1. 生い立ちと教育
マーク・ロブソンは1913年12月4日、カナダのケベック州モントリオールで生まれた。モントリオール市内のロスリン小学校とウェストマウント高校で学んだ後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)とパシフィック・コースト大学ロースクールで高等教育を受けた。
学業を終えた後、ロブソンは20世紀フォックスの小道具部門で職を得た。その後、RKOピクチャーズに移り、そこで映画編集者としての訓練を始めた。
2. 経歴
ロブソンは映画編集者としてハリウッドでのキャリアをスタートさせ、その後、監督、プロデューサーとしても成功を収めた。彼のキャリアは、特にホラー映画のジャンルでプロデューサーのヴァル・リュートンとの協業によって大きく発展した。
2.1. 編集技師として
1940年、ロブソンはオーソン・ウェルズの映画デビュー作である『市民ケーン』の編集で、ロバート・ワイズのアシスタントを務めた(クレジットなし)。彼とワイズは、ウェルズの次の作品である『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942年)(The Magnificent Ambersons偉大なるアンバーソン家の人々英語)の編集も担当したが、ウェルズが不満を抱くほど大幅なカットを行った。
その後、ロブソンはRKOのB級映画『ファルコンの兄弟』(1942年)(The Falcon's Brotherファルコンの兄弟英語)で編集者に昇格した。続いて、オーソン・ウェルズの会社が製作した『恐怖への旅』(1943年)(Journey into Fear恐怖への旅英語)の編集も手掛けたが、この作品の編集もウェルズの関与なしで行われた。
2.2. ヴァル・リュートンとの仕事
ロブソンとロバート・ワイズは、プロデューサー兼脚本家のヴァル・リュートンとの仕事を通じて大きな恩恵を受けた。リュートンはRKOで一連の低予算ホラー映画を監修しており、これらの作品は後に伝説的なものとなった。最初の作品はジャック・ターナーが監督した『キャット・ピープル』(1942年)(Cat Peopleキャット・ピープル英語)である。ロブソンはリュートンがプロデュースし、ターナーが監督した次の2作品、『私はゾンビと歩いた』(1943年)(I Walked with a Zombie私はゾンビと歩いた英語)と『豹の眼』(1943年)(The Leopard Man豹の眼英語)の編集を担当した。
リュートンはロブソンの仕事に感銘を受け、彼を『第七の犠牲者』(1943年)(The Seventh Victim第七の犠牲者英語)で監督に昇格させた。リュートンはその結果を気に入り、ロブソンは続いて『ゴースト・シップ』(1943年)(The Ghost Shipゴースト・シップ英語)も監督した。リュートンはロバート・ワイズにも『キャット・ピープルの呪い』(1944年)(The Curse of the Cat Peopleキャット・ピープルの呪い英語)で初の監督の機会を与えている。
リュートンはホラー以外のジャンルも手掛けたいと考えており、RKOは彼に少年非行をテーマにした『青春は危険がいっぱい』(1944年)(Youth Runs Wild青春は危険がいっぱい英語)の製作を許可した。この作品をロブソンが監督したが、商業的には成功しなかった。より人気を博したのは、ボリス・カーロフ主演の『吸血鬼ボボラカ』(1945年)(Isle of the Dead吸血鬼ボボラカ英語)である。リュートン、カーロフ、ロブソンは『恐怖の精神病院』(1946年)(Bedlam恐怖の精神病院英語)で再びタッグを組んだが、この作品は興行的に失敗し、リュートンがプロデュースする最後のホラー映画となった。
2.3. 監督として
RKOでの成功により、ロブソンは主要な映画プロジェクトに携わるようになった。1949年には、スタンリー・クレイマーがプロデュースしたフィルム・ノワール『チャンピオン』(Championチャンピオン英語)の監督で、全米監督協会賞(DGA賞)の監督賞にノミネートされた。ロブソンはクレイマーのために、人種差別問題を扱った初期の映画の一つである『勇者の家』(1949年)(Home of the Brave勇者の家英語)も監督している。
次に、ロブソンはRKOで西部劇『渓谷の銃声』(1949年)(Roughshod渓谷の銃声英語)を、プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンのためにメロドラマ『愚かなり我が心』(1949年)(My Foolish Heart愚かなり我が心英語)を監督した。ゴールドウィンはその後もロブソンを『恐怖の一夜』(1950年)(Edge of Doom恐怖の一夜英語)や『我が心の呼ぶ声』(1951年)(I Want You我が心の呼ぶ声英語)に起用したが、ロブソンは後にゴールドウィンとの時期を「キャリアの中で最悪の時期の一つ」と評している。
