1. 概要
フランシス・ペラン(Francis Perrinフランス語、1901年8月17日 - 1992年7月4日)は、フランスの著名な物理学者であり、特に核物理学、核分裂、ニュートリノに関する研究で知られている。彼はノーベル物理学賞受賞者であるジャン・ペランの唯一の息子であり、物理学者ピエール・ヴィクトール・オージェの義弟にあたる。
ペランは、パリ高等師範学校とソルボンヌ大学で学び、ブラウン運動に関する博士論文を提出した。彼の初期の研究は蛍光現象とブラウン運動に焦点を当てていたが、後に核物理学へと移行し、ニュートリノの質量推定や核連鎖反応の可能性、核エネルギーの生産に関する重要な貢献を行った。特に1939年にはフレデリック・ジョリオ=キュリーらと共に核連鎖反応の可能性を確立し、1972年には天然原子炉の存在を発見した。
科学者としてのキャリアに加え、ペランはフランスの原子力政策において重要な行政的役割を担った。彼は1951年から1970年までフランス原子力庁(CEA)の高等弁務官を務め、フランスの核兵器開発プログラムに深く関与した。この期間中、彼はフランスの核兵器開発を推進する強力なロビー活動の一員として、外部からの真の政治的統制を受けずに集中的な研究プログラムを進めた。また、1949年にはサクレー原子力研究センターにイスラエルの科学者を招き、マンハッタン計画の知識を持つ科学者間の協力と知識共有を促進したことを1986年に公に認めている。
国際科学協力の分野では、欧州原子核研究機構(CERN)設立協約のフランス代表署名者となり、CERN理事会の副議長も務めた。1958年には「原子力の平和利用」に関するジュネーブ会議の議長を務めるなど、国際的な舞台でも活躍した。
彼の業績は、フランス科学アカデミー会員への選出やレジオンドヌール勲章の受章など、数々の栄誉によって認められた。私生活では、無神論者連盟の会長を務めるなど、科学以外の社会活動にも関与した。彼の死後、フランスの研究所には彼の名を冠した「フランシス・ペラン研究所」が設立され、その科学的・行政的遺産は後世に大きな影響を与え続けている。
2. 生涯と教育
フランシス・ペランの生涯は、著名な科学者としての家族背景と、フランスの最高学府での教育によって形作られた。
2.1. 幼少期と家族背景
フランシス・ペランは1901年8月17日にパリで生まれた。彼の父は、後にノーベル物理学賞を受賞する著名な物理学者ジャン・ペランである。フランシスはジャン・ペランの唯一の息子であった。彼の義理の姉妹は物理学者ピエール・ヴィクトール・オージェの妹コレット・オージェであり、フランシスは後にコレットと結婚した。このような科学に深く根ざした家庭環境は、彼の後のキャリアに大きな影響を与えたと考えられる。
2.2. 教育
ペランはパリのパリ高等師範学校で数学を学んだ。その後、ソルボンヌ大学に進み、1922年に物理学の修士号を取得した。彼の学業の集大成として、1928年にはパリの理学部でブラウン運動に関する博士論文「回転ブラウン運動の数学的研究」を提出し、数学の博士号を取得した。さらに、1929年には物理学の博士号も取得している。
博士号取得後、彼はコレージュ・ド・フランスとソルボンヌ大学で教員としてのキャリアをスタートさせた。第二次世界大戦中にはアメリカ合衆国に渡り、ニューヨークのコロンビア大学で講師を務め、さらにアルジェリアに亡命したフランス人コミュニティの代表としても活動した。1946年にフランスに戻ると、彼はパリの高等教育機関で原子・分子物理学の学部長に就任した。
3. 科学的業績
フランシス・ペランの科学的業績は、初期の基礎研究から核物理学の最前線、そしてその応用まで多岐にわたる。
3.1. 初期研究
ペランの初期の科学的キャリアは、蛍光現象とブラウン運動の研究に焦点を当てていた。彼は1928年に「回転ブラウン運動の数学的研究」と題する博士論文を発表し、この分野における彼の深い理解と貢献を示した。これらの基礎研究は、後に彼が取り組むことになるより複雑な物理学の課題への道を拓いた。
3.2. 核物理学と研究
ペランの最も重要な貢献は、核物理学の分野にある。
1933年、彼はニュートリノに関して、「その質量はゼロであるか、少なくとも電子の質量に比べて小さいに違いない」と推定した。これは、ニュートリノの特性に関する初期の重要な洞察であった。
