1. 生涯
内野正雄の個人的な背景、学歴、そして死没に関する詳細は以下の通りである。
1.1. 出身地と生い立ち
内野正雄は1934年4月21日に神奈川県で生まれた。神奈川県立小田原高等学校を1953年に卒業した。
1.2. 学歴
高校卒業後、中央大学に進学し、サッカー部に所属して選手としての才能を磨いた。
1.3. 死没
内野正雄は2013年4月30日に逝去した。正確な没年は長らく不明とされていたが、2013年4月時点で故人であることが確認されている。
2. 選手経歴
内野正雄のサッカー選手としての主要な活動と業績は、クラブと日本代表での活躍に分けられる。
2.1. クラブ経歴
中央大学を卒業後、古河電気工業サッカー部に入団した。現役時代のポジションはFW(インサイドライト)であった。彼は古河電気工業サッカー部の一員として、1960年度の天皇杯で優勝に貢献した。これは実業団チームとしては初の天皇杯優勝という歴史的な快挙であった。その後も1961年度、1964年度と、計3度の天皇杯優勝を経験した。
1965年に日本サッカーリーグ(JSL)が創設されると、古河電気工業もこれに参加した。内野はJSLで47試合に出場し、19得点を挙げた。彼は1969年に現役を引退した。
2.2. 代表出場歴
内野正雄は学生時代からサッカー日本代表に選出され、国際舞台で活躍した。1955年1月2日にビルマ(現在のミャンマー)戦で日本代表としてデビューを果たした。
1956年6月に行われたメルボルンオリンピックアジア予選の韓国代表との第1戦では、貴重な先制点を挙げた。第2戦は韓国に敗れたものの、抽選の結果、日本は本大会への出場権を獲得した。同年11月には、メルボルンオリンピック本大会の代表メンバーに選出され、オーストラリア代表戦に出場した。
彼はまた、1958年アジア競技大会と1962年アジア競技大会にも出場した。1959年ローマオリンピック予選や1962 FIFAワールドカップ予選(1960年から1961年)にも参加している。1962年までに、彼は日本代表として国際Aマッチ18試合に出場し、3得点を記録した。国際Aマッチ以外の試合を含めると、代表通算31試合出場6得点という記録を残している。
2.2.1. 主要な国際Aマッチ出場記録
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1955年01月02日 | ラングーン | ビルマ | △1-1 | 竹腰重丸 | 国際親善試合 | ||
2. | 1955年01月08日 | ラングーン | ビルマ | △1-1 | 国際親善試合 | |||
3. | 1955年01月11日 | ラングーン | ビルマ | ○1-0 | 国際親善試合 | |||
4. | 1955年10月09日 | 東京都 | 後楽園競輪場 | ビルマ | △0-0 | 国際親善試合 | ||
5. | 1956年06月03日 | 東京都 | 後楽園競輪場 | 韓国 | ○2-0 | オリンピック予選 | ||
6. | 1956年06月10日 | 東京都 | 後楽園競輪場 | 韓国 | ●0-2(延長) | オリンピック予選 | ||
7. | 1956年11月27日 | メルボルン | オーストラリア | ●0-2 | オリンピック | |||
8. | 1958年05月26日 | 東京都 | 東京蹴球場 | フィリピン | ●0-1 | 川本泰三 | アジア大会 | |
9. | 1959年09月03日 | クアラルンプール | シンガポール | ○4-1 | 竹腰重丸 | ムルデカ大会 | ||
10. | 1959年09月05日 | クアラルンプール | 韓国 | △0-0 | ムルデカ大会 | |||
11. | 1959年09月06日 | クアラルンプール | 韓国 | ●1-3 | ムルデカ大会 | |||
12. | 1959年12月13日 | 東京都 | 後楽園競輪場 | 韓国 | ●0-2 | オリンピック予選 | ||
13. | 1960年11月06日 | ソウル | 韓国 | ●1-2 | デットマール・クラマー(コーチ) | ワールドカップ予選 | ||
14. | 1961年06月11日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | 韓国 | ●0-2 | 高橋英辰 | ワールドカップ予選 | |
15. | 1961年11月28日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ユーゴスラビア | ●0-1 | 国際親善試合 | ||
16. | 1962年08月30日 | インドネシア | 韓国 | ●0-1 | アジア大会 | |||
17. | 1962年09月08日 | クアラルンプール | マラヤ | △2-2 | ムルデカ大会 | |||
18. | 1962年09月12日 | クアラルンプール | パキスタン | △1-1 | ムルデカ大会 |
2.2.2. 国際Aマッチ得点記録
No. | 開催日 | 開催地 | 会場 | 相手 | 結果 | 大会 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1955年01月08日 | ラングーン | ビルマ | △1-1 | 国際親善試合 | ||
2 | 1956年06月03日 | 東京都 | 後楽園競輪場 | 韓国 | ○2-0 | オリンピック予選 | |
3 | 1959年09月06日 | クアラルンプール | 韓国 | ●1-3 | ムルデカ大会 |
3. 指導者経歴
内野正雄は選手引退後もサッカー界に貢献し、古河電気工業サッカー部の監督を2度務めた。
1966年には、選手兼任監督として平木隆三の後任として古河電気工業サッカー部の指揮を執った。その後、1979年には鎌田光夫の後任として再び監督に就任し、1983年シーズン終了まで務めた。彼の指導の下、古河電気工業サッカー部は1982年の第7回JSLカップで優勝を果たした。
4. 統計
内野正雄のサッカーキャリアにおける詳細な統計データは以下の通りである。
4.1. クラブ統計
内野正雄のJSLにおけるクラブでの出場試合数と得点は以下の通りである。
クラブ成績 | リーグ | ||||
---|---|---|---|---|---|
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | |
日本 | リーグ | ||||
1965 | 古河 | JSL1部 | 1 | ||
1966 | 5 | ||||
1967 | 7 | ||||
1968 | 5 | ||||
1969 | 1 | ||||
通算 | 47 | 19 |
4.2. 代表統計
内野正雄の日本代表での年ごとの出場試合数と得点、および監督としての成績は以下の通りである。
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1955 | 4 | 1 |
1956 | 3 | 1 |
1957 | 0 | 0 |
1958 | 1 | 0 |
1959 | 4 | 1 |
1960 | 1 | 0 |
1961 | 2 | 0 |
1962 | 3 | 0 |
通算 | 18 | 3 |
4.2.1. 監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯 | 天皇杯 | |||
1966 | JSL | 古河 | 3位 | 14 | 20 | 9 | 2 | 3 | - | ベスト4 |
1979 | JSL1部 | 5位 | 18 | 40 | 7 | 5PK勝 2PK敗 | 4 | 準優勝 | ベスト8 | |
1980 | 3位 | 18 | 22 | 9 | 4 | 5 | ベスト8 | ベスト8 | ||
1981 | 5位 | 18 | 21 | 7 | 7 | 4 | ベスト4 | ベスト8 | ||
1982 | 3位 | 18 | 21 | 8 | 5 | 5 | 優勝 | ベスト8 | ||
1983 | 7位 | 18 | 15 | 6 | 3 | 9 | 1回戦 | 2回戦 |