1. 選手経歴
デニス・メンショフは、プロ転向以前からその才能の片鱗を見せ、バネスト時代にプロとしての基礎を築き、ラボバンク時代にはグランツールで輝かしい実績を上げた。その後、ジェオックス-TMC、カチューシャとチームを移籍しながらも、トップレベルでの活躍を続けた。
1.1. プロ転向以前
メンショフはオリョールで生まれ、11歳の時の1989年に地元のサイクリングスクールで自転車競技を始めた。当初はサッカーに熱中しており、クロスカントリースキー、釣り、狩猟なども好んでいた。また、勉強も好きな子供で、母親の前で10分にも及ぶ詩の暗唱を披露することもあったという。
当時のロシアは経済成長が本格化する前で物資が不足しており、オリョールのサイクリングスクールでも生徒全員分の自転車を揃えることができず、体力トレーニングが中心だったため、多くの生徒が辞めていった。しかし、やっと手に入れた中古の自転車で間もなくオリョールで開催されたレースに出場したメンショフは、年齢別で優勝を飾り、この経験がプロロードレーサーになる夢を抱くきっかけとなった。
1993年にはCSKAモスクワ(軍隊系のスポーツクラブ)にスカウトされ、後にCSKA-Lada-Samaraに所属した。1996年には、年齢制限があるにもかかわらずソチで開催された成年向けステージレースに出場し、勝利を収めた。その後もロシア国内やヨーロッパ各地の地方ステージレースで活躍を続けた。1998年5月、フランスのレース「Ronde de l'Isard」で総合優勝を果たし、バネストのマネージャーの目に留まることとなった。
1.2. バネスト時代 (2000-2004)

1999年にバネストのアマチュアチームに移籍し、2000年に同チームでプロデビューを果たした。この時期のチーム名は、2000年がバネスト、2001年から2003年がiバネスト.com、2004年がイリュス・バレアレス・バネストと変遷した。
プロ転向後、メンショフは着実に実力をつけていった。2001年には若手ロード選手の登竜門と位置づけられるツール・ド・ラブニールで総合優勝し、注目を集めるようになった。翌2002年にはドーフィネ・リベレの第2ステージ(難関山岳モン・ヴァントゥ)で優勝。2003年にはツール・ド・フランスで総合11位に入り、新人賞のマイヨ・ブランを獲得するなど、グランツールでの片鱗を見せ始めた。この年、クラシカ・ア・ロス・プエルトス・デ・グアダラマでも優勝している。
2004年はバネストでの最後の年であり、最も成功したシーズンとなった。パリ~ニースの第6ステージで優勝し、その後バスク一周では総合優勝を果たし、自身初のメジャータイトルを獲得した。さらにブエルタ・ア・エスパーニャの第5ステージ(サラゴサからモレリャまで)で優勝し、グランツールでの初勝利を飾った。
1.3. ラボバンク時代 (2005-2010)
2004年9月に契約が満了し、メンショフはオランダのラボバンクチームに移籍し、2年契約を結んだ。リーヴァイ・ライプハイマーがチームを去った後、メンショフはチームキャプテンに就任した。
2005年のツール・ド・フランスではラボバンクの主要な総合優勝候補として期待されたが、風邪のため総合85位に終わった。しかし、同年のブエルタ・ア・エスパーニャではより良い成績を収めた。第1ステージ(グラナダでの個人タイムトライアル)と第9ステージ(リョレート・デ・マルでの個人タイムトライアル)で優勝し、総合リーダージャージを着用した。第15ステージではロベルト・エラスに山岳で遅れを取り、最終的にエラスに4分36秒遅れの総合2位でレースを終えた。しかし、後日エラスがドーピング検査でEPO陽性反応を示したため優勝が剥奪され、メンショフが繰り上がりで総合優勝となり、自身初のグランツール制覇を達成した。この時、複合賞も獲得している。しかし、2012年12月21日、スペイン最高裁判所は、ドーピング検査の手続きに不適切があったというエラスの訴えを認め、2005年のブエルタの優勝を再びエラスに与える判決を下した。
