1. Overview
本稿の主題であるヴィタヤ・ラオハクルは、タイ王国出身の元サッカー選手であり、サッカー指導者である。彼はタイ人として初めて日本でプレーし、さらにドイツ・ブンデスリーガに進出した初のタイ人選手として、タイサッカーの歴史に名を刻んだパイオニアである。選手としては、ヤンマーディーゼルサッカー部や松下電器産業サッカー部で活躍し、ヘルタ・ベルリンや1.FCザールブリュッケンで欧州でのキャリアを築いた。指導者としては、ガンバ大阪のヘッドコーチ、ガイナーレ鳥取の監督を歴任。タイではバンコク・バンクFCやチョンブリーFCをリーグ優勝に導き、タイ代表監督としても東南アジア競技大会で金メダルを獲得した。また、タイサッカー協会やチョンブリーFCでテクニカルディレクターを務め、ユース育成や代表チーム強化に尽力し、西野朗のタイ代表監督招聘にも影響を与えるなど、タイサッカーの発展に多大な貢献をした。本稿では、彼の選手および指導者としての輝かしいキャリア、タイサッカーの発展への多大な貢献について詳細に記述する。
2. Early Life and Background
2.1. Birthplace and Family
ヴィタヤ・ラオハクルは、1954年2月1日にタイ王国のラムプーン県で生まれた。彼は14人兄弟の7番目であり、長男と次男もタイリーグでサッカー選手として活躍した。
2.2. Entry into Football
18歳の時にラチャプラチャーFCに加入し、サッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。1973年には、ナコーンシータンマラート県で開催された第7回タイ地域スポーツ大会にラムプーン県第5地区代表として出場し、優勝と最優秀選手賞を獲得した。その後、ハッカFCでもプレーした。
3. Playing Career
ヴィタヤ・ラオハクルは、タイ国内、日本、そしてドイツのブンデスリーガでプロ選手として活躍し、タイ人初の欧州リーグ進出選手としてその名を刻んだ。
3.1. Career in Thailand
ヴィタヤ・ラオハクルは、1972年から1976年までラチャプラチャーFCでプレーし、97試合に出場し28得点を記録した。1975年3月15日にはアジアカップでタイ代表としてデビューし、インドネシア戦で3対1の勝利に貢献した。
3.2. Career in Japan
1976年8月、マレーシアで開催されたムルデカ大会のタイ代表対日本代表戦で、ヴィタヤはフリーキックから2ゴールを決め、相手チームの釜本邦茂の目に留まった。その2ヶ月後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現セレッソ大阪)から正式なオファーを受け、1977年5月にチームに合流した。しかし、日本サッカー協会の移籍規定により、公式戦デビューは翌年1月まで待たなければならなかった。
1978年1月15日の三菱重工戦でJSLデビューを果たし、以降先発出場を続けた。ヤンマーディーゼルでは2シーズンで20試合に出場し4得点を記録した。彼はJSL史上初めてのアジア人外国人選手であった。
1986年には再び日本に戻り、松下電器産業サッカー部(現ガンバ大阪)に選手として加入した。松下電器ではヘッドコーチも兼任しながらプレーを続け、1990年に現役を引退した(1990-91シーズンの第8節をもって登録抹消)。松下電器では3シーズンで37試合に出場し3得点を挙げた。
日本国内リーグ成績
年度 | 所属クラブ | カテゴリ | リーグ戦出場 | リーグ戦得点 |
---|---|---|---|---|
1977 | ヤンマーディーゼル | JSL1部 | 20 | 4 |
1978 | (上記に含む) | (上記に含む) | ||
1987 | 松下電器産業 | JSL2部 | 18 | 3 |
1988-89 | JSL1部 | 21 | 3 | |
1989-90 | 16 | 0 | ||
1990-91 | 0 | 0 |
3.3. Career in Europe
日本から帰国後、タイ代表としてRCDエスパニョールや1.FCケルンと対戦した際のプレーが西ドイツのヘルタ・ベルリンのスカウトの目に留まり、1979年にヘルタ・ベルリンへ移籍した。これにより、彼はドイツ・ブンデスリーガでプレーする初のタイ人サッカー選手となった。
1979年8月12日のフォルトゥナ・デュッセルドルフ戦でブンデスリーガに初出場したが、1979-80シーズンのリーグ戦出場は3試合にとどまった。チームが2. ブンデスリーガ(ドイツ2部)に降格した1980-81シーズン以降は2シーズンで合計31試合に出場した。
1982年には1.FCザールブリュッケンに移籍。1982-83シーズンには当時ドイツ3部リーグであったオーバーリーガ南西部リーグで優勝し、2. ブンデスリーガへの昇格を勝ち取った。ザールブリュッケンでは2年間で53試合に出場し7得点を記録した。ドイツのメディアは彼の活躍を「THAI BOOM」と称賛した。
3.4. National Team Career
ヴィタヤ・ラオハクルは、1975年から1985年までタイ代表として61試合に出場し、18得点を挙げた。
タイ代表の一員として、1977年と1985年のシーゲームズで優勝を果たし、1985年にはキャプテンを務めた。
3.5. Player Achievements
ヴィタヤ・ラオハクルは選手として数々の功績を残した。
- チームタイトル:**
- 東南アジア競技大会 優勝: 1977年、1985年
- オーバーリーガ南西部リーグ 優勝: 1983年(1.FCザールブリュッケン)
- 個人賞:**
- タイ地域スポーツ大会 最優秀選手: 1973年
- 日本FAカップ 得点王: 6得点
