1. 概要
北キプロス・トルコ共和国(きたキプロス・トルコきょうわこく、Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyetiクゼイ・クブルス・テュルク・ジュムフリイェティトルコ語、略称:KKTC)は、キプロス島の北東部に位置する事実上の国家である。国際的にはトルコのみが国家として承認しており、他の全ての国々および国際連合はキプロス共和国の領土の一部とみなしている。首都はニコシアの北側部分である北レフコシャ(Kuzey Lefkoşaクゼイ・レフコシャトルコ語)である。
1974年のキプロス・クーデターとそれに続くトルコの軍事介入によって島が南北に分断され、多くのギリシャ系キプロス人が南部へ、トルコ系キプロス人が北部へ避難した結果、1983年に北部地域が一方的に独立を宣言した。この独立宣言は国際社会から広く承認されておらず、北キプロスは経済的、政治的、軍事的にトルコに大きく依存している。
政治体制は半大統領制を採用する民主主義共和国であり、サービス産業を中心とする経済は2000年代以降成長を見せているものの、国際的な経済制裁により発展が制約されている。公用語はトルコ語で、住民の大多数はスンニ派イスラム教徒であるが、社会は概して世俗主義的である。キプロス問題の解決に向けた交渉は難航しており、トルコ軍の駐留は国際社会から占領と見なされている。
本稿は、北キプロス・トルコ共和国の地理、歴史、政治、国際関係、経済、社会、文化など多岐にわたる側面を、特に人権や民主主義の観点、そして分断によって生じた諸問題に留意しつつ、中道左派的な視点から詳述する。
2. 歴史
キプロス島の分断と北キプロス・トルコ共和国の成立に至る歴史的過程は、キプロス共和国の独立から始まり、民族間の対立、外部勢力の介入を経て、今日の未承認国家という状況を生み出した。この過程では、両民族の権利問題、暴力事件、そして大規模な住民移動が発生し、人道的な課題も深刻であった。
2.1. 1974年以前: キプロス共和国独立と民族対立


1960年8月、ギリシャ系住民とトルコ系住民がそれぞれギリシャとの統合(Ένωσιςエノシス現代ギリシア語)およびトルコによる分割(Taksimタクスィムトルコ語)の計画を放棄することに合意し、キプロスはイギリスの支配から独立を達成した。この合意に基づき、内閣のポスト、議会の議席、公務員の職が両コミュニティ間で合意された比率で配分される憲法の下で統治されることになった。

しかし、3年以内にギリシャ系とトルコ系住民の間で行政運営上の緊張が生じ始めた。特に、分離した自治体や税制をめぐる紛争が政府の機能不全を引き起こした。1963年、マカリオス3世大統領は憲法への一方的な変更を13の修正案を通じて提案した。トルコとトルコ系キプロス人は、これがギリシャ系キプロス人に有利に憲法紛争を解決し、トルコ系住民の地位を国家の共同設立者から少数派へと格下げし、その過程で彼らの憲法上の保護を取り除く試みであると主張して、提案された修正案を拒否した。トルコ系キプロス人は、13の修正案に対してキプロス最高憲法裁判所(SCCC)に訴訟を起こした。マカリオスは、SCCCの決定がどのようなものであれ従わないと発表し、SCCCの立場とは対照的に、自身の修正案を「憲法上の行き詰まりを解決するために」必要であると擁護した。
1963年4月25日、SCCCはマカリオスの13の修正案を違法と判断した。キプロス最高裁判所の判決は、マカリオスが憲法の措置を完全に実施しなかったことで憲法に違反し、トルコ系キプロス人が提案された憲法修正案を最初に受け入れることなく政府の地位に戻ることを許可されなかったと認定した。5月21日、SCCCの長官はマカリオスの立場を理由に辞任した。7月15日、マカリオスはSCCCの決定を無視した。SCCC長官の辞任後、SCCCは存在しなくなった。キプロス最高裁判所(SCC)は、SCCCとキプロス高等裁判所を統合して設立され、SCCCとHCCの管轄権と権限を引き継いだ。11月30日、マカリオスは13の提案を合法化した。1963年、政府のギリシャ系キプロス人派はアクリタス計画を作成した。これは、トルコ系キプロス人を政府から排除し、最終的にはギリシャとの統合につながる政策を概説したものであった。計画では、トルコ系キプロス人が反対した場合、「外国勢力が介入する前に暴力的に鎮圧されるべき」と述べられていた。
1963年12月21日、ギリシャの警察パトロールが身分証明を求めて2人のトルコ系キプロス人を停止させた際に集まっていたトルコ系キプロス人の群衆に発砲があり、2人のトルコ系キプロス人が殺害された。ほぼ即座に、ニコシアとラルナカでギリシャ系キプロス人準軍事組織によるトルコ系キプロス人への大規模な攻撃を伴う民族間暴力が発生した。トルコの抵抗組織であるTMT(ギリシャ系キプロス人の民族主義グループEOKAとそのenosisエノシス現代ギリシア語(キプロスとギリシャの統合)の主張に対抗して、taksimタクスィムトルコ語(キプロスの分割またはパーティション)政策を推進するために1959年に設立された)がいくつかの報復行為を行ったものの、キプロス紛争の歴史家キース・カイルは、「その後数ヶ月間に発生した多数の事件の主な犠牲者がトルコ人であったことは疑いの余地がない」と指摘している。ニコシアの北部郊外から子供を含む700人のトルコ人質が取られた。民族主義者で後のクーデター指導者であるニコス・サンプソンは、ギリシャ系キプロス人の非正規兵グループを率いてオモルフィタ/キュチュク・カイマクルの混合郊外に入り、トルコ系キプロス人住民を攻撃した。1964年末までに、トルコ系キプロス人364人とギリシャ系キプロス人174人が殺害された。
政府のトルコ系キプロス人メンバーは既に撤退しており、実質的にギリシャ系キプロス人政権が国家の全機関を掌握していた。パートナーシップ政府が崩壊した後、1964年2月のニューヨークでの議論の段階で、ギリシャ系キプロス人が主導する政権がキプロス共和国の正当な政府として承認された。1964年9月、当時の国際連合事務総長であったウ・タントは、「UNFICYPは騒乱中の島全体の財産被害に関する詳細な調査を実施した。それによると、109の村(そのほとんどがトルコ系キプロス人または混合村)で527軒の家屋が破壊され、他の2,000軒が略奪による被害を受けた」と報告した。トルコ系キプロス人の村での広範な略奪により、2万人の難民が武装した飛び地に退避し、そこで次の11年間を過ごし、トルコからの食料と医療品に頼って生き延びた。トルコ系キプロス人は飛び地を守るために準軍事グループを結成し、島のコミュニティが徐々に2つの敵対的な陣営に分裂する原因となった。この暴力により、数千人のトルコ系キプロス人がイギリス、オーストラリア、トルコへ移住しようと試みた。1967年12月28日、トルコ系キプロス人暫定政権が設立された。
2.2. 1974年キプロス分断とトルコの介入

