1. 初期と格闘技の発展
ハロルド・ハワードは、カナダにおける格闘技の才能を開花させ、独自のスタイルを築き上げた人物である。彼の幼少期から、プロ格闘家としての道を歩むまでの道のり、そして武道家としての発展は、彼の後のキャリアに大きな影響を与えた。
1.1. 幼少期と初期の訓練
ハワードはオンタリオ州リッチモンドヒルで育った。17歳から柔術会のスティーブ・レイノルズの指導の下で柔術の訓練を始めた。
1.2. 格闘技学校の設立と独自スタイルの構築
1983年、ハワードはナイアガラフォールズに移住し、ジェームズ・モーデン・スクールやYMCAで空手と柔術を教え始めた。翌1984年には、自身の道場「アクション空手&柔術センター」(ナイアガラ・ファイティング・グリフィン・フィットネス・アンド・マーシャルアーツとして)を開設し、競技者としても指導者としても優れた実績を収めた。彼の教え子の中には、世界のトップレベルのスポーツ空手およびスポーツ柔術選手が何人もいた。
ハワードは、スティーブ・レイノルズの下で柔術の3段、ヨギ・イスラエルの下で剛柔流の3段、モンティ・ゲストの下で千唐流の2段を取得している。彼は「活殺道手術(Katsudo-te-Jitsu)」スタイルの創始者であり、自身の最も高い段位を持つ弟子よりも2段高い6段を保有している。
2. 格闘技競技キャリア
ハロルド・ハワードは、多様な格闘技分野で顕著な競技成績を収め、その名を国際的に知らしめた。
2.1. 柔術での功績
1984年、ハロルドは初代カナダヘビー級スポーツ柔術チャンピオンに輝いた。同年、世界柔術組織評議会(WCJO)が公認する初の世界柔術選手権大会にカナダ代表として出場した。この世界選手権では、彼はカナダチーム(ヘビー級)の一員として団体戦で金メダルを獲得した。また、個人戦においても男子ヘビー級部門で金メダルを獲得し、世界ヘビー級柔術チャンピオンとなった。
2.2. 空手での功績
ハワードは、1982年から1984年にかけてカナダヘビー級空手選手権を3連覇した。1986年と1987年にはカナダのナショナル空手チームのメンバーとなり、この時期にはカナダにおける最高ランクのスポーツ空手ファイターとして活躍した。
1988年に選手生命を脅かすほどの背中の手術を受けた後、ハワードは1992年(当時34歳)に競技に復帰した。そして、ナショナル・ブラックベルト・リーグ(NBL)世界スポーツ空手選手権で銀メダルを獲得した。彼は決勝まで無敗で進んだものの、負傷のため最終2試合を棄権せざるを得なかった。
2.3. UFCおよび総合格闘技キャリア
ハワードは、後に総合格闘技(MMA)として知られるようになるノー・ホールズ・バード(NHB)において、プロ戦績1勝3敗を記録した。そのうちUFCでは1勝2敗であった。
彼のUFCでの活動は、特にUFC 3での活躍が印象的である。ハワードはこのトーナメントで決勝に進出し、スティーブ・ジェナムと対戦した。この試合では、彼の代名詞ともいえる独特のシザーズキックを披露し、観衆を沸かせた。しかし、ジェナムには敗北を喫している。
3. 私生活と晩年
ハワードは、競技キャリアの成功と並行して私生活を築いたが、晩年には大きな法的な問題に直面した。
3.1. 家族と引退後の活動
ハロルドは既婚であり、娘1人と息子2人の3人の子供がいる。2009年まで、彼はナイアガラフォールズで「ハワード護身術システムズ」という小規模な護身術学校を運営する傍ら、屋根修理の仕事をしていた。
3.2. 法的問題と有罪判決
2009年12月22日、ハワードは警察に逮捕された後、2件の殺人未遂、2件の武器による暴行、住居侵入未遂、現場不滞留、警察からの逃走、自動車の危険運転、いたずら、そして誓約違反2件の容疑で起訴された。
逮捕につながる一連の出来事には、自身の姉と甥をハンマーで襲撃したこと、別居中の妻の自宅に不法に侵入しようとしたこと、そして最終的に自身の車でナイアガラ・フォールズビュー・カジノ・リゾートに突っ込んだことなどが含まれた。これらの罪により、最終的にハワードは5年近くの懲役刑を言い渡され、服役することとなった。
4. 総合格闘技戦績
ハロルド・ハワードの公式な総合格闘技戦績は以下の通りである。
勝敗 | 対戦相手 | 決着 | 大会名 | 開催年月日 | ラウンド | 時間 | 場所 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
敗 | Hugo Duarteウゴ・デュアルチポルトガル語 | TKO (パンチによるギブアップ) | UVF 3 - Universal Vale Tudo Fighting 3 | 1996年8月14日 | 1 | 0:29 | 東京、日本 | |
敗 | マーク・ホール | TKO (パンチによるギブアップ) | UFC 7 | 1995年9月8日 | 1 | 1:41 | バッファロー、アメリカ合衆国 | |
敗 | スティーブ・ジェナム | TKO (パンチによるギブアップ) | UFC 3 | 1994年9月9日 | 1 | 1:27 | シャーロット、アメリカ合衆国 | |
勝 | Roland Payne | KO (パンチ) | UFC 3 | 1994年9月9日 | 1 | 0:46 | シャーロット、アメリカ合衆国 |
5. 評価と論争
ハロルド・ハワードの公的な人生は、その優れた格闘技の業績と、後に起こした深刻な法的問題という二つの側面によって形成され、大衆の認識もこれらによって大きく左右された。
5.1. 大衆の認識と論争
ハワードは、カナダにおける武道界の先駆者として、またUFC初期の注目すべきファイターとして、格闘技ファンから一定の評価を受けていた。特に、UFC 3でのシザーズキックは彼の象徴的な動きとなり、そのユニークな戦い方は記憶に残るものであった。
しかし、2009年に発生した殺人未遂およびその他の重罪での逮捕と有罪判決は、彼のパブリックイメージに決定的な影を落とした。これにより、彼の格闘技における功績は、その後の法を犯した人物という負の側面と切り離して語られることが難しくなった。大衆の認識は、成功したアスリートという評価だけでなく、法を犯した人物という側面が強く加わり、彼の人生を巡る論争の原因となった。彼の行為は、個人の行動が社会に与える影響の大きさを示す事例として認識されている。