まれ)、後に成功した投手となるウィル・ホワイト(1854年 - 1911年)、フィービー・デイビス(1856年頃生まれ)、エステル(1858年頃生まれ)、ジョージ(1862年頃生まれ - 1939年以降)、そしてハッティ(1867年頃生まれ)です。また、夫妻が50代の頃にはフィービー・メイナード(1876年頃生まれ)という少女を養子に迎えました。ホワイトの祖先は、アメリカの植民地時代にアメリカへ移住してきたと考えられています。彼のいとこであるエルマー・ホワイトもプロ野球選手として1871年にジェームズのチームメイトとしてプレーしましたが、1872年3月にプロ野球選手として初めて死亡したと記録されています。
2.2. 初期野球キャリア
ホワイトは1865年、南北戦争から故郷に戻った北軍の兵士から野球を学びました。彼のプロキャリアは、まだどのチームも完全にプロ選手で構成されていなかった時代である1868年に、クリーブランド・フォレストシティーズで捕手として始まりました。

1871年5月4日、野球初の完全プロリーグであるナショナル・アソシエーションの歴史的な開幕戦で、フォートウェイン・ケキオンガスのボビー・マシューズから二塁打を放ち、リーグ初のヒットを記録しました。また、この試合でリーグ初のキャッチも記録しています。彼の長いキャリアは、19世紀プロ野球の多くの伝説的な選手たちと共にプレーすることを可能にしました。ホワイトは1870年代前半の強豪ボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)でプレーし、その後もキャップ・アンソンやアルバート・スポルディングとシカゴで、キング・ケリーとシンシナティで、ダン・ブローザースとバッファローで、そしてネッド・ハンロンやサム・トンプソンとデトロイトで、さらにジェイク・ベックリーやパド・ガルビンとピッツバーグでプレーしました。
3. 野球経歴
ジェームズ・ローリー・"ディコン"・ホワイトは、プロ野球の黎明期において、その卓越した技術と長きにわたる活躍で、リーグの発展に大きく貢献しました。
3.1. ナショナル・アソシエーションでの活躍
ホワイトは1871年に創設された野球初のプロリーグであるナショナル・アソシエーション(NA)に、クリーブランド・フォレストシティーズの一員として初年度から参加しました。1871年と1872年にはそれぞれ打率3割を超える成績を残しましたが、チームは成績が振るわず2年でリーグを脱退し解散しました。
翌1873年、ホワイトはハリー・ライトの誘いを受け、強豪ボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)に移籍しました。この移籍は彼のキャリアにおける転機となり、ボストンでの3年目には打率.390、リーグ最多の77打点を記録しました。さらに1875年にはリーグ最高の打率.367を記録するなど、ボストンのNAリーグ3連覇(1873年、1874年、1875年)を牽引する重要な役割を担いました。NAでの5シーズン全体で、彼は打率.347を記録しました。
3.2. ナショナルリーグでの成功
1876年にナショナルリーグが設立されると、ホワイトはボストン・レッドストッキングスからシカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)に移籍しました。ここではアルバート・スポルディングやキャップ・アンソン、ロス・バーンズらとともに、ナショナルリーグ初代優勝(1876年)の立役者の一人となりました。この年、ホワイトはリーグ最多の60打点を挙げ、ナショナルリーグ初代の打点王にも輝きました。
翌1877年には再びボストン・レッドキャップス(旧ボストン・レッドストッキングス)に復帰し、この年も打率(.387)、安打数(103)、打点(49)、三塁打数(11)、塁打数(145)の5部門でリーグトップの成績を残し、ボストンをナショナルリーグ優勝(1877年)に導きました。彼はナショナルリーグ設立時にすでに28歳でしたが、その後も15シーズンにわたってメジャーリーグでプレーを続けました。
その後、ホワイトはシンシナティ・レッズに3年間、バッファロー・バイソンズに5年間在籍しました。シンシナティでは、成功した投手であった弟のウィル・ホワイトと共にプレーしました。
3.3. ポジション別のプレースタイルと記録
ホワイトは、当時のベアハンド(素手)捕手として最高の一人であると評価されていました。ナショナル・アソシエーションとナショナルリーグを合わせた捕手としての出場試合数は、1881年にポップ・スナイダーに抜かれるまで歴代最多でした。キャリア後半には三塁手としても非常に効果的な選手となり、1884年5月16日には三塁手として11アシストを記録し、これは現在も9イニング制のメジャーリーグ記録として残っています(後に8人の選手がこの記録に並んでいます)。
