1. 生い立ちとアマチュア相撲
出島武春の相撲は、幼少期の経験と学生時代の厳しい稽古、そして数々の挫折が礎となっている。
1.1. 幼少期・学生時代
出島武春は石川県金沢市に生まれ、玄門寺幼稚園、金沢市立森山町小学校、金沢市立鳴和中学校、金沢市立工業高等学校を経て中央大学法学部を卒業した。血液型はA型。
小学1年生の時、相撲が盛んな地域柄から町内対抗の相撲大会に出場したことをきっかけに相撲を始めた。中学に入学すると、監督の誘いで相撲部に入部し、本格的に相撲に打ち込むようになる。中学3年時には全国中学校相撲選手権大会個人戦で2位の成績を収めたが、稽古の厳しさから常に退部を考えていたという。しかし、先生を恐れて実行には移せず、後にこの時期が自身の「花を咲かす下準備」であったと振り返っている。高校時代には高校横綱や国体個人戦優勝を含む7つのタイトルを獲得し、アマチュア相撲界でその名を轟かせた。
1.2. 学生相撲での活躍と主な実績
高校卒業後、中央大学の監督や3学年上の先輩である栗本(後の武哲山)に誘われ、鳴り物入りで中央大学に進学した。大学1年時には、先輩の栗本や松本(後の玉春日)らを相手に厳しい稽古を重ねて成長を遂げた。しかし、上級生になると出島に匹敵する稽古相手がいなくなり、慢心から伸び悩む時期を経験する。当時、大学が八王子市に位置していたため、都心の他の大学の相撲部員のように相撲部屋での稽古に励むことが難しかったことも、伸び悩みの要因となった。
結局、学生時代には全国学生相撲選手権大会(学生横綱)や全日本相撲選手権大会(アマチュア横綱)といった主要タイトルを一度も獲得することができなかった。少年時代から抱いていた大相撲への「怖い世界」というイメージからプロ入りを渋っていたが、ビッグタイトルを逃した悔しさから、大学4年生の11月に武蔵川部屋(現藤島部屋)への入門を決意した。
2. プロ相撲経歴
出島武春のプロ相撲経歴は、その異例のスピード出世と、その後の度重なる怪我との闘い、そして大関陥落後の粘り強い相撲が特徴である。
2.1. 初土俵と幕内昇進
出島は1996年3月場所に幕下付出で初土俵を踏んだ。学生相撲での実績により、通常よりも高い地位からのスタートとなった。武蔵川部屋では、当時の大関であった武蔵丸や武双山といった実力者たちを相手に恵まれた稽古環境を得た。本人は後に「大学の4年間よりプロに入ってからの半年の方が伸びた」と語るほど、急速な成長を遂げた。特に、入門前は学生相撲出身者にありがちな立合いの甘さがあったが、師匠である武蔵川親方による厳しい指導で、鋭い出足が鍛え上げられた。
初土俵からわずか3場所で十両に昇進し、十両も3場所で通過して1997年3月場所に新幕内を果たした。この間、一度も負け越しを知らない異例のスピード出世であった。新入幕の場所では11勝4敗という好成績を挙げ、同時に敢闘賞と技能賞を獲得した。この頃はまだ大銀杏を髷に結うことができないほど、その出世は早かった。
翌5月場所は7勝8敗とプロ入り後初の負け越しを経験するものの、同年9月場所では前頭筆頭の地位で、当時の横綱であった貴乃花と曙を下し、2個の金星を獲得するなど大活躍を見せ、11勝4敗の成績を収めた。この活躍により、翌11月場所には小結を飛び越え関脇へ昇進し、「次期大関候補」として注目を集めるようになる。しかし、その11月場所7日目、大学の先輩である玉春日との取組で土俵際まで追い詰めた際に左足首に大怪我を負い、途中休場。1ヶ月以上の入院を余儀なくされた。この怪我により1998年1月場所と3月場所を全休したが、同年5月場所に前頭11枚目で復帰してからは、7月場所で再び2個の金星を獲得し、10勝を挙げて殊勲賞を受賞。その後も順調に番付を上げ、同年9月場所で三役に復帰し、勝ち越しを続けた。
2.2. 大関昇進と幕内優勝
1999年に入ると、3月場所に小結で9勝6敗、5月場所に関脇で11勝4敗を挙げた。特に、準ご当地とも言える名古屋での7月場所は、当初「大関獲り」の場所とは見られていなかったが、初日から快進撃を見せた。7日目には横綱曙を掬い投げで破り、9日目には貴乃花を豪快なハズ押しからの押し倒しで打ち破るという大相撲を見せた。9日目の支度部屋で、貴乃花は「出島の出足は横綱級だよ」と出島の速攻相撲を称賛した。場所中盤に琴錦と魁皇にそれぞれ敗れたものの、出島に負けただけの曙に星の差1つで追走する形で優勝争いを繰り広げた。
