1. 概要

デヴィッド・グラスゴー・ファラガット(David Glasgow Farragut英語、1801年7月5日 - 1870年8月14日)は、アメリカ合衆国海軍の軍人である。アメリカ南北戦争において北軍の旗艦士官として活躍し、アメリカ海軍では初の海軍少将、同中将、同大将に昇進した人物である。特にモービル湾の海戦で「機雷がなんだ、全速前進!」("Damn the torpedoes, full speed ahead!"英語)という有名な命令を出したことで、アメリカ海軍の伝統において記憶され、広く大衆文化の中でも知られている。
ファラガットはテネシー州ノックスビル近郊の南部出身でありながらも、南部連合の脱退に強く反対し、開戦後も連邦に忠誠を誓った南部ユニオニストであった。この忠誠心は、南北戦争における国家統合の維持に大きく貢献した彼の行動の根底にあった。彼は、ニューオーリンズ占領やモービル湾の海戦といった重要な海軍作戦を成功に導き、ミシシッピ川の制海権を確立することで、南部連合を二分し、北軍の勝利に決定的な役割を果たした。彼の戦略的洞察力と大胆な指揮は、戦後も長く評価され、彼の遺産は多数の記念碑、地名、そしてアメリカ海軍艦船にその名を残している。
歴史家の山梨勝之進は、世界史的な観点から海軍の名将を列挙する中で、ファラガットをホレーショ・ネルソンや東郷平八郎と共に特筆すべき3名の一人として挙げている。
2. 初期生い立ちと家族背景
2.1. 出生と幼少期
デヴィッド・グラスゴー・ファラガットは1801年7月5日、テネシー州ホルストン川(現在のテネシー川)沿いのロウズフェリで生まれた。出生時の名前はジェイムズ・グラスゴー・ファラガットであった。父はスペインバレアレス諸島のメノルカ島出身で、地中海の商船船長であったジョージ・ファラガット(本名ジョルディ・ファラグート・メスキーダ、1755年-1817年)であり、母はノースカロライナ州出身のスコットランド系アイルランド人の子孫、エリザベス・シャイン(1765年-1808年)であった。出生地はテネシー州ノックスビルに近く、キャンベルズステーションの数マイル南東に位置していた。
父ジョージ・ファラガットはスペイン商船海兵隊での勤務後、1776年に北米に移住し、アメリカ独立戦争では海軍士官として活躍した。当初はサウスカロライナ州海軍に所属し、その後大陸海軍に転じた。独立戦争での任務を終えた後、ジョージとエリザベスは西部のテネシー州に移り住み、そこでロウズフェリを運営し、テネシー州民兵の騎兵隊士官としても務めた。
1805年、父ジョージはニューオーリンズ港での役職を引き受けた。父が先に現地に旅立ち、家族は雇った川水夫が操縦する約2700 kmの平底船でそれに続いた。当時4歳のジェイムズにとって、これが初めての航海であった。家族がニューオーリンズに住んでいた時、母エリザベスが黄熱病で亡くなった。ジョージ・ファラガットは、幼い子供たちを友人の家族に預け、より良い世話をしてもらう計画を立てた。
2.2. 養育と初期の海軍経験
1808年、母の死後、ジェイムズは父ジョージが独立戦争中に共に仕えた海軍士官デイビッド・ポーターと暮らすことに同意し、養子縁組が成立した。1812年には養父に敬意を表して「デヴィッド」と名を変えた。彼が1810年後半に海に出たのも、この養父との旅立ちであった。デヴィッド・ファラガットは海軍一家で育ち、養兄弟には後に南北戦争で提督となるデイビッド・ディクソン・ポーターや海軍代将となったウィリアム・D・ポーターがいた。
3. 海軍での経歴
ファラガットの海軍での経歴は、9歳の時に士官候補生として軍籍に加わったことから始まり、69歳で亡くなるまでの60年間続いた。この間、数々の戦争に従軍し、特にアメリカ南北戦争ではいくつかの決定的な海戦で勝利を収め、その名声を高めた。
3.1. 初期の任務