30代半ばになると、捕手としての負担が大きくなったため、彼は効果的な三塁手へと転向しました。39歳となった1887年には打率.303を記録し、デトロイト・ウルバリンズのナショナルリーグ優勝に大きく貢献しました。
1871年から1890年までの20年間のキャリアを通じて、ホワイトは打率.312を記録し、キャップ・アンソンを除くどの選手よりも多い988打点を挙げました。引退時には、通算試合数(1,560)、打席数(6,624)、安打数(2,067)、塁打数(2,595)において、野球界の歴代上位に名を連ねました。また、三塁手としては通算守備機会(3,016)で歴代4位、アシスト(1,618)で5位、刺殺(954)と併殺(118)で6位にランクインしました。
また、投手としても通算2試合に登板し、0勝0敗、投球回10.0、奪三振3、被安打19、被本塁打0、防御率7.20を記録しています。
年度 | チーム | リーグ | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 敬遠 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1871 | CFC | 29 | 150 | 146 | 40 | 47 | 6 | 5 | 1 | 66 | 21 | 2 | 2 | - | - | 4 | - | - | 1 | 0 | .322 | .340 | .452 | .792 |
1872 | 22 | 113 | 109 | 21 | 37 | 2 | 2 | 0 | 43 | 22 | 0 | 0 | - | - | 4 | - | - | 1 | 0 | .339 | .363 | .394 | .757 | |
1873 | BSN | 60 | 311 | 311 | 79 | 122 | 17 | 8 | 1 | 158 | 77 | 19 | 3 | - | - | 0 | - | - | 2 | 1 | .392 | .392 | .508 | .900 |
1874 | 70 | 357 | 352 | 75 | 106 | 5 | 7 | 3 | 134 | 52 | 1 | 1 | - | - | 5 | - | - | 0 | 5 | .301 | .311 | .381 | .692 | |
1875 | 80 | 374 | 371 | 76 | 136 | 23 | 3 | 1 | 168 | 60 | 2 | 3 | - | - | 3 | - | - | 2 | 2 | .367 | .372 | .453 | .824 | |
1876 | CHC | 66 | 310 | 303 | 66 | 104 | 18 | 1 | 1 | 127 | 60 | - | - | - | - | 7 | - | - | 3 | - | .343 | .358 | .419 | .777 |
1877 | BSN | 59 | 274 | 266 | 51 | 103 | 14 | 11 | 2 | 145 | 49 | - | - | - | - | 8 | - | - | 3 | - | .387 | .405 | .545 | .950 |
1878 | CIN | 61 | 268 | 258 | 41 | 81 | 4 | 1 | 0 | 87 | 29 | - | - | - | - | 10 | - | - | 5 | - | .314 | .340 | .337 | .677 |
1879 | 78 | 339 | 333 | 55 | 110 | 16 | 6 | 1 | 141 | 52 | - | - | - | - | 6 | - | - | 9 | - | .330 | .342 | .423 | .766 | |
1880 | 35 | 150 | 141 | 21 | 42 | 4 | 2 | 0 | 50 | 7 | - | - | - | - | 9 | - | - | 7 | - | .298 | .340 | .355 | .695 | |
1881 | BUF | 78 | 328 | 319 | 58 | 99 | 24 | 4 | 0 | 131 | 53 | - | - | - | - | 9 | - | - | 8 | - | .310 | .329 | .411 | .740 |