大関昇進の機運が高まったのは場所終盤になってからで、千秋楽には金沢から両親をはじめとする大応援団が駆けつけた。出島は関脇栃東を寄り切りで破り、幕内昇進後自己最高となる13勝2敗の成績を挙げた。結びの一番では、兄弟子である横綱武蔵丸が曙を掬い投げで下したため、曙との優勝決定戦にもつれ込むこととなった。この大一番で、出島は立合いに左からいなす注文相撲を見せて曙を破り、念願の幕内最高優勝を果たした。この変化には一部から批判の声も上がった。優勝パレードの旗手は弟弟子の雅山が務めた。この場所で出島は、1992年1月場所の貴花田(後の横綱貴乃花)以来となる7年ぶりの三賞トリプル受賞(殊勲賞、敢闘賞、技能賞)を達成した。出島自身は、この場所で大関昇進を意識したのは最後の3日間のみであり、引退後に「あの時に『優勝して大関になってやろう』とか思っていたら、できなかったと思う。良い意味で邪念がなかった」と振り返っている。
場所後の理事会・番付編成会議で大関昇進が正式に決定し、昇進伝達式では「力の武士(もののふ)を目指し、精進、努力します」と口上を述べた。学生相撲出身力士の大関昇進は、1983年3月場所後の朝潮以来、16年ぶり4人目の快挙であった。出島が所属する武蔵川部屋は、当時横綱に武蔵丸、大関に武双山と出島が、そして後に雅山も大関に昇進し、史上稀に見る上位陣の厚さを誇った。これは、力士が同部屋の力士とは優勝決定戦以外で対戦しないというルールにおいて、大きな有利となった。
2.3. 大関在位期間と陥落
新大関として迎えた1999年9月場所は10勝5敗とまずまずの成績を収めた。その後も10勝前後の安定した成績を挙げ続けたが、大関での最高成績は2000年3月場所の11勝で、千秋楽まで優勝争いに加わることは一度もなかった。
2001年1月場所は7勝8敗と大関としては初の皆勤負け越しを喫した。この場所では連日、土俵際で叩き込みで敗れる相撲が目立った。初の角番で迎えた3月場所では、千秋楽に朝青龍を下して8勝7敗と勝ち越し、辛うじて角番を脱出した。しかし、続く5月場所では10日目に玉春日良二に敗れて2勝8敗と再び負け越しが決まり、この場所は5勝10敗に終わった。2回目の角番で迎えた7月場所では、初日から3連勝したものの、その後2連敗し、突如蜂窩織炎による高熱で緊急入院。6日目から途中休場を余儀なくされた。この場所で再出場は叶わず、2場所連続負け越しにより大関から関脇への陥落が決定した。この蜂窩織炎は医師が「普通の人なら死んでいる」と評するほどの重度のもので、1ヶ月あまりの加療を要した。入院中は最大42 °Cの高熱に苦しみ、退院後も一時38 °C台の高熱が続いた。出島自身は後にこの大病について、大関という地位から来る「負けられない」という精神的プレッシャーが原因で免疫が弱っていたのだろうと述懐している。
2.4. 大関陥落後の活躍

1999年7月場所以来約2年ぶりに関脇の地位へ下がった2001年9月場所、出島は10勝以上の大関特例復帰を賭けて臨んだが、結局5勝10敗の負け越しに終わり、大関復帰は叶わなかった。その後も2003年3月場所に小結、5月場所に関脇へと一時的に番付を戻すことはあったものの、それ以降はほとんど平幕上位での相撲が続いた。大関から転落後しばらくは、蜂窩織炎によって蝕まれた足の痛みに苦しみ、相撲ぶりにも粘りを欠くことがあった。
この頃、後援会の会員数が減少するなど、人間関係の冷たさも経験した。出島は後に、「人間の冷たさ、薄情さ、『手のひらを返す』ということを勉強させてもらった」と語る一方で、引き続き応援し続けてくれる人々が真のファン、後援者であるということを改めて認識し、「大切なものを再認識できた」とも語っている。また、インタビューなどで「横綱・大関と取れる番付にいたい」と、上位での相撲への強い意欲をしばしば語っていた。横綱・大関とも十分に渡り合える実力を長期間保ち、元大関としての矜持を持ち続けた。
