1. 概要
マット・リンドランド(Matthew James Lindland、1970年5月17日 - )は、アメリカ合衆国オレゴン州オレゴンシティ出身の元総合格闘家、オリンピックレスリング選手、講演家、俳優、コーチ、起業家、そして政治家である。その多岐にわたるキャリアは、彼がスポーツ界で築き上げた功績にとどまらず、ビジネスや社会活動、さらには政治の舞台にまで及ぶ。

リンドランドは、2000年シドニーオリンピックのレスリンググレコローマン76kg級で銀メダルを獲得し、その翌年にはレスリング世界選手権で銀メダルに輝くなど、レスリング界で輝かしい実績を残した。特に、オリンピック出場を巡る法廷闘争は有名であり、この経験から「ザ・ロー(The Law、法律家)」という異名を持つようになった。
総合格闘家としては、UFCやストライクフォース、Affliction、IFLなど、数々の主要団体でミドル級を中心に活躍し、その粘り強い戦いぶりで知られた。2011年に現役を引退した後も、彼はチーム・クエストで指導者として若手育成に尽力する一方、2008年にはオレゴン州下院議員選挙に共和党候補として出馬するなど、多方面で精力的に活動を展開している。
彼のキャリアは、スポーツ界の枠を超え、社会における多様な役割を果たすアスリートの姿を示しており、その功績は後に全米レスリング殿堂入りという形で称えられている。また、2021年にはブラジリアン柔術の黒帯を取得するなど、引退後も格闘技への情熱を維持している。
2. 幼少期と教育
マット・リンドランドは、15歳の時にオレゴン州グラッドストンのグラッドストン高校でレスリングを始めた。高校卒業後、クラッカマス・コミュニティ・カレッジに進学し、1991年には72 kg (158 lb)級でNJCAA(全米短期大学体育協会)のナショナルタイトルを獲得した。
その後、ネブラスカ大学に編入し、NCAAディビジョンIでレスリングを続けた。1993年には72 kg (158 lb)級でビッグ・エイト・カンファレンスのタイトルを獲得し、同シーズンは36戦無敗という記録でナショナル・トーナメントに臨み、自身の階級でランキング1位に位置づけられていた。しかし、トーナメント初戦で番狂わせの敗戦を喫し、入賞を逃した。大学卒業後、リンドランドはフリースタイルレスリングとグレコローマンレスリングの両方で競技を始めたが、最終的にはグレコローマンに全力を注ぐことを決めた。
3. レスリングキャリア
リンドランドのアマチュアレスリング選手としてのキャリアは、大学時代から国際舞台での輝かしい功績に至るまで、数々のタイトルと挑戦に彩られている。
3.1. アマチュアレスリング時代
クラッカマス・コミュニティ・カレッジ時代にNJCAA王者となり、ネブラスカ大学ではNCAAディビジョンIで活躍。1993年にはビッグ・エイト・カンファレンスのタイトルを獲得し、全米1位にランクされた。大学卒業後は、フリースタイルとグレコローマンの両方で才能を発揮し、特にグレコローマンに集中して国際大会での成功を目指した。
3.2. オリンピックと世界選手権での功績
リンドランドのレスリングキャリアの頂点は、2000年シドニーオリンピックでアメリカ合衆国代表として出場し、グレコローマン69 kg級で銀メダルを獲得したことである。その翌年、2001年レスリング世界選手権(ギリシャ・パトラ)でも85 kg級で銀メダルを獲得し、国際的な実力を示した。彼はまた、パンアメリカン選手権でも1994年メキシコシティ大会のフリースタイル74 kg級で金メダル、1997年サンフアン大会のグレコローマン76 kg級で銀メダル、1999年ウィニペグ大会と2000年カリ大会のグレコローマン76 kg級で金メダルを獲得している。
特筆すべきは、2000年のオリンピック出場を巡る法廷闘争である。全米オリンピック選考会の決勝でキース・シェラッキに敗れた際、リンドランドはシェラッキがグレコローマンレスリングのルールで禁止されている「足を使った防御」を行ったと主張し、提訴した。仲裁人はリンドランドとシェラッキの再戦を命じ、リンドランドは9対0で勝利した。しかし、アメリカオリンピック委員会(USOC)はシェラッキを代表チームに残そうと連邦裁判所に上訴した。連邦地方裁判所、そして第7巡回区控訴裁判所の3名の判事パネルはいずれもリンドランドに有利な判決を下し、USOCによる最高裁判所への聴聞請求も却下されたことで、リンドランドの代表チーム入りが確定した。この長期にわたる法廷闘争から、リンドランドは後に「ザ・ロー(The Lawyer)」というニックネームを得ることとなった。
オリンピック後もリンドランドはアマチュアレスリング競技を続け、2001年には世界選手権で銀メダルを獲得し、全米タイトルも手にした。彼は2004年にレスリングキャリアを終えるまで、自身の階級で全米トップ10にランクインし続けていた。