彼はコレージュ・ド・フランスでウランの核分裂に関する研究を進めた。1939年には、フレデリック・ジョリオ=キュリーとその研究グループと共に、核連鎖反応の可能性と核エネルギー生産の可能性を確立した。この研究は、原子力の開発における画期的な進歩であった。同年、彼らは「原子電池」に関する特許も取得している。
3.3. 学術的地位
ペランは、1946年から1972年までコレージュ・ド・フランスの原子・分子物理学講座の教授を務めた。また、ソルボンヌ大学の講師としても活動した。第二次世界大戦中には、ニューヨークのコロンビア大学で講師を務め、その間、アルジェリアに亡命したフランス人コミュニティの代表も務めた。
3.4. 自然核分裂炉の発見
1972年、フランシス・ペランは天然原子炉の存在を発見した。これは、ガボンのオクロにあるウラン鉱床で、約20億年前に自然に核分裂反応が起きていたことを示すものであり、地球の地質学的歴史と核物理学の相互作用に関する驚くべき発見であった。
4. 公共サービスと行政
フランシス・ペランは、フランスの原子力政策において、また国際的な科学協力の分野において、極めて重要な行政的役割を担った。
4.1. 原子力庁(CEA)高等弁務官
1951年、フランシス・ペランはフランス原子力庁(CEA)の高等弁務官に任命された。これは、軍事研究に反対したために解任されたフレデリック・ジョリオ=キュリーの後任であった。ペランは1970年までこの職を務めた。彼の在任期間中、CEAはフランスの原子力開発において中心的な役割を果たした。
4.2. フランスの核兵器開発と国際協力
ペランは、フランスの核兵器開発プログラムに深く関与した。彼は、シャバン=デルマス、モーリス・ブルジェ=モーヌリ、フェリックス・ガイヤールといった政治家、アイユレ、ガロワ、クレパンといった将軍、ピエール・ギヨマ、ラウル・ドートリーといったテクノクラート、そしてイヴ・ロカール、ベルトラン・ゴールドシュミットといった科学者からなる約12人の強力なロビー集団の一員であった。このロビーは、フランス第四共和政の歴代政府に対し、外部からの真の政治的統制を受けずにフランスが核兵器を配備できるよう、集中的な研究プログラムを課した。1954年には、この政策を実行するためにCEA内に秘密部門が設置された。
シャルル・ド・ゴールは、彼の「砂漠の横断」(1953年から1958年)と呼ばれる権力からの離脱期間中に、特にシャバン=デルマスを通じてこの研究の進捗について知らされていた。ド・ゴールが1958年に政権に復帰した時には、研究の進捗は目覚ましく、最初の核実験であるジェルボワーズ・ブルーの実施日はすでに1960年に設定されていた。ペランのこのプログラムへの関与は、フランスが核保有国となる上で決定的な役割を果たした。
1986年、ペランは1949年にイスラエルの科学者がサクレー原子力研究センターに招かれ、この協力がマンハッタン計画の知識を持つフランスとイスラエルの科学者間の知識共有を含む共同作業につながったことを公に述べた。これは、フランスとイスラエル間の初期の核協力の存在を明らかにするものであった。
4.3. 国際科学協力および活動
ペランは、欧州原子核研究機構(CERN)のようなヨーロッパの核研究センター設立プロジェクトを積極的に支持した。彼は1952年2月にジュネーブで締結されたCERN暫定理事会設立協約のフランス代表署名者であった。彼はこの理事会の副議長に選出され、1972年までCERN理事会のフランス代表を務めた。
また、1958年には「原子力の平和利用」に関するジュネーブ会議の議長を務め、国際的な科学協力と原子力の平和的利用の推進に貢献した。
5. 受賞歴と栄誉
フランシス・ペランは、その卓越した科学的貢献と公共サービスに対して、数々の栄誉と賞を受賞した。1953年にはフランス科学アカデミーの会員に選出された。また、フランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章も授与されている。これらの栄誉は、彼の科学界および国家への貢献が広く認められた証である。
6. 私生活
フランシス・ペランは、物理学者ピエール・ヴィクトール・オージェの妹であるコレット・オージェと結婚した。彼の家族は科学と深く結びついていた。