1974年7月6日、マカリオス3世はギリシャ政府がキプロス国家守備隊を占領軍に変えようとしていると非難した。同年7月15日、ギリシャ軍事政権とキプロス国家守備隊は、キプロスでのギリシャ系キプロス人による軍事クーデターを支援した。親エノシス派のニコス・サンプソンがマカリオス大統領に代わって新大統領に就任した。ギリシャ系キプロスクーデター派は「キプロス・ヘレニック共和国」の樹立を宣言した。トルコは、1960年の保証条約に基づき、クーデターはトルコ系キプロス住民を保護するための軍事行動の十分な理由であると主張し、同年7月20日にトルコはキプロスに侵攻した。トルコ軍は島の北部約36%(キプロス総面積の約4/11)を占領した。クーデターは民族的暴力に満ちた内戦を引き起こし、その後崩壊し、マカリオスが権力に復帰した。
1975年8月2日、ウィーンでの交渉において、コミュニティ指導者であるラウフ・デンクタシュとグラフコス・クレリデスの間で、国際連合の後援の下、住民交換協定が署名された。この協定に基づき、北部に住む19万6千人のギリシャ系キプロス人が、南部に住む4万2千人のトルコ系キプロス人と交換された(入植者の数は論争の的となった)。リゾカルパソ、アイオス・アンドロニコス、アギア・トリアスの正教徒ギリシャ系キプロス人は村に残ることを選択し、アソマトス、カルパシア、コルマキティスのカトリック教徒マロン派も同様であった。約1500人のギリシャ系キプロス人と500人のトルコ系キプロス人が行方不明のままである。この侵攻により、1974年8月に北キプロス初の主権行政機関であるキプロス・トルコ人自治政権が設立された。
1975年、将来の連邦制キプロス国家への第一歩としてキプロス連邦トルコ人共和国が宣言されたが、キプロス共和国と国際連合によって拒否された。北キプロスは1983年11月15日、北キプロス・トルコ共和国の名の下に一方的に独立を宣言したが、これは国際連合安全保障理事会決議541によって国連に拒否された。
この軍事介入と占領は、多くのギリシャ系キプロス住民の北部からの避難、トルコ系キプロス住民の南部からの逃避、そして島の事実上の分断をもたらした。この過程で、多くの住民が家を追われ、人道的な問題が深刻化した。財産権の喪失、行方不明者の問題、そしてコミュニティ間の不信感は、今日まで続く紛争の根深い要因となっている。
2.3. 北キプロス・トルコ共和国宣言以降

1983年11月15日の北キプロス・トルコ共和国(TRNC)による一方的な独立宣言は、トルコ以外の国際社会からは承認されず、国際連合安全保障理事会は決議541および550でこの独立宣言を法的に無効とし、各国にTRNCを承認しないよう求めた。これにより、北キプロスは国際的に孤立し、政治的・経済的にトルコへの依存を深めることとなった。
独立宣言後、キプロス問題解決のための統一交渉が国連の仲介で断続的に行われたが、大きな進展は見られなかった。特に2004年のアナン計画に基づく住民投票では、トルコ系キプロス住民の65%が賛成したものの、ギリシャ系キプロス住民の76%が反対し、計画は否決された。この結果、キプロス共和国のみが分断された状態で欧州連合(EU)に加盟し、北キプロスはEU法(アキ・コミュノテール)の適用が停止された領域となった。
近年では、統一交渉の枠組みとして、二地域二コミュニティ連邦制が議論の中心となっている。しかし、財産権問題、トルコ軍の駐留問題、統治・権限分担問題などで双方の溝は埋まらず、交渉は度々頓挫している。例えば、2015年から2017年にかけてスイスで行われた交渉も、最終的には合意に至らなかった。
この間、北キプロスにおける人権状況、特にギリシャ系キプロス人やマロン派などの少数派住民の権利、1974年の分断によって生じた難民・国内避避難民の財産権、行方不明者の問題などが国際的な関心事であり続けている。欧州人権裁判所は、トルコの占領に起因する人権侵害について複数の判決を下している。
政治的には、北キプロス内部では統一交渉に対するスタンスが異なる政党が存在し、選挙結果によって交渉方針が影響を受けることもある。2020年の大統領選挙では、二国家解決を主張するエルシン・タタールが現職のムスタファ・アクンジュを破り当選した。
3. 地理
北キプロス・トルコ共和国は、キプロス島の約3分の1にあたる3355 km2の面積を占めている。北には約75 kmの距離にトルコがあり、東には約97 kmの距離にシリアがある。北緯34度から36度、東経32度から35度の間に位置する。その地理的特徴は、山脈、平野、半島、湾など多様な地形と、典型的な地中海性気候、そして豊かな生物多様性によって特徴づけられる。
3.1. 地形と海岸線
北キプロスの地形は、主に北部のキレニア山脈、中央部のメサオリア平野、そして北東に長く伸びるカルパス半島によって構成される。

キレニア山脈は、北キプロスの北岸に沿って東西に細長く延びる石灰岩の山脈である。この山脈には、北キプロスの最高峰であるセルヴィリ山(Selvili Dağıトルコ語、Κυπαρισσόβουνοςキパリソヴノス現代ギリシア語とも呼ばれる)があり、その標高は1024 mである。山脈は急峻で、海岸線に迫るようにそびえ立っているため、風光明媚な景観を作り出している。
メサオリア平野は、モルフォウ湾から東海岸のファマグスタ湾まで広がる広大な平野である。この平野は、主に沖積土壌からなり、冬から春にかけては緑豊かになるが、夏には乾燥して褐色に変わる。平野の東部は主に小麦や大麦などの天水農業に利用されている。いくつかの季節河川がこの平野を横切っている。
カルパス半島は、キプロス島の北東端から細長く伸びる半島で、先端はアポストロス・アンドレアス岬である。この半島は、手つかずの自然が残り、野生のロバが生息していることで知られる。
北キプロスの海岸線は変化に富んでおり、西側のモルフォウ湾と東側のファマグスタ湾という2つの主要な湾がある。また、アポストロス・アンドレアス岬、コルマキティス岬、ゼイティン岬、カサ岬といった岬が存在する。海岸には砂浜、岩場、崖などが混在し、特にカルパス半島には美しい砂浜が広がっている。
3.2. 気候