ファラガットの海軍での経歴は、1810年春にU.S.海軍の軍籍に「少年兵」(boy英語)の階級で加えられたことから始まった。養父の影響力により、ファラガットは1810年12月17日、9歳で士官候補生に任命された。11歳で捕獲品管理者となったファラガットは、米英戦争において養父であるポーター大佐の指揮下で戦った。フリゲート艦USS エセックスに乗艦中の1812年8月13日、イギリス海軍のHMS アラート捕獲に参加した。彼は、マルケサス諸島におけるヌークヒバ作戦の失敗に終わった期間に、アメリカ初の太平洋海軍基地であり植民地であるフォートマディソンの設立に協力した。同時に、アメリカ軍はテ・アイイ族の同盟者の助けを借りて、島の敵対的な部族と戦った。
11歳の時、米英戦争中にエセックスによって捕獲された船を安全に港に回航する任務を与えられた。1814年3月28日、チリのバルパライソ湾で行われたイギリス軍との交戦中、エセックスに乗艦していた彼は負傷し、捕虜となった。
1823年、ファラガットはUSS フェレットの指揮官に任命され、これが彼にとって初めてのU.S.海軍艦艇の指揮となった。彼はカリブ海で海賊と戦うために装備された艦船の「モスキート艦隊」で任務に就いた。かつての艦長であるポーター代将が艦隊司令官となることを知ると、彼はポーターの弟ジョン・ポーターが指揮する小型艦艇の一つグレイハウンドへの乗艦を要請し、それが認められた。1823年2月14日、艦隊は西インド諸島に向けて出航し、その後6ヶ月間、海賊を海から追い出し、島々の隠れ家から掃討した。彼は西インド諸島で海賊と戦った作戦中、エクスペリメントの副長を務めた。ファラガットは1825年に海軍大尉に昇進した。
3.2. 米墨戦争
1847年、海軍中佐となっていたファラガットは、バージニア州ノーフォークのノーフォーク海軍造船所で再就役したスループ・オブ・ウォーであるUSS サラトガの指揮を執った。米墨戦争の本土戦隊に配属されたサラトガは、1847年3月29日にノーフォークを出港し、ファラガットの指揮のもとメキシコ湾へ向かった。1847年4月26日にメキシコのベラクルス沖に到着すると、戦隊司令官であるマシュー・C・ペリー代将に任務を報告した。4月29日、ペリーはファラガットにサラトガを北へ約278 km航海し、トゥスパンを封鎖するよう命じた。サラトガは4月30日から7月12日までそこで活動した後、ファラガットはベラクルスに戻った。約2週間後、ファラガットはタバスコへの伝令を運ぶ往復航海を開始し、1847年8月11日にベラクルスに戻った。1847年9月1日、ファラガットとサラトガはトゥスパン沖の封鎖任務に戻り、艦内で黄熱病が発生したにもかかわらず2ヶ月間そこに留まった。その後、ファラガットは艦をベラクルスに戻し、1ヶ月滞在した後、フロリダ州ペンサコーラのペンサコーラ海軍造船所へ向かい、1月6日にサラトガは到着し、重症患者を基地病院に上陸させ、補給を行った。1848年1月31日、ファラガットはペンサコーラを出港し、ニューヨーク市へ向かい、2月19日に到着した。サラトガはそこで1848年2月26日に退役した。
3.3. メア島海軍造船所建設
1853年、アメリカ合衆国海軍長官ジェイムズ・C・ドビンは、サンパブロ湾のサンフランシスコ近くにメア・アイランド海軍造船所を建設する任務に、海軍中佐デヴィッド・G・ファラガットを選任した。1854年8月、バージニア州ノーフォークの兵器検査官補を務めていたファラガットは、ワシントンに呼び戻された。フランクリン・ピアース大統領は、ファラガットの海軍での経歴と、彼が引き受ける任務に対して祝辞を述べた。1854年9月16日、ファラガット中佐はカリフォルニア州ヴァレーホにあるメア島海軍造船所の建設を監督するために到着した。この造船所は、アメリカ合衆国西海岸における艦船修理の拠点となった。ファラガットは海軍大佐として1858年7月16日にメア島を正式に開設した。彼は1859年8月11日に、英雄としての歓迎を受けながらメア島に戻った。
3.4. 南北戦争での従軍

ファラガットは南北戦争以前はバージニア州ノーフォークに住んでいたが、生まれは南部であったにもかかわらず、アメリカ合衆国からの脱退を反逆と見なす考えを、知人全てに明確に示していた。戦争勃発の直前、ファラガットはバージニア州出身の妻と共に、ニューヨーク市のすぐ郊外にある小さな町、ヘイスティングス・オン・ハドソンに移住した。