2003年1月場所では貴乃花に勝利して優勝争いに加わり、2003年3月場所では朝青龍に勝利して2場所連続で横綱を破る快挙を達成した。また、2003年11月場所では十両陥落の危機に瀕しながらも、地力の違いを見せて11勝を挙げ、危機を脱した。2004年9月場所では初日から5連勝し、優勝争いに加わるなど、体調が良い時には活躍する場所も多く見られた。しかし、2002年7月場所では右膝靱帯損傷と外側靱帯損傷で途中休場、2003年7月場所では右膝半月板を損傷して全休、2004年11月場所では左足ふくらはぎの肉離れで途中休場するなど、怪我が回復と悪化を繰り返す時期でもあった。2004年から2006年頃には、高見盛と同様に、千秋楽を7勝7敗で迎えることが多かった。
その実力が最高の形で発揮されたのが2007年であった。この年は出島の活躍が目立ち、復活を印象付けた。西前頭筆頭で迎えた1月場所では序盤から出足が冴え、2日目に大関白鵬を押し出しで破り、3日目には横綱朝青龍を土俵下に叩きつけて圧勝。大関陥落後2個目、朝青龍からは初めての金星を挙げた。しかしその後は一転して2度の5連敗を喫し、4勝11敗と大きく負け越し、殊勲賞を逃した。続く3月場所も7勝8敗と負け越したが、前頭2桁台に番付を落とした5月場所では初日から8連勝という自己新記録を樹立し、中日で勝ち越しを決めた。この場所は12勝3敗の好成績を収め、優勝した場所以来となる実に47場所ぶりの敢闘賞を受賞した。これは元大関としては、雅山以来1年半ぶり、史上6人目の三賞受賞という快挙であった。11月場所では、中日に全勝であった千代大海を破るなど活躍を見せ、西前頭2枚目で10勝5敗と勝ち越し。三賞候補にも挙がったが、過半数にわずか1票足りず受賞を逃した。
2008年1月場所は、27場所ぶりに小結復帰を果たしたものの、3勝12敗と大きく負け越した。これが現役最後の三役の場所となる。この頃から出足が鈍り、叩き込みの相撲や立合いの変化が増えていった。同年9月場所での勝ち越しを最後に、二度と勝ち越すことはなかった。同年11月場所では、初日から6連勝と好スタートを切ったものの、その後9連敗を喫し、6勝9敗と負け越してしまった。2009年3月場所初日には黒海に掛け投げを食らい左腕から落ちて肘を負傷した。休場することこそなかったものの完治することはなく、結果的にこれが相撲人生にとって致命傷となった。
2.5. 現役引退
幕内優勝からちょうど10年が経った2009年7月場所は、前頭13枚目と、これ以上番付が下に2枚しかない厳しい状況で迎えた。10日目に負け越しを喫し、十両陥落が濃厚となったため、翌11日目にも豊ノ島に敗れて2勝9敗となった相撲を最後に、現役引退を表明した。関脇陥落後、大関へ再昇進することなく丸8年間、48場所にわたって三役以下の幕内で相撲を取り続けたが、これは元大関としては当時史上最長記録であった(後に雅山哲士が49場所に達し、この記録を更新)。引退会見では「長年、怪我や古傷と闘ってきた」と語り、満身創痍の中での決断であったことを示唆した。
3. 相撲スタイルと得意技
出島武春は「押し相撲」のスペシャリストとして知られ、立合いからの鋭い出足を活かした突き押しを最も得意とした。自身の四股名にちなんで「出る出る出島」と称されるほど、その出足は冴えわたっていた。この愛称を本人は意識しており、2003年3月場所で横綱朝青龍を破った際の勝利力士インタビューでは、「これからも言われるよう頑張りたい」と語っている。
廻しを取っての相撲よりも、突き押しによる速攻相撲を好み、最も多かった決まり手は押し出しで、次いで寄り切りであった。これら二つの技で全勝利の約70パーセントを占めた。投げ技はほとんど用いず、下手投げなどの廻しを取らない掬い投げが最も多かったが、全勝利のわずか3パーセントに過ぎなかった。
その爆発的な立合いが故に、相手にいなされることも多かった。寄り切りを除くと、最も多く敗れた決まり手は、いなしから引き落とす叩き込みであった。また、引き落としにも脆さを見せる傾向があった。
元関脇の貴闘力忠茂は、出島は純粋な押し相撲というよりも、その体の柔らかさを活かした、下から密着するような四つ相撲の取り手であったと証言している。そのような相撲を取られると相手は叩き込みで対応するしかなく、それが結果的に出島の追尾するような押しを活かしたと解説している。
また、出島の肌は他の力士に比べて非常に白く、「白い弾丸」という渾名があった。美白ブームの時期には「美白力士」とも称され、美容研究家の鈴木その子から懸賞金が出されたこともあった。出島自身も「肌が白い?たぶん鈴木その子さんよりも白いですよ。美白化粧品のCMの話、こないかなあ」と冗談をこぼすこともあった。