2006年のドーフィネ・リベレでは、2002年に一度制したモン・ヴァントゥでの山岳タイムトライアルである第4ステージで優勝した。同年のツール・ド・フランスではチームリーダーとして出場し、大会最難関の一つとされた第11ステージ(タルブからアラン谷-プラ・デ・ベレ)でフロイド・ランディスとリーヴァイ・ライプハイマーとのスプリント争いを制してステージ優勝を果たした。一時は総合3位につける健闘を見せたが、最終週のアルプスで順位を落とし総合6位でフィニッシュした。その後、レース優勝者のフロイド・ランディスがドーピングにより失格となったため、総合5位に繰り上がった。

2007年のカタルーニャ一周では第7ステージ(アルカリススキー場への山岳タイムトライアル)で優勝し、総合でも3位に入賞、ポイント賞も獲得した。ドーフィネ・リベレでも総合4位に入り、好調を維持していた。しかし、ツール・ド・フランスでは期待通りの活躍ができず、第8ステージでチームメイトのミカエル・ラスムッセンがステージ優勝しマイヨ・ジョーヌを着用したことを受け、アシスト役に回った。さらにそのラスムッセンがドーピング検査に関して虚偽報告をしていたとしてチームから第17ステージ前に解雇されたため、メンショフもモチベーションを失いレースをリタイアした。
しかし、同年のブエルタ・ア・エスパーニャでは見事な復活を遂げた。タイムトライアルの第8ステージで好走してライバルたちに差をつけ、山岳ステージである第9ステージではレオナルド・ピエポリに次ぐ2位に入り、総合トップに躍り出た。続く山岳ステージの第10ステージ(春のカタルーニャ一周と同じアルカリススキー場)ではステージ優勝を飾った。その後の山岳ステージでもカルロス・サストレらのライバルたちのアタックに冷静に対処し、決してタイム差をつけられない、かつてのミゲル・インドゥラインを思わせる走りで総合トップの座を守り切り、自身「2度目」の総合優勝を果たした。このブエルタでは、ステージ優勝に加えて、山岳賞とコンビネーション賞も獲得している。
2008年、メンショフはブエルタ・ア・エスパーニャのタイトル防衛をせず、ツール・ド・フランスに集中した。その前に初めてジロ・デ・イタリアに出場し、総合5位で完走した。ツール・ド・フランスでは、第3ステージで厳しい横風区間での落車によりメイン集団が分裂し、他の優勝候補たちから38秒を失った。また、最後の超級山岳から約1600メートルの高度を下ってゴールする第16ステージでも、この下りで総合上位陣から35秒の遅れを取った。結果的にこの合計1分強の遅れが表彰台を逃す原因となり、最終日前日のタイムトライアルで区間6位と健闘したにもかかわらず、総合4位に終わった。しかし、後に3位のベルンハルト・コールのドーピングが発覚し、メンショフは総合3位に繰り上がった。
2009年のジロ・デ・イタリアでは、山岳コースの第5ステージを制して総合5位に浮上した。区間3位に入った第10ステージ終了後、総合首位のダニーロ・ディルーカに1分20秒差の2位に浮上。個人タイムトライアルが組まれた第12ステージでは、最初のラップ地点で他を圧倒し、2度目の区間優勝を飾り、ディルーカに34秒差をつけてついにマリア・ローザを奪取した。その後、山岳ステージでディルーカとの激しい攻防が繰り広げられ、互いに譲らないレースが続いた。最後の山岳ステージとなった第19ステージ終了時点では、ディルーカに18秒差まで迫られたが、個人タイムトライアルが組まれた最終第21ステージにおいて、雨が降り出し不利な条件となる中、終盤に落車するもタイム差を広げてディルーカを突き放し、自身初のジロ・デ・イタリア総合優勝を果たした。このジロでは、ポイント賞も獲得している(後にディルーカの失格により授与された)。メンショフはこの勝利を「100周年という記念すべき大会であり、メディアの注目度も高く、ハイレベルの選手が多数参加していた」ことを理由に、キャリアの中で最も嬉しい勝利であり、最大の勝利であると述べている。また、「10年間で初めて、メジャーレースでランス・アームストロングを負かしたしね(笑)」とも語った。