3.4.1. 連邦への忠誠と初期の指揮
彼は北軍への就役を申し出たが、最初は海軍退役兵委員会での任務を与えられた。養兄弟であるデイビッド・ディクソン・ポーターから特殊任務の指揮を提案された際、その標的がノーフォークになる可能性があることを知ると、友人も親戚もそこに住んでいたため、躊躇した。しかし、標的が彼が幼少期を過ごしたニューオーリンズに変更されたことを知って安堵した。ファラガットは南部の生まれであり、妻もそうであったため、海軍は彼の北軍に対する忠誠心に多少の疑念を抱いていた。しかし、ポーターがファラガットを擁護した結果、ファラガットはニューオーリンズ攻撃の主要任務を担うことになった。
1862年2月3日、彼は秘密裏に西メキシコ湾封鎖戦隊の指揮官に任命された。ハンプトン・ローズから、25門の砲を搭載し彼の旗艦となったスクリュー推進船であるUSS ハートフォードを先頭に、17隻からなる艦隊を率いて出航した。彼はミシシッピ川の河口に到着した。そこには南部連合のセントフィリップ砦とジャクソン砦が川の両岸に対向して位置しており、合わせて100門以上の重砲と700名の守備隊が配備されていた。ファラガットの接近を知った南部連合は、ニューオーリンズ郊外に16隻の砲艦からなる艦隊を集結させていた。
3.4.2. ニューオーリンズ占領
4月18日、ファラガットはポーターの指揮する迫撃砲艦隊に両砦への砲撃開始を命令した。これによりかなりの損害を与えたが、南部連合軍を降伏させるには至らなかった。2日間の激しい砲撃戦の後、ファラガットはジャクソン砦とセントフィリップ砦、そしてシャルメット砲台を突破し、4月29日にニューオーリンズ市と港を占領した。これは南北戦争における決定的な出来事となった。
アメリカ合衆国議会は彼の功績を称え、1862年7月16日に海軍少将の階級を創設し、ファラガットに授与した。この階級はそれまでのアメリカ海軍には存在しなかった。この時まで、アメリカ海軍は「旗艦士官」という呼称を好み、「提督」という階級は、ヨーロッパ諸国の海軍の伝統とは区別するため、使用を避けていた。ファラガットは、現役リストの他の3名と退役リストの10名と共に、海軍少将に昇進した。その年の後半、ファラガットはミシシッピ州ヴィックスバーグを防衛する砲台を通過したが、そこでは成功を収められなかった。1862年7月には、南部連合国海軍の間に合わせの装甲艦によって、彼の38隻の小艦隊は撤退を余儀なくされた。
3.4.3. ミシシッピ川作戦
ファラガットは攻撃的な指揮官であったが、常に協調的ではなかった。ポートハドソンの包囲戦では、当初の作戦では、ナサニエル・バンクス将軍指揮下のメキシコ湾岸軍による陸上からの陽動攻撃(1863年3月15日午前8時開始予定)の支援を受けて、ファラガットの艦隊が南部連合国の堅固な要塞の砲撃を突破することになっていた。しかし、ファラガットは一方的に開始時刻を3月14日午後9時に繰り上げることを決定し、北軍陸上部隊が配置に就く前に砲台下の通過を開始した。その結果、連携の取れていない攻撃は、南部連合軍がファラガットの艦隊に集中砲火を浴びせ、彼の軍艦に甚大な損害を与えることを許してしまった。

ファラガットの艦隊は撤退を強いられ、南部連合の要塞の重砲を突破できたのはわずか2隻のみであった。砲撃を免れた後、ファラガットはポートハドソンの戦いにはそれ以上関与せず、バンクス将軍は海軍の支援という利点なしに包囲戦を継続せざるを得なかった。北軍陸上部隊は砦に対して2度の大規模な攻撃を行ったが、いずれも大きな損失を伴って撃退された。ファラガットの艦隊は分裂したが、残った2隻の軍艦でレッド川の河口を封鎖することはできたが、ポートハドソンとヴィックスバーグ間のミシシッピ川を効率的に哨戒することはできなかった。ファラガットの決断は北軍海軍と北軍陸上部隊にとって大きな代償となり、ポートハドソンでの戦いは戦争全体で最も高い死傷者数を記録した。
