1. 生涯
ヤン・コハノフスキの生涯は、広範な学業とヨーロッパ各地への旅、その後の王室での奉仕、そして晩年の地主としての生活を通じて、彼の文学的才能が開花する過程であった。
1.1. 幼少期と教育
ヤン・コハノフスキの幼少期は、ポーランド王国の貴族家庭に生まれ、その後の広範な学業とヨーロッパ各地への旅によって形成された。
1.1.1. 出生と家族
ヤン・コハノフスキは1530年、ポーランド王国のラドム近郊にあるシツィナで、コルヴィンの紋章を持つポーランドのシュラフタ(貴族)階級の家庭に生まれた。正確な生年月日は不明だが、ズヴォレンにある彼の墓碑に1584年8月22日に54歳で没したと記されていることから、1530年生まれが最も確実とされている。しかし、1612年の伝記では1532年生まれとされ、スタニスワフ・ニェゴシェフスキの1584年の作品では没年が42歳と公表されており、諸説ある。
父はサンドミェシュ地方の裁判官を務めたピョトル・コハノフスキで、そこそこ裕福な地主であった。母はオドロヴォンシュ家のアンナ・ビャワチョフスカである。ヤンは11人兄弟の次男であり、弟のアンジェイ・コハノフスキとミコワイ・コハノフスキも詩人や翻訳家として知られている。父ピョトルは1547年に死去した。コハノフスキ家は高い知的水準を誇り、ヤンだけでなく弟たちも文学に傾倒した点で、近隣のシュラフタ階級とは一線を画していた。
1.1.2. 教育と海外留学
ヤン・コハノフスキの初期教育についてはあまり知られていない。14歳であった1544年にヤギェウォ大学(クラクフ)に入学し、新入生名簿に彼の名前が記されている。しかし、1547年には学位を取得することなく大学を去ったと推測されており、これは1547年の伝染病による講義延期や父親の健康状態の悪化が原因と考えられている。
1547年から1550年の間は、ドイツの大学で学んでいたか、大貴族の邸宅に滞在していたとみられる。1551年から1552年にかけては、プロイセン公国のケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)にあるアルベルトゥス大学で学んだ。この時期の唯一の証拠は、小セネカの「悲劇集」の版本に残された彼の2箇所の書き込みである。その一つは、友人スタニスワフ・グジェプスキへのラテン語の四行詩の献呈文で、1552年4月9日付で署名されている。この版本は現在ワルシャワの国民図書館に所蔵されている。
1552年にはイタリアのパドヴァ大学に到着し、学生名簿にも彼の名前が残っている。当初は学芸学部で学び、1554年7月にはポーランドの大学合同の相談役を務めた。古典文献学を学び、人文主義者フランチェスコ・ロボルテッロと交流した。この「パドヴァ時代」には、資金調達や母親の葬儀のため、イタリアとポーランドの間を少なくとも2度往復した。財政的な問題から学業を中断し、メセナを探す必要があったためである。
1555年から1556年にかけては再びケーニヒスベルクに戻り、プロイセン公アルブレヒト・ホーエンツォレルンの屋敷に滞在した。アルブレヒトはヤギェウォ家の血筋であり、ポーランドの詩人の有力な庇護者であった。1556年には50 グジヴィエン(約10 kg相当)の報酬を受け取っている。眼病の進行を理由にイタリアへの再渡航を望む手紙も残されており、アルブレヒトはこれに同意し、さらに50 グジヴィエンを餞別として贈った。
旅費の追加援助を得るため、コハノフスキはケーニヒスベルクから実家に戻り、1556年7月16日には遠縁のミコワイ・コハノフスキから両親の土地を担保に70 ポーランド・フローレンを借り入れた。さらに1557年3月11日には弟ピョトルからの100 ハンガリー・ドゥカーテンの借用証書を裁判所に提出している。
イタリア旅行へはピョトル・クウォチョフスキと同行し、パドヴァ近郊のアーバノ・テルメを訪れたとみられる。このイタリア滞在は1557年2月まで続き、母親の死の知らせを受けて実家に戻った。
詩人の最後のイタリア旅行は1558年の冬で、その年の終わり頃にフランスへ出発した。フランスへの旅行の唯一の証拠は、彼が書いた手紙形式のエレジーであり、詩人がマルセイユとパリに滞在し、アキテーヌ地方を訪れたこと、そしてロワール川、ローヌ川、セーヌ川を見たことが示唆されている。このフランス旅行では、フラマンの人文主義者カレル・ウテンホーフェが同行した可能性がある。また、この時期に詩人ピエール・ド・ロンスールと出会っている。1559年5月までにポーランドに帰国し、以後永住した。