1882 | 83 | 352 | 337 | 51 | 95 | 17 | 0 | 1 | 115 | 33 | - | - | - | - | 15 | - | - | 16 | - | .282 | .313 | .341 | .654 | |
1883 | 94 | 414 | 391 | 62 | 114 | 14 | 5 | 0 | 138 | 47 | - | - | - | - | 23 | - | - | 18 | - | .292 | .331 | .353 | .684 | |
1884 | 110 | 484 | 452 | 82 | 147 | 16 | 11 | 5 | 200 | 74 | - | - | - | - | 32 | - | - | 13 | - | .325 | .370 | .442 | .812 | |
1885 | 98 | 416 | 404 | 54 | 118 | 6 | 6 | 0 | 136 | 57 | - | - | - | - | 12 | - | - | 11 | - | .292 | .313 | .337 | .649 | |
1886 | DTN | 124 | 522 | 491 | 65 | 142 | 19 | 5 | 1 | 174 | 76 | 9 | - | - | - | 31 | - | - | 35 | - | .289 | .331 | .354 | .686 |
1887 | 111 | 484 | 449 | 71 | 136 | 20 | 11 | 3 | 187 | 75 | 20 | - | - | - | 26 | - | 9 | 15 | - | .303 | .353 | .416 | .770 | |
1888 | 125 | 557 | 527 | 75 | 157 | 22 | 5 | 4 | 201 | 71 | 12 | - | - | - | 21 | - | 9 | 24 | - | .298 | .336 | .381 | .717 | |
1889 | PIT | 55 | 245 | 225 | 35 | 57 | 10 | 1 | 0 | 69 | 26 | 2 | - | - | - | 16 | - | 4 | 18 | - | .253 | .314 | .307 | .621 |
1890 | BUF | 122 | 525 | 439 | 62 | 114 | 13 | 4 | 0 | 135 | 47 | 3 | - | - | - | 67 | - | 19 | 30 | - | .260 | .381 | .308 | .688 |
通算:20年 | 1560 | 6973 | 6624 | 1140 | 2067 | 270 | 98 | 24 | 2605 | 988 | 70 | 9 | - | - | 308 | - | 41 | 221 | 8 | .312 | .346 | .393 | .740 |
- 「-」は記録なし。
- 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。
- 太字はリーグ1位。
3.4. 移籍、契約問題、選手生活の終焉
1885年のオフシーズンにバッファロー・バイソンズが解散した際、ホワイトとチームメイトのジャック・ロウ、ダン・ブローザース、ハーディ・リチャードソン、サム・トンプソンの4選手(当時「ビッグ・フォー」と呼ばれていました)は、7000 USDの金銭と引き換えにデトロイト・ウルバリンズに移籍しました。大幅に補強されたウルバリンズは1887年にナショナルリーグ優勝を飾りました。
しかし、翌1888年には年俸高騰などの理由から、球団はホワイトら選手の所有権を一方的にピッツバーグに売り渡すという事態が発生しました。ホワイトとロウはこの移籍に異議を唱え、追加の金銭が支払われるまでチームに合流することを拒否し、長期にわたる係争となりました。最終的に両選手には金銭が支払われましたが、ホワイトは記者に対し「私たちはこの金に感謝しているが、それほどの価値はない。ロウの肩はもうだめだ。私は40歳を過ぎ、守備はそれほど良くないが、まだ少しは打てる。しかし、これだけは言いたい。私が半分を受け取らない限り、誰も私の体を売ることはできない」と語りました。このような選手からの不満は、1890年にプレイヤーズ・リーグが結成される一因となりました。
ホワイトは1890年に42歳でプレイヤーズ・リーグに参加し、122試合に出場しました。この年を最後に選手を引退しました。引退後、1891年にはマイナーリーグのエルマイラ・グラディエイターズで監督を務めました。彼が1907年のマカレスター・マイナーズや1908年のタルサ・オイラーズの監督を務めたという記録は誤りであり、これらはハリー・B・"ディコン"・ホワイトという別の人物が監督を務めたものです。
