1. 概要
レジー・パークス(本名:レジナルド・デイビッド・パルコ、Reginald David Parko英語、1934年8月27日 - 2021年10月7日)は、カナダ・アルバータ州エドモントン出身のプロレスラーであり、優れた彫刻家でもありました。彼は、プロレス、総合格闘技、ボクシングといった格闘技団体向けのチャンピオンベルトのデザインと製作で特に知られています。
パークスは、スチュー・ハートの指導の下でプロレスラーとしてのキャリアをスタートさせ、その鍛え上げられた肉体と「物静かなスーパーマン」のような佇まいで知られました。レスラーとして名を馳せた後、彼はチャンピオンベルトの製作に乗り出し、その卓越した仕事ぶりから「ベルトの王(The King of Beltsザ・キング・オブ・ベルツ英語)」という異名をとりました。彼の最も有名な作品には、1980年代から1990年代にかけて当時のWWFで使用された「ウィングド・イーグル」ベルト(Winged Eagle beltウィングド・イーグル・ベルト英語)があり、その他にもUFCのベルトや、歌手マドンナのアルバムカバーのデザインも手掛けるなど、その影響力は多岐にわたります。
2. 初期生い立ち
レジー・パークスは、1934年8月27日にカナダのアルバータ州エドモントンで、4人兄弟の末っ子として生まれました。幼少期はエドモントン郊外の農場で育ち、少年時代はアイスホッケーに熱中していました。しかし、家族が市内に引っ越したことをきっかけに、ホッケーを辞めています。
13歳でウエイトリフティングを始め、その後すぐにプロレスショーのチケット案内係として働き始めました。プロレスファンとして、彼は兄弟レスラーのジョージ・スコットとサンディ・スコット、そしてタイニー・ミルズを尊敬していました。
3. プロレスラーとしての経歴
レジー・パークスのプロレスラーとしてのキャリアは、鍛え上げられた肉体と「物静かなスーパーマン」の異名で特徴づけられ、北米の様々なテリトリーや海外での遠征を通じて、その存在感を示しました。
3.1. 初期キャリアとトレーニング
パークスは、エドモントンにあるボクシングクラブでトレーニングを開始し、そこでスタンピード・レスリングのプロモーターであったスチュー・ハートと1955年に出会いました。ハートはパークスを指導し、彼をアメリカ合衆国のプロレス団体が活動する様々な地域(通称「テリトリー」)へと紹介しました。これにより、パークスはシアトル、ロサンゼルス、そしてテキサス州全域で試合を行うようになりました。
キャリアの初期には、彼は巡業カーニバルに参加し、観客からの挑戦者と台本なしの真剣勝負を行っていました。これらの試合では、彼のスタミナとコンディションが勝敗を分ける鍵となり、そのレスリング能力が際立っていました。1950年代後半には、カナダのカルガリーやバンクーバー、そしてオレゴン州ポートランドなど、太平洋岸北西部を中心に活動しました。1960年からはアメリカ合衆国本土へと本格的に進出。1961年8月8日にはカリフォルニア州サンフランシスコにおいて、エンリケ・トーレスとタッグを組み、同地区認定のNWA世界タッグ王座を獲得しました。以降、彼はフリッツ・フォン・エリック、フレッド・ブラッシー、バーン・ガニア、ニック・ボックウィンクルなど、各地の強豪レスラーたちと対戦しました。
3.2. 主な活動団体と活動地域
1963年から1973年にかけて、パークスはAWAを主要な活動団体とし、ネブラスカ州のテリトリーにも頻繁に登場しました。彼はその印象的な肉体と驚異的な腕力で知られ、「物静かなスーパーマン」と称されました。ある時には、自身の強さを証明するために、フォルクスワーゲンのビートルを自身の腹の上で走らせるデモンストレーションを披露しました。グレッグ・オリバーによると、全盛期のパークスは身長0.2 m (6 in)、体重102 kg (225 lb)で、上腕二頭筋は0.4 m (17 in)、胸囲は1.3 m (50 in)に達していたといいます。
1965年10月16日、ネブラスカ州オマハにてダニー・ホッジと組み、マッドドッグ・バションとハル佐々木組からネブラスカ・タッグ王座を奪取しました。以降、彼はオマハを拠点とするAWAのミッドウエスト地区を主戦場としました。1966年3月にはティム・ウッズと組み、ハル佐々木とミツ荒川組を破ってAWA中西部タッグ王座を獲得し、その後もこの王座を複数回獲得しています。特に、1971年12月2日にはスタン・プラスキーと組み、オックス・ベーカーとグレート草津組を破り、さらに1972年1月8日にはラリー・ヘニングとラーズ・アンダーソン組を破ってAWA中西部タッグ王座を獲得しました。
3.3. 海外遠征
1970年7月、レジー・パークスは日本プロレスに初来日しました。このシリーズでは、アントニオ猪木、大木金太郎、坂口征二、高千穂明久といった日本のトップレスラーたちとのシングルマッチが組まれました。また、彼はブルート・バーナードやムース・ショーラックのパートナーとして、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の「BI砲」とも対戦しました。
