1. 生涯と背景
井上ひさしの幼少期と学生時代は、その後の彼の世界観や創作活動に大きな影響を与えた。貧困、家庭環境の複雑さ、そして戦争体験は、彼の作品に流れる人間への温かい眼差しや社会への鋭い洞察の源泉となっている。
1.1. 幼少時代と家族
井上ひさしは1934年11月16日、山形県東置賜郡川西町中小松に生まれた。父は薬剤師の井上修吉、母は井上マスであった。修吉は文学青年であり、農地解放運動に関わり、地方劇団「小松座」を主宰するなど多才な人物であった。また、1935年には小松滋の筆名で書いた小説『H丸傳奇』が『サンデー毎日』の大衆文芸新人賞に入賞している。父はプロレタリア文学雑誌『戦旗』への投稿や配布の手伝いも行っていた。マスは病院の下働きで修吉と知り合い駆け落ちしたが、井上の籍には入らず、ひさしら3兄弟は戸籍上非嫡出子として生まれた。彼の名前「廈(ひさし)」は、『H丸傳奇』の舞台となった中国の厦門(アモイ)に由来する。
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ひさしが5歳の時、父は脊髄カリエスで34歳で死去した。父は青年共産同盟(現在の日本民主青年同盟、通称・民青)に加入しており、検挙時に受けた拷問の影響で脊髄を悪くしたとも語られていた。父の突然の死は、ひさしが作家を志すきっかけの一つとなった。
父の死後、母は薬屋を切り盛りしながら、闇米販売や美容院経営で3人の子を育てたが、旅回りの芸人との同居を始めた。この義父から虐待を受け、ひさしはストレスから円形脱毛症と吃音症になった。その後、義父に有り金を持ち逃げされ、生活苦のため母はひさしをカトリック修道会ラ・サール会の孤児院「光が丘天使園」(宮城県仙台市)に預けた。孤児院ではカナダ人修道士たちが献身的に児童に接し、修道服の羅紗を子供たちの通学服に回すなど、その生き方は入所児童を感動させ、ひさしも洗礼を受け「マリア・ヨゼフ」の洗礼名を得た(後に上京後、棄教)。しかし、孤児院での生活は理不尽な体罰やいじめが横行する弱肉強食の環境でもあり、当時のひさしは弟がいじめられてもかばえず、口のうまさで渡り歩いた側面もあったと友人は証言している。この孤児院時代は、彼の自著『四十一番の少年』にも描かれている。
第二次世界大戦は井上ひさしが11歳の時に終結した。この戦争体験は、彼のその後の執筆スタイルを形成し、反戦の視点を育むこととなった。
1.2. 学生時代と初期経験
1950年、井上ひさしは宮城県仙台第一高等学校に進学し、孤児院から通学した。この高校時代は、半自伝的小説『青葉繁れる』に描かれている。在学中は新聞部に所属し、同級生に憲法学者の樋口陽一、1学年上級生には俳優の菅原文太がいた。この時期は投稿や読書、映画、野球に熱中し、成績は低迷した。
東北大学と東京外国語大学の受験に失敗し、早稲田大学の補欠合格と慶應義塾大学図書館学科の合格を果たしたが、学費を払うことができなかった。孤児院の神父の推薦で1953年に上智大学文学部ドイツ文学科に入学した。しかし、ドイツ語に興味が持てず、生活費も底をついたため2年間休学し、岩手県の国立釜石療養所の事務職員として働いた。この間、看護婦への憧れから医師を志し、東北大学医学部と岩手医科大学を受験したが失敗に終わった。彼の自称する経歴には虚構が含まれていると友人が主張している。
1956年、上智大学外国語学部フランス語科に復学した。釜石で働いて貯めた15.00 万 JPYは、赤線に通い詰めて2か月で使い果たしたと自著で述べている。
在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始めた。当時のストリップは、1時間程度の小喜劇を出し物としており、フランス座は渥美清をはじめとする多くの喜劇役者が活躍する場であった。これらの大学時代の経験は、小説『モッキンポット師の後始末』に(フィクションを交えながら)描かれている。
2. 文学・芸術活動
井上ひさしは、放送作家としてキャリアをスタートさせ、後に劇作家、小説家としてその才能を大きく開花させた。彼の作品は数々の文学賞を受賞し、彼自身が創設した劇団「こまつ座」は、彼の思想と芸術を表現する重要な場となった。
2.1. 初期活動:放送作家・劇作家時代
1960年に上智大学を卒業後、井上ひさしは放送作家として活動を開始した。1961年には広告代理店に勤めていた西舘好子と結婚し、3人の娘をもうけた。
1964年4月から5年間放映された山元護久との共作『ひょっこりひょうたん島』は、国民的な人気番組となった。しかし、作品中に登場する「国民すべてが郵便局員」であるという「ポストリア」の設定が郵政を馬鹿にしていると抗議を受け、放送が打ち切りになったという経緯がある。その後、1970年4月からは『ネコジャラ市の11人』が放送されたが、時代的背景から体制批判であるとの抗議を受け、3年間の放映で終了した。この頃、彼はてんぷくトリオのコント台本も数多く手がけている。
1969年、『ひょっこりひょうたん島』に声優として出演していた熊倉一雄が主宰する劇団テアトル・エコーに『日本人のへそ』を書き下ろしたことを契機に、本格的に戯曲の執筆を始め、小説や随筆などにも活動範囲を広げていった。この時期には、SFジャンルにも足を踏み入れており、ラジオドラマ『Xマン』(1960年)や、子供向け番組ながら大人向けのユーモアやダークな要素を含んだ『ひょっこりひょうたん島』を手がけた。また、アニメの主題歌作詞や脚本も担当し、『ひみつのアッコちゃん』、『アンデルセン物語』、『ムーミン』(1969年)のテーマソング作詞や、映画『長靴をはいた猫』(1969年)の作詞・脚本を手がけた。