北キプロスの気候は典型的な地中海性気候であり、長く暑く乾燥した夏と、短く涼しく雨の多い冬が特徴である。
夏(6月から9月)は非常に暑く乾燥し、日中の平均気温は30 °Cを超え、時には40 °C以上に達することもある。特に内陸のメサオリア平野では、海からの湿った風が遮られるため、気温が40 °Cから45 °Cに達することがある。降水量はほとんどない。
冬(12月から2月)は涼しく雨が多い。この3ヶ月間で年間降水量の約60%が降る。雨は主ににわか雨の形で降り、川を満たすが、これらの川は年が進むにつれて通常は干上がる。キレニア山脈では雪が降ることもあるが、他の地域では夜間の気温が低くても雪は稀である。
春(3月から5月)と秋(10月から11月)は温暖で過ごしやすい季節である。春は天候が不安定で、時折激しい嵐や西風(meltemメルテム現代ギリシア語)が吹くことがある。秋は短く、変化の激しい天候が特徴である。
カルパス半島では湿度が高まる。湿度と水温(16 °Cから28 °C)が沿岸の天候を安定させ、内陸のような極端な気候にはならない。南部の山脈は、南西から雨と大気中の湿度をもたらす気流を遮断し、その東側では両方を減少させる。
3.3. 生物多様性
北キプロスは、地中海盆地の生物多様性ホットスポットの中でも比較的自然が残されている地域であり、多様な陸上生息地を含む豊かな生態系を有している。
その植物相には約1900種の植物が含まれ、そのうち19種は北キプロスの固有種である。都市部でさえも多様性に富んでおり、ニコシア周辺のペディエオス川のほとりで実施された調査では、750種以上の異なる植物種が発見された。これらの種の中には、キプロス固有のラン科植物30種が含まれる。シー・ダッフォディル(sea daffodil英語)は、砂浜で見られ、生息地の破壊により絶滅の危機に瀕しており、民話や神話の題材となっている絶滅危惧種である。
メドシュ・チューリップ(Tulipa cypriaラテン語)は北キプロス固有の特筆すべき種であり、テペバシュ/ディオリオスとアヴテペ/アイオス・シメオンの村でのみ見られ、毎年祭りで祝われている。
動物相も多様で、特に鳥類は渡り鳥の中継地として重要である。また、カルパス半島には約1000頭の野生のキプロスロバが生息しており、トルコ系キプロス政府の保護下で、300 km2の範囲を自由に群れで徘徊している。これらのロバは半島に強いイメージを与えており、半島は豊かな動物相と比較的大きな森林も有している。北キプロスのビーチには、数百頭のアカウミガメやアオウミガメが産卵する場所も含まれており、夏末には孵化し、観察者が見守っている。
自然保護区としては、カルパス国立公園などが指定されており、固有種や絶滅危惧種の保護が試みられている。しかし、開発圧力、観光客の増加、外来種の侵入などが生物多様性への脅威となっており、環境保護の取り組みは重要な課題である。
4. 政治
北キプロスの政治は、半大統領制の代表民主制共和国の枠組みの中で行われており、大統領が国家元首、首相が政府の長を務める。行政権は政府によって行使され、立法権は政府と共和国議会の両方に与えられている。司法は行政および立法から独立している。トルコによる国際的に認められていない国家としての地位は、その政治システムと国際関係に大きな影響を与えている。
4.1. 政府構造と立法

北キプロスの政府構造は、三権分立の原則に基づいているが、トルコの影響が色濃く反映されている。
大統領は国民の直接選挙によって選ばれ、任期は5年である。国家元首として、共和国を代表し、法律を公布し、首相を任命し、閣僚会議を主宰する権限を持つ。また、軍の最高司令官でもある。現職大統領はエルシン・タタールである。
首相は大統領によって任命され、通常は議会で多数派を形成する政党の党首が選ばれる。首相は行政府の長として、閣僚を任命し、政府の日常業務を遂行する。現在の首相はエルサン・サネルである。
議会(共和国議会、Cumhuriyet Meclisiトルコ語)は一院制で、定数は50議席である。議員は比例代表制によって6つの選挙区から選出され、任期は5年である。議会は法律の制定、予算の承認、政府の監督などの権限を持つ。2018年1月の選挙では、右派の国民統一党が最多議席を獲得し、現在の政府は国民統一党と中道派の人民党による連立政権である。
北キプロスは国際的に承認されていないため、特に経済、軍事、外交面でトルコに大きく依存している。トルコは北キプロスに対して財政支援を行い、軍隊を駐留させており、このことが北キプロスの内政・外交政策に強い影響力を持っている。一部の専門家は、これを事実上のトルコの傀儡国家と特徴づけている。しかし、他の専門家は、北キプロスにおける選挙や任命の独立性、トルコ系キプロス政府とトルコ政府間の紛争を指摘し、「傀儡国家」という表現は北キプロスにとって正確ではないと結論付けている。
4.2. 行政区画

北キプロスは6つの主要な地区(トルコ語: İlçe、イルチェ)に分けられている。これらの地区は、さらに下位の行政単位である準地区(トルコ語: Bucak、ブジャック)および自治体(トルコ語: Belediye、ベレディイェ)に分割される。
主要な地区は以下の通りである。
- レフコシャ地区 (Lefkoşa İlçesiトルコ語) - 首都北レフコシャを含む中央部の地区。
- ガズィマウサ地区 (Gazimağusa İlçesiトルコ語) - 東海岸に位置し、主要港湾都市ファマグスタ(ガズィマウサ)を含む地区。
- ギルネ地区 (Girne İlçesiトルコ語) - 北海岸に位置し、観光都市キレニア(ギルネ)を含む地区。
- ギュゼルユルト地区 (Güzelyurt İlçesiトルコ語) - 西部に位置し、農業が盛んなモルフォウ(ギュゼルユルト)を含む地区。
- イスケレ地区 (İskele İlçesiトルコ語) - カルパス半島の付け根に位置する地区。
- レフケ地区 (Lefke İlçesiトルコ語) - 2016年にギュゼルユルト地区から分離して新設された、西端に位置する地区。
これらの地区は、知事(Kaymakamカイマカムトルコ語)によって管理され、中央政府の地方行政を担っている。各自治体は選挙で選ばれた市長と市議会によって運営されている。
5. 国際関係と国際的地位
北キプロスの国際関係は、その未承認国家という地位によって極めて複雑なものとなっている。トルコ以外のいかなる国からも国家として正式に承認されておらず、国際社会の大多数はキプロス共和国をキプロス島全域の唯一の正統な政府と見なしている。この状況は、北キプロスの外交、経済、安全保障に深刻な影響を及ぼしている。
5.1. 国家承認と国際社会の立場