1863年7月4日にヴィックスバーグが降伏し、ポートハドソンはミシシッピ川に残る南部連合軍最後の拠点となった。バンクス将軍は7月9日にポートハドソンの南部連合軍守備隊の降伏を受け入れ、アメリカ軍事史上最長の包囲戦が終結した。ミシシッピ川の支配は、北軍が戦争に勝利するための戦略の中心であり、ポートハドソンの降伏によって南部連合は二分された。
3.4.4. モービル湾の海戦
1864年8月5日、ファラガットはモービル湾の海戦で大きな勝利を収めた。当時、アラバマ州モービルは南部連合にとってメキシコ湾に開いた最後の主要な港であった。湾は多くの機雷で埋められていた(当時の係留された機雷は「トーピードウ」として知られていた)。ファラガットは艦隊に湾への突入を命じた。戦闘が進むにつれて、煙がUSS ハートフォードに乗艦するファラガットからの視界を遮った。この出来事の詳細な記述の中で、ロバート・M・ブラウニングは、視界を良くするために、ファラガットが船の艤装を登り、メインマスト下のフットックシュラウドに到達したことを明らかにしている。彼の安全を案じた乗組員は、彼をマストと艤装に縛り付けた。

モニター艦のUSS テクムセが機雷に触れて沈没すると、他の艦は後退し始めた。「どうしたんだ?」と彼は海軍少佐のUSS ブルックリンに向かってトランペットで叫んだ。「機雷です」という返事が返ってきた。「機雷がなんだ」とファラガットは叫び、「鐘4打。ドレイトン艦長、前進!ジューエット、全速!」と続けた。艦隊の大部分は湾への侵入に成功した。ファラガットはモーガン砦とゲインズ砦の重砲からの抵抗を打ち破り、フランクリン・ブキャナン提督の戦隊を破った。1864年12月21日、エイブラハム・リンカーン大統領はファラガットを海軍中将に昇進させ、彼をアメリカ海軍の最高位の士官とした。
3.4.5. 戦後の昇進とヨーロッパ戦隊指揮
南北戦争後、ファラガットは1866年3月18日に米国忠誠勲章団ニューヨーク支部の一等会員に選出され、記章番号231を与えられた。彼は1866年5月から死去するまで、ニューヨーク支部の司令官を務めた。ファラガットは1866年7月25日に大将に昇進し、アメリカ合衆国海軍でこの階級を保持した最初の士官となった。彼の最後の現役勤務は、1867年から1868年までスクリュー推進フリゲート艦のUSS フランクリンを旗艦とするヨーロッパ戦隊の指揮であった。ファラガットは生涯現役に留まり、これは南北戦争後、他のわずか7人のU.S.海軍士官のみに与えられた栄誉である(彼らは養兄弟のデイビッド・ディクソン・ポーター、スティーブン・クレッグ・ローワン、ジョージ・デューイ、ウィリアム・リーヒ、アーネスト・キング、チェスター・ニミッツ、そしてウィリアム・ハルゼーである)。
4. 私生活
士官候補生に任命され、USS フェレットの臨時代理大尉として最初の巡航を終えた後、ファラガットは1824年9月2日にスーザン・キャロライン・マーチャントと結婚した。数年間の闘病の末、スーザン・ファラガットは1840年12月27日に亡くなった。ファラガットは妻の病気の間、彼女に親切に接したことで知られている。
最初の妻の死後、ファラガットは1843年12月26日にバージニア・ドーカス・ロイアルと再婚した。彼女との間に、1844年10月12日に生まれた生き残った息子、ロイアル・ファラガットが一人いた。ロイアル・ファラガットは1868年にウェストポイントを卒業し、1872年に辞任するまでアメリカ陸軍で少尉として勤務した。その後は、キャリアのほとんどをセントラル・レイルロード・オブ・ニュージャージーの役員として過ごした。彼は1812年戦争軍事協会の世襲会員であり、米国ロイヤル軍事勲章団の会員でもあった。ロイアルは1916年10月1日に亡くなった。彼の死は、彼と母親が父親の記念としてウッドローン墓地に建立した家族記念碑の一面に記されている。