1.2. 王室での奉仕とキャリア
ポーランド帰国後、ヤン・コハノフスキは宮廷に仕え、王室秘書官として重要な政治的出来事に関与し、教会聖職も務めた。
1.2.1. ポーランドへの帰国と宮廷生活
1559年、ヤン・コハノフスキはポーランドに永住帰国し、人文主義者およびルネサンス詩人として活動を開始した。帰国後の最初の数年間、特に1559年から1563年までの期間については記録が少ないものの、彼はその後15年間を宮廷人として過ごした。この時期に、ヤン・タルノフスキ(クラクフ県知事)やラジヴィウ家といった有力貴族、テンチンスキ家、カルヴァン派の活動家であるヤン・フィルレイ、クラクフ司教フィリプ・パドニェフスキなどの邸宅に滞在し、彼らとの関係を深めていったと推測される。
1.2.2. 王室秘書官としての活動
1563年末から1564年初め頃、ヤン・コハノフスキはポーランド王ジグムント2世アウグストの宮廷に仕え、王室秘書官としての職務に就いた。これは副大法官兼司教であるピョトル・ミシュコフスキの支援によるものであった。彼は1572年までジグムント2世の宮廷に仕え、その間、王に随行して数々の重要な出来事に参加した。
リヴォニア戦争の一部であるリトアニア・モスクワ戦争中には、1567年にラダシュコヴィツィ(ミンスク近郊)でのロシアに対する武装示威行動に王と共に参加し、1568年のモスクワ遠征の準備にも大きく貢献した。1569年にはルブリンで開催されたセイム(議会)に立ち会い、ルブリン合同が制定されポーランド・リトアニア共和国が正式に成立する歴史的瞬間に居合わせた。この重要な出来事、特にプロイセン公アルブレヒト・フリードリヒがジグムント2世に臣従の誓約を行ったことを、コハノフスキは詩「小旗、あるいはプロシアの誓い(Proporzec albo Hołd Pruskiポーランド語)」で綴っている。

ジグムント2世の死後、コハノフスキはフランス王アンリ・ド・ヴァロワのポーランド王位立候補を支持し(1573年の選挙で記名)、1574年のヴァヴェル大聖堂での戴冠式にも参列した。しかし、アンリ3世がポーランドから逃亡した後、彼は宮廷での生活を終えた。その後、ステファン・バートリを支持したものの、再び宮廷に戻ることはなかった。彼は選挙議会に参加し、王室書記官ヤン・ザモイスキの恩恵を受けた。この時期の王による戦争は、いくつかの勝利の頌歌や、クシシュトフ・ラジヴィウ・ピョルン公のロシア深部への大胆な遠征を記述した長詩「モスクワ旅行誌(Jezda do Moskwyポーランド語)」にも影響を与えている。
1.2.3. 教会聖職と公職
コハノフスキは、ピョトル・ミシュコフスキの支援により、いくつかの教会聖職(教区からの収入)を得た。1564年2月7日には、ミシュコフスキが辞任したポズナン大聖堂の参事会員に任命され、キチン教区やズヴォレンの司祭館といった聖職も手に入れた。また、1579年10月9日には、ポーランド王ステファン・バートリによってサンドミェシュの旗手(標準旗を保持する公職)に任命された。
1.3. チャルノラスでの晩年と私生活
晩年、ヤン・コハノフスキはチャルノラスの領地に定住し、結婚して家庭を築き、地主としての生活を送る中で、文学創作に専念した。
1.3.1. 結婚と家庭
1571年以降、コハノフスキはルブリン近郊にある家族の領地、チャルノラス村で過ごす時間を増やし始めた。1574年、彼がポーランド王位候補として支持したアンリ・ド・ヴァロワがポーランドから逃亡した後、コハノフスキは永住をチャルノラスに定め、地方の地主としての生活を送ることを決意した。
1575年または1576年に、スタニスワフ・ルパ・ポドロドフスキの娘であるドロタ・ポドロドフスカと結婚した。彼女との間に7人の子供をもうけ、そのうち6人が娘、1人が息子であった。チャルノラスでの生活の中で、愛娘ウルシュラの死は彼に深い悲しみを与え、その悲痛な経験が彼の最も記憶される作品の一つである「悲歌集」(Trenyポーランド語)の創作へと繋がった。
1.3.2. 地主としての生活
チャルノラスに定住したコハノフスキは、地主としての生活を送った。1575年7月にはステンジツァのシュラフタ大会に参加し、新君主の選出について討議した。同年11月にはワルシャワでの選挙議会に出席し、ハプスブルク家のマクシミリアン2世をポーランド王位に推す演説を行った。