また、彼はフランス原子力庁(CEA)の高等弁務官を辞任した後、フランス無神論者連盟(Union des Athées)の会長を務めた。これは、彼の科学的合理主義と個人的な信念が、公的な役割を超えて社会活動にも影響を与えたことを示している。
7. 著作
フランシス・ペランの主要な著作と出版物は以下の通りである。
- 『回転ブラウン運動の数学的研究』(博士論文) (Etude mathématique du mouvement brownien de rotationフランス語) (1928年)
- 『溶液の蛍光、分子誘導、偏光と発光時間、光化学』 (La Fluorescence des solutions, induction moléculaire, polarisation et durée d'émission, photochimieフランス語) (1929年)
- 『蛍光』 (Fluorescenceフランス語) (1931年)
- 『相対論的力学とエネルギーの慣性』 (La dynamique relativiste et l'inertie de l'énergieフランス語) (1932年)
- 『同種分子間の活性化移動の量子論:蛍光溶液の場合』 (Théorie quantique des transferts d'activation entre molécules de même espèce. Cas des solutions fluorescentesフランス語) (1932年)
- 『ウランの連鎖核変換の可能性に関する計算』 (Calcul relatif aux conditions eventuelles de transmutation en chaine de l'uraniumフランス語) (1939年)
- 『確率計算とその応用に関する論文』 (Traité du calcul des probabilités et de ses applicationsフランス語)、エミール・ボレルと共著 (1939年)
- 『熱中性子に対する核分裂性同位体の国際的な断面積値』 (Valeurs internationales des sections efficaces des isotopes fissiles pour les neutrons thermiquesフランス語) (1955年)
- 『ユーラトム』 (L'Euratomフランス語) (1956年)
- 『フレデリック・ジョリオの国葬』 (Funérailles nationales de Frédéric Joliotフランス語) (1958年)
- 『最終講義、原子・分子物理学講座』 (Leçon terminale, Chaire de physique atomique et moléculaireフランス語) (1972年)
- 『フランシス・ペラン著作集』 (Écrits de Francis Perrinフランス語) (1998年)
8. 死没
フランシス・ペランは1992年7月4日に死去した。彼は90歳であった。彼の死は、フランスの科学界と原子力政策において一時代の終わりを告げるものであった。
9. 遺産
フランシス・ペランの科学的および行政的業績は、後世に大きな遺産を残した。彼の核物理学における先駆的な研究、特に核連鎖反応の可能性の確立やニュートリノの質量推定、そして天然原子炉の発見は、科学史における重要なマイルストーンとして記憶されている。
また、フランス原子力庁(CEA)の高等弁務官としての彼の役割は、フランスが核兵器保有国となり、その原子力産業を確立する上で不可欠であった。彼のリーダーシップの下で、フランスは独自の核能力を開発し、国際的な舞台での影響力を強化した。しかし、その過程での秘密主義や他国との核協力は、歴史的に議論の対象となる側面も持っている。
彼の名を冠した Laboratoire Francis-Perrin(フランシス・ペラン研究所)は、フランス原子力庁とフランス国立科学研究センター(CNRS)が共同で運営する研究施設であり、彼の科学への貢献が永続的に称えられている。この研究所は、彼の遺志を継ぎ、物理学の分野で新たな知見を探求し続けている。彼の生涯は、科学的探求と国家戦略、そして国際協力が複雑に絡み合った20世紀の歴史を象徴している。