4. 人物・エピソード
出島武春は一人っ子である。趣味は陶芸で、好きな言葉は「流した汗は嘘をつかない」。これは彼が学生時代に経験した苦労と、それを乗り越えた過程で得た教訓に基づいている。
同じ石川県出身で幼少時代からのライバルであった栃乃洋(七尾市出身)とは同期生であり、学生時代には柳川もライバルとされていた。
四股名は引退まで本名をそのまま用い、改名することはなかった。大関昇進時に改名の可能性を問われた際も、「このままで。みなさんも顔と名前が一致してきたところだと思うし」と述べ、改名を否定した。相撲解説者やファンからは「長崎の出島」と間違えられることが多かったが、本人も現役時代にその四股名から長崎県出身と勘違いされることがあったと語っている。
出島の中学相撲部創設者で先輩にあたる馳浩や、小学校低学年当時、所属していた相撲スポーツ少年団の先輩であった藤井恒久(日本テレビ放送網アナウンサー)など、相撲界内外で多くの人物と交流がある。
5. 引退後の活動

現役引退後、出島は既に所有していた年寄名跡「大鳴戸」を襲名し、武蔵川部屋(2010年9月30日に藤島部屋に名称変更)の部屋付き親方として後進の指導に当たっている。引退相撲である断髪式は2010年5月29日に両国国技館で行われた。現在は審判委員を務めている。
元関脇の貴闘力忠茂の証言によると、年寄名跡「大鳴戸」は師匠の武蔵川親方から「みんなが買わなかったらお前が買え!」と言われて購入したものであり、有力な後援会を持たなかった出島は、借金をしてまでおよそ3.00 億 JPYを支払って取得したという。貴闘力はこの借金について、「返せないでしょ。コツコツ払っても(銀行で借りた購入代の)金利も高いだろうし」とその苦労を察している。大関陥落後に経験した後援会減少などの個人的な苦難は、出島にとって「人間の冷たさ、薄情さ、『手のひらを返す』ということを勉強させてもらった」と語るほどであったが、同時に引き続き応援し続けてくれる人々が真のファン、後援者であるということを改めて認識し、「大切なものを再認識できた」とも語っている。
2014年7月30日には、豪栄道の大関昇進伝達式において、同じ一門の出来山理事に同行し、使者を務めた。また、2018年5月30日の栃ノ心、2022年1月26日の御嶽海、2023年7月26日の豊昇龍の大関昇進伝達式、そして2025年1月29日の豊昇龍の横綱昇進伝達式でも、それぞれ同門の理事に同行して使者を務めている。
2021年3月場所中日(8日目)の三段目の取組中、土俵に落下した力士の直撃を受け、右目付近を負傷した。すぐに退場し、両国国技館内の相撲診療所で治療を受けた。しかし、高田川審判部副部長(元安芸乃島)が「本人は『大丈夫』と言っていた」と説明した通り、翌9日目には審判業務に復帰している。
2022年2月17日、日本相撲協会は大鳴戸親方が新型コロナウイルスに感染したことを発表した。芝田山広報部長(元大乃国)の電話取材によれば、同日に発熱と鼻水の症状があったことから検査を受け、陽性が判明したという。
6. 主な成績・記録
出島武春の相撲キャリアにおける主な成績と記録を以下にまとめる。
6.1. 通算成績
- 通算成績:595勝495敗98休(勝率.546)
- 幕内成績:546勝478敗98休(勝率.533)
- 大関成績:100勝71敗9休(勝率.585)
- 幕内在位:74場所
- 大関在位:12場所
- 三役在位:12場所(関脇5場所、小結7場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:16場所(1998年5月場所~2000年11月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:4場所(1999年5月場所~1999年11月場所)
6.2. 各段優勝と三賞
- 幕内最高優勝:1回(1999年7月場所)
- 十両優勝:1回(1997年1月場所)
- 幕下優勝:1回(1996年5月場所)
- 三賞:10回
- 殊勲賞:3回(1997年9月場所、1998年7月場所、1999年7月場所)
- 敢闘賞:4回(1997年3月場所、1998年5月場所、1999年7月場所、2007年5月場所)