1576年には、オパトゥフの地方議会(sejmikポーランド語)に王室の使節として参加した。ヤン・ザモイスキを含む周囲の人々からの要請にもかかわらず、彼は宮廷の政治生活に積極的に関与しないことを選択したが、地方レベルでは社会的に活動的であり、自身の県都であるサンドミェシュを頻繁に訪れていた。
2. 主要作品
ヤン・コハノフスキは、ラテン語とポーランド語の両方で多岐にわたる文学作品を創作し、特にポーランド語詩においては近代ポーランド文学の基礎を築いた。
2.1. 初期作品とラテン語詩
ヤン・コハノフスキの現存する最古の作品は、おそらく1550年に書かれたポーランド語の「大洪水に関する歌(Pieśń o potopieポーランド語)」である。彼の最初の出版作品は、1558年に発表されたラテン語の「クレトコフスキの墓碑銘(Epitaphium Cretcoviiラテン語)」で、亡くなった同僚エラズム・クレトコフスキに捧げられた墓碑銘である。若き日のパドヴァ時代に書かれた作品群は、主にエレジー、エピグラム、頌歌で構成されている。また、ポーランド語の「スザンナ(Zuzannaポーランド語)」(1562年)も初期の重要作品である。
2.2. 《フラシュキ》(Fraszki, Epigrams)
「フラシュキ」(Fraszkiポーランド語、エピグラム集)は、1560年代から1570年代にかけて書かれた294編の短詩からなる詩集で、1584年に3巻で出版された。この作品はコハノフスキの最も人気のある著作となり、ポーランドで多くの模倣者を生み出した。ジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』を彷彿とさせると評されることもある。1980年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの詩人チェスワフ・ミウォシュは、「フラシュキ」を「非常に個人的な日記のようなものだが、著者の個性が前面に出ることはない」と評している。
2.3. 《トレニ》(Treny, Laments)

「悲歌集」(Trenyポーランド語、ラメンツ)は、ヤン・コハノフスキの最もよく知られた作品の一つであり、愛娘ウルシュラ(2歳半で死去)を悼んで書かれた19編のエレジー(悲歌)からなる連作である。1579年に書かれ、1580年に出版されたこの作品は、子を失った父の深い悲しみと絶望の言葉を綴っている。
詩人チェスワフ・ミウォシュは、「悲歌集」においてコハノフスキの詩的芸術が「最高の到達点に達した」と述べている。ミウォシュによれば、この作品は「世界文学においてユニークなもの」であり、主要なテーマを中心に据えた一連の詩作であった。コハノフスキが古典的な形式を個人的な悲しみ、しかも「取るに足らない」主題である幼い子供の死に適用したことは、一部の同時代人を驚かせた。しかし、この作品はポーランド文学において新たなジャンルを生み出す源泉となり、永続的な人気を博した。
2.4. 《ギリシャ使節の辞去》(Odprawa posłów greckich)

「ギリシャ使節の辞去」(Odprawa posłów greckichポーランド語)は、ヤン・コハノフスキが1565年から1566年頃に執筆し、1578年に初めて出版・上演された戯曲である。これはホメロスの叙事詩に範をとり、トロイア戦争へと繋がる出来事を描いた白紙詩の悲劇である。ポーランド語で書かれた最初の悲劇とされており、そのテーマである「国家統治の責任」は今日に至るまで響き続けている。
この劇は1578年1月12日、ワルシャワのウヤズドフ城で、コハノフスキの重要な庇護者であったヤン・ザモイスキとクリスティナ・ラジヴィウの結婚式で上演された。詩人チェスワフ・ミウォシュは本作を「ポーランド人文主義演劇の最も優れた見本」と評している。
2.5. 《歌》(Pieśni)と《ダビデ詩編》(Psalterz Dawidów)
コハノフスキの「歌」(Pieśniポーランド語)は、彼の生涯を通じて書かれ、1586年に遺作として出版された。この作品は、イタリアのリリシズムと、特にホラティウスへの傾倒といった「古代への愛着」を反映しており、ポーランド詩に大きな影響を与えた。