日本でのシリーズ終了後、彼は韓国遠征にも参加しました。8月8日にはソウルにおいて、大木金太郎が保持していたアジアヘビー級王座に挑戦しています。
1974年5月には、AWAのブッキングにより、再び日本を訪れ国際プロレスに参戦しました。この遠征では、グレート草津、ラッシャー木村、マイティ井上、アニマル浜口といった国際プロレスの主力レスラーたちとシングルマッチで対戦しました。
3.4. 覆面レスラー「ジ・アベンジャー」と晩年のキャリア
1976年1月からは、ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク兄弟が主宰していたテキサス州アマリロのテリトリーに参戦しました。5月12日にはスコット・ケーシーとタッグを組み、ボビー・ジャガーズとランディ・タイラー組からNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を奪取しています。さらに1977年2月12日にはジョニー・ウィーバーを下して、テキサス西部版のNWAインターナショナル・ヘビー級王座を獲得しましたが、翌月にはサイクロン・ネグロに敗れ王座を失いました。
1968年には、ジョー・ブランチャードが運営するテキサス州のテリトリーにおいて、後のNWA世界ヘビー級チャンピオンとなるダスティ・ローデスのデビュー戦の相手を務めました。
1979年10月からは、カンザス地区で、ジ・アベンジャー(The Avengerジ・アベンジャー英語)という覆面レスラーに変身して活動しました。11月22日には、トルコ人ギミックのザ・タークからNWAセントラル・ステーツ・ヘビー王座を奪取しました。翌1980年には、ジ・アベンジャーとしてジ・アサシンを相手に、覆面レスラー同士による同王座を巡る抗争を展開しました。
キャリアの晩年となる1981年には、フロリダ地区で前座試合に出場しました。背中の負傷により一時レフェリーとして活動したこともありました。1982年7月18日、彼は自身の故郷であるエドモントンで開催されたスタンピード・レスリングの興行において、バッドニュース・アレンと対戦し、これがプロレスラーとしての最後の公式試合となりました。この試合で現役を引退した後も、彼は居住地であるアリゾナ州でWWFのハウス・ショーやテレビ番組に時折出場し、ザ・ムーンドッグスやブッチ・リードのジョバーを務めました。
パークスはキャリアの大部分をファンに愛されるベビーフェイスとして過ごしました。彼は自身の好感度の高さをカナダで育ったことによる「自然なカナダ人らしさ」だと語っています。
3.5. 得意技
レジー・パークスが使用していた主要なレスリング技術は以下の通りです。
- エアプレーン・スピン(Airplane Spinエアプレーン・スピン英語)
- スタンディング・クラッチ(Standing Clutchスタンディング・クラッチ英語)
4. チャンピオンベルトデザイナーとしての経歴
レジー・パークスは、プロレスラーとしてのキャリアを終えた後も、その影響力はチャンピオンベルトのデザインと製作という形でプロレス界に大きく残りました。彼は「ベルトの王」として、数々の象徴的なデザインを生み出し、格闘技界だけでなく音楽業界にもその足跡を残しました。
4.1. ベルト製作の始まり
パークスがベルト製作を始めたのは1962年、ネブラスカ州オマハで活動していた時のことです。当時のプロモーター、ジョー・デューセックがチャンピオンシップの象徴として使用していた大きなトロフィーが老朽化し、破損し始めていたことに気づいたのがきっかけでした。パークスは、これに代わるベルトを、メッキされた銅と革のストラップを使用して製作しました。彼はその製作費用がおよそ75 USDであったと見積もっています。
このパークスの職人技はすぐに注目を集めました。彼の試合を観戦中にその腕前を目にしたAWAのタッグチームチャンピオンであったハーレー・レイスとラリー・ヘニングから、新たなチャンピオンベルトの製作を依頼されました。さらに、その後の日本のプロレス団体への巡業で彼の作品が広く知られるようになり、彼のベルト製作事業は大きく拡大していきました。
4.2. 主なデザインと共同作業

パークスは、WWE(当時のWWF)、NWA、WCW、AWA、Shimmer Women Athletesなど、数多くのプロレス団体向けにチャンピオンベルトのデザインと彫刻を手掛けました。WWEは彼のベルトデザインを「最も有名なものの一つ」と評しています。
彼が手掛けた中で最もよく知られているのは、1980年代から1990年代にかけてWWF王座を象徴するために使用された「ウィングド・イーグル」ベルトと、同時代のWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座のベルトです。ハルク・ホーガン、ブレット・ハート、ショーン・マイケルズ、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンなど、WWEの歴代世界王者たちがパークスが手掛けたベルトを腰に巻きました。