1983年の北キプロス・トルコ共和国(TRNC)による一方的独立宣言以来、トルコ共和国のみがTRNCを主権国家として公式に承認している。国際連合は、安全保障理事会決議541(1983年)および550(1984年)など複数の決議において、この独立宣言を法的に無効とし、国際社会に対しTRNCを承認しないよう呼びかけている。その結果、TRNCは国際的に孤立しており、外交関係は極めて限定的である。
パキスタンとバングラデシュは独立宣言直後にTRNCを承認したが、アメリカ合衆国からの圧力と国連による宣言の違法性の判断を受け、承認を撤回した。
国際社会の大多数は、キプロス島全域におけるキプロス共和国の主権を支持しており、TRNCの領土をトルコによる占領地と見なしている。この立場は、TRNCが国際機関へ加盟することや、多国間条約に参加することを著しく困難にしている。
法的・外交的には、TRNCのパスポートはほとんどの国で有効な渡航文書として認められず、TRNCの産品は「キプロス共和国」原産と表示されない限り、多くの国で輸入制限の対象となる。また、TRNC内の空港や港湾は国際的に閉鎖されており、航空便や船舶はトルコを経由する必要がある。
2004年の国連によるアナン計画の住民投票後、トルコ系キプロス人コミュニティの計画支持に鑑み、欧州連合は北キプロスの孤立を終わらせるための公約を行った。これには貿易措置や2億5900万ユーロの援助が含まれた。アナン計画住民投票後に北キプロスへの禁輸を解除するというEUの公約は、欧州理事会でギリシャ系キプロス政府によって阻止された。
5.2. トルコとの関係
北キプロスは、政治、経済、軍事のあらゆる面でトルコに大きく依存している。この関係は、1974年のトルコによる軍事介入と、その後の北キプロス・トルコ共和国(TRNC)樹立に深く根差している。
政治的支援:トルコはTRNCを承認する唯一の国であり、国際舞台におけるTRNCの主要な代弁者である。TRNCの政府高官とトルコ政府関係者の間では緊密な協議が常に行われている。しかし、この緊密な関係は、TRNCの政策決定におけるトルコの影響力に対する懸念も生んでいる。
経済的支援:TRNC経済はトルコからの財政支援と経済協力に大きく依存している。トルコはTRNCの年間予算の不足分を補填し、インフラ整備プロジェクトへの資金提供、貿易の主要相手国としての役割を担っている。TRNCの通貨はトルコリラであり、経済的にもトルコと強く結びついている。
軍事的支援:トルコはTRNCに数万人規模の軍隊を駐留させており、これはTRNCの安全保障の根幹をなしている。TRNC政府はこの駐留を歓迎し、自国の安全に不可欠であると主張しているが、キプロス共和国および国際社会の多くはこれを占領軍と見なしており、国連決議でも撤退が求められている。
この深い依存関係は、TRNCの自立性を巡る議論や、キプロス問題解決交渉におけるトルコの役割について、複雑な力学を生み出している。
5.3. キプロス共和国との関係
北キプロスとキプロス共和国との関係は、1974年の島の分断以来、対立と不信、そして断続的な交渉の歴史によって特徴づけられる。両者はキプロス島の正統な支配権を巡って争っており、この未解決の紛争が両者関係の根底にある。
主な争点には以下のようなものがある。
- 主権と承認:キプロス共和国は島全体の唯一の正統な政府であると主張し、北キプロスの独立を認めていない。一方、北キプロスは自らを主権国家であると主張し、キプロス共和国との対等な関係を求めている。
- 領土と財産権:分断によって双方の住民が家や土地を追われたため、財産権の問題は極めて複雑である。ギリシャ系キプロス人が北部に残した財産、トルコ系キプロス人が南部に残した財産の扱いは、統一交渉における主要な障害の一つとなっている。
- トルコ軍の駐留:キプロス共和国は北キプロスに駐留するトルコ軍を占領軍と見なし、即時撤退を要求している。一方、北キプロスとトルコは、トルコ系住民の安全保障のために駐留が必要であると主張している。
- 入植者問題:1974年以降にトルコ本土から北キプロスに移住した人々の法的地位も争点となっている。
- 越境問題:2003年以降、両地域間の移動が一部可能になったが、検問所での手続きや移動の自由度には依然として制約がある。
長年にわたり、国際連合の仲介による統一交渉が何度も試みられてきたが、上記の争点に加え、統治形態(連邦制のあり方など)を巡る意見の対立から、恒久的な解決には至っていない。2004年のアナン計画の住民投票否決や、その後の交渉の頓挫は、両者間の深い溝を浮き彫りにしている。
5.4. 国際機関への参加
北キプロス・トルコ共和国(TRNC)は、トルコ以外の国から国家として承認されていないため、国際連合(UN)や欧州連合(EU)のような主要な国際機関の正規加盟国となることはできない。しかし、いくつかの国際機関において限定的な地位や参加形態を確保している。
- イスラム協力機構(OIC):TRNCは、1979年に「オブザーバー・コミュニティ」としてOICに参加を認められ、2004年には「トルコ系キプロス国(Turkish Cypriot State)」の名称でオブザーバー加盟国としての地位に格上げされた。これはTRNCにとって重要な外交的成果の一つである。
- 経済協力機構(ECO):ECOにおいても、TRNCは「トルコ系キプロス国」の名称で2012年10月からオブザーバーとして参加している。
- テュルク諸国機構:2022年11月、TRNCは自らの名称(北キプロス・トルコ共和国)でテュルク諸国機構のオブザーバーとして承認された。
- 欧州評議会議員会議(PACE):2004年、PACEはトルコ系キプロス人コミュニティの代表者にオブザーバー資格を与えた。これにより、TRNCの代表者は議決権はないものの、PACEの活動に積極的に参加している。
これらのオブザーバー資格は、TRNCが国際社会との接点を持ち、自らの立場を表明する限定的な機会を提供しているが、国家としての完全な承認や国際法上の主体としての地位を意味するものではない。EUに関しては、キプロス共和国が加盟国であるため、TRNCの領土は法的にはEU領土の一部だが、キプロス共和国政府の実効支配が及んでいないため、EU法(アキ・コミュノテール)の適用が停止されている。EUはキプロス問題の解決を支持しており、トルコ系キプロス人コミュニティへの経済支援などを行っている。
6. 軍事
北キプロスの国防体制は、独自の軍事組織である北キプロス保安軍と、駐留トルコ軍によって構成されている。国際的に未承認であるため、その軍事力はトルコの強力な支援に大きく依存している。
6.1. 北キプロス保安軍
北キプロス保安軍(Güvenlik Kuvvetleri Komutanlığıトルコ語、GKK)は、北キプロス・トルコ共和国(TRNC)独自の軍事・治安組織である。その主な任務は、国境警備、国内の治安維持、そしてトルコ軍との連携による防衛活動である。
規模と構成:保安軍の現役兵力は約8,000人とされ、主に18歳から40歳までのトルコ系キプロス人男性の徴兵によって構成されている。これに加えて、約1万人の第一線予備役と1万6千人の第二線予備役(50歳まで徴兵)が存在する。組織は陸軍、空軍(小規模な航空部隊)、沿岸警備隊、警察、消防の要素を含んでいる。
装備と役割:保安軍の装備は軽火器が中心であり、重装備や高度な兵器システムは駐留トルコ軍に依存している。将校団の多くはトルコ本土の軍からの出向者で構成されている。実質的には、ギリシャ系キプロス人による侵入からの国境防衛と、北キプロス内の治安維持を任務とする国家憲兵として機能している。沿岸警備隊は16隻の艦船を保有し、警備隊航空司令部は兵員輸送、哨戒、捜索救難に使用するAS532ヘリコプターを2機保有している。
保安軍は、島内のトルコ軍とは法的に分離されているものの、事実上トルコ軍の作戦統制下にあると考えられており、訓練や装備もトルコに依存している。司令官はトルコ陸軍から派遣された准将が務める。
6.2. 駐留トルコ軍
北キプロスには、1974年の軍事介入以来、トルコ本土のトルコ軍が大規模に駐留している。この駐留は、北キプロスの安全保障の根幹をなすと同時に、キプロス紛争における最も議論を呼ぶ点の一つである。
規模と編成:駐留トルコ軍は「キプロス・トルコ平和部隊」(Kıbrıs Türk Barış Kuvvetleri Komutanlığıトルコ語、KTBK)として知られ、その兵力は約3万人から4万人と推定されている。これはトルコ陸軍第9軍団から派遣された部隊で構成され、第28師団と第39師団の2個師団を主力とする。装備には、多数の米国製M48パットン主力戦車や火砲が含まれる。トルコ空軍、トルコ海軍、トルコ沿岸警備隊も北キプロスに展開している。
役割:公式には、北キプロスの安全保障とトルコ系住民の保護を目的としている。主にグリーンライン(南北分断線)沿いや、敵対的な水陸両用上陸作戦が想定される地点に展開している。イズミルに司令部を置くトルコ第4軍の正式な一部であるが、キプロス情勢の機微性から、キプロス・トルコ平和部隊の司令官はアンカラのトルコ軍参謀本部に直接報告する体制となっている。
国際社会からの評価:北キプロス政府とトルコ政府は、この駐留を北キプロスの安全と安定に不可欠であると主張している。しかし、キプロス共和国および国際社会の大多数は、これを国際法に違反する占領軍と見なしている。国際連合安全保障理事会は、1974年の決議353、357、358、359、360、365など、複数の決議でトルコ軍の撤退を要求している。この軍事プレゼンスは、キプロス問題解決に向けた交渉において常に主要な障害の一つとなっている。
7. 人権