4. 総合格闘技キャリア
マット・リンドランドは、レスリングでの成功を背景に、総合格闘技の世界にも足を踏み入れ、多くのプロモーションでその名を馳せた。
4.1. 初期キャリアとUFC
リンドランドは1997年2月14日にプロ総合格闘技デビューを果たした。その後、ランディ・クートゥアやダン・ヘンダーソンらと共にチーム・クエストで総合格闘技のトレーニングを開始した。1997年9月20日には、IFC 6トーナメントのミドル級決勝でトラビス・フルトンを破り、優勝を飾った。
2000年12月16日、リンドランドはUFC 29でUFCに初参戦し、安生洋二にマウントパンチによるTKO勝ちを収めた。UFCミドル級で4連勝を飾った後、2002年5月10日のUFC 37でムリーロ・ブスタマンチが保持するUFC世界ミドル級王座に挑戦したが、フロントチョークで一本負けを喫し、タイトル獲得には至らなかった。
2003年6月6日のUFC 43では、ファラニコ・ヴァイタレとの試合で、投げを繰り出した際に自ら後頭部をマットに強打し失神、TKO負けという衝撃的な結果に終わった。しかし、同年11月21日のUFC 45での再戦では、ヴァイタレにTKO勝利を収め、雪辱を果たしている。UFCを離れた後も、リンドランドはB.J.ペン対ジョルジュ・サンピエールの試合でB.J.ペンのセコンドを務めるなど、UFCイベントへの関わりを続けた。
4.2. 多様なプロモーションでの活動
UFC以降、リンドランドはIFL、BodogFIGHT、Affliction、WFA、Cage Rageなど、様々な総合格闘技団体で活動した。IFLではチームコーチとしてもデビューし、ポートランド・ウルフパックの監督を務めた。
彼はIFLでジェレミー・ホーンにTKO勝利、カーロス・ニュートンにギロチンチョークで一本勝利を収めた。2007年4月14日にはロシアで開催されたBodogFIGHTで、元PRIDEヘビー級王者であるエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦したが、腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫した。また、2006年7月22日のWFA: King of the Streetsでは、将来のUFCライトヘビー級王者となるクイントン・"ランペイジ"・ジャクソンとライトヘビー級で対戦し、スプリット判定で敗れた。
2008年7月19日にはAfflictionの旗揚げ戦Affliction: Bannedでファビオ・ナシメントに判定勝ち。しかし、2009年1月24日のAffliction: Day of Reckoningでは、ビクトー・ベウフォートの左ストレートからのパウンドで失神KO負けを喫した。
4.3. ストライクフォース時代
2009年4月13日、リンドランドはストライクフォースと3試合契約を結んだ。同年12月19日のStrikeforce: Evolutionでストライクフォースデビューを果たし、ホナウド・ジャカレイと対戦したが、肩固めで一本負けを喫した。
2010年5月21日には、自身のホームタウンであるオレゴン州ポートランドで開催されたStrikeforce Challengers 8でメインイベントを務め、ケビン・ケーシーにTKO勝利を収めた。しかし、同年12月4日のStrikeforce: Henderson vs. Babalu IIでロビー・ローラーと対戦し、試合開始50秒で右フックを受け失神KO負けとなった。
4.4. 晩年のキャリアと引退
ストライクフォースを離れた後、リンドランドは2011年5月21日のKSW 16でマメッド・ハリドヴと対戦し、ギロチンチョークで一本負けを喫した。これが彼のプロ総合格闘家としての最後の試合となり、リンドランドは2011年に現役を引退した。
引退後も格闘技との関わりは深く、2021年8月27日にはホーゾ・グレイシーからブラジリアン柔術の黒帯を授与された。また、彼はスポーツ・マネジメント・ワールドワイドで「総合格闘技マネジメント」のインストラクターも務めている。彼の総合格闘技キャリアを描いたドキュメンタリー映画『Fighting Politics』も制作されている。
5. 指導者としての活動
リンドランドは、自身のキャリアを通じて、レスリングと総合格闘技の両方で指導者としても重要な役割を果たしてきた。彼はノースウェストの青少年レスリングプログラムを設立し、アメリカのトップレスリングクラブであるコブラ・レスリングとペニンシュラ・レスリングで指導を行った。
