1. 概要
マトヴェイ・ゲンリホヴィッチ・マニザー(Матвей Генрихович Манизерマトヴェイ・ゲンリホヴィッチ・マニザーロシア語、1891年3月17日 - 1966年12月20日)は、20世紀ロシアを代表する著名な彫刻家である。彼は、ソビエト芸術の主要な潮流であった社会主義リアリズムの古典的作品を数多く生み出し、その分野の確立と普及に大きく貢献した。学術的かつ写実的な作風で知られ、特にレーニン像をはじめとするソビエト連邦各地の記念碑や彫刻を手がけ、ソ連美術界の要職を歴任した。その作品は、ソビエト国内外における文化外交の一環としても重要な役割を果たした。
2. 生涯と経歴
マトヴェイ・ゲンリホヴィッチ・マニザーは、19世紀末から20世紀半ばにかけてソビエト美術界で活躍した彫刻家であり、その生涯はロシア革命後のソビエト連邦の歴史と深く結びついている。
2.1. 初期と教育
マニザーは1891年3月17日、サンクトペテルブルクで生まれた。父ゲンリヒ・マニザー(Генрих Манизерゲンリヒ・マニザーロシア語、Heinrich Maniserハインリヒ・マニザードイツ語)は、リトアニアのメーメル出身のバルト・ドイツ人系の著名な芸術家であった。マニザーは父の影響を受け、幼少期から芸術への関心を示した。
彼は1911年から1916年にかけて、サンクトペテルブルク国立芸術産業アカデミーと、ペレドヴィージュニキ美術学校で専門的な芸術教育を受けた。これらの教育機関で培われた学術的かつ写実的な描写力は、彼の後の作品スタイルに大きな影響を与えた。
2.2. 芸術活動と所属
マニザーの初期の芸術活動は、ロシア革命直後の激動の時代に始まった。1926年からは、革命的ロシア芸術家協会(AKhRR)の会員として活動し、社会主義国家の建設という新たなイデオロギーに基づいた芸術表現を追求した。この協会は、社会主義リアリズムの発展において中心的な役割を果たした組織であり、マニザーもその一員として新体制を賛美する作品を多く制作した。
1941年にはモスクワへ移住し、以降はモスクワを拠点に活動を展開した。彼の作品は、ソビエト連邦各地に設置される公共記念碑として広く認知されるようになった。
2.3. 主要な役職と受賞歴
マニザーはソビエト美術界において極めて重要な地位を占め、数多くの役職を歴任した。1937年から1941年までサンクトペテルブルク芸術家連盟の会長を務めた後、1947年にはソ連芸術アカデミーの会員となり、同年から1966年の死去までソ連芸術アカデミー副会長という要職にあった。
彼の功績は国家によって高く評価され、1958年にはソビエト連邦の最高栄誉の一つである「ソ連人民芸術家」の称号を授与された。また、ソビエト連邦国家賞(スターリン賞)を3度も受賞しており、そのうち1941年のウリヤノフスクのレーニン記念碑で二等スターリン賞、1943年のモスクワ地下鉄パルチザンスカヤ駅に設置された彫刻で一等スターリン賞、1950年のリャザンのイワン・パブロフ記念碑で再び二等スターリン賞を受賞している。これらの受賞は、彼がソビエト国家にとって極めて重要な芸術家であったことを示している。
3. 主要な彫刻作品
マトヴェイ・ゲンリホヴィッチ・マニザーは、その生涯でソビエト連邦内外に数多くの記念碑や彫刻作品を残した。彼の作品は、学術的かつ写実的なスタイルを特徴とし、社会主義リアリズムの規範を具現化したものとして評価されている。
3.1. ロシアおよびソ連内の記念碑
マニザーの作品の多くは、旧ソビエト連邦の都市に設置され、その中には特にレーニンを描いた作品が約12点含まれている。
主な作品は以下の通りである。
- V・ヴォロダルスキー記念碑(レニングラード、オブホフスコイ・オボロニ通り、1925年):ソビエトの政治家V・ヴォロダルスキーを記念して制作された。
- 1905年1月9日の犠牲者記念碑(サンクトペテルブルク、フルンゼンスキー地区、1932年):1905年の血の日曜日事件の犠牲者を追悼する作品。
- ヴァシリー・チャパエフ記念碑(サマーラ、1932年):赤軍の指揮官ヴァシリー・チャパエフを記念する、複数の人物と騎馬の彫刻群。この作品の別バージョンが1933年に制作され、1968年にレニングラード(現サンクトペテルブルク)に設置された。
- レーニン記念碑(ミンスク、1933年)。
- タラス・シェフチェンコ記念碑(ハルキウ、ウクライナ、1935年):ウクライナの詩人でヒューマニストのタラス・シェフチェンコを記念する、複数の人物からなる彫刻群。
- モスクワ地下鉄の革命広場駅の80体のブロンズ像(1938年):ソビエト市民の多様な姿を描いた作品。
- ヴァレリアン・クイビシェフ記念碑(サマーラ、1938年)。
- タラス・シェフチェンコの墓地の記念碑(キーウ、ウクライナ、1938年)。
- レーニン記念碑(ウリヤノフスク、1941年):この作品で二等スターリン賞を受賞した。
- モスクワ地下鉄パルチザンスカヤ駅のブロンズ彫刻(1943年):ソ連邦英雄であるマトヴェイ・クズミンとゾーヤ・コスモデミヤンスカヤを描いた作品で、一等スターリン賞を受賞した。
- モスクワ地下鉄エレクトロザヴォーツカヤ駅の地下鉄建設者記念碑(1944年)。
- アレクサンドル・ポクルィシュキンの胸像(ノヴォシビルスク、1949年):ソ連邦英雄を2度受賞したアレクサンドル・ポクルィシュキンを記念する作品。
- イワン・パブロフ記念碑(リャザン、1950年):この作品で二等スターリン賞を受賞した。