北キプロス・トルコ共和国(TRNC)の人権状況は、その未承認国家という特殊な地位と、長期にわたるキプロス紛争の影響を強く受けている。国際的な人権団体や機関は、報道の自由、少数派の権利、財産権、法の支配など、様々な側面からTRNCの人権状況を注視している。
7.1. 全般的な人権状況
国際的な人権監視機関であるフリーダム・ハウスは、2000年以降、北キプロスにおける民主的・政治的自由のレベルを「自由」と評価してきた。2016年のランキングでは「自由」とされ、政治的権利は2/7、市民的自由は2/7(1が最も自由、7が最も自由でない)、総合スコアは79/100であった。国境なき記者団による世界報道自由度指数では、2015年に180カ国中76位にランクされた。
2011年1月の「キプロスにおける人権問題に関する国連人権高等弁務官事務所報告書」は、キプロスの継続的な分断が、移動の自由、行方不明者の問題に関する人権、差別、生命への権利、宗教の自由、経済的・社会的・文化的権利を含む、島全体の人権に影響を与え続けていると指摘した。
国連の持続可能な開発ソリューションネットワーク(SDSN)による2016年世界幸福度報告書では、北キプロスは157カ国中62位にランクされた。ギャラップ・ヘルスウェイズ幸福度指数2014では、北キプロスは145カ国中49位であった。
法制度はトルコの法制度に範をとったもので、世俗的な原則に基づいている。しかし、国際的に承認されていないため、欧州人権裁判所などの国際的な司法・人権メカニズムへのアクセスが限定的であるという課題がある。市民的自由や政治的権利については、複数政党制の下で選挙が実施され、一定の言論・集会の自由が認められているものの、トルコの影響力や軍の存在が間接的に影響を及ぼす可能性も指摘されている。
国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、北キプロスは2011年から2014年の間に153件の亡命申請を受けた。
7.2. 少数派住民および難民問題
北キプロスにおける少数派住民の権利と難民問題は、1974年の分断に起因する深刻な人権課題である。
少数派住民:北キプロス内には、主にリゾカルパソ(Dipkarpazディプカルパストルコ語)村に居住するギリシャ系キプロス人と、コルマキティス(Koruçamコルチャムトルコ語)村などに居住するマロン派キリスト教徒のコミュニティが存在する。2014年時点でギリシャ系キプロス人は343人、マロン派は118人とされる。これらの少数派住民は、大統領選挙、議会選挙、地方選挙での投票権や被選挙権を否定されている。マロン派は村の指導者(ムフタール)を選挙で選ぶが、ギリシャ系キプロス人にはトルコ系キプロス政府によって任命された指導者と、キプロス共和国によって任命された指導者の2人がいる。彼らの言語、宗教、文化の維持、教育へのアクセス、財産権などが懸念事項とされてきた。国連やその他の国際機関は、これらのコミュニティの権利保護を監視している。
難民・国内避難民問題:1974年の分断により、数十万人のギリシャ系キプロス人が北部から南部へ、また数万人のトルコ系キプロス人が南部から北部へ移動を余儀なくされた。これにより、双方に膨大な数の難民・国内避難民が発生した。彼らが元の居住地に取り残した家屋や土地などの財産権問題は、キプロス問題解決における最も困難な課題の一つである。欧州人権裁判所は、ギリシャ系キプロス人による財産返還や補償を求める訴えに関して、トルコに責任があるとする判決を複数下している。北キプロス内には「不動産委員会」が設立され、ギリシャ系キプロス人の財産請求に対応しているが、その実効性については議論がある。
行方不明者問題:1963年から1964年の民族間衝突および1974年の軍事介入の際に、双方のコミュニティで多数の行方不明者が発生した。国連の支援の下、行方不明者委員会(CMP)が遺骨の発掘、身元特定、遺族への返還作業を進めているが、全ての行方不明者の消息が明らかになったわけではなく、この問題は両コミュニティにとって依然として痛ましい記憶となっている。
8. 経済
北キプロスの経済は、国際的な未承認という特殊な状況と、トルコへの強い経済的依存によって特徴づけられる。サービス業が中心であり、観光業と高等教育が重要な役割を果たしているが、国際的な経済制裁が成長の大きな制約となっている。労働者の権利や経済格差といった社会的な側面も考慮に入れる必要がある。
8.1. 経済構造と現状