2009年のツール・ド・フランスでは、マルコ・パンターニ以来となるジロ・ツールのダブルツール達成を目指して出場した。しかし、第1ステージの個人タイムトライアルでいきなり大きく出遅れると、第4ステージのチームタイムトライアルでは自身が落車するなどして大きくタイムロスした。さらに勝負どころのアルプス山岳ステージでも連日後退するなど、明らかに精彩を欠く走りとなり、優勝したアルベルト・コンタドールから1時間以上も遅れる総合51位に沈んだ。
2010年シーズン当初は、ブエルタ・ア・ムルシア総合2位、ツール・ド・ロマンディ総合2位など好調な様子を見せたが、最大の目標であったツール・ド・フランスを前に気管支系の体調不良が続き、調整が遅れ気味のままオランダでのツール開幕を迎えた。初日の個人タイムトライアルは若干不安を感じさせる結果であったが、多くの有力選手が落車に巻き込まれた第2ステージ、13kmのパヴェ区間を含み波乱のレースとなった第3ステージとも落車することなく無難にこなした。山岳でも、総合優勝の最有力候補とされていたアルベルト・コンタドールとアンディ・シュレクの2人の闘いの陰で目立つことはなかったが、安定した走りで総合順位を4位まで上げてきた。そして最終日前日の第19ステージ、メンショフが今年のツールの中で自分にとって絶好のチャンスであると考えていた52 kmの個人タイムトライアルでは「人生で最高のレースだった」と述べるほどの快走を見せ、サムエル・サンチェスを逆転して総合3位となり、ロシア人選手として初めてツール・ド・フランス総合表彰台へ上ることができた。後にコンタドールの優勝剥奪により総合2位となるが、メンショフ自身も後述のドーピング違反により、この成績は後に剥奪された。
1.4. ジェオックス-TMC時代 (2011)
2010年後半、メンショフはジェオックス-TMCに移籍し、カルロス・サストレと共同リーダーを務めることになった。ラボバンクではロベルト・ヘーシンクが彼の後任のリーダーとなった。
2011年シーズンは、移籍先のジェオックス-TMCがツール・ド・フランスの招待を受けることができず、ジロやブエルタへの参加も不確定という状況下で始まった。メンショフは「ツール不参加の決定を聞いた瞬間は、大きな失望や驚きはなかったが、難しいと知りつつ希望も持っていたし、冬の間ツールのことばかり考えて練習していたので、折り合いをつけるのは困難だった。しかし決定を変えることはできない」とインタビューで語っている。
3月のブエルタ・ア・ムルシアでは総合2位という成績を残したが、その後はアレルギー疾患やインフルエンザなどの体調不良に悩まされ、ジロ・デ・イタリアでは本人も不本意な総合7位に終わった。2001年以来初めてのツール不参加となった7月には、サストレとともにツアー・オブ・オーストリアに初出場し、総合5位(サストレは3位)となっている。
8月から始まったブエルタ・ア・エスパーニャには、サストレが比較的好調であることや得意の個人タイムトライアルが一度しかないことから、エースナンバーは付けずに参加した。初日のチームタイムトライアルでジェオックス-TMCは最下位から2番目となり、他の総合優勝候補たちに約1分前後の差をつけられた。また第3ステージでは3度も自転車を交換するメカニカルトラブルの不運に見舞われるなど、序盤は大きく出遅れた。しかし、チームメイトのファン・ホセ・コーボに総合上位の可能性が見えてきたことからアシストに転じ、山岳で集団を強力に牽引して何人かのライバルを引き離すなどの貢献を見せた。結果的にコーボの総合優勝とジェオックス-TMCのチーム総合優勝に大きく貢献しただけでなく、メンショフ自身も総合5位まで成績を上げることができた。
1.5. カチューシャ時代と引退 (2012-2013)

2011年末、突然のジェオックス-TMCの消滅と、以前は不和であったカチューシャ・チーム首脳の人事刷新により、ついに母国ロシアのチームへの加入が実現した。しかし2012年は、8年ぶりに出場したパリ~ニースをはじめ、春先のレースの多くをリタイアし、体調不良と調整不足は明らかであった。