- 技能賞:3回(1997年3月場所、1997年9月場所、1999年7月場所)
- 金星:6個(曙2個、貴乃花2個、若乃花1個、朝青龍1個)
6.3. 対戦成績
6.3.1. 横綱・大関との対戦成績
- 元横綱・曙には6勝6敗。優勝決定戦で1勝がある。最後の勝利は2000年9月場所で、決まり手は叩き込み。
- 元横綱・貴乃花には4勝13敗。最後の勝利は2003年1月場所で、決まり手は渡し込み。
- 元横綱・若乃花には2勝5敗。若乃花の大関在位中は2敗、横綱昇進後は2勝3敗。最後の勝利は1999年9月場所で、決まり手は寄り切り。
- 元横綱・朝青龍には4勝16敗。朝青龍の大関在位中は1敗、横綱昇進後は2勝11敗。最後の勝利は2007年1月場所で、決まり手は押し倒し。
- 元横綱・白鵬には2勝10敗。白鵬の大関在位中は1勝1敗、横綱昇進後は4敗。最後の勝利は2007年1月場所で、決まり手は押し出し。
- 元横綱・日馬富士には2勝4敗。いずれも日馬富士が大関・横綱に昇進する前の安馬時代の対戦である。
- 元横綱・鶴竜には2勝4敗。いずれも鶴竜が大関・横綱に昇進する前の対戦である。
- 元横綱・稀勢の里には6勝4敗。いずれも稀勢の里の大関・横綱に昇進する前の対戦である。
- 元大関・貴ノ浪には19勝9敗。大関同士の対戦は2勝1敗。
- 元大関・千代大海には14勝20敗。大関同士の対戦は4勝5敗。
- 元大関・魁皇には15勝25敗。大関同士の対戦は1勝3敗。
- 元大関・栃東には9勝25敗。出島の大関陥落後に栃東が大関に昇進したため、大関同士の対戦はなし。栃東の大関昇進後は2勝11敗。
- 元大関・琴欧洲には5勝9敗。出島の大関陥落後に琴欧洲が大関に昇進したため、大関同士の対戦はなし。琴欧洲の大関昇進後は4勝5敗。
- 元大関・琴光喜には9勝16敗。出島の大関陥落後に琴光喜が大関に昇進したため、大関同士の対戦はなし。琴光喜の大関昇進後は1勝3敗。
- 元大関・把瑠都には5戦全敗。いずれも把瑠都が大関に昇進する前の対戦である。
- 元大関・琴奨菊には6勝6敗。いずれも琴奨菊の大関に昇進する前の対戦である。
- 元大関・豪栄道には1勝2敗。いずれも豪栄道の大関に昇進する前の対戦である。
- 元大関・栃ノ心には3勝4敗。いずれも栃ノ心の大関に昇進する前の対戦である。
- 他に優勝決定戦で曙に1勝がある。
6.3.2. 幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
蒼樹山 | 7 | 0 | 安芸乃島 | 14 | 8 | 曙 | 6 | 6 | 朝青龍 | 4 | 16 | |||
朝赤龍 | 13 | 5 | 朝乃翔 | 3 | 1 | 朝乃若 | 7 | 1 | 旭豊 | 3 | 0 | |||
安馬 | 2 | 4 | 安美錦 | 9 | 11 | 阿覧 | 2 | 1 | 岩木山 | 8 | 8 | |||
潮丸 | 1 | 1 | 皇司 | 4 | 2 | 小城錦 | 4 | 3 | 魁皇 | 15 | 25 | |||
海鵬 | 12 | 6(1) | 鶴竜 | 2 | 4 | 春日王 | 3 | 4 | 春日錦 | 3 | 2 | |||
巌雄 | 4 | 0 | 稀勢の里 | 6 | 4 | 北勝鬨 | 1 | 0 | 北桜 | 0 | 1 | |||
北太樹 | 1 | 0 | 木村山 | 2 | 2 | 旭鷲山 | 21 | 6 | 旭天鵬 | 10 | 14 | |||
金開山 | 1 | 0 | 豪栄道 | 1 | 2 | 五城楼 | 1 | 0 | 黒海 | 7 | 9 | |||
琴稲妻 | 3 | 0 | 琴欧洲 | 5 | 9 | 琴春日 | 0 | 1 | 琴奨菊 | 6 | 6 | |||
琴錦 | 7 | 3 | 琴ノ若 | 19 | 7(1) | 琴光喜 | 9 | 16 | 琴龍 | 11 | 6 | |||
里山 | 1 | 0 | 敷島 | 3 | 2 | 霜鳳 | 8 | 6 | 十文字 | 7 | 3 | |||
大善 | 2 | 0 | 大飛翔 | 1 | 0 | 貴闘力 | 12 | 3 | 隆の鶴 | 0 | 1 | |||
貴ノ浪 | 19 | 9 | 貴乃花 | 4 | 13 | 隆乃若 | 6 | 6 | 高見盛 | 9 | 7 | |||