ファラガットにはウィリアム・A・C・ファラガットという名の兄弟がいた。ウィリアムも海軍に所属していたが、彼ほど輝かしい経歴はなかった。彼はデヴィッドがキャリアを始める1年前の1809年1月16日に士官候補生に任命され、1814年12月9日に海軍大尉に昇進した。彼は1855年12月15日に予備役に移されるまでその階級に留まった。彼は1859年12月20日に亡くなった。
ファラガットはフリーメイソンであり、スコティッシュ・ライトのフリーメイソンでもあった。
5. 死

ファラガットは1870年8月14日、晩夏に休暇中であったニューハンプシャー州ポーツマスで、69歳で心臓発作により死去した。彼は約60年間海軍に奉仕した。遺体はニューヨーク市ブロンクスのウッドローン墓地に埋葬された。彼の墓地は、ウッドローン墓地自体と同様にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されている。
6. 遺産と栄誉
ファラガットの生涯と経歴は、現在に至るまで大きな影響を与え、その功績は広く認識されている。
6.1. 記念物と地名
ファラガット提督を記念して、数多くの場所や物に彼の名が冠されている。
- テネシー州ファラガット:提督の生誕地から数マイル離れたかつてのキャンベルズステーションは、1982年に市制施行された際に彼を称えてファラガットと改名された。提督は実際には町の南東数マイルのホルストン川(現在のテネシー川)のロウズフェリで生まれたが、当時キャンベルズステーションが最も近い集落であった。
- ワシントンD.C.ファラガット広場:彼を称えて命名され、広場の中央には彼の像「提督デヴィッド・G・ファラガット」が建てられている。近くのワシントンメトロの駅であるファラガット・ウェスト駅とファラガット・ノース駅も彼の名にちなんでいる。

- マサチューセッツ州サウスボストン海洋公園:キャッスル島に隣接するこの公園には、ファラガット提督の像がある。
- ニューヨーク市マンハッタンのマディソン・スクエア公園:フィフス・アベニュー沿いにある彼の屋外彫刻がある。
- ブルックリンのファラガット地区(ファラガット・ロードを含む)は彼にちなんで名付けられた。
- ニューヨーク市ブロンクスの一部の通りも彼の名にちなんでいる。
- アメリカ合衆国海軍兵学校の校長官邸:2023年5月に「ブキャナン・ハウス」(南北戦争でファラガットが破った南部連合のフランクリン・ブキャナン提督にちなむ)から「ファラガット・ハウス」に改名された。
- アイダホ州ファラガット州立公園:ペンドオレイユ湖に位置し、第二次世界大戦中はファラガット海軍訓練基地として29万人以上の海軍兵が基礎訓練を受けた。1966年にアイダホ州がこの土地を州立公園とした。
- テネシー州会議事堂:2021年7月22日、テネシー州会議事堂委員会と歴史委員会は、ファラガット提督、ネイサン・ベッドフォード・フォレスト、アルバート・グリーブス提督の胸像を州会議事堂からテネシー州立博物館に移すことを可決し、7月23日に移設が開始された。
6.2. 名誉機関と艦船
ファラガットの名を冠した学校、教育機関、アメリカ海軍の艦船が多数存在する。
- アドミラル・ファラガット・アカデミー:1933年にニュージャージー州パインビーチで全寮制の男子軍事高校として海軍提督らによって設立された。1945年には現在の唯一のキャンパスがフロリダ州セントピーターズバーグに開設された。1946年には議会によって海軍名誉学校に指定された。現在、このアカデミーはプレKから12年生までの生徒にサービスを提供する大学進学準備私立学校であり、8年生から始まるアッパー・スクールは、その全寮制プログラムと海軍JROTC軍事構造で世界的に知られている。航空、スキューバダイビング、海洋科学、工学、セーリングなどの特徴的なアカデミックプログラムも提供している。
- ファラガット高等学校(シカゴ、イリノイ州):1894年設立のシカゴ公立学校システムに属する高校で、スポーツチームは「アドミラルズ」として知られる。同校には、1896年に共和国大軍団ファラガット支部から贈られた提督の油絵が飾られている。NBAスターのケビン・ガーネットがこの高校に通っていた。