ユニバーサル・ピクチャーズでは『輝かしき勝利』(1951年)(Bright Victory輝かしき勝利英語)を製作した。ロブソンは一時的にヴァル・リュートンとロバート・ワイズと提携して映画・テレビ製作を行ったが、数ヶ月後には病身のリュートンを理由なく解雇した。ロブソンとワイズはゲイリー・クーパー主演の『楽園に帰る』(1953年)(Return to Paradise楽園に帰る英語)を製作した。ウォーウィック・フィルムズでは、アラン・ラッド主演の『零下の地獄』(1954年)(Hell Below Zero零下の地獄英語)を監督した。コロンビア ピクチャーズでコメディ映画『プフフット』(1954年)(Phffftプフフット英語)を製作した後、『トコリの橋』(1954年)(The Bridges at Toko-Riトコリの橋英語)でキャリア最大のヒットの一つを飛ばした。この作品で彼は再びDGA賞にノミネートされた。ウォーウィック・フィルムズは彼を『黄金の賞品』(1955年)(A Prize of Gold黄金の賞品英語)で再び起用した。彼はメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)に移り、『アメリカの戦慄』(1955年)(Trialアメリカの戦慄英語)を製作した。彼のボクシング映画『殴られる男』(1956年)(The Harder They Fall殴られる男英語)は、バッド・シュールバーグの小説を原作としている。
MGMで製作された『潮風のいたづら』(1957年)(The Little Hut潮風のいたづら英語)は大ヒットとなった。さらに大きな成功を収めたのが、20世紀フォックスでの『青春物語』(1957年)(Peyton Place青春物語英語)である。ロブソンはこの作品でアカデミー監督賞にノミネートされた。翌年にはイングリッド・バーグマン主演の『六番目の幸福』の監督で再びアカデミー監督賞にノミネートされた。これらの作品で、彼は3度目と4度目の全米監督協会賞にもノミネートされている。

2.4. プロデューサーとして
ロブソンはポール・ニューマン主演の『孤独な関係』(1960年)(From the Terrace孤独な関係英語)をプロデュースし、監督も務めた。彼は『脱走』(1962年)(The Inspector脱走英語)をプロデュースし、さらに『暗殺5時12分』(1963年)(Nine Hours to Rama暗殺5時12分英語)でもプロデュースと監督を兼任した。この映画を完成させた後、ロブソンは5年間所属したフォックスを離れた。
ロブソンとニューマンはMGMの『逆転』(1963年)(The Prize逆転英語)で再会し、この作品もヒットした。フランク・シナトラ主演の『脱走特急』(1965年)(Von Ryan's Express脱走特急英語)もフォックスでのヒット作である。
ロブソンはフランス外人部隊を題材とした『名誉と栄光のためでなく』(1966年)(Lost Command名誉と栄光のためでなく英語)をプロデュースし、監督も務めた。1967年には『哀愁の花びら』(Valley of the Dolls哀愁の花びら英語)を監督した。この作品は批評家からは酷評されたものの、興行収入では成功を収めた。
2.5. 後期の作品活動
ロブソンはキャリア後半に商業的に期待外れな作品をいくつか製作した。『屋根の上の赤ちゃん』(1969年)(Daddy's Gone A-Hunting屋根の上の赤ちゃん英語)、『ハッピー・バースデイ、ワンダ・ジューン』(1971年)(Happy Birthday, Wanda Juneハッピー・バースデイ、ワンダ・ジューン英語)、『雨の日にふたたび』(1972年)(Limbo雨の日にふたたび英語)などである。1974年には、音響システム「センサラウンド」を導入した映画『大地震』(Earthquake大地震英語)を監督した。
3. 私生活
ロブソンは1936年にサラ・ナオミ・リスキンドと結婚し、1978年に死去するまで連れ添った。夫妻には3人の子供がいた。
4. 受賞歴と評価
マーク・ロブソンは、その映画キャリアにおいて数々の栄誉に輝いた。
- アカデミー監督賞ノミネート:2回(『青春物語』、『六番目の幸福』)
- 全米監督協会賞(DGA賞)監督賞ノミネート:4回
- カンヌ国際映画祭 パルム・ドールノミネート:2回
- ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム:1960年に映画産業への貢献を称えられ、ヴァイン・ストリート1722番地に星が刻まれた。
5. 死去
マーク・ロブソンは1978年6月20日、ロンドンで心臓発作のため死去した。64歳没。彼は最晩年に『アバランチエクスプレス』(Avalanche Expressアバランチエクスプレス英語)の監督を終えたばかりであった。この映画は彼の死から1年後の1979年に公開された。彼の遺体はロサンゼルスのマウント・サイナイ記念公園墓地に埋葬されている。
