1. 概要

ハインリヒ・フォン・ブレンターノ・ディ・トレメッツォ(Heinrich Joseph Maximilian Johann Maria von Brentano di Tremezzoドイツ語、1904年6月20日 - 1964年11月14日)は、戦後ドイツの重要な政治家であり、キリスト教民主同盟(CDU)に所属した。彼はコンラート・アデナウアー政権下で1955年から1961年まで連邦外務大臣を務め、冷戦期のドイツ外交を主導した。
ブレンターノは、同盟国であるフランスとの協力を重視するとともに、ソビエト連邦に対する明確な反共政策を推進し、西側陣営との結束を強化した。また、欧州統合の初期段階において、欧州経済共同体(EEC)の創設に尽力し、その憲法草案作成にも貢献するなど、欧州の平和と協力体制の構築に深く関与した。連邦外務大臣としての職務に加え、ドイツ連邦議会では長年にわたりCDU/CSU議員団長を務め、党内における強い指導力を発揮した。その生涯と政治的業績は、戦後のドイツの民主主義の確立と国際社会への復帰において、重要な役割を果たした。
2. 生い立ちと背景
ブレンターノの人生は、ドイツの激動の時代に生まれ、そのキャリアを形成した。彼の出自と教育は、その後の政治家としての基盤を築く上で重要な要素となった。
2.1. 出自と家族
ブレンターノは、1904年6月20日にオッフェンバッハ・アム・マインで生まれた。彼の父親は中央党の政治家であるオットー・フォン・ブレンターノで、1919年のヴァイマル国民議会の議員を務めた。
ブレンターノ家はイタリアのロンバルディア地方に起源を持つ家系で、17世紀にヘッセン=ダルムシュタット方伯領に定住し、ヘッセン貴族として認められた。彼らは、ゲーテ、サヴィニー、アルニムといったドイツロマン主義の重要な人物たちと密接な関係を持っていた。ブレンターノは詩人のクレメンス・ブレンターノ(1778年 - 1842年)やベッティーナ・フォン・アルニム(1785年 - 1859年)とも親戚関係にある。彼の兄には、外交官で駐イタリア大使を務めたクレメンス・フォン・ブレンターノと、作家のベルンハルト・フォン・ブレンターノ(1901年 - 1964年)がいた。
2.2. 教育と初期のキャリア
ブレンターノは1922年にアビトゥーアに合格した後、ミュンヘン大学で法学を学んだ。在学中はカトリック系の学生団体に所属していた。彼は1925年に第一次、1929年に第二次司法試験に合格した。1930年にはギーセン大学で法学博士号を取得している。
キャリアの初期には、1932年からダルムシュタットで弁護士として活動し、1943年から1945年まではハーナウで検事を務めた。1945年以降は、公証人および弁護士として活動した。
3. 政治家としてのキャリア
第二次世界大戦後の混乱期に政治家としての道を歩み始めたブレンターノは、ドイツの民主主義再建と国際社会への復帰に多大な貢献を果たした。
3.1. キリスト教民主同盟創設とヘッセン州議会での活動
第二次世界大戦後、ブレンターノはヘッセン州におけるキリスト教民主同盟(CDU)の創設者の一人となった。1946年から1949年までヘッセン州議会の議員を務め、1947年からは同議会におけるCDU議員団の議長に就任した。
彼はまた、ドイツ連邦共和国基本法の草案を作成するための会議である「Parlamentarischer Rat」に出席し、新国家の憲法制定に貢献した。
3.2. 連邦議会での活動
1949年8月に実施された第1回ドイツ連邦議会選挙で、彼はベルクシュトラーセ選挙区から直接選出され、以降、死去するまで議席を維持した。連邦議会では、1949年から1955年まで、および1961年から死去するまで、CDU/CSUの連邦議会会派の議長を務め、党内の主要な指導者としての役割を果たした。