2.2. 主要作品と文学的業績
井上ひさしは、そのキャリアを通じて数々の文学賞を受賞し、日本の文学界に確固たる地位を築いた。彼の作品は、江戸時代の戯作の伝統を受け継ぐ風刺的な喜劇として文学的評価を得た。
1972年7月、『手鎖心中』で第67回直木三十五賞を受賞した。選考委員会では、柴田錬三郎や司馬遼太郎から一部不備を指摘する声もあったが、水上勉が「軽妙にしてずっしりと重い」、松本清張が「ふざけた小説だとみるのは皮相で、作者は戯作者の中に入って現代の「寛政」を見ている」と高く評価し、綱淵謙錠の『斬』と同時受賞となった。
1974年1月からは初の連載小説「熱風至る」を『週刊文春』に連載した。新選組をモチーフとした時代小説であったが、近藤勇が被差別部落出身であったとする内容が編集部の不興を買い、連載は2年で完結を待たずに終了した。井上自身は、出自は問題ではなく、新選組の行動を通して幕末史を考えたかったが、編集長による自己検閲が始まり、執筆意欲が失われたと述べている。
1982年2月、『吉里吉里人』で第33回読売文学賞と第2回日本SF大賞を受賞した。この作品は、レスター・ヘミングウェイのニューアトランティスに触発されたもので、第13回星雲賞(日本長編部門)も受賞している。
その他の主要な小説作品には、1986年から1990年にかけて5巻が刊行された『四千万歩の男』、1986年に『腹鼓記』『不忠臣蔵』で第20回吉川英治文学賞、1991年に『シャンハイムーン』で第27回谷崎潤一郎賞、1999年に『東京セブンローズ』で第47回菊池寛賞を受賞している。また、1988年には昭和時代の庶民の生活を描いた喜劇三部作『きらめく星座』『闇に咲く花』『雪やこんこん』を完成させた。
戯曲では、1980年に『しみじみ日本・乃木大将』と『小林一茶』で第31回読売文学賞(戯曲賞)を受賞した。2002年の戯曲『太鼓たたいて笛吹いて』は、作家林芙美子の晩年を題材にしたもので、第44回毎日芸術賞と第6回鶴屋南北戯曲賞を受賞した。彼の作品『父と暮せば』は、ロジャー・パルバースによって英語に翻訳され、『The Face of Jizo』として出版されている。
晩年には、沖縄戦を題材にした新作戯曲『木の上の軍隊』が2010年7月に上演予定であったが、執筆に至らなかった。また、豊竹咲大夫の求めに応じて井原西鶴の作品を元にした文楽の新作台本を2011年に上演する計画もあったが、こちらも執筆されずに終わった。
2.3. 受賞歴
井上ひさしが受賞した主要な文学賞、芸術賞、名誉は以下の通りである。
- 1972年 - 『道元の冒険』で第17回岸田國士戯曲賞、第22回芸術選奨新人賞
- 1972年 - 『手鎖心中』で第67回直木三十五賞
- 1980年 - 『しみじみ日本・乃木大将』『小林一茶』で第31回読売文学賞(戯曲賞)
- 1982年 - 『吉里吉里人』で第2回日本SF大賞、第33回読売文学賞(小説賞)、第13回星雲賞(日本長編部門)
- 1986年 - 『腹鼓記』『不忠臣蔵』で第20回吉川英治文学賞
- 1991年 - 『シャンハイムーン』で第27回谷崎潤一郎賞
- 1999年 - 『東京セブンローズ』で第47回菊池寛賞、川西町名誉町民
- 2001年 - 第71回朝日賞
- 2003年 - 『太鼓たたいて笛吹いて』で第44回毎日芸術賞、第6回鶴屋南北戯曲賞
- 2004年 - 文化功労者
- 2009年 - 第65回日本芸術院賞・恩賜賞
- 2010年 - 第17回読売演劇大賞芸術栄誉賞、山形県県民栄誉賞
2.4. 劇団「こまつ座」の創設と活動
1983年1月、井上ひさしは自身の戯曲を専門に上演するための劇団「こまつ座」を立ち上げた。劇団の第1回公演は1984年4月5日の『頭痛肩こり樋口一葉』であった。こまつ座は公演パンフレット「the座」を発行し、前口上や後口上、シナリオを掲載していた。
こまつ座では、樋口一葉や石川啄木といった作家の生涯を題材にした伝記的な作品が上演された。また、林芙美子の晩年を描いた『太鼓たたいて笛吹いて』も上演され、高い評価を得た。
井上ひさしは自他共に認める遅筆で知られ、自ら「遅筆堂」という戯号を用いるほどであった。この遅筆のため、こまつ座の公演では、戯曲の完成が間に合わず、公演中止や初日延期、公演期間の短縮といった事態が何度か発生した。彼はこうした事態による損失を私財を投じて補填したという。娘の麻矢によると、書き始めると早いが、それまでに時間がかかったという。また、自ら台本の謄写版を切ることが多かったが、井上の原稿は丁寧で読みやすいものであった。
2.5. 文学団体での活動と社会貢献
井上ひさしは、作家活動の傍ら、文学界の要職を歴任し、幅広い社会貢献活動を行った。
彼は日本ペンクラブの第14代会長(2003年 - 2007年)を務めたほか、日本文藝家協会理事、日本劇作家協会理事(2004年4月 - )、千葉県市川市文化振興財団理事長(2004年7月 - )などを歴任した。また、世界平和アピール七人委員会委員、初代仙台文学館館長(1998年 - 2007年)、もりおか啄木・賢治青春館名誉館長(2002年 - )も務めた。