北キプロスの経済は、サービス業がGDPの大部分(2007年時点で69%)を占めており、これには公共部門、貿易、観光、教育が含まれる。2011年の教育部門からの収益は4.00 億 USDであった。工業(軽工業)はGDPの22%、農業は9%を寄与している。北キプロスの経済は自由市場アプローチに基づいており、2014年にはヨーロッパで新規事業立ち上げの起業家精神においてトップ国となった。
経済発展は、継続するキプロス問題によって悪影響を受けている。北キプロスは、国際的に承認された当局であるキプロス共和国が、実効支配下にない地域の空港と港湾を閉鎖したため、国際的な禁輸措置下にある。トルコ以外の全ての国連加盟国は、これらの港湾と空港の閉鎖を尊重している。その結果、北キプロスはトルコの経済支援に大きく依存しており、依然としてトルコ政府からの送金に頼っている。
北キプロスは、ユーロではなくトルコリラを法定通貨として使用しており、その経済はトルコの経済と連動している。キプロス共和国がユーロ圏に加盟し、南北間の人々の移動がより自由になって以来、ユーロも広く流通している。輸出入はトルコを経由しなければならない。欧州連合はアナン計画後に港湾の開放を約束したが、これはキプロス共和国によって阻止され、南部経由での輸出は技術的には可能であるものの、依然として非現実的である。
国際的な承認がないことによる制約にもかかわらず、2001年から2005年にかけての経済の名目GDP成長率はそれぞれ5.4%、6.9%、11.4%、15.4%、10.6%であった。2007年の実質GDP成長率は2%と推定された。この成長は、トルコリラの相対的な安定と、教育・建設部門の活況に支えられてきた。2002年から2007年の間に、一人当たり国民総生産は3倍以上に増加し、2002年の4409 USDから(現在の米ドルで)1.62 万 USDになった。成長は2010年代も続き、2010年から2013年の実質成長率はそれぞれ3.7%、3.9%、1.8%、1.1%であった。失業率は2010年代を通じて低下し、2014年には8.3%であった。
2011年、島の南部で大規模な発電所に影響を与えた爆発事故の後、北キプロスはキプロス共和国に電力を販売した。2015年に完成した北キプロス給水プロジェクトは、地中海下のパイプラインを経由してトルコ南部から飲料水と灌漑用水を供給することを目的としている。
労働者の権利に関しては、労働組合が存在し活動しているものの、未承認国家であることや経済の不安定さが、労働条件や賃金水準に影響を与える可能性がある。経済格差も存在し、特にトルコからの移住民と地元住民との間で経済的な機会に差が見られるとの指摘もある。
8.2. 観光業


観光業は北キプロス経済の牽引役の一つと考えられている。2012年には110万人以上の観光客を受け入れ、ホテルとレストランは3.28 億 USDの収入を生み出し、GDPの8.5%を占めた。同年、宿泊・飲食業は1万人以上の雇用を創出した。観光部門は2000年代から2010年代にかけて大きな発展を遂げ、観光客数は倍以上に増加し、投資とホテル建設も進んだ。2013年の観光収入の公式推定額は約7.00 億 USDで、総ベッド収容能力は約2万人と推定された。
キレニア(ギルネ)は、多数のホテル、娯楽施設、活気あるナイトライフ、ショッピングエリアがあり、北キプロスの観光の中心地とされている。2012年には、北キプロス訪問者の62.7%がギルネ地区に滞在した。2013年時点で北キプロスにある145軒のホテルのうち99軒がギルネ地区にあった。
北キプロスは伝統的に、手つかずの地域としての評判もあり、ビーチリゾートとして魅力的であった。穏やかな気候、豊かな歴史、自然が魅力の源とされている。北キプロスでは、バードウォッチング、サイクリング、ウォーキング、野生の花の観察などを目的としたエコツーリズムの重要な部門が開発されている。比較的安全であること、特にカルパス半島がよく保存されていることで賞賛されている。半島にはいくつかの種類の観光があり、ビーチ愛好家のための中心地としてバフラ観光エリアがあり、2014年までに4つの豪華で大規模なホテルが建設された。また、田舎の魅力を強調し、地元の伝統を展示するいくつかの施設や定期的な祭り、人里離れた自然公園、観光客を魅了するカンダラ城、国際的なヨットやボートを受け入れるために建設されたマリーナと大規模な施設がある。
カジノ観光も北キプロス経済への重要な貢献部門へと成長した。1990年代に初めてオープンし、それ以来、カジノが禁止されているトルコや島の他の地域からの訪問者に非常に人気がある。これにより、カジノ部門への巨額の投資が行われた。しかし、この部門は中小規模の事業者や店主への利益が少ないという主張から批判されている。「ナイトクラブ」として設立された施設はセックスツーリズムを北キプロスに誘致しており、セックスワーカーは「虐待に対して脆弱」であると描写されているにもかかわらず、この産業は「文明化されたもの」と評されている。
8.3. 社会基盤施設
北キプロスの社会基盤施設は、交通(航空、港湾、道路)、通信、エネルギー(電力、水道供給)など、国家の基本的な機能を支えるインフラを指す。国際的な未承認状態と経済的制約は、これらの施設の発展と維持に影響を与えている。輸送・通信産業の北キプロスGDPに占める割合は常に変動しており、2008年の12.1%から2011年には8.5%に減少したが、2012年には再び9.3%に上昇した。
交通
- 航空:航空輸送は北キプロスへの主要な入国ルートである。国内にはエルジャン国際空港とゲチトカレ空港の2つの空港があるが、現在機能しているのはエルジャンのみである。エルジャン空港は2010年代に大規模な改修が行われ、旅客輸送量が大幅に増加し、2014年の最初の7ヶ月だけで176万人の乗客が利用した。直行便はトルコの複数の地点からトルコの航空会社数社を通じてのみ利用可能である。他の国からの直行定期便およびチャーター便もあるが、トルコでの強制的な途中降機が必要である。2013年には600便のチャーター便が予定されていた。定期便の目的地にはロンドンやマンチェスターなどの都市が含まれ、チャーター便の目的地にはベルリンやリュブリャナなどの都市が含まれる。北キプロスへの直行便および北キプロスの港を経由する貿易交通は、北キプロスの港に対する禁輸措置の一環として制限されている。ゲチトカレ空港とエルジャン空港は、トルコとアゼルバイジャンによってのみ合法的な入国港として認められている。ポーランドと北キプロス間の直行チャーター便は2011年6月20日に開始された。
- 港湾:ファマグスタ(ガーズィマウサ)とキレニア(ギルネ)の港は、1974年以来キプロス共和国によって全ての船舶に対して閉鎖されていると宣言されている。北キプロスとシリア間の合意により、シリア内戦勃発前にはファマグスタとラタキア(シリア)間の船舶ツアーがあった。グリーンラインの開放以来、トルコ系キプロス住民はキプロス共和国が承認する港を通じて貿易を行うことが許可されている。
- 道路:鉄道システムがないため、主要都市間の輸送には国の高速道路が使用されている。21世紀に入り、これらの高速道路は二車線道路に改良され、カルパス地域の一部の道路は2015年現在も改良中である。北キプロスには約7000 kmの道路があり、そのうち3分の2は舗装されている。最近の建設には、経済発展の主要なインセンティブとして歓迎された北部沿岸高速道路の建設が含まれる。
通信:国際電話は、北キプロス独自の国番号も公式のITUプレフィックスも持たないため、トルコの+90 392を介してルーティングされる。同様に、インターネットに関しても北キプロスは独自のccTLDを持たず、トルコのセカンドレベルドメイン.nc.trの下にある。郵便物は、万国郵便連合が北キプロスを別個の主体として認識していないため、「via Mersin 10, TURKEY」と宛名書きする必要がある。アマチュア無線家は時々「1B」で始まるコールサインを使用するが、これらはアワードやその他の運用クレジットの対象とはならない。
エネルギー:電力供給は主にトルコからの支援に依存しており、老朽化した発電所の問題も抱えている。送電網はキプロス共和国と接続されており、トルコとの連系線は化石燃料への依存を減らすだろう。北キプロス給水プロジェクトにより、2015年からトルコ本土よりパイプラインで水が供給されている。
9. 住民
北キプロスの住民構成は、歴史的経緯と政治的状況を反映し、主にトルコ系キプロス人とトルコ本土からの移住民によって特徴づけられる。その他、少数の他民族も居住している。言語、宗教、教育システムも、この地域の独自性を形成している。
9.1. 人口構成と民族