ツール・ド・フランスの調整の一環として出場した、ロシア選手権大会個人タイムトライアルでは優勝し、自身初のナショナルチャンピオンタイトルを獲得した。しかし、ツールでは序盤こそ上位につけていたものの、2週目以降失速し、総合15位という結果に終わった。この成績も後にドーピング違反により剥奪された。
ロンドンオリンピック (2012年)には、ロードレースと個人タイムトライアルの両方にロシア代表として出場し、最後のオリンピックの舞台を経験した。
ブエルタ・ア・エスパーニャには、総合優勝を目指すホアキン・ロドリゲスのアシストとして参加した。ホアキンの総合3位獲得に貢献したが、メンショフ自身も第20ステージ、ボラ・デル・ムンドで逃げ切りの区間優勝を果たした。ロシア選手権を除けば3年以上レースでの勝利から遠ざかっていた上に、今大会最難関ステージでの優勝ということで、喜びと安堵の感情を隠すことはなかった。
2013年シーズンもカチューシャでスタートを切ったが、5月に引退を表明した。近年は膝の故障に悩まされていたという。
1.6. 引退後の活動
メンショフは2019年にUCIプロコンチネンタルチームのガスプロム-ルスヴェロでディレクター・スポルティフとして自転車競技界に復帰した。
2. 主な成績と受賞歴
メンショフはグランツールで総合優勝を複数回達成し、その他のステージレースや個人タイムトライアルでも優れた成績を残した。
2.1. グランツール
グランツール | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008 | 2009 | 2010 | 2011 | 2012 | 2013 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ジロ・デ・イタリア | - | - | - | - | - | - | - | - | 5 | 1 | - | 7 | - | - |
ツール・ド・フランス | - | 47 | 93 | 11 | DNF | 85 | 5 | DNF | 3 | - | - | |||
/ ブエルタ・ア・エスパーニャ | - | - | - | - | DNF | 2 | DNF | 1 | - | - | 41 | 5 | 54 | - |
- 2003年
- ツール・ド・フランス 総合11位、新人賞 (
)
- ツール・ド・フランス 総合11位、新人賞 (
- 2004年
- ブエルタ・ア・エスパーニャ 第5ステージ優勝
- 2005年
- ブエルタ・ア・エスパーニャ 総合2位(第1ステージ、第9ステージ優勝)、複合賞 (
)
- 第1ステージと第9ステージから第14ステージまでリーダージャージ (
)を着用。
- 第11ステージから第14ステージまで複合賞ジャージ (
)を着用。
- 第1ステージと第9ステージから第14ステージまでリーダージャージ (
- ブエルタ・ア・エスパーニャ 総合2位(第1ステージ、第9ステージ優勝)、複合賞 (
- 2006年
- ツール・ド・フランス 総合5位、第11ステージ優勝
- 2007年
- ブエルタ・ア・エスパーニャ 総合優勝 (
)、山岳賞 (
)、複合賞 (
)、第10ステージ優勝
- 第20ステージまでリーダージャージ (
)を着用。
- 第20ステージまでリーダージャージ (
- ブエルタ・ア・エスパーニャ 総合優勝 (
- 2008年
- ジロ・デ・イタリア 総合5位
- ツール・ド・フランス 総合3位
- 2009年
- ジロ・デ・イタリア 総合優勝 (
)、ポイント賞 (
)、第5ステージ、第12ステージ(個人タイムトライアル)優勝
- ジロ・デ・イタリア 総合優勝 (
- 2010年
- ツール・ド・フランス
総合3位(後に剥奪)
- ツール・ド・フランス
- 2011年
- ジロ・デ・イタリア 総合7位