豪風 | 6 | 3 | 玉春日 | 19 | 9 | 玉乃島 | 12 | 10 | 玉力道 | 1 | 2 | |||
玉鷲 | 2 | 1 | 千代大海 | 14 | 20 | 千代天山 | 7 | 3 | 千代白鵬 | 1 | 3 | |||
寺尾 | 3 | 0 | 闘牙 | 12 | 3 | 時津海 | 6 | 3 | 時天空 | 8 | 7 | |||
土佐ノ海 | 20 | 16 | 土佐豊 | 0 | 1 | 栃東 | 9 | 25 | 栃煌山 | 1 | 2 | |||
栃栄 | 3 | 5 | 栃ノ心 | 3 | 4 | 栃乃洋 | 24 | 16(2) | 栃乃花 | 3 | 1 | |||
栃乃和歌 | 5 | 1 | 豊桜 | 0 | 3 | 豊ノ島 | 4 | 9 | 豊響 | 6 | 0 | |||
白馬 | 0 | 1 | 白鵬 | 2 | 10 | 白露山 | 1 | 0 | 濵錦 | 1 | 0 | |||
濱ノ嶋 | 4 | 1 | 追風海 | 4 | 2 | 把瑠都 | 0 | 5 | 肥後ノ海 | 4 | 4 | |||
普天王 | 4 | 8 | 寶智山 | 1 | 0 | 豊真将 | 3 | 5 | 北勝力 | 7 | 9 | |||
将司 | 1 | 0 | 三杉里 | 1 | 0 | 水戸泉 | 1 | 1 | 湊富士 | 5 | 0 | |||
大和 | 1 | 0 | 山本山 | 1 | 2 | よう司 | 1 | 1 | 嘉風 | 4 | 1 | |||
龍皇 | 2 | 0 | 露鵬 | 1 | 10 | 若麒麟 | 1 | 0 | 若荒雄 | 0 | 1 | |||
若兎馬 | 0 | 1 | 若の里 | 14 | 18 | 若ノ城 | 1 | 0 | 若乃花 | 2 | 5 | |||
若ノ鵬 | 1 | 0 |
- ※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数を示す。
- 優勝決定戦で曙に1勝がある。
6.3.3. 場所別成績
場所 | 番付 | 勝 | 負 | 休 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1996年 | |||||
1996年3月場所 | 幕下60枚目西 | 5 | 2 | 0 | |
1996年5月場所 | 幕下43枚目西 | 7 | 0 | 0 | 幕下優勝 |
1996年7月場所 | 幕下2枚目西 | 5 | 2 | 0 | |
1996年9月場所 | 十両12枚目西 | 11 | 4 | 0 | |
1996年11月場所 | 十両4枚目東 | 9 | 6 | 0 | |
1997年 | |||||
1997年1月場所 | 十両2枚目東 | 12 | 3 | 0 | 十両優勝 |
1997年3月場所 | 前頭13枚目東 | 11 | 4 | 0 | 敢闘賞、技能賞 |
1997年5月場所 | 前頭3枚目西 | 7 | 8 | 0 | |
1997年7月場所 | 前頭4枚目東 | 8 | 7 | 0 | |
1997年9月場所 | 前頭1枚目東 | 11 | 4 | 0 | 殊勲賞、技能賞、金星2個(貴乃花、曙) |
1997年11月場所 | 関脇1枚目西 | 3 | 5 | 7 | 途中休場(左足首関節捻挫・左足首前脛腓靱帯断裂・左足関節内顆骨折) |
1998年 | |||||
1998年1月場所 | 前頭2枚目東 | 0 | 0 | 15 | 全休(公傷) |
1998年3月場所 | 前頭2枚目東 | 0 | 0 | 15 | 全休(左足首前脛腓靱帯断裂・左足関節内顆骨折により全休) |
1998年5月場所 | 前頭11枚目西 | 10 | 5 | 0 | 敢闘賞 |
1998年7月場所 | 前頭4枚目西 | 10 | 5 | 0 | 殊勲賞、金星2個(若乃花、曙) |
1998年9月場所 | 小結1枚目西 | 8 | 7 | 0 | |
1998年11月場所 | 小結1枚目西 | 9 | 6 | 0 | |
1999年 | |||||
1999年1月場所 | 小結1枚目東 | 8 | 7 | 0 | |
1999年3月場所 | 小結1枚目西 | 9 | 6 | 0 | |