さらに、彼は多くの文学賞の選考委員を務め、直木三十五賞、読売文学賞、谷崎潤一郎賞、大佛次郎賞、川端康成文学賞、吉川英治文学賞、岸田國士戯曲賞、講談社エッセイ賞、日本ファンタジーノベル大賞、小説すばる新人賞などが挙げられる。2009年からは文化学院の特別講師も務めた。
1987年、彼は故郷である山形県川西町に自身の蔵書を寄贈し、図書館「遅筆堂文庫」が開設された。収蔵されている本には井上自身による書き込みがなされており、彼が全ての本に目を通していたことがうかがえる。また、同所には「生活者大学校」を設立し、多くの言論人を招いて講座を開講した。特に農業関係の催しが多かった。
1996年には岩手県一関市で3日間の作文教室を行い、その講義録は『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』として出版された。1998年には現大崎市の吉野作造記念館の名誉館長に就任し、後に吉野作造兄弟の評伝劇『兄おとうと』(2003年)を執筆している。
3. 文体・思想・社会的観点
井上ひさしの文学は、その独特の文体と、戦争、平和、人権に対する深い思索によって特徴づけられる。彼は作品を通じて、社会の不条理を鋭く批判し、人間の尊厳と社会正義の実現を訴え続けた。
3.1. 文学的特徴と言語運用
井上ひさしは、「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に書く」という創作モットーを掲げていた。これは、永六輔が紹介した仏教の説教者の話術の極意を分かりやすく言い換えたものである。彼の文体は軽妙であり、言語感覚に鋭いことで知られる。
彼は「国語学者も顔負け」と称されるほど言葉に関する知識が深く、『週刊朝日』では大野晋、丸谷才一、大岡信といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載した。また、『私家版日本語文法』や『自家製文章読本』など、日本語に関する随筆も多数執筆している。
井上ひさしの作品は、質の高い日本語を駆使しているため、翻訳が難しいとされる。彼の戯曲は日本の文化に深く根ざしているため、異文化への翻訳は困難を伴うが、日本の視点を理解する上で役立つと考えられている。彼は鋭いユーモアと言葉遊びを特徴とし、特に小説『吉里吉里人』でその才能を発揮した。
彼は喜劇作家として名声を確立した。初期の放送作家やストリップ劇場のコメディ作家としての経験が、彼の喜劇作家としての才能を育んだ。また、父の死や第二次世界大戦といった苦難に満ちた幼少期の経験は、彼が庶民の生活に関心を持つきっかけとなった。
井上ひさしの戯曲には、貧しい人々や弱い人々に対する温かく優しい視点が示されており、社会の優しい側面や希望を描こうとする姿勢が見られる。彼の作品はヒューマニズムに基づいており、これが彼の人気の一因となっている。彼はしばしば、戦争や災害によって庶民の生活がいかに破壊され、そしていかに彼らが自らを癒していくかに焦点を当てていた。
彼は浅草フランス座を「ストリップ界の東京大学だった」と語っている。
3.2. 戦争・平和・人権への省察
井上ひさしは、戦争に対して自己反省的な姿勢を示していた。彼の視点は幼少期の経験に根差しており、幼い頃は戦争で死ぬと思っていたが、原子爆弾の使用によって戦争が終わり、新たな世界を見る機会を得た。この戦争体験は、彼自身を一人の人間として、変化を生み出す力を持たない存在であると認識させた。
彼は日本の戦争体験を振り返り、「広島と長崎の話題を出すと、『日本人は当時アジアを犠牲にしたのだから、被害者であることにこだわるのは間違っている』と言う人が増えている。この見解の後半は確かに正確だ。日本人はアジア全域を犠牲にした。しかし、私はこの前半の主張を決して受け入れない。なぜなら、二つの原子爆弾は単に日本人だけに落とされたのではなく、全人類の存在に落とされたと信じているからだ。...現代世界は核兵器の存在から逃れることはできない」と述べている。
彼の作品には、広島への原爆投下を題材としたものが多く、『父と暮せば』や『紙屋町さくらホテル』、朗読劇『少年口伝隊一九四五』などが挙げられる。2009年7月に広島市で行われた講演会で、彼は「同年代の子どもが広島、長崎で地獄を見たとき、私は夏祭りの練習をしていた。ものすごい負い目があり、いつか広島を書きたいと願っていた」「今でも広島、長崎を聖地と考えている」と語った。これらの作品を通じて、彼は人間の尊厳と社会正義への深い関心を一貫して示している。
3.3. 社会・政治的見解
井上ひさしは、公然たる平和主義者であった。2004年には大江健三郎とともに日本国憲法を擁護する政治団体「九条の会」の「呼びかけ人」の一人となり、各地で日本国憲法第9条を変えないよう訴えるなど、積極的に政治活動を行った。彼は国鉄分割民営化について「ナショナルアイデンティティの崩壊につながる」として反対する議論を『赤旗日曜版』に寄稿した。
彼は無防備都市宣言を支持しており、「(真の国際貢献をなすためには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、ノーベル医学賞は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、ブッシュさんもプーチンさんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり人質同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる」と発言している。この「文明による武装」という概念は、彼の小説『吉里吉里人』にも登場し、吉里吉里国の国策として描かれている。