- ルジニキ・スタジアム外のレーニン記念碑(1960年):1940年のウリヤノフスクのレーニン記念碑のバージョンで、ブリュッセルのエキスポ58のために制作され、1960年に中央レーニンスタジアム(現ルジニキ・スタジアム)の外に設置された。
- イリヤ・レーピン記念碑(モスクワ、ボロトナヤ広場、1958年):画家イリヤ・レーピンを記念する作品。
3.2. ソ連国外の作品
マニザーの作品は、ソビエト連邦の国境を越え、国際的な舞台にもその存在感を示した。特に著名なものとして、インドネシアのジャカルタに設置された彫刻が挙げられる。
- 英雄記念碑(パトゥン・パフラワン、インドネシア・ジャカルタ、1963年):インドネシア独立のために戦った人々を記念する作品である。この記念碑は、当時のソ連とインドネシアの緊密な関係を象徴するものであり、両国間の友好と協力の印として制作された。この彫刻は、単なる芸術作品に留まらず、冷戦期におけるソ連の文化外交の一環として、その象徴的な意味合いが強調されている。
4. 芸術スタイルと哲学
マトヴェイ・ゲンリホヴィッチ・マニザーの芸術スタイルは、彼の教育背景と時代精神を色濃く反映している。彼は、アカデミック・アートと写実主義の原則に厳密に従って制作を行った。
彼の作品は、高い技術力と解剖学に基づいた正確な描写、そして対象の感情や精神を深く捉える能力によって特徴づけられる。これは、彼が学んだペレドヴィージュニキの芸術学校の伝統、すなわち社会批判と写実的な表現を重視する姿勢を受け継いだものでもある。
マニザーは、社会主義リアリズムの確立された規範に従い、ソビエト国家のイデオロギーを具現化する役割を担った。彼の彫刻作品は、理想化された労働者、兵士、指導者などを通じて、ソビエト社会の進歩、英雄主義、そして共産主義の理想を描き出した。彼は、芸術が社会の発展に貢献すべきであるという信念のもと、力強く、そして感動的な表現を追求した。彼の作品は、プロパガンダ的要素を含みつつも、その芸術的完成度と表現力によって、社会主義リアリズムの古典として高く評価されることとなった。
5. 私生活
マトヴェイ・ゲンリホヴィッチ・マニザーの私生活については、芸術家としての活動と密接に関連していることが知られている。
彼の妻であるエレナ・ヤンソン=マニザー(1890年 - 1971年)もまた彫刻家であり、モスクワ地下鉄ディナモ駅に彼女の作品が設置されている。夫婦ともに彫刻芸術に携わり、互いの創作活動を支え合ったと推測される。
息子であるグーゴ・マニザー(1927年 - 2016年)は著名な画家として知られており、親子二代にわたって芸術の道を歩んだ。
また、マニザーの教え子の中には、スターリン賞を受賞した彫刻家フアド・アブドゥラフマノフがいたことが記録されており、彼が後進の育成にも貢献したことがうかがえる。
6. 死去
マトヴェイ・ゲンリホヴィッチ・マニザーは、1966年12月20日に死去した。彼は、ソビエト連邦の著名な芸術家や政治家が埋葬される場所として知られるモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。
7. 遺産と影響
マトヴェイ・ゲンリホヴィッチ・マニザーは、ソビエト連邦の芸術史において重要な足跡を残し、その作品は後世に大きな影響を与えた。
7.1. 歴史的評価
マニザーは、ソビエト連邦時代を代表する彫刻家の一人として、その芸術的貢献は高く評価されている。彼の作品は、国家のイデオロギーを具現化するという役割を担いながらも、その表現力と技術的な完成度において芸術的価値を確立した。特に、レーニン像など、ソビエト社会主義国家の象徴となる記念碑を数多く手がけたことは、彼の歴史的な位置づけを不動のものとしている。彼の作風は、当時のソビエト美術の主流である社会主義リアリズムの規範を忠実に反映しており、その発展に寄与した芸術家として記憶されている。
7.2. 社会主義リアリズムへの影響
マニザーの彫刻作品は、社会主義リアリズムの古典として広く認識されている。彼の作品は、理想化された英雄像や労働者、農民の姿を通じて、ソビエト国家が目指すユートピア像を視覚的に表現した。彼の写実的でありながらも、力強さと壮大さを兼ね備えたスタイルは、社会主義リアリズムの典型的な特徴を確立し、多くの後続の芸術家に影響を与えた。彼の作品は、この芸術運動の象徴的な存在となり、その美学的原則と表現手法の模範とされた。
7.3. 国際的な影響と象徴性
マニザーの作品は、ソビエト連邦国内に留まらず、国際的な影響力も持っていた。特に、インドネシアのジャカルタに設置された英雄記念碑(パトゥン・パフラワン)は、彼の国際的な影響力を示す好例である。1963年に建立されたこの記念碑は、インドネシア独立戦争の英雄たちを称えるものであり、当時のソ連とインドネシアの親密な外交関係を象徴するものであった。この作品は、冷戦期におけるソ連の文化外交の一環として、新興独立国との連帯を示す重要なシンボルとなり、マニザーの芸術が国境を越えて政治的・文化的な意味合いを持ったことを示している。この記念碑は、両国の友好関係の構築に寄与し、ソビエト芸術の国際的な普及にも貢献した。
8. 外部リンク
- [http://www.encspb.ru/en/article.php?kod=2804029999 サンクトペテルブルク百科事典における経歴(英語)]
- [http://www.artonline.ru/encyclopedia/387 経歴(ロシア語)]