1996年には、ネブラスカ大学のアシスタントレスリングコーチとしてリンカーンに戻り、2000年までその職を務めた。この期間中、彼は数名のNCAAチャンピオンやオールアメリカンを指導し、育成に貢献した。現在もUSAレスリングと協力して活動を続けている。
2000年からは、オレゴン州ポートランドにある自身のチーム・クエストジムでレスリングと総合格闘技のコーチを開始。現在もレスリング、キックボクシング、総合格闘技、そしてプロおよびアマチュアのファイトチームの指導にあたっている。2013年にはアメリカグレコローマンレスリング代表チームのワールドチームヘッドコーチに選出された。
また、自身の母校であるクラッカマス・コミュニティ・カレッジでは、ボランティアのアシスタントコーチを務めている。ジョシュ・ローデンコーチとマット・リンドランドの指導のもと、同校のレスリングプログラムは近年大きく躍進し、NJCAAナショナル・トーナメントで上位入賞を果たすなど、目覚ましい成果を上げている。
6. 政治活動
2008年3月11日、マット・リンドランドは共和党の候補者として、オレゴン州下院第52選挙区の議員選挙に出馬することを届け出た。この議席は以前、共和党のパティ・スミスが務めていた。
同年5月20日の共和党予備選挙では、同じ共和党のフィリス・ティーマンを58%対42%で破り、本選挙に進出した。しかし、本選挙ではフッドリバー出身の民主党候補スザンヌ・ヴァンオーマンに48%対52%の得票率で敗れ、議席獲得には至らなかった。
7. その他の活動
リンドランドは、格闘技や政治活動以外にも多岐にわたる事業や社会活動を展開している。彼はアパレル会社「ダーティ・ボクサー(Dirty Boxer)」を設立したほか、オリンピック出場後には「USAオートホールセール」という中古車販売店も経営していた。
また、プロのラフティング選手としても活躍しており、これまでにウェスタン・ホワイトウォーター・シリーズ選手権で6度の優勝を飾るという実績を挙げている。さらに、世界中でセミナーや講演活動を行い、その経験や知識を広く共有している。彼の総合格闘技キャリアと政治への挑戦に焦点を当てたドキュメンタリー『Fighting Politics』も制作されている。
8. 私生活
マット・リンドランドは妻のアンジーと結婚しており、2人の子供、息子のビッグ・ジムと娘がいる。彼は公私ともに充実した生活を送っており、家族との時間を大切にしている。
9. 遺産と評価
マット・リンドランドは、レスリングと総合格闘技の両方で顕著な功績を残し、その競技人生は後世に大きな影響を与えている。特に、競技における粘り強さと、オリンピック出場を巡る法廷闘争で見せた揺るぎない信念は、多くの人々に記憶されている。
9.1. 殿堂入り
2013年10月、リンドランドはアイオワ州ウォータールーにあるダン・ゲイブル・レスリング博物館内のアラン&グロリア・ライス・グレコローマン殿堂に殿堂入りを果たした。さらに、2025年には全米レスリング殿堂の顕彰メンバーとしても選出される予定であり、その功績がレスリング界で高く評価されている。
9.2. その他の受賞と功績
リンドランドは、その総合格闘技キャリアにおいてもいくつかの賞を獲得している。彼はIFC 6トーナメントで優勝しており、またUFC.comの「2005年年間最優秀サブミッション」にトラヴィス・ルター戦でのギロチンチョークが8位に選出されている。日本の総合格闘技情報サイト「SHERDOG」では、2003年の彼の試合が「ファイト・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。
10. 出演作品
マット・リンドランドは、アスリートとしての活動に加え、複数の映画やテレビ番組に出演している。
- ドキュメンタリー映画『ファイト・ライフ』(2013年公開)
- ドキュメンタリー映画『Once I Was a Champion』(2011年公開)
- テレビシリーズ『レバレッジ』(2011年) - 総合格闘家役でゲスト出演
- HBOドラマ『OZ/オズ』 - 演技およびスタントを担当
- 映画『ニューヨーク・ミニット』 - 演技およびスタントを担当
11. 総合格闘技戦績
勝敗 | 戦績 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 | ラウンド | 時間 | 開催地 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
敗 | 22-9 | マメッド・ハリドヴ | テクニカルサブミッション (ギロチンチョーク) | KSW 16 | 2011年5月21日 | 1 | 1:35 | グダニスク, ポーランド | |