- 日本のリーグ戦における年間ベストイレブンの一人(松下電器時代)
4. Coaching Career
ヴィタヤ・ラオハクルは、日本とタイの両国で指導者として多くの成功を収め、特にタイサッカーの発展に多大な貢献をした。
4.1. Coaching in Japan

1988年から松下電器のコーチを務め、Jリーグ開幕後はガンバ大阪のヘッドコーチとして合計8年間、日本で指導者としての経験を積んだ。
2007年にはJFL所属のガイナーレ鳥取のヘッドコーチに就任。同年8月に監督が成績不振の責任を取り辞任したことに伴い、監督に昇格した。2009年まで足掛け3年間鳥取を指揮し、常にチームを上位に導き、Jリーグ参入を目指したが、いずれも終盤に失速し、Jリーグ参入は達成できなかった。
2009年12月、タイで交通事故に遭い脊椎骨折の重傷を負う。命に別状はなかったものの回復が遅れ、クラブとの話し合いの結果、2010年2月1日に鳥取監督を辞任した。
日本国内監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | リーグ杯 | 天皇杯 | |||
2007 | JFL | 鳥取 | 14位 | - | 2回戦 | |||||
2008 | 5位 | 34 | 57 | 17 | 6 | 11 | - | 1回戦 | ||
2009 | 5位 | 34 | 56 | 16 | 8 | 10 | - | 2回戦 |
- 2007年の順位は最終順位。
4.2. Coaching in Thailand
1996年には母国のバンコク・バンクFCを率いてタイ・プレミアリーグで優勝を飾り、AFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。この功績により、1997年にはタイ・プレミアリーグの最優秀監督に選出された。
2004年にはチョンブリーFCの監督に就任し、翌2005年にはプロヴィンシャルリーグで優勝に導き、2006年シーズンにはクラブ史上初のタイ・プレミアリーグ昇格を果たした。
2011年には再びチョンブリーFCの監督に就任。この2度目の在任期間中には、コーチの加藤好男、加藤光男親子やトレーナーの白木庸平など多くの日本人スタッフをチームに迎え入れ、チーム強化を図った。また、櫛田一斗や鳥取時代の教え子であった樋口大輝といった日本人選手も加入させた。2011年にはタイ・プレミアリーグで準優勝、2010年にはタイFAカップで優勝、そして2008年、2009年、2011年、2012年にはコー・ロイヤルカップで優勝を達成した。
4.3. Thailand National Team Coach
1997年から1998年までタイ代表監督を務め、1997年のシーゲームズで金メダルを獲得した。
4.4. Technical Director Role

2010年には古巣チョンブリーFCのテクニカルディレクター(TD)に復帰し、2014年シーズン終了後も引き続き同クラブのTDを務めている。
また、2016年2月15日にはタイサッカー協会(FAT)のTDにも就任し、タイサッカー全体の発展戦略の立案、ユース育成、チーム強化に貢献した。2018年のアジア競技大会でU-23代表がグループステージ敗退に終わったことを受けて一度は解任されたが、2019年6月12日に発足したタイ代表強化委員会においてTDに復帰した。
タイ代表監督に西野朗が招へいされた背景には、ヴィタヤの後押しがあったと報じられており、彼は「日本人が教えたら絶対に強くなる!」と語るなど、日本サッカーの経験をタイに還元することに積極的である。
4.5. Coaching Achievements
ヴィタヤ・ラオハクルは指導者として以下の主要な成果を上げた。
- 個人賞:**
- タイ・プレミアリーグ 最優秀監督: 1997年(バンコク・バンクFC)
- チームタイトル:**
- 天皇杯 優勝: 1990年(松下電器産業サッカー部、ヘッドコーチとして)
- クイーンズカップ 優勝: 1992年(松下電器産業サッカー部)
- タイ・プレミアリーグ 優勝: 1996-97シーズン(バンコク・バンクFC)
- 東南アジア競技大会 優勝: 1997年(タイ代表)
- タイFAカップ 優勝: 2010年(チョンブリーFC)
- コー・ロイヤルカップ 優勝: 2008年、2009年、2011年、2012年(チョンブリーFC)
5. Personal Life and Other Aspects
5.1. Personal Attributes and Language Skills
ヴィタヤ・ラオハクルは、日本語を流暢に話し、特に関西弁を操ることで知られている。彼の愛称は「ヘン」であり、タイ語で「幸運」を意味する。指導者としては「コーチ・ヘン」として親しまれている。
6. Evaluation and Influence
6.1. Pioneering Role and Contribution to Thai Football
ヴィタヤ・ラオハクルは、タイサッカー界の歴史において、まさにパイオニアとしての役割を果たした人物である。彼はタイ人として初めて日本リーグでプレーし、さらにドイツ・ブンデスリーガというヨーロッパの主要リーグに進出した最初のタイ人選手となった。この海外での経験は、その後のタイ人選手の国際的なキャリア形成に大きな道を開いた。
指導者としても、タイ国内のクラブをリーグ優勝に導き、タイ代表監督として東南アジア競技大会での金メダル獲得に貢献した。また、タイサッカー協会のテクニカルディレクターとして、タイサッカー全体の育成戦略や強化に深く関与し、特に西野朗監督のタイ代表への招聘を後押しするなど、タイサッカーの国際化と発展に多大な影響を与え続けている。彼の存在は、タイサッカーの現代史において不可欠なものとして高く評価されている。