1999年5月場所 | 関脇2枚目東 | 11 | 4 | 0 | |
1999年7月場所 | 関脇1枚目西 | 13 | 2 | 0 | 幕内最高優勝、優勝決定戦で曙に勝利、殊勲賞、敢闘賞、技能賞 |
1999年9月場所 | 大関2枚目東 | 10 | 5 | 0 | |
1999年11月場所 | 大関1枚目西 | 10 | 5 | 0 | |
2000年 | |||||
2000年1月場所 | 大関1枚目東 | 9 | 6 | 0 | |
2000年3月場所 | 大関1枚目東 | 11 | 4 | 0 | |
2000年5月場所 | 大関1枚目東 | 8 | 7 | 0 | |
2000年7月場所 | 大関2枚目東 | 10 | 5 | 0 | |
2000年9月場所 | 大関1枚目西 | 10 | 5 | 0 | |
2000年11月場所 | 大関2枚目東 | 9 | 6 | 0 | |
2001年 | |||||
2001年1月場所 | 大関2枚目東 | 7 | 8 | 0 | |
2001年3月場所 | 大関2枚目西 | 8 | 7 | 0 | 大関角番(全2回中1回目) |
2001年5月場所 | 大関2枚目西 | 5 | 10 | 0 | |
2001年7月場所 | 大関2枚目東 | 3 | 3 | 9 | 途中休場、大関角番(全2回中2回目)、関脇陥落 |
2001年9月場所 | 関脇1枚目西 | 5 | 10 | 0 | |
2001年11月場所 | 前頭3枚目西 | 7 | 8 | 0 | |
2002年 | |||||
2002年1月場所 | 前頭4枚目西 | 6 | 9 | 0 | |
2002年3月場所 | 前頭7枚目東 | 6 | 9 | 0 | |
2002年5月場所 | 前頭9枚目東 | 9 | 6 | 0 | |
2002年7月場所 | 前頭3枚目東 | 2 | 3 | 10 | 途中休場 |
2002年9月場所 | 前頭10枚目東 | 0 | 0 | 15 | 全休(公傷) |
2002年11月場所 | 前頭10枚目東 | 10 | 5 | 0 | |
2003年 | |||||
2003年1月場所 | 前頭3枚目西 | 11 | 4 | 0 | 金星1個(貴乃花) |
2003年3月場所 | 小結1枚目東 | 8 | 7 | 0 | |
2003年5月場所 | 関脇1枚目西 | 7 | 8 | 0 | |
2003年7月場所 | 小結1枚目東 | 0 | 0 | 15 | 全休(右膝半月板損傷) |
2003年9月場所 | 前頭10枚目東 | 6 | 9 | 0 | |
2003年11月場所 | 前頭14枚目西 | 11 | 4 | 0 | |
2004年 | |||||
2004年1月場所 | 前頭6枚目東 | 10 | 5 | 0 | |
2004年3月場所 | 前頭2枚目東 | 7 | 8 | 0 | |
2004年5月場所 | 前頭3枚目西 | 7 | 8 | 0 | |
2004年7月場所 | 前頭4枚目西 | 7 | 8 | 0 | |
2004年9月場所 | 前頭5枚目西 | 10 | 5 | 0 | |
2004年11月場所 | 前頭1枚目東 | 0 | 3 | 12 | 途中休場 |
2005年 | |||||
2005年1月場所 | 前頭10枚目東 | 9 | 6 | 0 | |
2005年3月場所 | 前頭5枚目東 | 7 | 8 | 0 | |
2005年5月場所 | 前頭6枚目東 | 9 | 6 | 0 | |
2005年7月場所 | 前頭2枚目東 | 7 | 8 | 0 | |
2005年9月場所 | 前頭3枚目東 | 7 | 8 | 0 | |
2005年11月場所 | 前頭3枚目西 | 5 | 10 | 0 | |
2006年 | |||||
2006年1月場所 | 前頭6枚目西 | 8 | 7 | 0 | |
2006年3月場所 | 前頭4枚目西 | 6 | 9 | 0 | |
2006年5月場所 | 前頭7枚目西 | 8 | 7 | 0 | |
2006年7月場所 | 前頭6枚目西 | 8 | 7 | 0 | |
2006年9月場所 | 前頭3枚目東 | 7 | 8 | 0 | |