北キプロスの最初の公式国勢調査は1996年に行われ、記録された人口は200,587人であった。2006年に実施された2回目の国勢調査では、北キプロスの人口は265,100人とされ、その大多数は先住民のトルコ系キプロス人(南キプロスからの難民を含む)とトルコからの入植者で構成されている。178,000人のトルコ系キプロス市民のうち、82%がキプロス原住民(145,000人)である。非キプロス系の両親から生まれた45,000人のうち、ほぼ40%(17,000人)がキプロスで生まれている。学生、出稼ぎ労働者、一時滞在者を含む非市民の数は78,000人であった。2006年の国勢調査によれば、市民権を持つ者のうち民族構成はトルコ系キプロス人が大部分を占め、ごく少数ながらギリシャ系キプロス人、マロン派キプロス人、その他の民族(イギリス系などを含む)も居住している。詳細な民族構成の割合としては、トルコ系が99.2%、ギリシャ系が0.2%、イギリス系が0.2%、マロン派が0.1%、その他が0.3%と報告されている。
北キプロスの3回目の公式国勢調査は2011年に国連オブザーバーの後援のもと実施され、総人口は294,906人とされた。これらの結果は一部の政党、労働組合、地元新聞によって異議が唱えられた。政府は、国勢調査前に明らかに70万人の推定値を示した後、トルコからの財政援助を要求するために意図的に人口を過少に数えたと非難された。ある情報源は、北部の人口は50万人に達し、50%がトルコ系キプロス人、50%がトルコ人入植者またはそのような入植者のキプロス生まれの子供たちに分かれていると主張している。研究者のメテ・ハタイは、そのような報告は「非常に憶測的」であり、政敵が政治的利益のために取り上げ、南部での報道につながったと書いている。そのような報告は、反対政党が所有する選挙人名簿を使用してそうする機会があったにもかかわらず、科学的または統計的に精査されたことはなく、それによって「数字の戦争」が続いている。
北キプロス政府は、1983年の北キプロスの人口を155,521人と推定している。キプロス共和国政府による2001年の推定では、人口は20万人で、そのうち8万~8万9千人がトルコ系キプロス人、10万9千~11万7千人がキプロス共和国によってトルコ人入植者として指定されている。1960年の島全体の国勢調査では、トルコ系キプロス人の数は10万2千人、ギリシャ系キプロス人の数は45万人であった。2005年現在、入植者は北キプロスの有権者の25%以下であった。本土トルコ人のトルコ系キプロス人コミュニティへの統合の度合いは様々で、トルコ系キプロス人と自認し文化的に統合した者もいれば、トルコ人のアイデンティティを受け入れる者もいる。
北キプロスには、リゾカルパソ(ディプカルパス)に住むギリシャ系キプロス人644人と、コルマキティスに住むマロン派364人がいる。16万2千人のギリシャ系キプロス人が、トルコ軍の侵攻部隊によって北部から強制的に家を追われた。リゾカルパソは、北部で最大のギリシャ語を話す人口を抱える地である。ギリシャ系キプロス人の住民は依然として国連から物資を供給されており、その結果、一部の店ではギリシャ系キプロス製品が入手可能である。
2011年の国勢調査に基づく北キプロスの主要都市は以下の通りである。
都市名 | 地区 | 人口 |
---|---|---|
北レフコシャ | レフコシャ地区 | 61,378 |
ファマグスタ | ガズィマウサ地区 | 40,920 |
キレニア | ギルネ地区 | 33,207 |
モルフォウ | ギュゼルユルト地区 | 18,946 |
ギョニェリ | レフコシャ地区 | 17,277 |
キスレア | レフコシャ地区 | 11,895 |
レフカ | レフケ地区 | 11,091 |
ディコモ | ギルネ地区 | 9,120 |
トリコモ | イスケレ地区 | 7,906 |
ラピソス | ギルネ地区 | 7,839 |


9.2. 言語
北キプロスの公用語はトルコ語である。日常的に話されるトルコ語は、標準トルコ語に近いが、独自の地域方言(キプロス・トルコ語)も存在し、語彙や発音に特徴が見られる。この方言は、歴史的な経緯からギリシャ語や英語からの借用語も含むことがある。
教育や行政、メディアでは標準トルコ語が主に使用される。
英語も第二言語として広く通用しており、特に観光業や高等教育機関では重要性が高い。多くの住民、特に若い世代や都市部では英語を理解し話すことができる。歴史的にイギリスの植民地であった影響も残っている。
少数派コミュニティでは、ギリシャ系キプロス人はギリシャ語を、マロン派キプロス人はキプロス・マロン派アラビア語(現在は主に典礼用)やギリシャ語を使用している。
9.3. 宗教