井上ひさしは「徹底した天皇制批判者」であったと前妻の西舘好子は記し、娘の石川麻矢も「父は基本的には天皇制に反対の立場を取ってきた」と述べている。しかし、その後考えに変化があったのか、彼が文化功労者を辞退せず、天皇主催の茶会に出席し、大岡昇平、木下順二、武田泰淳ら反体制文学者が辞退した日本芸術院会員になったことに対しては、小谷野敦や絓秀実などから批判の声が上がった。
4. 個人生活
井上ひさしの私生活は、その複雑な家族関係や、意外な個人的な関心事によって特徴づけられる。彼の人生の歩みは、作品に深い人間味と多面的な視点を与えた。
4.1. 家族関係
井上ひさしは二度の結婚を経験している。最初の妻は舞台女優で政治活動家でもあった西舘好子で、1961年に結婚し、3人の娘をもうけた。この結婚に際し、井上は西舘の実家である「内山」姓を名乗り、1961年から1986年まで本名を内山 廈(うちやま ひさし)としていた。これは、転居により本籍地が遠くなり手続きが手間になったため、婿入りする形にすれば簡便になるという理由であったと著書『ブラウン監獄の四季』に記している。
1986年に西舘好子と離婚し、井上と好子双方が記者会見を開き、マスコミを賑わせた。離婚の経緯には、複雑な家庭内問題が絡んでいた。三女の石川麻矢が1998年に著した『激突家族 井上家に生まれて』によると、井上と好子は共に強い個性の持ち主で、互いに妥協せず、夫婦喧嘩は大変派手で、場所を構わず「やったらとことん」であった。しかし、子どもに対して暴力をふるうことはなく、好子は井上にとって「優秀なプロデューサーであり、マネージャーであった」と麻矢は記している。執筆で井上の足がむくむと好子がマッサージをするなど、良好な関係も存在した。
しかし、執筆が滞るなどすると、井上は好子に暴力を振るうようになり、編集者の中には「好子さん、あと二、三発殴られてください」などと、井上の暴力を煽る者もいたという。好子は殴られて顔が変形しても、「忍耐とかそんな感情ではなく、作品を作る一つの過程とでも思っているような迫力で父を支えていた」と麻矢は記している。
劇団「こまつ座」の旗揚げは、二人にとって共通の大きな夢の実現であったが、麻矢は、この中で夫婦の方向性が少しずつずれてきたと記している。好子は、どんなに迷惑をかけても素晴らしい作品を残せばいいという井上を傲慢だと感じるようになり、戯曲『パズル』の台本が完成せずに上演がキャンセルされたことで、作家の妻の立場と関係者に迷惑をかけたこととの間で苦しんだと述べている。
この時期に好子とこまつ座舞台監督の西舘督夫との不倫が発覚し、1985年に好子は井上家を出て、翌年6月に離婚した。麻矢は、好子が座長と作家の妻の立場の狭間で疲れ切っていたこと、更年期に当たっていたこと、井上が好子にとても厳しかったことを挙げている。
離婚後、西舘好子は『修羅の棲む家』(はまの出版)で井上から受けた家庭内暴力を克明に明かした。この本では「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て...」と記されている。井上自身も離婚以前に『家庭口論』などの随筆で自身のDVについて触れている。一方で、矢崎泰久は、好子が井上に対して「嚙み付く、ひっかく、飛び道具を使う、嚙んだら離さない」といった暴力を一方的に振るっていたわけではなかったという目撃証言もしている。
これらのDVについては、井上側は真偽も含めて黙殺する対応をとり、公職や公的活動を一切控えることもなかったが、特に追及する声も起こらずに話題としては終息した。西舘好子は、自身の著書で、井上が人気作家であることから、いかに出版社の人間たちが井上を守っていたかを綴っている。
離婚後、麻矢は数年後に長女の都と入れ替わってこまつ座の代表に就任するなど、急速な和解ぶりを示し、井上の死に際しても異例の記者会見で悼辞を述べるに至った。一方、都は臨終にも呼ばれなかったなど、複雑な家族関係が指摘された。なお、二女の綾も臨終・葬儀に呼ばれていない。
後妻の井上ユリは、井上没後の2010年6月に発売された『文藝春秋』7月号に寄稿した「ひさしさんが遺したことば」において、井上との結婚生活において口論になったことはほとんどなかったと記している。
また、西舘好子は2018年2月20日に発行された『家族戦争 うちよりひどい家はない!?』(幻冬舎)において、「泥沼離婚をしたあと、私たちは真夜中の電話を二十数年間続けていました。(中略)今振り返れば、あの二十数年という歳月は、お互いの憎悪を浄化するために必要な時間だったのかもしれない、と思います。冗談を言い合い、ふざけ合っていたときは、単なる仲のいい友人同士でした。」と述べ、また「家族戦争を終えた今は、井上さんの書いた作品が次の世代に読み継がれ、多くの人に笑ったり泣いたりしてもらえることを、私は心より願っています。」と記している。
二度目の結婚相手は、随筆家で翻訳家の米原万里の妹であるユリで、日本共産党の幹部であった米原昶の娘であった。井上とユリの間には息子が一人いる。
4.2. 生活様式と関心事
井上ひさしは、1970年代には千葉県市川市に住み、1989年からは神奈川県鎌倉市に転居し、死去するまでそこで暮らした。