- ファラガット高等学校(テネシー州ファラガット):1904年に提督の故郷であるキャンベルズステーション(現在のファラガット)に建設された。現在、約2,500人の生徒を擁し、テネシー州で最大規模の学校の一つである。学校の色は青と白で、スポーツチームは「アドミラルズ」として知られる。
- デヴィッド・グラスゴー・ファラガット高等学校(ロタ、スペイン):アメリカ合衆国国防総省の高校で、スペインロタのロタ海軍基地に位置する。スポーツチームは「アドミラルズ」として知られる。
- アメリカ海軍兵学校にあるスポーツフィールドであるファラガット・フィールド。
- U.S.海軍の駆逐艦の艦級には、2つの艦級先導艦を含め、ファラガットにちなんで命名されたものがある。USS ファラガット (1934年)級駆逐艦とUSS ファラガット (1958年)級駆逐艦である。その他のU.S.海軍艦艇で「ファラガット」と命名されたものには、1898年のTB-11、1920年のDD-300、2006年のDDG-99がある。
6.3. 文化的な評価
アメリカ史において、郵便切手に描かれた海軍士官は数少ないが、デヴィッド・ファラガットは複数回この栄誉に浴している。


- 最初の郵便切手は1903年に発行された1ドルの黒色切手であった。
- 1937年の海軍発行切手には(5枚シリーズのうちの1枚として)、3セントの紫色切手があり、ファラガット提督(左)とデイビッド・ポーター(右)、中央に帆船が描かれている。
- ファラガットを称える最新の郵便切手は、1995年6月29日にペンシルベニア州ゲティスバーグから発行された。
1890年および1891年シリーズの100ドル財務省手形(「コイン・ノート」とも呼ばれる)には、表面にファラガットの肖像が描かれている。1890年シリーズの手形は、裏面の大きなゼロがスイカの模様に似ているため、収集家の間で「100ドルスイカ紙幣」と呼ばれている。彼はアメリカの紙幣に描かれた53人の一人である。

アメリカ海軍兵学校礼拝堂のステンドグラスの窓には、モービル湾でのUSS ハートフォードの艤装に乗るファラガットが描かれている。

- テネシー州立博物館にはファラガットの胸像が展示されている。
6.4. 大衆文化における登場
- ジュール・ヴェルヌの1870年の小説『海底二万里』には、デヴィッド・ファラガットを明らかにモデルにした「ファラガット提督」が登場する。
- 1943年の映画『The More the Merrier』では、チャールズ・コバーン演じるキャラクターが有名な引用句を像の上で見て、そのフレーズをモットーとして物語を動かす。
- 1952年の長編映画『Yankee Buccaneer』では、スコット・ブレイディがファラガットを演じた。
- ロナルド・レーガンが最後の演技の一つとして、1965年のシンジケート西部劇テレビシリーズ『デス・バレー・デイズ』のエピソード「サンフランシスコ湾の戦い」でファラガットを演じた。このエピソードは1856年のサンフランシスコ治安委員会に焦点を当てている。ジューン・デイトンは、このエピソードでファラガットの二人目の妻、バージニアを演じた。
- 『ワイルド・ワイルド・ウエスト』のエピソード「クラーケン」でファラガットは言及されるが、登場はしない。クライマックスでは、物語の悪役が機雷でファラガットの船を破壊しようとするが、主人公たちによって阻止される。
- 2010年のスポークン・ワード・デビュー作で、オリヴィア・ヘドリックは「How I love thee Mister Farragut」というトラックをリリースした。
- ビデオゲーム『The Elder Scrolls 4: Oblivion』には、「フォート・ファラガット」という砦が登場する。