2006年11月場所 | 前頭3枚目西 | 10 | 5 | 0 | |
2007年 | |||||
2007年1月場所 | 前頭1枚目西 | 4 | 11 | 0 | 金星1個(朝青龍) |
2007年3月場所 | 前頭8枚目東 | 7 | 8 | 0 | |
2007年5月場所 | 前頭10枚目東 | 12 | 3 | 0 | 敢闘賞 |
2007年7月場所 | 前頭2枚目東 | 5 | 10 | 0 | |
2007年9月場所 | 前頭4枚目東 | 8 | 7 | 0 | |
2007年11月場所 | 前頭2枚目西 | 10 | 5 | 0 | |
2008年 | |||||
2008年1月場所 | 小結1枚目西 | 3 | 12 | 0 | |
2008年3月場所 | 前頭6枚目西 | 6 | 9 | 0 | |
2008年5月場所 | 前頭10枚目東 | 8 | 7 | 0 | |
2008年7月場所 | 前頭8枚目西 | 6 | 9 | 0 | |
2008年9月場所 | 前頭12枚目西 | 9 | 6 | 0 | |
2008年11月場所 | 前頭5枚目西 | 6 | 9 | 0 | |
2009年 | |||||
2009年1月場所 | 前頭7枚目西 | 7 | 8 | 0 | |
2009年3月場所 | 前頭9枚目東 | 6 | 9 | 0 | |
2009年5月場所 | 前頭12枚目西 | 7 | 8 | 0 | |
2009年7月場所 | 前頭13枚目西 | 2 | 10 | 3 | 引退 |
7. 評価と影響
出島武春は、そのアマチュア時代からの実績と、幕下付出から大関へ駆け上がったスピード出世、そして「出る出る出島」と称された鋭い出足を持つ相撲スタイルで、相撲史にその名を刻んだ。特に1999年7月場所での幕内最高優勝は、横綱を相手に優勝決定戦を制するという劇的なものであり、多くのファンの記憶に残っている。この時の変化相撲は一部で批判されたものの、結果として三賞トリプル受賞という快挙も達成した。
大関在位中に度重なる怪我や病気に苦しみ、その地位を失ったことは、その後の相撲人生に大きな影響を与えた。大関陥落後には後援会の減少といった苦難も経験し、「人間の冷たさ、薄情さ、『手のひらを返す』ということを勉強させてもらった」と語る一方で、引き続き応援し続けてくれる人々が真のファンであると再認識し、「大切なものを再認識できた」と、その経験を自身の成長の糧とした。満身創痍の状態で平幕として長きにわたり相撲を取り続けたその姿は、元大関としての矜持と、相撲への強い情熱を示しており、多くのファンに感動と勇気を与えた。
引退後も年寄・大鳴戸として相撲協会に残り、勝負審判や新大関昇進伝達式の使者としてその経験を後進に伝え続けている。特に、年寄名跡取得における経済的苦難を乗り越えて相撲界に貢献し続けている姿勢は、力士が引退後も相撲界で生きていくことの厳しさと、その中で自身の役割を全うする彼の責任感を物語っている。出島の相撲人生は、輝かしい栄光と深い挫折、そしてそこから得た教訓という、多面的な魅力を持つものである。
8. 関連項目
- 大関一覧
- 大相撲優勝力士一覧
- 大相撲の優勝決定戦
- 金星 (相撲)
- 三賞 (相撲)
- 関脇
- 小結
- 前頭
- 十両
- 幕下
- 学生横綱
- アマチュア横綱
- 日本相撲協会
- 年寄
- 年寄名跡
- 武蔵川部屋
- 藤島部屋
- 武蔵丸光洋
- 武双山正士
- 雅山哲士
- 曙太郎
- 貴乃花光司
- 朝青龍明徳
- 白鵬翔
- 栃乃洋泰一
- 馳浩
- 藤井恒久
- 歴代大関
- 日本の大相撲に関する人物一覧
9. 外部リンク
- [http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?shikona=Dejima&heya=-1&shusshin=-1&b=-1&high=-1&hd=-1&entry=-1&intai=-1&sort=1 Sumo Reference - Dejima Takeharu Rikishi Information]
- [http://www.sumo.or.jp/eng/kyokai/event/index.html#01 Japan Sumo Association - Coming Events]