敗 | 22-8 | ロビー・ローラー | KO (パンチ) | Strikeforce: Henderson vs. Babalu II | 2010年12月4日 | 1 | 0:50 | ミズーリ州セントルイス, アメリカ合衆国 | |
勝 | 22-7 | ケビン・ケーシー | TKO (パウンド) | Strikeforce Challengers 8 | 2010年5月21日 | 3 | 3:41 | オレゴン州ポートランド, アメリカ合衆国 | |
敗 | 21-7 | ホナウド・ジャカレイ | サブミッション (肩固め) | Strikeforce: Evolution | 2009年12月19日 | 1 | 4:18 | カリフォルニア州サンノゼ, アメリカ合衆国 | |
敗 | 21-6 | ビクトー・ベウフォート | KO (パンチ) | Affliction: Day of Reckoning | 2009年1月24日 | 1 | 0:37 | カリフォルニア州アナハイム, アメリカ合衆国 | |
勝 | 21-5 | ファビオ・ナシメント | 判定 (3-0) | Affliction: Banned | 2008年7月19日 | 3 | 5:00 | カリフォルニア州アナハイム, アメリカ合衆国 | |
敗 | 20-5 | エメリヤーエンコ・ヒョードル | サブミッション (腕ひしぎ十字固め) | BodogFIGHT: Clash of the Nations | 2007年4月14日 | 1 | 2:58 | サンクトペテルブルク, ロシア | ヘビー級戦 |
勝 | 20-4 | カーロス・ニュートン | サブミッション (ギロチンチョーク) | IFL: Houston | 2007年2月2日 | 2 | 1:43 | テキサス州ヒューストン, アメリカ合衆国 | |
勝 | 19-4 | ジェレミー・ホーン | TKO (パンチ) | IFL: Portland | 2006年9月9日 | 2 | 0:21 | オレゴン州ポートランド, アメリカ合衆国 | |
敗 | 18-4 | クイントン・ジャクソン | 判定 (1-2) | WFA: King of the Streets | 2006年7月22日 | 3 | 5:00 | カリフォルニア州ロサンゼルス, アメリカ合衆国 | ライトヘビー級戦 |
勝 | 18-3 | マイク・ヴァン・アースデイル | サブミッション (ギロチンチョーク) | Raze MMA: Fight Night | 2006年4月29日 | 1 | 3:38 | カリフォルニア州サンディエゴ, アメリカ合衆国 | |
勝 | 17-3 | ファビオ・レオポルド | サブミッション (リアネイキッドチョーク) | GFC: Gracie vs. Hammer House | 2006年3月3日 | 3 | 3:25 | オハイオ州コロンバス, アメリカ合衆国 | |
勝 | 16-3 | ニーノ・シェンブリ | TKO (パンチ) | Cage Rage 14 | 2005年12月3日 | 3 | 3:33 | ロンドン, イングランド, イギリス | |
勝 | 15-3 | ジョー・ドークセン | 判定 (3-0) | UFC 54 | 2005年8月20日 | 3 | 5:00 | ネバダ州ラスベガス, アメリカ合衆国 | |
勝 | 14-3 | トラヴィス・ルター | サブミッション (ギロチンチョーク) | UFC 52 | 2005年4月16日 | 2 | 3:32 | ネバダ州ラスベガス, アメリカ合衆国 | |
勝 | 13-3 | ランドン・ショウォルター | サブミッション (腕ひしぎ十字固め) | Sportfight 8: Justice | 2005年1月8日 | 1 | 2:43 | オレゴン州グレシャム, アメリカ合衆国 | |
勝 | 12-3 | マーク・ウィアー | TKO (ドクターストップ) | Cage Rage 9 | 2004年11月27日 | 1 | 5:00 | ロンドン, イングランド, イギリス | |
敗 | 11-3 | デビッド・テレル | KO (パンチ) | UFC 49 | 2004年8月21日 | 1 | 0:24 | ネバダ州ラスベガス, アメリカ合衆国 | |
勝 | 11-2 | トニー・フリックランド | 判定 (3-0) | ROTR 5: Rumble on the Rock 5 | 2004年5月7日 | 3 | 5:00 | ハワイ州ホノルル, アメリカ合衆国 | |
勝 | 10-2 | ファラニコ・ヴァイタレ | TKO (パンチ) | UFC 45 | 2003年11月21日 | 3 | 4:23 | コネチカット州アンカスビル, アメリカ合衆国 | |