年度 | チーム | リーグ | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1872年 | CFC | NA | 2 | 0 | 2 | .000 | 7位 | 8月17日~、選手兼任 |
1879年 | CIN | NL | 18 | 9 | 9 | .500 | 5位 | 開幕~6月7日、選手兼任 |
通算 | 20 | 9 | 11 | .450 |
4. 人物像と信念
ジェームズ・ローリー・"ディコン"・ホワイトは、その卓越した野球の才能だけでなく、独特の人間性や信念でも知られていました。
4.1. 個人的信条と習慣
ホワイトは非常に信心深く、常に聖書を持ち歩き、教会に通うことを欠かしませんでした。その敬虔な信仰心から、「ディコン(Deacon、執事)」というニックネームで呼ばれるようになりました。彼は常に節度のある態度で振る舞い、タバコを吸うこともありませんでした。
彼の外見は、面長で常に物憂げな表情を見せ、「セイウチのような」口ひげを蓄えた風貌で、当時のプロ野球選手としては異質な印象を与えたと言われています。
また、歴史家のリー・アレンが1961年に著した『The National League Story』によれば、ホワイトは生涯にわたって「地球平面説」を信じていた一人でした。彼はチームメイトたちに、自分たちが球体ではなく平らな平面に住んでいると説得しようとしましたが、彼らは彼を嘲笑しました。しかし、ある時、一人のチームメイトが説得を求めた際、ホワイトは地球が自転していないという仮説に基づいた議論を展開し、そのチームメイトを納得させました。ただし、その議論は地球が球体ではないことを証明するものではありませんでした。
4.2. 選手としての権利擁護
当時のプロ野球界では、選手は球団の所有物と見なされ、年俸や移籍の自由がほとんどありませんでした。ホワイトはこのような状況に異議を唱え、野球選手たちの権利向上を目指す活動に積極的に関与しました。
1880年代にジョン・モンゴメリ・ウォードが呼びかけた野球選手組合の設立にも、彼は積極的に参加しました。彼の契約を巡る争い、特に1889年にデトロイト・ウルバリンズが一方的に彼の所有権をピッツバーグに売却しようとした際の抗議活動は、当時の選手が直面していた不当な扱いの象徴であり、1890年に選手主導のプレイヤーズ・リーグが結成される大きな理由の一つとなりました。彼の長い現役生活と、多くの著名な選手たちとチームメイトとしてプレーした経験から、彼は多くの選手たちからも尊敬されていました。
5. 後期生活と家族
ホワイトは1871年4月24日にニューヨーク州モラヴィア出身のマリアム・ヴァン・アーズデール(1851年生まれ)と結婚しました。
キャリアの大半をニューヨーク州コーニングの農場で過ごしましたが、1881年にバッファロー・バイソンズに加入した後、ニューヨーク州バッファローに移住しました。夫妻の一人娘であるグレース・ヒューソン・ホワイトは、1882年9月8日にバッファローで生まれました。ホワイトがデトロイト・ウルバリンズでプレーを始めた際にはデトロイトに引っ越しましたが、すぐにバッファローに戻りました。1900年までには、彼はそこで成功した馬車屋を経営していました。
1900年以降のある時期、ホワイト夫妻は娘のグレースをイリノイ州メンドータにあるメンドータ・カレッジ(後のオーロラ大学)に送りました。これを機に、ホワイト一家とアドベント・クリスチャン教会系のこの学校との関係は、何世代にもわたって続くことになります。1909年までに、ジェームズとマリアムもメンドータに移住し、1912年まで女子寮であるメイプル・ホールで寮長を務めました。1912年8月15日、グレースは同じくメンドータの卒業生であるロジャー・A・ワトキンスと寮で結婚しました。同年、メンドータ・カレッジは50マイル東に移転し、オーロラ大学となりました。
マリアムは1914年4月30日にメンドータで亡くなりました。オーロラの学生の一人は、「マ・ホワイト」について「彼女は陽気な性格で、誰にでも言葉と笑顔を向け、私たちの一人として女の子たちと交わり、親切な助言と励ましを与えてくれました。それぞれの女の子への彼女の関心は、彼女自身の言葉に表れています。『私は、もし自分の娘が家を離れていたら、誰かにしてほしいと思うことをしているだけです』。このような親切で個人的な関心に対する私たちの感謝は言葉では言い表せません」と回想しています。ロジャーとグレース・ワトキンスは大学との関わりを続け、1920年にオーロラに移住しました。ロジャーは1927年に大学の理事会に加わり、1971年まで務め、最初の2年間を除く全ての期間で理事会の書記も務めました。1930年までには、ディコン・ホワイトはアリスと再婚し、ワトキンス家が住む221カルメット通り(大学学長の隣)に引っ越しました。