6. フィルモグラフィー
6.1. 編集作品
- 『市民ケーン』 (Citizen Kane市民ケーン英語)(1941年) - アシスタント編集(クレジットなし)
- 『偉大なるアンバーソン家の人々』 (The Magnificent Ambersons偉大なるアンバーソン家の人々英語)(1942年) - アシスタント編集(クレジットなし)
- Mail Troubleメール・トラブル英語(1942年)
- 『ファルコンの兄弟』 (The Falcon's Brotherファルコンの兄弟英語)(1942年)
- 『キャット・ピープル』 (Cat Peopleキャット・ピープル英語)(1942年)
- 『恐怖への旅』 (Journey into Fear恐怖への旅英語)(1943年)
- 『私はゾンビと歩いた』 (I Walked with a Zombie私はゾンビと歩いた英語)(1943年)
- 『豹の眼』 (The Leopard Man豹の眼英語)(1943年)
6.2. 監督作品
- 『第七の犠牲者』 (The Seventh Victim第七の犠牲者英語)(1943年)
- 『ゴースト・シップ』 (The Ghost Shipゴースト・シップ英語)(1943年)
- 『青春は危険がいっぱい』 (Youth Runs Wild青春は危険がいっぱい英語)(1944年)
- 『吸血鬼ボボラカ』 (Isle of the Dead吸血鬼ボボラカ英語)(1945年)
- 『恐怖の精神病院』 (Bedlam恐怖の精神病院英語)(1946年) - 脚本も担当
- 『チャンピオン』 (Championチャンピオン英語)(1949年)
- 『渓谷の銃声』 (Roughshod渓谷の銃声英語)(1949年)
- 『勇者の家』 (Home of the Brave勇者の家英語)(1949年)
- 『愚かなり我が心』 (My Foolish Heart愚かなり我が心英語)(1949年)
- 『恐怖の一夜』 (Edge of Doom恐怖の一夜英語)(1950年)
- 『輝かしき勝利』 (Bright Victory輝かしき勝利英語)(1951年)
- 『我が心の呼ぶ声』 (I Want You我が心の呼ぶ声英語)(1951年)
- 『楽園に帰る』 (Return to Paradise楽園に帰る英語)(1953年) - プロデューサーも兼任
- 『零下の地獄』 (Hell Below Zero零下の地獄英語)(1954年)
- 『プフフット』 (Phffftプフフット英語)(1954年)
- 『トコリの橋』 (The Bridges at Toko-Riトコリの橋英語)(1955年)
- 『黄金の賞品』 (A Prize of Gold黄金の賞品英語)(1955年)
- 『アメリカの戦慄』 (Trialアメリカの戦慄英語)(1955年)
- 『殴られる男』 (The Harder They Fall殴られる男英語)(1956年)
- 『潮風のいたづら』 (The Little Hut潮風のいたづら英語)(1957年) - プロデューサーも兼任
- 『青春物語』 (Peyton Place青春物語英語)(1957年)
- 『六番目の幸福』 (The Inn of the Sixth Happiness六番目の幸福英語)(1958年)
- 『孤独な関係』 (From the Terrace孤独な関係英語)(1960年) - プロデューサーも兼任
- 『脱走』 (The Inspector脱走英語)(1962年) - プロデューサーのみ
- 『暗殺5時12分』 (Nine Hours to Rama暗殺5時12分英語)(1963年) - プロデューサーも兼任
- 『逆転』 (The Prize逆転英語)(1963年)
- 『脱走特急』 (Von Ryan's Express脱走特急英語)(1965年)
- 『名誉と栄光のためでなく』 (Lost Command名誉と栄光のためでなく英語)(1966年) - プロデューサーも兼任
- 『哀愁の花びら』 (Valley of the Dolls哀愁の花びら英語)(1967年) - プロデューサーも兼任
- 『屋根の上の赤ちゃん』 (Daddy's Gone A-Hunting屋根の上の赤ちゃん英語)(1969年) - プロデューサーも兼任
- 『ハッピー・バースデイ、ワンダ・ジューン』 (Happy Birthday, Wanda Juneハッピー・バースデイ、ワンダ・ジューン英語)(1971年) - プロデューサーも兼任
- 『雨の日にふたたび』 (Limbo雨の日にふたたび英語)(1972年)
- 『大地震』 (Earthquake大地震英語)(1974年) - プロデューサーも兼任
- 『アバランチエクスプレス』 (Avalanche Expressアバランチエクスプレス英語)(1979年) - プロデューサーも兼任