- ブエルタ・ア・エスパーニャ 総合5位
- 2012年
- ブエルタ・ア・エスパーニャ 第20ステージ優勝
2.2. その他のステージレース
レース | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008 | 2009 | 2010 | 2011 | 2012 | 2013 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
パリ~ニース | - | 53 | DNF | - | 12 | - | - | - | - | - | - | - | DNF | 14 |
ティレーノ~アドリアティコ | 出場なし | |||||||||||||
カタルーニャ一周 | - | - | - | - | - | - | 9 | 3 | - | - | DNF | 109 | 11 | DNF |
バスク一周 | - | - | - | 36 | 1 | 11 | DNF | - | - | - | - | - | - | - |
ツール・ド・ロマンディ | - | - | - | - | - | 3 | - | 54 | 4 | 11 | 2 | 14 | DNF | - |
クリテリウム・デュ・ドーフィネ | DNF | 7 | 6 | 39 | - | 24 | 6 | 4 | - | - | 25 | - | 42 | - |
- 1995年
- コース・ド・ラ・ペ・ジュニア 総合優勝
- 1997年
- パトス・オブ・キング・ニコラ 総合優勝(第3a、第3bステージ優勝)
- ボルタ・ア・リェイダ 総合優勝
- オコロ・スロベンスカ 第2ステージ優勝
- インターナショナル・ツアー・オブ・ロドス 総合3位
- 1998年
- Ronde de l'Isard 総合優勝
- 2001年
- ツール・ド・ラブニール 総合優勝
- クリテリウム・デュ・ドーフィネ 総合7位
- ルート・デュ・シュド 総合7位
- 2002年
- ブエルタ・ア・ラ・リオハ 総合2位
- クリテリウム・デュ・ドーフィネ 総合6位(第2ステージ優勝)
- 2003年
- ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオン 総合2位
- ブエルタ・ア・ラ・リオハ 総合8位
- 2004年
- バスク一周 総合優勝(第4ステージ優勝)
- パリ~ニース 第6ステージ優勝
- ブエルタ・ア・ブルゴス 総合2位
- ブエルタ・ア・アラゴン 総合2位(第1ステージ優勝)
- 2005年
- ツール・ド・ロマンディ 総合3位
- 2006年
- クリテリウム・デュ・ドーフィネ 総合6位(第4ステージ優勝)
- カタルーニャ一周 総合9位
- 2007年
- カタルーニャ一周 総合3位、ポイント賞、第5ステージ(個人タイムトライアル)優勝
- クリテリウム・デュ・ドーフィネ 総合4位
- ブエルタ・ア・ムルシア 総合8位
- 2008年
- ツール・ド・ロマンディ 総合4位
- ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオン 総合5位
- 2009年
- ブエルタ・ア・ムルシア 総合優勝
- ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオン 総合5位
- 2010年
- ツール・ド・ロマンディ 総合2位
- ブエルタ・ア・ムルシア 総合2位
- ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオン 総合9位
- 2011年
- ブエルタ・ア・ムルシア 総合2位(第2ステージ優勝)
- ツアー・オブ・オーストリア 総合5位
- 2012年
- ブエルタ・ア・アンダルシア 総合4位
- 2013年
- ヴォルタ・ア・アルガルヴェ 総合4位
2.3. その他
3. ドーピングおよび資格剥奪