彼は飛行機での旅行を嫌っていたが、イタリアのボローニャの街に魅了され、2004年にはそこを訪れている。1976年には、ロジャー・パルバースの招きによりオーストラリア国立大学日本語科で客員教授として講義を行うためにオーストラリアを訪れた経験がある。また、1980年代には、彼が執筆を計画していた宮本武蔵の物語のブロードウェイ版についての話し合いのため、ニューヨーク市を訪れたこともある。
井上は推理小説を愛読し、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』を購読していた。自身の芝居も「ほとんどが、全部推理仕立てなんです。推理仕立てで失敗した作品はそうないんです」と語っている。彼はエスペラント語にも高い関心を示しており、戯曲『イーハトーボの劇列車』では、登場人物の宮沢賢治がエスペラントの講習を行っている場面がある。
彼は、謂れのない批判には猛然と反撃した。朝日新聞の書評で『吉里吉里人』が大江健三郎の『同時代ゲーム』のパロディだと書かれた際には、「僕に対しては勿論、大江さんにも失礼です。書評家の名前が分ったら、僕は決闘を申し込みます。僕は杖術の使い手だから負けません。あの書評家の脳味噌をゴチャゴチャに掻きまわしてやります。批判してはいけない、といっているのじゃありません。事実を調べずに、また肝腎の本を読みもせずにきいた風のことを言う文筆家は困るのです。毒虫です。人間じゃない。言葉の本当の意味で「馬鹿」です」と語った。
プロ野球の東京ヤクルトスワローズの熱心なファンとしても知られ、数少ない国鉄スワローズ時代からのファンであった。これは、1952年に同郷の佐藤孝夫が新人王を取ったら未来永劫応援し続けるとキリストに祈り、それが実現したため、「天罰が下るのが怖い」から応援し続けているとのことである。また、三女の石川麻矢によると、パシフィック・リーグでは近鉄バファローズのファンであったという。
彼は愛煙家で、1日40本ものたばこを吸い、「喫煙と肺癌は無関係」という見解をたびたび披露していた。しかし、2009年10月に自身が肺癌と診断されると、「やはり肺がんとたばこには因果関係があるんだね。さすがに禁煙したよ」と述べていたという。
井上は膨大な資料を収集して作品を描くことでも著名であり、彼の蔵書は後に「遅筆堂文庫」として寄贈された。彼は同様に膨大な資料を元に作品を描くことで有名な司馬遼太郎と同じ資料を探していて、一足違いで先を越されたエピソードもある。
彼の政治的姿勢に抗議電話をかけてきた右翼に対し、「あなたは歴代天皇の名前が言えるのか、自分は言える」とやりこめた逸話も残されている。
5. 死と遺産
井上ひさしは、肺がんとの闘病の末にその生涯を閉じた。しかし、彼が日本の演劇界と文学界に残した遺産は計り知れない。彼の作品は世代を超えて読み継がれ、その思想は多くの人々に影響を与え続けている。
5.1. 死
井上ひさしは2009年10月に肺癌と診断され、闘病生活に入った。治療中の2010年4月9日、75歳で自宅にて死去した。
彼の死の直前には、沖縄戦を題材にした新作戯曲『木の上の軍隊』の上演が2010年7月に予定されていたが、執筆に至らなかった。また、豊竹咲大夫の求めに応じて井原西鶴の作品を元にした文楽の新作台本を2011年に上演する計画もあったが、こちらも執筆されずに終わった。
彼の戒名は「智筆院戯道廈法居士(ちひついんぎどうかほうこじ)」である。墓所は浄光明寺にある。彼の命日である4月9日は、没後5年にあたる2015年より、代表作『吉里吉里人』にちなんで吉里吉里忌と名付けられ、文学忌の一つとなっている。
5.2. 評価と影響力
井上ひさしは、2004年に日本政府から文化功労者に指定され、2009年には日本芸術院会員に選ばれるなど、その功績は高く評価されている。彼の戯曲は現代日本において第一級の完成度を誇るとされ、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立した。
彼の死去に際しては、同時代の著名な劇作家たちから最大級の賛辞が寄せられた。別役実は「国民作家の名にふさわしい」、三谷幸喜は「井上作品のあの深みと重み。同じ方向に行っても勝てるわけはないですから」、野田秀樹は「父のような存在でした。いつか"ライバルです"って、言ってみたかった」と追悼コメントを述べた。また、彼の戯曲『ムサシ』の英米公演を控えていた演出家の蜷川幸雄は、訃報を受け「井上さんの舞台は世界の最前線にいるんだということを伝えたい」と語った。彼の書評眼の鋭さもまた高く賞賛されている。
井上は、活動初期にはテアトル・エコーの座付き作者として、主宰者である熊倉一雄らと長きにわたる交流があった。その後は木村光一、栗山民也、鵜山仁といった演出家と、晩年には蜷川幸雄との作・演出コンビが多かった。『ひょっこりひょうたん島』など多くの放送台本を共同執筆した山元護久は1978年に早世している。
小説関係では、晩年は大江健三郎と行動をともにすることが多かったが、同い年で笑いを武器にする筒井康隆との親交も深く、この3人は相互にエールを送る文章を多く残している。井上の死の数日後、筒井はネット随筆で「井上ひさしが死んでしばらくは茫然として何も手がつかなかった」と記している。新潮社は一時期、「小説新潮新人賞」を井上と筒井の二人だけで選考させていた。