- 『スタートレック』シリーズには、背景や準登場艦としてUSS ファラガットという名の宇宙船が多数登場している。これには、ジェームズ・T・カークの初期の配属先の一つとして『スター・トレック:ストレンジ・ニュー・ワールド』シリーズで言及された宇宙船とその艦級全体が含まれる。その他のファラガットという名の宇宙船には、『スタートレック ジェネレーションズ』の最後にUSS エンタープライズ-Dの乗組員を救助したネビュラ級宇宙船が含まれる。この船は後に『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』のエピソード「Nor the Battle to the Strong」で破壊されたと述べられている。また、『ディープ・スペース・ナイン』のエピソード「Chrysalis」では、エクセルシオール級のUSS ファラガットが言及されている。2009年の映画『スター・トレック』では、当時の士官候補生ニオタ・ウフーラの最初の配属先としてUSS ファラガットが言及された。
- ジョン・キッパックスのサイエンスフィクションシリーズ『ベンチュラー・トゥエルブ』では、遠い未来の地球宇宙海軍の司令官としてファラガット提督が登場する。
- TVドラマ『M*A*S*H』シーズン4エピソード13「今月の兵士」で、ホークアイが「『機雷がなんだ!全速前進!』と言った南北戦争の有名な英雄は誰?」と尋ね、クリンガーが「トゥーガラフ(ファラガットを逆にしたもの)」と答える場面がある。
- トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのアルバム『Damn the Torpedoes』は、デヴィッド・ファラガットの有名な言葉にちなんで名付けられた。
- MDFMKのアルバム『MDFMK』には、「Damn the Torpedoes」という曲が収録されている。
- コメディ映画『ギャラクシー・クエスト』では、ティム・アレン演じるキャラクターが「決して諦めるな!決して降伏するな!共鳴砲がなんだ!全速前進!」と言う。
7. 歴史的評価
デヴィッド・グラスゴー・ファラガットは、アメリカ合衆国海軍の歴史において、そして南北戦争における国家統一の文脈において、非常に重要な人物として評価されている。彼の最大の功績は、南部出身でありながらも連邦への揺るぎない忠誠を貫き、分裂の危機にあった国家を統合するために決定的な役割を果たした点にある。彼は、ニューオーリンズ占領やモービル湾の海戦といった難易度の高い海軍作戦を、その大胆不敵なリーダーシップと戦術的才能によって成功に導いた。これらの勝利は、ミシシッピ川の制海権を確立し、南部連合を物理的に二分するという北軍の戦略目標を達成する上で不可欠であった。
彼の行動は、単に軍事的な勝利に留まらず、連邦の民主主義的原則と人道に対する擁護者としての側面も持つ。彼は、奴隷制を支持する南部連合の分離主義に抵抗し、自由と統合という理念のために戦った。その意味で、彼は「自由の擁護者」として、そして「人民のための人物」として肯定的に評価されるべきである。
一方で、彼の経歴には、ポートハドソンの包囲戦における独断専行のように、時に高コストな結果を招いた判断も存在した。これは、彼の決断が常に協調的であったわけではないことを示しており、彼の「攻撃性」がもたらした複雑な側面として客観的に記述されるべきである。しかし、全体としての彼の業績は、これらの側面を上回るものと見なされている。
彼の死後も、ファラガットはアメリカ海軍の象徴的存在であり続けた。彼にちなんで命名された数々の記念碑、地名、学校、そして海軍艦船は、彼の永続的な遺産と、国家の記憶における彼の特別な地位を物語っている。近年、彼の胸像がテネシー州会議事堂から州立博物館に移されたことは、南北戦争期の人物に対する歴史的評価の変化と、社会の価値観の再評価の動きを反映している。しかし、山梨勝之進のような歴史家が彼を世界史的な海軍名将の一人として挙げていることは、彼の功績が時代や政治的文脈を超えて、その軍事的天才性において広く認められていることを示している。ファラガットは、国家統合への献身と、戦場での比類ない勇気によって、アメリカ史にその名を刻む偉大な提督として記憶され続けるだろう。