ホワイトは1939年7月7日早朝、91歳でワトキンス家の夏期別荘であるイリノイ州セントチャールズ郡のフォックス川沿いにある大学の保養所、ルード・キャンプで亡くなりました。健康であったにもかかわらず、彼の死は壊滅的な熱波によるものとされました。彼は翌日にオーロラで行われる野球生誕100周年記念式典の主賓として招かれる予定でしたが、その祝典は彼の追悼式典となりました。ホワイトは、その夏に開催されたアメリカ野球殿堂の開所式に招待されなかったことに非常に失望しており、殿堂入りの投票では完全に無視されていました。彼の葬儀はオーロラのヒーリー・チャペルで行われ、メンドータのレストランド墓地に埋葬されました。彼の死後、第二の妻アリス(当時ノースカロライナ州ウィンストン・セーラムに滞在)、弟のジョージ、そして娘のグレース(1882年 - 1956年)とその夫ロジャー(1888年 - 1977年)が残されました。
6. アメリカ野球殿堂入り
ジェームズ・ローリー・"ディコン"・ホワイトは、その輝かしいキャリアにもかかわらず、長らくアメリカ野球殿堂入りが見送られていました。
2008年8月、ホワイトは1943年以前にキャリアを開始した10人の元選手の一人として、2009年のアメリカ野球殿堂入り候補者としてベテランズ委員会によって検討されることが発表されました。最終投票では殿堂入りには至りませんでしたが、1940年以前にキャリアを終えた選手の中では最多の票を獲得しました。2010年には、アメリカ野球研究学会(SABR)の19世紀委員会によって、その年の「見過ごされた19世紀野球の伝説」に選ばれました。これは、まだ殿堂入りしていない19世紀の選手、監督、役員、その他の野球関係者に与えられる栄誉です。
2012年12月3日、アメリカ野球殿堂は、彼が新しいプリインテグレーション時代委員会(1947年以前の時代)によって殿堂入りを果たしたことを発表しました。彼は16票中14票を獲得し、委員会によって選出された他の2名と共に、2013年7月28日に殿堂入り式典が行われました。彼の受諾演説は、曾孫であるジェリー・ワトキンス(ホワイトの孫ダニエルの息子)によって行われました。ホワイトは、出生から殿堂入りまでの期間が166年以上(そして死去から約75年後)と、野球殿堂入りした人物の中で最も「古い」人物となりました。
7. 評価と影響
ジェームズ・ローリー・"ディコン"・ホワイトは、プロ野球の黎明期において、その卓越したプレーと人間性で多大な功績を残しました。
7.1. 功績と歴史的評価
ホワイトは、プロ野球の最初の20年間における主要なスター選手であり、特にベアハンド捕手としてその守備技術は群を抜いていました。キャリア後半には三塁手としても一流の守備を見せ、打撃面では通算打率.312を記録するなど、攻守にわたってチームの勝利に貢献しました。彼はナショナル・アソシエーションとナショナルリーグの両方で、合計5回のリーグ優勝に貢献しており、その実績は疑いようのないものです。
彼の功績は長らく歴史に埋もれていましたが、2013年のアメリカ野球殿堂入りによって、改めてその歴史的価値が再評価されました。彼は、野球がまだ発展途上であった時代において、選手としての高いレベルを維持し、多くの伝説的な選手たちと共にプレーすることで、プロ野球の基礎を築いた一人として記憶されるべき存在です。
7.2. 批判と論争点
ホワイトに関する批判的視点や論争点としては、彼の個人的な信念である「地球平面説」が挙げられます。当時のチームメイトからも嘲笑されたこの信念は、科学的知識が普及しつつあった時代において、彼の特異な一面として語り継がれています。この信念自体が彼の野球キャリアや人物評価に直接的な悪影響を与えたわけではありませんが、彼の人間性を語る上で欠かせない要素となっています。
7.3. 後世への影響
ホワイトのプレーは、捕手や三塁手としての技術の模範となり、後進の選手たちに影響を与えました。しかし、彼の最も重要な後世への影響は、当時の野球選手たちが直面していた不当な契約問題に対して声を上げ、選手の権利擁護のために積極的に活動した点にあります。
彼はジョン・モンゴメリ・ウォードと共に選手組合の設立に関与し、球団による一方的な選手売買に異議を唱えました。彼のこのような行動は、後のプレイヤーズ・リーグ結成へと繋がり、プロ野球における選手の地位向上と、より公正な契約慣行の確立に向けた重要な一歩となりました。彼の信念と行動は、単なる一選手としての枠を超え、野球界全体の発展に寄与した社会的な活動として、後世に大きな影響を与えました。