一世代上の司馬遼太郎を尊敬しており、親交があったほか、対談し共著で『国家・宗教・日本人』を出版している。井上は後に司馬遼太郎賞の選考委員を長く務めた。親交はなかったが、安部公房も尊敬しており、同じ読売文学賞の選考委員になった時期があったものの、なかなか話す機会がなかったという。
高校の先輩である菅原文太とは中年以降に交友が再開し、ベストセラー『吉里吉里人』の映画化権も菅原に委ねられた。この映画化は結局実現しなかったにもかかわらず、30年近くも引き上げられることなく預けっぱなしになっていたことが彼の死の際に明らかになった。
漫画家の本宮ひろ志とは、市川市で長く隣家の関係だったことがあり、交流があった。本宮は随筆『天然まんが家』で、井上への尊敬を記している。
劇作家で演出家のロジャー・パルバースは、井上作品の翻訳を行うほか、個人的にも交流があり、1976年には彼の招きにより井上はオーストラリア国立大学日本語科で客員教授として講義を行っている。
イラストレーターでは、安野光雅や和田誠など何人かの名コンビが存在するが、山藤章二との共同作業が最も多く、共著扱いの本も少なくない。山藤の、出っ歯を強調した井上像は、本人を写した写真や映像以上に広く知られている。
6. 作品一覧
井上ひさしは、戯曲、小説、随筆、放送脚本など、多岐にわたるジャンルで膨大な作品群を残した。彼の創作活動は、日本の文化と社会に深く根ざし、その独特のユーモアと洞察力で多くの読者や観客を魅了し続けた。
6.1. 戯曲
以下は、井上ひさしが創作した主要な戯曲作品のタイトルと、その初演時の情報である。
- 『日本人のへそ』(1969年 テアトル・エコー)※1977年に須川栄三監督で映画化
- 『表裏源内蛙合戦』(1970年 テアトル・エコー)
- 『十一ぴきのネコ』(1971年 テアトル・エコー)
- 『道元の冒険』(1971年 テアトル・エコー)
- 『珍訳聖書』(1973年 テアトル・エコー)
- 『藪原検校』(1973年 五月舎/西武劇場) - 『雨』と『小林一茶』とともに「江戸三部作」とされる
- 『天保十二年のシェイクスピア』(1974年 西武劇場)
- 『それからのブンとフン』(1975年 テアトル・エコー) - 井上の小説『ブンとフン』の自身による劇化
- 『たいこどんどん』(1975年 五月舎)※井上の小説『江戸の夕立ち』の自身による劇化
- 『四谷諧談』(1975年 芸能座)
- 『雨』(1976年 五月舎/西武劇場)
- 『浅草キヨシ伝』(1977年 芸能座)
- 『花子さん』(1978年 五月舎)
- 『日の浦姫物語』(1978年 文学座)
- 『しみじみ日本・乃木大将』(1979年 芸能座)
- 『小林一茶』(1979年 五月舎)
- 『イーハトーボの劇列車』(1980年 三越劇場/五月舎)
- 『唐来参和』(1982年 しゃぼん玉座)※井上の同名小説の小沢昭一による劇化
- 『国語事件殺人辞典』(1982年 しゃぼん玉座)
- 『化粧』(1982年 地人会)
- 『吾輩は漱石である』(1982年 しゃぼん玉座)
- 『化粧 二幕』(1982年 地人会)
- 『もとの黙阿弥』(1983年 松竹)
- 『うかうか三十、ちょろちょろ四十』(1983年 劇団若草)
- 『芭蕉通夜舟』(1983年 しゃぼん玉座)
- 『頭痛肩こり樋口一葉』(1984年 こまつ座)
- 『きらめく星座』(1985年 こまつ座) - 『闇に咲く花』『雪やこんこん』とともに「昭和庶民伝三部作」とされる
- 『國語元年』(1986年 こまつ座)
- 『泣き虫なまいき石川啄木』(1986年 こまつ座)
- 『花よりタンゴ』(1986年 こまつ座)
- 『キネマの天地』(1986年 松竹)
- 『きらめく星座』(1987年 こまつ座)
- 『闇に咲く花』(1987年 こまつ座)
- 『雪やこんこん』(1987年 こまつ座)
- 『イヌの仇討』(1988年 こまつ座) - 討ち入り当夜の吉良義央が生類憐れみの令に反発し、犬のいない理想郷を夢見る
- 『人間合格』(1989年 こまつ座)
- 『シャンハイムーン』(1991年 こまつ座)
- 『ある八重子物語』(1991年 松竹)
- 『中村岩五郎』(1992年 地人会)
- 『マンザナ、わが町』(1993年 こまつ座)
- 『父と暮せば』(1994年 こまつ座)※2004年に黒木和雄監督で映画化
- 『黙阿彌オペラ』(1995年 こまつ座)
- 『紙屋町さくらホテル』(1997年 新国立劇場)
- 『貧乏物語』(1998年 こまつ座)
- 『連鎖街のひとびと』(2000年 こまつ座)
- 『化粧二題』(2000年 こまつ座)
- 『夢の裂け目』(2001年 新国立劇場) - 「夢の泪」「夢の痂」とともに「東京裁判三部作」とされる
- 『太鼓たたいて笛ふいて』(2002年 こまつ座)
- 『イヌの仇討あるいは吉良の決断』(2002年 オペラシアターこんにゃく座)
- 『兄おとうと』(2003年 こまつ座)
- 『夢の泪』(2003年 新国立劇場)
- 『水の手紙』(2003年 国民文化祭・やまがた2003)
- 『円生と志ん生』(2005年 こまつ座)
- 『箱根強羅ホテル』(2005年 新国立劇場)
- 『夢の痂』(~のかさぶた)(2006年 新国立劇場)
- 『私はだれでしょう』(2007年 こまつ座)
- 『ロマンス』(2007年 こまつ座/シス・カンパニー)
- 『リトル・ボーイ、ビッグ・タイフーン~少年口伝隊一九四五~』(2008年 日本ペンクラブ)