2014年7月10日、国際自転車競技連合(UCI)は、バイオロジカル・パスポートの異常なデータに基づき、メンショフに2年間の出場停止処分(2015年4月9日まで)を科したことを発表した。この処分により、メンショフの2009年、2010年、2012年のツール・ド・フランスにおける成績が剥奪された。
また、2015年1月22日には、米国アンチ・ドーピング機関(USADA)がゲルト・ラインデルス医師のケースに関する決定書を公開し、その中でメンショフが2005年のツール・ド・フランス中に輸血を受けていたことが述べられた。
なお、2005年のブエルタ・ア・エスパーニャでは、当初ロベルト・エラスのドーピング違反によりメンショフが繰り上がりで総合優勝とされたが、2012年12月21日にスペイン最高裁判所がドーピング検査の手続きに不適切があったというエラスの訴えを認め、エラスの2005年ブエルタ優勝を再び認める判決を下したため、メンショフの同大会での成績は最終的に総合2位となった。2009年のジロ・デ・イタリア総合優勝や2007年のブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝などの成績は、現在のところ剥奪されていない。
4. 人物像と評価
メンショフは、その物静かな性格とレース中の冷静な判断力で知られ、特にグランツールでの安定した走りは高く評価された。
4.1. 人物・エピソード
メンショフが少年だった頃のロシアは経済が本格的に成長する前であり、物資の不足に悩まされていた。オリョールのサイクリングスクールでも人数分の自転車を揃えることができず、体力トレーニングが多かったため、辞めてしまう生徒も少なくなかった。それでも、やっと中古の自転車を与えられてから間もなくオリョールで行われたレースに出場したデニスは年齢別で優勝し、この時にプロロードレーサーへの夢が芽生えた。また、1999年にLada-Samaraからバネストのアマチュアチームに移る際、バネスト側が移籍の対価としてチームに渡したのは現金ではなく、3000 EUR相当の自転車部品だった。母親は「チームのジャージも自分たちでつぎはぎをあてて補修していた。息子は住まいと食事、いくらかの給費を求めてスペインに行った」と回想している。後にデニスは母校へ備品購入のための寄付をしている。
現在も狩猟や釣りを趣味とするが、「殺生に興味はなく、自然の中で過ごすのが好きなんだ」とのこと。親しい人以外に対しては口数が少なく、常に物静かな態度を崩さない。「普通にいい奴だが、プライベートはよくわからない」とチームメイトからは評される。2009年のジロ最終日に総合優勝を決めた際の激しいアクションは、ブロイキンク監督も「あんなデニスは見たことがない」と驚くものであったが、その日の夕食時にはすっかりいつもの彼に戻っていたという。
1999年からシーズン中はスペイン・パンプローナ近郊に在住している。くつろぎたい時には妻に電話をかけたり、パソコンでロシアのコメディ映画を見ている。シーズンオフやツール・ド・フランス終了後のバカンス時期は故郷オリョールの自宅で過ごすのが恒例。このままスペインに住み続けるのかとのインタビューには常に「いずれロシアに帰りたい」と答える。家族の間ではロシア語のみで会話しており、シーズン中は妻子をオリョールに帰している。
2005年のブエルタ・ア・エスパーニャは結果的に総合優勝となったが、あまりの後味の悪さから「エラスも僕も敗者だ」というコメントを出している。2007年のブエルタ・ア・エスパーニャは総合優勝だけでなく、山岳賞、コンビネーション賞も獲得。ポイント賞も最終ステージ前まで確保しており、まさに完勝といえる内容だった。