1579年には、旧約聖書の詩編をポーランド語に自由に翻訳した「ダビデ詩編」(Psałterz Dawidówポーランド語)を完成させた。この翻訳は、18世紀半ばまでに少なくとも25版が出版されるほど広く普及し、楽曲化がつけられてポーランドの教会ミサや大衆文化の永続的な要素となった。また、国際的にも影響力のある作品となり、シメオン・ポロツキーによるロシア語訳のほか、ルーマニア語、ドイツ語、リトアニア語、チェコ語、スロバキア語にも翻訳された。歴史家ノーマン・デイヴィスは、「コハノフスキの『詩編』は、ルター訳聖書がドイツ語にもたらしたものをポーランド語にもたらした」と述べている。
2.6. その他のポーランド語詩と散文
ポーランド帰国後、コハノフスキの作品は叙事詩の形式をとるようになった。記念詩としては「ヤン・タルノフスキの死について(O śmierci Jana Tarnowskiegoポーランド語)」(1561年)や「テンチンスキ伯ヤン・バプティスタに豊かに恵まれたすべての美徳を記念して(Pamiątka wszytkimi cnotami hojnie obdarzonemu Janowi Baptiście hrabi na Tęczynieポーランド語)」(1562年-1564年)がある。より真摯な作品としては「スザンナ(Zuzannaポーランド語)」(1562年)や「小旗、あるいはプロシアの誓い(Proporzec albo hołd pruskiポーランド語)」(1564年)が挙げられる。
社会・政治批判の風刺詩には「調和(Zgodaポーランド語)」(1562年頃)や「サテュロス、あるいは野蛮人(Satyr albo Dziki Mążポーランド語)」(1564年)がある。軽快な作品としては「チェス(Szachyポーランド語)」(1562年-1566年頃)があり、これはポーランド語で書かれた最初の「ユーモラスな叙事詩、または英雄喜劇詩」と評されている。
彼の作品の一部は、ジャーナリズムが本格的に出現する以前の、ジャーナリズム的解説と見なすことができ、1560年代から1570年代の王室の見解を表明し、議会(セイム)議員や有権者を対象としていた。詩ではない政治的解説の対話篇には「占い師(Wróżkiポーランド語)」(1587年)がある。
死後に出版された作品の中には、歴史的論文「チェフとレフの織りなす物語(O Czechu i Lechu historyja naganionaポーランド語)」があり、これはスラヴ神話、特にレフ、チェフ、ルスに関する起源神話について、初の批判的な文学分析を提供したものである。また、「深酒は人間にとって見苦しく、ふさわしくないことであるという論文(Iż pijaństwo jest rzecz sprosna a nieprzystojna człowiekowiポーランド語)」(1589年)も遺作として出版された。
2024年5月より、ヤン・コハノフスキの自筆による唯一の作品である詩「Dryas Zamchana」が、ワルシャワの共和国宮殿の常設展示で公開されている。
2.7. 翻訳作品とラテン語著作
ヤン・コハノフスキは、古典古代のギリシャ語およびラテン語の作品をポーランド語に翻訳した。これには、アラトスの「現象」やホメロスの『イーリアス』の断片、エウリピデスの悲劇『アルケスティス』の断片などが含まれる。
彼自身のラテン語で書かれた著名な作品には、「叙情詩小集(Lyricorum libellusラテン語)」(1580年)、「四巻のエレジー(Elegiarum libri quatuorラテン語)」(1584年)、そして数多くの機会詩がある。彼のラテン語詩は、1829年にカジミェシュ・ブロジンスキによって、また1851年にはヴワディスワフ・シロコムラによってポーランド語に翻訳された。
3. 思想と哲学
ヤン・コハノフスキの思想は、深い宗教的信念と人文主義的理想に根ざし、多様な哲学潮流を融合させた折衷的なものであった。
3.1. 宗教的・哲学的立場
ヤン・コハノフスキは、同時代の多くの人々と同じく、深く宗教的な人物であり、彼の作品の多くは宗教に触発されている。しかし、彼はカトリック教会とプロテスタント間の宗派間の争いにおいて、どちらか一方の側に立つことを避け、両方のキリスト教潮流の人物と友好的な関係を保った。彼の詩は両者から受け入れられるものと見なされていた。