- 『ムサシ』(2009年こまつ座/ホリプロ)
- 『組曲虐殺』(2009年 こまつ座/ホリプロ)
- 『うま -馬に乗ってこの世の外へ-』(2022年) - 未発表戯曲
6.2. 小説・童話
以下は、井上ひさしが発表した代表的な小説や児童文学作品のリストである。
- 『ブンとフン』(1970年)
- 『モッキンポット師の後始末』(1972年)
- 『手鎖心中』(1972年)
- 『青葉繁れる』(1973年)
- 『四十一番の少年』(1973年)
- 『イサムよりよろしく』(1974年)
- 『いとしのブリジット・ボルドー』(1974年)
- 『おれたちと大砲』(1975年)
- 『合牢者』(1975年)
- 『ドン松五郎の生活』(1975年)
- 『浅草鳥越あずま床』(1975年)
- 『日本亭主図鑑』(1975年)
- 『新東海道五十三次』(1976年)
- 『偽原始人』(1976年)
- 『新釈遠野物語』(1976年)
- 『黄色い鼠』(1977年)
- 『十二人の手紙』(1978年)
- 『ファザー・グース 第1集』(1978年)
- 『さそりたち』(1979年)
- 『戯作者銘々伝』(1979年)
- 『他人の血』(1979年)
- 『花石物語』(1980年)
- 『喜劇役者たち』(1980年)
- 『下駄の上の卵』(1980年)
- 『吉里吉里人』(1981年)
- 『月なきみそらの天坊一座』(1981年)
- 『にっぽん博物誌』(1983年)
- 『ライオンとソフトクリーム』(1983年)
- 『四捨五入殺人事件』(1984年)
- 『犯罪調書』(1984年)
- 『不忠臣蔵』(1985年)
- 『モッキンポット師ふたたび』(1985年)
- 『江戸紫絵巻源氏』(1985年)
- 『腹鼓記』(1985年)
- 『馬喰八十八伝』(1986年)
- 『四千万歩の男 蝦夷篇』(1986年)
- 『野球盲導犬チビの告白』(1986年)
- 『ナイン』(1987年6月)
- 『四千万歩の男 伊豆篇』(1989年)
- 『たそがれやくざブルース』(1991年)
- 『百年戦争』(1994年)
- 『わが友フロイス』(1999年)
- 『東京セブンローズ』(1999年)
- 『イソップ株式会社』(2005年)
- 『京伝店の烟草入れ 井上ひさし江戸小説集』(2009年)
- 『一週間』(2010年)
- 『グロウブ号の冒険 附ユートピア諸島航海記』(未完)(2011年)
- 『黄金の騎士団』(未完)(2011年)
- 『東慶寺花だより』(未完)(2011年)
- 『一分ノ一』(未完)(2011年)
- 『熱風至る』(未完)(2022年)
6.3. 随筆
以下は、井上ひさしが言語、文化、個人的経験について綴った多数の随筆集である。
- 『家庭口論』正続(1974年 - 1975年)
- 『ブラウン監獄の四季』(1977年)
- 『笑談笑発 対談集』(1978年)
- 『パロディ志願 エッセイ集1』(1979年)
- 『風景はなみだにゆすれ エッセイ集2』(1979年)
- 『ジャックの正体 エッセイ集3』(1979年)
- 『さまざまな自画像 エッセイ集4』(1979年)
- 『私家版日本語文法』(1981年)
- 『聖母の道化師 エッセイ集5』(1981年)
- 『ことばを読む』(1982年)
- 『井上ひさしの世界』(1982年)
- 『本の枕草紙』(1982年)
- 『自家製文章読本』(1984年)
- 『ああ幕があがる 井上芝居ができるまで』(こまつ座共著 1986年)
- 『遅れたものが勝ちになる エッセイ集6』(1989年)
- 『悪党と幽霊 エッセイ集7』(1989年)
- 『井上ひさしのコメ講座』正続(1989年 - 1991年)
- 『やあおげんきですか』(1989年)
- 『コメの話』(1992年)
- 『どうしてもコメの話』(1993年)
- 『ニホン語日記』全2巻(1993年 - 1996年)
- 『死ぬのがこわくなくなる薬 エッセイ集8』(1993年)
- 『文学強盗の最後の仕事 エッセイ集9』(1994年)
- 『餓鬼大将の論理 エッセイ集10』(1994年)
- 『宮沢賢治に聞く』(こまつ座共著 1995年)
- 『井上ひさしの日本語相談』(1995年)
- 『ベストセラーの戦後史』全2巻(1995年)
- 『樋口一葉に聞く』(こまつ座共著 1995年)
- 『本の運命』(1997年)
- 『演劇ノート』(1997年)
- 『井上ひさしの農業講座』(こまつ座共著 1997年)
- 『太宰治に聞く』(こまつ座共著 1998年)
- 『菊池寛の仕事 文藝春秋、大映、競馬、麻雀...時代を編んだ面白がり屋の素顔』(こまつ座共著 1999年)
- 『物語と夢 対談集』(1999年)
- 『わが人生の時刻表』(2000年)
- 『四千万歩の男 忠敬の生き方』(2000年)
- 『浅草フランス座の時間』(こまつ座共著 2001年)
- 『日本語は七通りの虹の色』(2001年)
- 『吾輩はなめ猫である』(2001年)
- 『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(2001年)
- 『にほん語観察ノート』(2002年)
- 『あてになる国のつくり方 フツー人の誇りと責任』(生活者大学校講師陣共著 2002年)
- 『井上ひさしの大連 写真と地図で見る満州』(こまつ座共著 2002年)