2009年ジロ総合優勝について、こんなに嬉しい勝利は初めてで、自分のキャリアの中で最大の勝利であると述べている。その理由として、100周年という記念すべき大会でありメディアの注目度も高く、ハイレベルの選手が多数参加していたことを挙げているが、「10年間で初めて、メジャーレースでランス・アームストロングを負かしたしね(笑)」とも語っている。最終日の表彰式では、国旗掲揚の際に誤ってロシア国歌ではなく、エリツィン政権時代の1991年から2000年までの期間にロシア国歌であった愛国歌が演奏されたが、「いい気分だったので別に気にならなかった」とのこと。また、この日着用していたタイムトライアルスーツについて、「(落車で)汚れていたしボロボロだったから捨てようとしたら、妻が "だめだめ! 記念にしましょう" と言って僕から奪い返して隠してしまった。おかげであの服は救われたよ」と、ジロ終了2日後にモスクワ・ドモジェドボ国際空港で語った。
2009年のツールを振り返って「思いだすべきことは何もないレースだったが、落車の記録を打ち立てた。この記録を誰も更新しないことを願う」と自身のウェブサイトで語っている。2008年、2009年にかけては、山岳でのアタックの瞬間や決勝のタイムトライアル、自らがエースであるチームタイムトライアル、同一ステージでの二度の単独落車など、観客を驚かせる場面での落車を繰り返した。メンショフは次のようなことに思い至ったという。「自転車乗りはなぜこんなに怪我ばかりしなくてはいけないのか。それは、過去の道路(路面状況がよくない)を未来の乗り物(最新鋭の自転車)で走るからだ。」(ロシア紙sovsportsのインタビューに答えて)
2010年9月、メンショフは「今度こそロシアチーム移籍」との大方の予想を覆し新チームGEOXとの契約を結んだ。カチューシャとの契約に至らなかった理由について「こちらから何度もカチューシャへの関心を公にアピールしてきたにも関わらず、正式なオファーは一度もなかった。問い合わせの手紙にも、移籍話が大詰めになり重要な時期なのに5日たっても返事が来なかったのでGEOXに決めた」と述べている。カチューシャの監督アンドレイ・チミルによれば、経済的な理由であるとのこと。
4.2. 評価
メンショフは、自身を「リラックスできること、パニックに陥らないこと」が強みであり、「経験不足」が弱点だと評している(2007年初頭)。この「経験」という点でメンショフは特にカルロス・サストレを高く評価しており、山岳では最も警戒すべき相手と認識していた。自身でも経験を積んでいるとの自信をつけつつあり、2009年(31歳)には「自分は年々少しずつ進歩している。32歳から35歳がパーフェクトだろうと思う」と述べている。
走りが守備的すぎるとの批判に対しては「自分は真のクライマーでもタイムトライアルスペシャリストでもない。ずっとこのように走ってきて、今良い状況にあるのだから、これでよいと思っている。皆それぞれ自分の走り方をしているだけ」と答えている。
好きなレースは、グランツール以外ではクラシカ・サンセバスティアン(地元なので沿道に知人を多く見かけて楽しいとのこと)とリエージュ~バストーニュ~リエージュを挙げている。レースの中継でメンショフを見つけるためにはフォームに注目するとよい。僧帽筋に頭をうずめる(肩をすくめた感じ)理想的なフォームで、前から見れば平たく低い姿勢、上から見れば背中が四角いのが際立つ。また、上半身がほぼ動かない非常に安定したペダリングを常に崩さないため、気迫が感じられにくいこともある。
5. 影響
デニス・メンショフのキャリアは、ロシア自転車界に大きな影響を与えた。グランツールでの数々の成功は、ロシアの若手選手にとって大きな目標となり、国際的な舞台での活躍を夢見るきっかけとなった。彼の冷静で安定した走りは、多くのファンに感銘を与え、特にタイムトライアルや山岳での勝負強さは、オールラウンダーとしての理想像を示した。
一方で、キャリア後半に発覚したドーピング違反とそれに伴う成績剥奪は、彼のスポーツマンシップと自転車競技全体の信頼性に影を落とした。これは、クリーンな競技を求める現代の自転車界において、過去のドーピング問題が依然として影響を及ぼしていることを示す一例となった。彼のケースは、バイオロジカル・パスポート制度の有効性と、アンチ・ドーピング活動の重要性を再認識させるものとなったと言える。