彼の哲学的な立場は、ストア主義、エピクロス主義、ルネサンス期の新プラトン主義といった多様な潮流を融合させた折衷主義的であった。彼は古代の知恵とキリスト教の深い信仰を結びつけ、自身の作品に反映させた。
4. 影響力と遺産
ヤン・コハノフスキは、近代ポーランド語と文学の形成に決定的な影響を与え、ヨーロッパ文学史においても重要な位置を占める、永続的な遺産を残した。
4.1. ポーランド語および文学への影響

ヤン・コハノフスキは、アダム・ミツキェヴィチ以前のポーランドで最も偉大な詩人として評価されている。ポーランド・リトアニア共和国のみならず、全てのスラヴ人国家において、ルネサンス期の最重要詩人と広く見なされており、その優位性は19世紀のポーランド・ロマン主義者(ミツキェヴィチやユリウシュ・スウォヴァツキ)やロシアのアレクサンドル・プーシキンの登場まで揺るがなかった。
彼は近代ポーランド詩を創造し、それをヨーロッパに紹介した人物である。アメリカのスラヴ学者オスカー・E・スワンは、コハノフスキを「ヨーロッパ規模で卓越性を達成した最初のスラヴ人作家」と称している。チェスワフ・ミウォシュも同様に「19世紀初頭まで、最も傑出したスラヴ人詩人は疑いなくヤン・コハノフスキであった」と述べ、彼が「その後のポーランド詩全体の発展のペースを設定した」と評価している。イギリスの歴史家ノーマン・デイヴィスは、コハノフスキをコペルニクスに次ぐポーランド・ルネサンスの第二の重要人物と位置づけている。ポーランドの詩人であり文学評論家であるイェジ・ヤルニェヴィチは、コハノフスキを「ポーランド文学の創始者」と呼んだ。
コハノフスキはラテン語での執筆を続けたが、彼の主要な功績の一つは、ポーランド語の詩形を確立し、それによって彼が同時代人および後世にとっての古典となったことである。彼は外国の詩形式をポーランド語に定着させ、それらに国民精神を吹き込むことで、ポーランド詩を大いに豊かにした。デイヴィスは、コハノフスキが「ポーランド口語詩の創始者であり、ポーランド人に彼らの言語の美しさを示した」と記している。
アメリカの歴史家ラリー・ウルフは、コハノフスキが「ポーランド語における口語文化の創造に貢献した」と主張し、ポーランドの文学史家エルヴィラ・ブシェヴィチは彼を「優雅な人文主義的ポーランド語詩の『創始者』」と表現している。アメリカのスラヴ学者で翻訳家のデイヴィッド・ウェルシュは、コハノフスキの最大の功績は「詩の媒体としてのポーランド語の変革」であったと述べている。タデウシュ・ウレヴィチは、この点においてコハノフスキの「歌」が最も影響力があったと評価している。コハノフスキの作品は、リトアニア文学の発展にも影響を与えた。
中世ポーランド語の学者たちは、ヤン・コハノフスキの作品の言語が、技術的にも現代性においても、また定められた修辞学の使用を意識する点においても、16世紀の他の作家たち、例えばミコワイ・レイの言葉と比べても新時代的であることを強調している。彼の多くの詩、小品、悲歌が今日でも比較的容易に読まれるのは、古い文法が少なく(例えば、彼は当時新しい文法であった語尾「-ach」を男性・中性単数の名詞の前置格に用いている)、双数形の使用も控えめで、辞書的な古風な表現もさほど多くないためである。
ヤン・コハノフスキは、作品の文体を種類やテーマによって使い分けていた。詩や悲歌では高尚なスタイルを用いたが、小品では「わかりやすいスタイル」(当時の口語の要素を取り入れたもの)を志向した。言語研究者たちは、コハノフスキの言語と文体がポーランドの文語の発展に多大な影響を与え、18世紀末に至るまでの後代の作家たちが彼を模範としたことを強調している。18世紀末でさえ、イグナツィ・クラシツキは詩「ポドストリ氏」の中で、自分の書斎がコハノフスキの作品で満たされていることを誇りにしていると記した。アダム・ナルシェヴィチ(18世紀の詩人・歴史家)は、コハノフスキからいくつかのモチーフ、主題、そして語彙までも引き継いでいる。ザクセン選帝侯時代(アウグスト2世とアウグスト3世が統治した1697年から1763年にかけて)に軽視されたポーランド語が、啓蒙時代になって美しく正確であることが求められた時、コハノフスキの言葉は再評価されることになった。
4.2. ヨーロッパにおける評価と芸術的インスピレーション