敗 | 9-2 | ファラニコ・ヴァイタレ | KO (バスター) | UFC 43 | 2003年6月6日 | 1 | 1:56 | ネバダ州ラスベガス, アメリカ合衆国 | |
勝 | 9-1 | フィル・バローニ | 判定 (3-0) | UFC 41 | 2003年2月28日 | 3 | 5:00 | ニュージャージー州アトランティックシティ, アメリカ合衆国 | |
勝 | 8-1 | アイヴァン・サラベリー | 判定 (3-0) | UFC 39 | 2002年9月27日 | 3 | 5:00 | コネチカット州アンカスビル, アメリカ合衆国 | |
敗 | 7-1 | ムリーロ・ブスタマンチ | サブミッション (ギロチンチョーク) | UFC 37 | 2002年5月10日 | 3 | 1:33 | ルイジアナ州ボージャーシティ, アメリカ合衆国 | UFC世界ミドル級タイトルマッチ |
勝 | 7-0 | パット・ミレティッチ | TKO (パンチ) | UFC 36 | 2002年3月22日 | 1 | 3:09 | ネバダ州ラスベガス, アメリカ合衆国 | |
勝 | 6-0 | フィル・バローニ | 判定 (2-0) | UFC 34 | 2001年11月2日 | 3 | 5:00 | ネバダ州ラスベガス, アメリカ合衆国 | |
勝 | 5-0 | ヒカルド・アルメイダ | 反則 (蹴り上げ) | UFC 31 | 2001年5月4日 | 3 | 4:21 | ニュージャージー州アトランティックシティ, アメリカ合衆国 | |
勝 | 4-0 | 安生洋二 | TKO (パンチ) | UFC 29 | 2000年12月16日 | 1 | 2:58 | 東京, 日本 | |
勝 | 3-0 | トラビス・フルトン | サブミッション (チョーク) | IFC 6: Battle at the Four Bears | 1997年9月20日 | 1 | 22:13 | ノースダコタ州ニュータウン, アメリカ合衆国 | IFC 6トーナメント決勝 |
勝 | 2-0 | マーク・ウォータース | TKO (パンチ) | IFC 6: Battle at the Four Bears | 1997年9月20日 | 1 | 2:20 | ノースダコタ州ニュータウン, アメリカ合衆国 | IFC 6トーナメント準決勝 |
勝 | 1-0 | カロ・ダヴティアン | TKO (パンチ) | World Fighting Federation | 1997年2月14日 | 1 | 8:34 | アラバマ州バーミングハム, アメリカ合衆国 |
12. レスリング及びグラップリングの主な功績
マット・リンドランドは、アマチュアレスリングとサブミッショングラップリングにおいて、以下の主要な功績を収めている。
- サブミッショングラップリング
- ADCC世界サブミッションレスリング選手権
- 勝利:岡見勇信
- 敗北:ホナウド・ジャカレイ、ファブリシオ・ヴェウドゥム(腕ひしぎ十字固め)
- ADCC世界サブミッションレスリング選手権
- フォークスタイルレスリング
- NJCAAカレッジ選手権 72 kg (158 lb)級:1位(1991年)
- NCAAディビジョン1トーナメント 74 kg (163 lb)級:第1シード(1993年、入賞なし)
- フリースタイルレスリング
- USA大学フリースタイル選手権
- 74 kg (163 lb)級:1位(1992年)
- 74 kg (163 lb)級:1位(1994年)
- パンアメリカン選手権:金メダル(1994年メキシコシティ、74 kg級)
- USA大学フリースタイル選手権
- グレコローマンレスリング
- USAシニア・グレコローマン選手権
- 74 kg (163 lb)級:1位(1995年)
- 76 kg (167.5 lb)級:1位(1998年)
- 76 kg (167.5 lb)級:1位(1999年)
- 76 kg (167.5 lb)級:1位(2000年)
- 85 kg (187.2 lb)級:1位(2001年)
- FILA世界選手権
- 76 kg (167 lb)級:6位(1998年)
- 85 kg (187 lb)級:2位(2001年)
- 米国オリンピック選考会
- 76 kg (167.5 lb)級:銀メダル(2000年)
- オリンピック:銀メダル(2000年シドニー、76 kg級)
- パンアメリカン選手権
- 銀メダル(1997年サンフアン、76 kg級)
- 金メダル(1999年ウィニペグ、76 kg級)
- 金メダル(2000年カリ、76 kg級)
- USAシニア・グレコローマン選手権