- 『井上ひさしコレクション』全3巻 (2005年4月 - 6月)
- 『ふふふ』(2005年)
- 『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』(2006年)
- 『映画をたずねて 対談集』(2006年)
- 『ボローニャ紀行』(2008年)
- 『わが蒸発始末記 エッセイ選』(2009年)
- 『ふふふふ』(2009年)
- 『井上ひさし全選評』(2010年)
- 『日本語教室』(2011年)
- 『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(2011年)
- 『初日への手紙:「東京裁判三部作」のできるまで』(2013年)
6.4. 放送・アニメ脚本
以下は、井上ひさしが手がけたテレビドラマ、ラジオ番組の脚本、アニメの主題歌作詞など、放送・大衆文化分野での作品リストである。
- ラジオ**
- 『Xマン』(1960年 旧TBSラジオ)
- 『モグッチョチビッチョこんにちは』(1962年 NHK第1放送)
- 『吉里吉里独立す』(1964年 NHK第1放送。ラジオ小劇場枠。『吉里吉里人』の前駆)
- 『ブンとフン』(1969年 NHK第1放送。1970年小説化)
- テレビ**
- 『ひょっこりひょうたん島』(1964年 - 1969年 山元護久と共作。NHK総合テレビ)
- 『忍者ハットリくん (実写版)』(1966年。「服部半蔵」名義。主題歌『忍者ハットリくん』の作詞も担当)
- 『忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ』(1967年、「服部半蔵」名義)
- 『ピュンピュン丸』(1967年、1970年 エンリコ・トリゾーニ名義で山元護久と共同脚本。番組打ち切りの影響で作品の一部が後年放送された)
- 『ムーミン』(1969年 『ムーミンのテーマ』作詞他)
- 『ひみつのアッコちゃん』(第1期(1969年)主題歌『ひみつのアッコちゃん』『すきすきソング』作詞(山元護久と共作))
- 『ネコジャラ市の11人』(1970年 山元護久、山崎忠昭と共作。NHK総合テレビ)
- 『アンデルセン物語』(1971年 オープニングソング『ミスター・アンデルセン』作詞他)
- 『モッキンポット師の後始末』(1972年 家庭口論と共に原作とした連続ドラマ『ボクのしあわせ』がフジテレビジョンにて毎週月曜日放送。今野勉演出。1973年8月6日 - 12月24日)
- 『國語元年』(1985年 ドラマ人間模様枠にて45分5話構成で放送。翌年舞台劇化。NHK総合テレビ)
- 『月なきみそらの天坊一座』(1986年 銀河テレビ小説枠にて20分15話構成で放送。翌年再編集されファミリードラマ枠で再放送。 NHK総合テレビ)
- 映画**
- 『長靴をはいた猫』(1969年) - 作詞・脚本
6.5. 共著・その他作品
以下は、井上ひさしが他の芸術家との共著、校歌の作詞、その他の多様な創作活動のリストである。
- 共著**
- 『ひょっこりひょうたん島』全4巻 山元護久(1964年 - 1965年)
- 『長靴をはいた猫』山元護久(1969年)
- 『ひさし・章二巷談辞典』山藤章二(1981年)
- 『月のパロディ大全集』丸谷才一(1984年)
- 『花のパロディ大全集』丸谷才一(1984年)
- 『星のパロディ大全集』丸谷才一(1984年)
- 『国ゆたかにして義を忘れ』つかこうへい(1985年)
- 『国鉄を考える』伊東光晴(1986年)
- 『ユートピア探し 物語探し』大江健三郎・筒井康隆(1988年)
- 『「日本国憲法」を読み直す』樋口陽一(1994年)
- 『拝啓水谷八重子様 往復書簡』水谷良重(1995年)
- 『国家・宗教・日本人』対談司馬遼太郎(1996年)
- 『新日本共産党宣言』不破哲三対談(1999年)
- 『話し言葉の日本語』平田オリザ(2003年)
- コント台本**
- 『てんぷくトリオのコント』1 - 3(1973年)
- 『井上ひさし笑劇全集』(1976年)
- 校歌**
- 『小さな火花』(1982年 北京日本人学校校歌 作詞を担当、作曲は團伊玖磨)
- 川西町立第一中学校
- 川西町立第二中学校
- 川西町立川西中学校 - 2011年4月に川西町の3つの中学校(第一中学校、第二中学校、玉庭中学校)が統合して開校
- 釜石市立釜石小学校(作曲:宇野誠一郎)
- その他**
- 童謡「バンパク ワンパク マーチ」 - 1970年日本万国博覧会・住友童話館のテーマソングで、井上は作詞を担当した(作曲は和田誠)
- 文楽作品『金壺親父恋達引』 - 1972年にNHKラジオ放送用に執筆され、1973年に人形を加えて撮影されテレビ放送。2016年に国立文楽劇場にて上演
- 映画『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年、高畑勲監督) - 水木しげるらとともに資料提供などに協力しておりエンドロールの「協力」にクレジットされている。井上が小説『腹鼓記』の執筆にあたるために収集したものなどで、井上が蔵書を寄贈して開設された先述の「遅筆堂文庫」もこの映画の「協力」にクレジットされている。
- ドキュメンタリー**
- 『井上ひさしのボローニャ日記』(2004年、NHK-BS)