1. 生涯とアマチュア時代
中島成雄は、茨城県に生まれ、幼少期から学生時代にかけてボクシングに打ち込み、輝かしいアマチュア戦績を収めた後にプロの道へと進んだ。
1.1. 幼少期と教育
中島成雄は1954年1月18日に茨城県で生まれた。彼は茨城県立下館第一高校でボクシングを始め、その後駒澤大学に進学。大学時代にはボクシング部のエースとして活躍し、その実力は学内でも高く評価された。同時期にプロスポーツ界へと進んだ大学の同期には、野球の中畑清や相撲の天ノ山静雄など、各分野で名を馳せた人物がいる。
1.2. アマチュアボクシング時代
高校でボクシングを始めた中島は、学生時代を通じてヨネクラボクシングジムで技術を磨き、アマチュアボクシング界でその才能を発揮した。彼の最終的なアマチュア戦績は80勝15敗(48KO)という輝かしいものであり、この実績がプロでの成功への礎を築いた。
2. プロキャリア
プロ転向後、中島成雄は着実にキャリアを積み重ね、幾多の激戦を経て世界チャンピオンの座に輝いた。その道のりには、彼自身の卓越した技術と不屈の精神、そして周囲の多大な支援があった。
2.1. プロデビューと初期
中島成雄は1976年7月12日、東京の後楽園ホールでプロデビューを果たし、2ラウンドKO勝利という鮮烈な形でそのキャリアをスタートさせた。初期のキャリアでは、1977年8月には当時日本のライトフライ級チャンピオンであった天龍和典をノンタイトル10回戦で3ラウンドKOで下すなど、その実力を国内外に示していった。しかし、1978年3月には元WBAフライ級チャンピオンのBernabe Villacampoバーナベ・ビラカンポ英語に4ラウンドボディブローでKO負けを喫し、同年8月には後のWBAジュニアフライ級チャンピオンとなる金煥珍キム・ファンジン韓国語に判定で敗れるなど、挫折も経験した。
2.2. WBC世界ライトフライ級王座獲得
1980年1月3日、中島は後楽園ホールで金性俊キム・ソンジュン韓国語(韓国)が保持するWBC世界ライトフライ級王座に初挑戦した。この一戦に向け、後に国際ボクシング殿堂と世界ボクシング殿堂入りを果たすボクシング理論に精通したジョー小泉がトレーナーを務め、米倉健治ジム会長は中島を自身の住居近くのアパートに住まわせ、毎朝ロードワークのために起こすなど、万全の体制でサポートした。試合は壮絶な展開となり、中島は3ラウンドに鼓膜が破れ、肋骨にひびが入る重傷を負い、さらに左目上をカットするという満身創痍の状態に陥った。しかし、彼はその不屈の精神と、持ち前の素早いパンチとフットワークを駆使し、15ラウンドを戦い抜き、最終的にはユナニマス・デシジョン(3-0の判定)で勝利を収め、見事世界王者の座を勝ち取った。
王座獲得からわずか4日後の1月7日には、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)に、西城秀樹の新曲「悲しき友情」の応援ゲストとして出演し、吹打竜らジムの同僚と共に西城のバックダンサーのような形でパフォーマンスに参加するなど、その名声はボクシング界を越えて広まった。
2.3. 王座防衛戦と引退
世界王座を獲得した中島の最初の防衛戦は、1980年3月24日に東京の蔵前国技館で行われ、挑戦者イラリオ・サパタ(パナマ)と対戦した。この試合は最後までもつれ込む激戦となったが、結果は中島の僅差でのユナニマス・デシジョン(3-0の判定)による敗北となり、初防衛に失敗し王座を失った。この判定に対し、米倉会長は強く抗議したとされている。
同年9月17日には、岐阜県岐阜市の岐阜市民センターで再びサパタとのリマッチに臨み、WBC世界ライトフライ級王座の奪還を目指した。しかし、この再戦でもサパタの前に苦戦を強いられ、11ラウンドTKO負けを喫し、王座返り咲きは叶わなかった。
その後も現役を続行したが、1981年5月26日に行われたノンタイトル10回戦で8ラウンドKO負けを喫し、この試合を最後に現役を引退した。
3. プロ戦績
中島成雄のプロボクシングにおける詳細な戦績は以下の通りである。
No. | 結果 | 戦績 | 対戦相手 | 種類 | ラウンド、時間 | 日付 | 場所 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
19 | 敗北 | 13-5-1 | 渡辺伸行 | KO | 8 (10) | 1981-05-26 | 後楽園ホール、東京、日本 | |
18 | 敗北 | 13-4-1 | イラリオ・サパタ | TKO | 11 (15) | 1980-09-17 | 岐阜市民センター、岐阜、日本 | WBCライトフライ級タイトル戦 |
17 | 敗北 | 13-3-1 | イラリオ・サパタ | UD | 15 (15) | 1980-03-24 | 蔵前国技館、東京、日本 | WBCライトフライ級タイトルを失う |