ブレンターノは、1952年に小選挙区制の導入法案を提出した一人であり、小選挙区制の実施を主張した。これは、当時の連邦基本法で採用されていた個人比例代表制に代わるものであったが、実現には至らなかった。
3.3. 欧州統合における役割
ブレンターノは、欧州運動ドイツのメンバーであり、欧州共同体総会および欧州評議会議員会議のメンバーを務めた。彼は欧州経済共同体(EEC)の創設において重要な人物であった。
1950年から1955年にかけては、欧州評議会の議員および副議長を兼任した。また、1952年7月から外務大臣に就任するまでは欧州議会の議員も務めた。献身的な国際人として知られた彼は、1952年から1953年にかけて、欧州共同市場の前身である欧州連盟のために、シューマン・プランに参加した6カ国の憲法草案を作成する委員会の議長を務めるなど、欧州統合プロセスに深く貢献した。
3.4. 連邦外務大臣としての活動
1955年に連合国による占領憲章が解除され、西ドイツが外交主権を回復した後、ブレンターノはコンラート・アデナウアー首相の推薦により、1955年6月に連邦外務大臣に任命された。それまで外務大臣職はアデナウアー自身が兼任していた。
1955年から1961年までの外務大臣在任期間中、ブレンターノはフランスとの協力関係を強化する政策を推進するとともに、ソビエト連邦に対する明確な反共政策を追求した。これは冷戦期における西ドイツの外交政策の基軸となった。
1961年の連邦議会選挙後、アデナウアー首相が自由民主党(FDP)との連立政権を組むことになった際、FDPが外務省における政務次官のポストを要求し、外交政策への関与を求めた。このため、1961年10月にブレンターノは外務大臣を辞任した。彼の後任には同じCDU所属のゲルハルト・シュレーダーが就任した。
4. 私生活
ブレンターノは生涯結婚せず、独身を通した。彼は1948年に母が死去するまで同居し、その世話をした。晩年には、兄のクレメンスが滞在していたローマにたびたび赴いた。
1961年には、ブレンターノの同性愛に関する噂が流れたことがあった。これに対し、当時のアデナウアー首相は「私に言い寄ってきたことはまだない」と冷静に答えたとされている。
5. 死去
ブレンターノは癌により1964年11月14日にダルムシュタットで60歳で死去した。彼の死の3日後には連邦議会で追悼式典が執り行われた。彼はダルムシュタットのヴァルトフリートホーフに埋葬された。

6. 栄典
ブレンターノは、その功績に対し国内外から複数の勲章を授与された。
- イタリア共和国功労勲章大十字章(1956年)
キリスト騎士団大十字章の記章。 キリスト騎士団大十字章(ポルトガル、1958年4月10日)
7. 遺産と評価
ハインリヒ・フォン・ブレンターノは、第二次世界大戦後のドイツの再建と国際社会への復帰において、多大な遺産を残した政治家として評価されている。彼はドイツキリスト教民主同盟の創設に貢献し、ドイツ連邦共和国基本法の制定プロセスに参加するなど、ドイツの民主主義体制の確立に深く関与した。
特に、欧州統合の初期段階における彼の役割は重要である。欧州経済共同体(EEC)の創設への尽力や、シューマン・プランに基づく憲法草案作成の議長を務めたことは、戦後の欧州における平和と協調体制の構築に決定的な貢献を果たした。連邦外務大臣としての冷戦期におけるフランスとの協力強化やソビエト連邦に対する反共政策の推進は、西ドイツが西側陣営の一員として国際的な地位を確立する上で不可欠な要素であった。彼の外交姿勢は、その後のドイツ外交の基盤を築いた。
連邦議会議員団長としての長きにわたるリーダーシップは、党内における彼の影響力と政治的手腕を裏付けている。ブレンターノの活動は、戦後のドイツが民主主義国家として国際社会に復帰し、欧州の平和と繁栄に貢献する道を切り開く上で、重要な役割を果たした。
8. 関連項目
- ドイツキリスト教民主同盟
- コンラート・アデナウアー
- ドイツ連邦議会
- 欧州統合
- 欧州経済共同体
- 北大西洋条約機構
- 冷戦