1875年には、コハノフスキの多くの詩がH.ニッチュマンによってドイツ語に翻訳された。1894年には『ブリタニカ百科事典』が彼を「ポーランド詩人の王子」と称している。しかし、彼は長らくスラヴ語圏以外の国々ではほとんど知られていなかった。コハノフスキの詩の最初の英語コレクションは1928年に(ジョージ・R・ノイズらによる翻訳で)出版され、彼に捧げられた最初の英語モノグラフは1974年にデイヴィッド・ウェルシュによって発表された。1980年代初頭に至るまで、英語圏の参考文献ではコハノフスキの著作は概して軽視されるか、簡潔にしか扱われなかった。
しかし、近年ではさらなる英語翻訳が登場している。これには、スタニスワフ・バランチャクとシェイマス・ヒーニーによる『悲歌集』(1995年)や、ビル・ジョンストンによる『ギリシャ使節の辞去』(2007年)が含まれる。
コハノフスキの作品群は、近代ポーランドの文学、音楽、視覚芸術に多大なインスピレーションを与えてきた。彼の詩の断片は、1817年にワルシャワで上演されたヤン・ウルシン・ニェムツェヴィチのオペラ『ヤン・コハノフスキ』の台本にも使用された。19世紀には、「悲歌集」や「詩編」の楽曲化が人気を博し、スタニスワフ・モニューシュコは「悲歌集」の第III、V、VI、X篇のテキストにバスとピアノ伴奏のための歌曲を作曲した。1862年には、ポーランドの歴史画家ヤン・マテイコが、彼を「(愛娘)ウルスラの遺骸に接するコハノフスキ」という絵画に描いている。
5. 死と記念
ヤン・コハノフスキはルブリンで突然の死を遂げ、ズヴォレンに埋葬された。彼の遺骨は数奇な運命を辿り、後世には博物館や芸術作品を通じてその功績が称えられている。
5.1. 死と埋葬

ヤン・コハノフスキは1584年8月22日、ルブリンで心臓発作のため54歳で死去した。彼は当時、義弟ヤクバ・ポドロドフスキの殺害事件について国王に告訴状を提出するためルブリンに滞在しており、9月20日に気分が悪くなり、2日後に亡くなったとされている。彼はズヴォレンの十字架称賛教会(Kościół pw. Podwyższenia Krzyża Świętegoポーランド語)のクリプトに埋葬された。17世紀初頭には、彼の家族によって胸像付きの墓碑が据えられた。年代記作者ヨアヒム・ビェルスキは1584年に、「コルヴィン紋章のヤン・コハノフスキは死んだ。このようなポーランドの詩人は、ポーランドにもはやおらず、再来することも期待できない」と記している。
彼の遺骨の歴史は数奇である。1791年4月29日、歴史家タデウシュ・チャツキは棺から彼の頭蓋を取り出し、数年間自身の領地であるポリツク(現ウクライナ領パヴリフカ)に保管した。1796年11月4日、チャツキはそれをイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人に譲渡し、イザベラは当時プワヴィに設立されつつあった美術館の収集品に加えた。11月蜂起でポーランドが没落した後、頭蓋はパリへ運ばれ、サン=ルイ島のランベール邸に保管された。現在ではクラクフのチャルトリスキ美術館に所蔵されているが、これは1874年以降に持ち込まれたものである。しかし、2010年の古人類学的調査とコンピュータによる復顔によって、この頭蓋は40歳ほどの女性のものであり、詩人の妻のものである可能性が高いことが証明された。歴史的記録によれば、コハノフスキのために少なくとも2つの墓石が建てられたが、そのどちらも現存しない。
1830年、ズヴォレンの教区司祭は霊安所からコハノフスキ一家の棺をすべて取り除き、教会建物の近くにある家族用の集団墓地に運んだ。しかし、1983年には霊安所、正確には建物の地下にある修復された大理石の石棺に戻された。そして1984年4月21日には、詩人の追葬記念式典が執り行われた。
5.2. 遺産と記念事業
ヤン・コハノフスキの作品の最初の詩集は、1579年に出版された「ダビデ詩編」である。彼の作品の多くは死後に出版され、まず1584年から1590年にかけてクラクフで一連の巻として刊行され、「断片、あるいは残された著作(Fragmenta albo pozostałe pismaポーランド語)」で締めくくられた。このシリーズには、彼のパドヴァ時代の作品や「フラシュキ」が含まれていた。1884年には、ワルシャワで記念巻が出版された。
1961年には、コハノフスキの領地であったチャルノラスにヤン・コハノフスキ博物館が開館し、彼の記憶を称えるための取り組みが続けられている。