彼の作品はプロレス団体だけでなく、テコンドーやボクシング協会、総合格闘技のUFCにも採用されました。また、歌手マドンナが2008年にリリースしたアルバム『ハード・キャンディ』のジャケットに使用されたチャンピオンベルトも、パークスの作品です。
4.3. 「ベルトの王」と職人技
パークスのベルトデザインと製作における功績は、彼に「ベルトの王(The King of Beltsザ・キング・オブ・ベルツ英語)」という異名をもたらしました。
彼のベルトは通常、フォトエングレービング(写真製版)技術を用いて亜鉛のベースプレートに彫刻され、その後ニッケルまたは金でメッキされました。完成したデザインには、さらに宝石や装飾された革の模様が施され、細部にわたる職人技が光っていました。
5. 私生活
プロレスラーとしての現役生活を引退した後、レジー・パークスはアリゾナ州に居を構えました。彼はベルトデザインの仕事に加え、カーペットの清掃会社も経営していました。このカーペット清掃業は、彼が同じくプロレス界の著名人であったゴードン・ソリーから紹介されたものでした。
パークスは一度結婚し、その後離婚しています。彼は長年のパートナーであるトリッシュと22年間生活を共にしましたが、トリッシュは2006年に亡くなりました。彼には子供がいませんでした。
6. 死去
レジー・パークスは、2021年10月7日、アリゾナ州ツーソンの自宅で、新型コロナウイルス感染症により死去しました。87歳でした。
7. 獲得タイトルと功績
レジー・パークスがプロレスラーとしてのキャリアで獲得したチャンピオンシップタイトルと主な功績は以下の通りです。
団体名 | 獲得タイトル | 獲得回数 | パートナー |
---|---|---|---|
NWAサンフランシスコ | NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版) | 2回 | エンリケ・トーレス |
オールスター・レスリング | ネブラスカ・タッグ王座 | 1回 | ダニー・ホッジ |
アメリカン・レスリング・アソシエーション | AWA中西部タッグ王座 | 8回 | Eric Pomeroy (4), Doug Gashouse Gilbert (2), Tim Woods (1), Woody Farmer (1) |
NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ | NWAインターナショナル・ヘビー級王座(テキサス西部版) | 1回 | (なし) |
NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ | NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座 | 1回 | スコット・ケーシー |
セントラル・ステーツ・レスリング | NWAセントラル・ステーツ・ヘビー王座 | 1回 | (なし) |
8. 遺産と評価
レジー・パークスは、プロレスラーとしてもベルトデザイナーとしても、それぞれの分野に大きな遺産を残しました。彼の貢献は、業界の美的基準を引き上げ、数々の伝説的な瞬間を彩る象徴的な存在となりました。
8.1. プロレスラーとしての影響
レジー・パークスは、強靭な肉体の持ち主として知られ、指先だけで腕立て伏せを行ったり、腹の上にフォルクスワーゲンを走らせたりといった、驚異的な力強さを示すデモンストレーションを披露しました。彼のユニークな身体能力と「物静かなスーパーマン」というキャラクターは、当時のプロレス業界とファンに強い印象を与えました。彼は多くのレスラーに影響を与え、その力強いファイトスタイルは後進のレスラーたちにも受け継がれていきました。
8.2. ベルトデザイナーとしての影響力
パークスが手掛けたチャンピオンベルトは、その品質とデザインにおいて、その後の業界の基準を大きく引き上げました。彼のベルト製作における貢献について、仲間のベルトメーカーであるデイブ・ミリカンは、「彼がする以前は、誰もこのような方法でベルトを作っていなかった。レジー以前にもベルトはあったか?もちろんだ。レジー以前に良いベルトはあったか?いや、なかった」と語り、パークスがこの分野におけるパイオニアであったことを強調しています。
彼の作品は、チャンピオンベルトの美的基準とデザインのトレンドに持続的な影響を与えました。特に「ウィングド・イーグル」ベルトは、プロレスの歴史上最も象徴的なチャンピオンベルトの一つとして広く認識されています。また、ハルク・ホーガン、ブレット・ハート、ショーン・マイケルズ、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンといった著名なレスラーたちが彼のデザインしたベルトを着用したことは、その影響力をさらに高めました。格闘技界にとどまらず、マドンナのアルバムカバーにも彼のベルトが使用されたことは、彼のデザインが持つ普遍的な魅力を示しています。