16 | 勝利 | 13-2-1 | 金性俊 | UD | 15 (15) | 1980-01-03 | 後楽園ホール、東京、日本 | WBCライトフライ級タイトルを獲得 |
15 | 勝利 | 12-2-1 | 洪秀洋ホン・スヤン韓国語 | MD | 10 (10) | 1979-11-06 | 日本 | |
14 | 勝利 | 11-2-1 | 久保村勉 | KO | 3 (10) | 1979-06-12 | 後楽園ホール、東京、日本 | |
13 | 勝利 | 10-2-1 | 関山勝 | KO | 7 (10) | 1979-03-27 | 日本 | |
12 | 敗北 | 9-2-1 | 金煥珍 | PTS | 10 (10) | 1978-08-29 | 日本 | |
11 | 勝利 | 9-1-1 | 高谷勉 | PTS | 10 (10) | 1978-06-30 | 日本 | |
10 | 敗北 | 8-1-1 | バーナベ・ビラカンポ | KO | 4 (10) | 1978-03-07 | 日本 | |
9 | 勝利 | 8-0-1 | 近藤行充 | KO | 3 (10) | 1978-01-24 | 日本 | |
8 | 勝利 | 7-0-1 | 七舎利行 | KO | 4 (10) | 1977-11-29 | 後楽園ホール、東京、日本 | |
7 | 勝利 | 6-0-1 | 天龍和典 | KO | 3 (10) | 1977-08-23 | 後楽園ホール、東京、日本 | |
6 | 勝利 | 5-0-1 | 牧公一 | MD | 10 (10) | 1977-06-21 | 日本 | |
5 | 勝利 | 4-0-1 | 小林政行 | PTS | 10 (10) | 1977-04-02 | 国技館、東京、日本 | |
4 | 勝利 | 3-0-1 | 梶本繁 | PTS | 10 (10) | 1976-12-14 | 後楽園ホール、東京、日本 | |
3 | 勝利 | 2-0-1 | 藤井利郎 | KO | 5 (8) | 1976-10-12 | 後楽園ホール、東京、日本 | |
2 | 引き分け | 1-0-1 | 김치복キム・チボク韓国語 | PTS | 8 (8) | 1976-09-16 | 釜山、韓国 | |
1 | 勝利 | 1-0 | 前沢繁雄 | KO | 2 (6) | 1976-07-12 | 日本 |
4. 引退後の活動
プロボクサーとしての華々しいキャリアを終えた後も、中島成雄は社会の中で多岐にわたる活動に従事し、特にボクシング界への貢献と社会貢献活動に尽力している。
4.1. 引退後の職歴
プロボクシング引退後、中島成雄は実業界へと転身し、かつてはゴルフ場開発会社の代表取締役を務めた。これにより、アスリートとしての経験だけでなく、ビジネスの分野でもリーダーシップを発揮した。
4.2. 社会貢献活動
中島成雄は現在、日本プロボクシング協会(JPBA)の内部組織であるプロボクシング・世界チャンピオン会の事務総長を務めている。この組織は、日本の世界チャンピオン経験者で構成され、社会貢献を目的とした活動を積極的に行っている。中島は事務総長として、ボクシングを通じた社会貢献に尽力しており、自身の経験を活かし、次世代の育成やボクシング界の発展に貢献している。
5. 評価と遺産
中島成雄は、日本のプロボクシング界において特筆すべき存在として記憶されている。彼は駒澤大学を卒業後、プロボクサーとして世界チャンピオンの座を獲得したロイヤル小林に続く、大学出身の二人目の世界王者であり、これは当時のボクシング界における異例の偉業であった。彼の成功は、ボクシングにおける知性と身体能力の融合の可能性を示し、学業とスポーツを両立するアスリートへの道を開いた点で、教育的価値も高かったと言える。
金性俊との世界タイトルマッチで見せた、鼓膜の損傷、肋骨のひび、そして目上のカットという重傷を負いながらも、最後まで戦い抜いて勝利を掴んだ彼の不屈の精神は、多くの人々に感動と勇気を与えた。これは単なる勝利以上の、人間としての粘り強さと、いかなる逆境にも屈しない強い意志の象徴として語り継がれている。
また、引退後にゴルフ場開発会社の代表を務めた実業家としての側面や、プロボクシング・世界チャンピオン会の事務総長として、社会貢献活動に尽力する姿は、アスリートが競技を終えた後も社会に貢献できる模範を示している。彼のキャリア全体は、単なるボクシングの功績に留まらず、社会的な役割と貢献を重視する中道左派の視点からも高く評価されるべき遺産である。
6. 関連項目
- 男子ボクサー一覧
- 世界ボクシング評議会(WBC)世界王者一覧
- 日本のボクシング世界王者一覧