北キプロスの住民の大多数(99%)はイスラム教徒であり、そのほとんどがスンニ派である。残りの約1%は、ギリシャ正教会、マロン派キリスト教、バハイ教など、その他の宗教を信仰している。しかし、北キプロスは世俗国家であり、信教の自由が憲法で保障されている。アルコール飲料はコミュニティ内で頻繁に消費され、ほとんどのトルコ系キプロス人女性は頭を覆わないが、公の場で住民のトルコ文化の象徴として、あるいは単に保守的な服装として、時折ヘッドスカーフが着用されることもある。それでも、いくつかの宗教的伝統はコミュニティ内で依然として役割を果たしている。トルコ系キプロス人男性は、宗教的信条に従って一般的に割礼を受ける。
イスラム教の慣習は日常生活や文化に影響を与えているものの、社会全体としては比較的穏健で世俗的な雰囲気が強い。モスクは各都市や村に存在するが、宗教的戒律の厳格な適用を求める動きは主流ではない。
ごく少数のギリシャ正教会信徒(主にリゾカルパソに住むギリシャ系キプロス人)や、マロン派キリスト教徒(主にコルマキティスに住む)も存在し、それぞれの信仰を維持している。その他、バハイ教徒なども少数ながら存在する。
9.4. 教育
北キプロスの教育制度は、就学前教育、初等教育、中等教育、高等教育から構成されている。5年間の初等教育は義務教育である。
北キプロスの高等教育計画評価認定調整評議会(YÖDAK)は、高等教育質保証機関国際ネットワーク(INQAAHE)のメンバーである。
2013年には、北キプロスの9つの大学に114カ国から63,765人の大学生が在籍していた。2014年には学生数は70,004人(トルコ系キプロス人15,210人、トルコから36,148人、留学生18,646人)に増加した。大学には、近東大学(NEU)、ギルネ・アメリカン大学、中東工科大学TRNC校、レフケ・ヨーロッパ大学、キプロス国際大学、東地中海大学(EMU)、イスタンブール工科大学TRNC校、地中海カルパス大学、キレニア大学などがあり、すべて1974年以降に設立された。EMUは、35カ国から1000人以上の教員を擁する国際的に認知された高等教育機関である。EMUには68の国籍を持つ15,000人の学生がいる。8つの大学はトルコ高等教育評議会によって承認されている。東地中海大学と近東大学は、ヨーロッパ大学協会の正会員である。EMUは、地中海大学コミュニティ、イスラム世界大学連盟、国際大学協会、国際グラフィックデザイン団体協議会の正会員であり、Webometricsによって島で最高の大学、ヨーロッパでトップ500にランクされた。北部の沿岸都市キレニアにあるギルネ・アメリカン大学は、2009年にイギリスのカンタベリーにキャンパスを開設し、2010年に英国認定評議会によって認定された。
近年、北キプロスは国際的な学生を誘致する高等教育のハブとしての役割を強化しており、多くの大学が英語で授業を提供している。授業料が比較的安価であること、生活費が他のヨーロッパ諸国に比べて低いこと、そして多文化的な環境が魅力となっている。教育の質向上が課題とされる一方で、大学部門は北キプロス経済の重要な収入源の一つとなっている。
北キプロスは定期的に国際ロボカップ大会に参加しており、2013年には20チーム中14位であった。国は、ヒッグス粒子の発見につながったCERNの実験に参加するスーパーコンピュータを保有している。北キプロスは、2014年に南アフリカで開催された太陽光発電自動車のソーラーチャレンジの参加国の一つである。
10. 文化
北キプロスの文化は、トルコ文化の影響を強く受けつつも、キプロス島固有の伝統や地中海地域の要素が融合した独自性を持っている。音楽、舞踊、文学、料理、祝祭など、多様な文化的側面が見られる。
10.1. 音楽と舞踊


トルコ系キプロス人の民族音楽は、本土のトルコ音楽の影響をある程度受けつつも、地域独自の豊かな旋律を持っている。歴史的には、当時の主要な社会的集まりであった結婚式の伝統を中心に形成された。これらの集まりでは、ヴァイオリン、地元で「ダルブカ」として知られるゴブレットドラム、ズルナ、その他の太鼓が多用され、この遺産に基づいて多数の伝統的な歌が発展した。トルコ系キプロス文化には、カルシュラマス、チフテテリ、ゼイベクなど、様々な影響を受けた多様な民族舞踊も含まれている。
北キプロス国立交響楽団は1975年から活動している。キレニアのベラパイス修道院はクラシック音楽の国際フェスティバルを主催しており、クラシック音楽の重要なプラットフォームと見なされている。北ニコシアには独自のニコシア市立管弦楽団があり、公園や広場などのオープンスペースで演奏しており、毎年恒例の城壁都市ジャズフェスティバルの開催地でもある。ルヤ・タネルは国際的に評価の高いトルコ系キプロス人ピアニストである。
トルコ系キプロスの都市や町では、地元および国際的な歌手やバンドの公演を含むフェスティバルが定期的に開催されている。ジイネト・サリやイシュン・カラジャのような一部のトルコ系キプロス人歌手はトルコで名声を得ている。トルコ系キプロス人のバンドSıla 4は、トルコ系キプロス人のアイデンティティにとって不可欠と見なされる音楽を制作し、トルコでも名声を得た。ロックやポップミュージックは北キプロスの一般大衆に人気があり、重要な歌手やバンドにはSOSやフィクリ・カラエルがいる。
10.2. 文学
詩は北キプロスで最も広く出版されている文学形式である。トルコ系キプロス詩は、トルコ文学の影響とキプロス島の文化の両方に基づいており、イギリス植民地時代の歴史もある程度反映されている。
ラテン文字導入後のトルコ系キプロス詩の最初の時代は、ナジフ・スュレイマン・エベオウル、ウルキエ・ミネ・バルマン、エンギン・ギョニュル、ネジュラ・サリフ・スプヒ、ペンベ・マルマラなどの詩人によって特徴づけられ、当時のトルコ系キプロス人の政治的態度による強い民族主義的要素があり、文体的にトルコ本土の詩を反映していた。一方、ノーベル文学賞に2度ノミネートされたオズケル・ヤシュン、オスマン・テュルカイ、ネヴザト・ヤルチュンなどの他の詩人は、トルコやイギリスの nascent な詩的スタイルの影響を受けつつ、より独創的なスタイルで書こうとした。この詩人グループは非常に多作で、トルコ系キプロス人コミュニティにおける詩の人気を高め、トルコ系キプロス文学の重要人物と見なされている。
1970年代には、ヤシュン、テュルカイ、ヤルチュンの影響を受け、ナショナリズムはキプロス人らしさという概念に取って代わられた。この時期、「1974年世代の詩人」と呼ばれるメフメト・ヤシュン、ハック・ユジェル、ニジェ・デニゾール、ネシェ・ヤシュン、アイシェン・ダール、ジャナン・シュメルなどの詩人たちが台頭した。この世代の詩は、トルコのアイデンティティとは異なるトルコ系キプロス人のアイデンティティの評価と、以前のナショナリズム詩とは対照的に、トルコの代わりにキプロスをトルコ系キプロス人の故郷と特定することを特徴としていた。このアプローチは、トルコの影響に抵抗し、最近の戦争経験によるトルコとキプロスの文化的な亀裂、したがってトルコ系キプロス詩とアイデンティティの独立性を強調するため、「拒絶のキプロス詩」としばしば呼ばれる。これに続いて、1980年代には地中海的アイデンティティの採用が増加し、トルコ系キプロス社会の自由化の影響も伴い、ネリマン・ジャヒトがその特定の例であるフェミニスト的要素に反映された。
10.3. 演劇と映画


北キプロスの演劇は、主にトルコ系キプロス国立劇場、市立劇場、および多くの民間劇団によって行われている。ニコシア・トルコ市が主催するキプロス演劇祭は、トルコの機関も参加する大規模な組織である。北キプロスには演劇専用の主要なホールがないため、劇はしばしば会議ホールで行われる。
トルコ系キプロス演劇の起源は、オスマン帝国時代に娯楽の一形態として島で普及した影絵芝居であるカラギョズとハジワットにある。この形式の演劇は今日では人気を失っているが、宗教的な祭りの期間中には依然としてテレビ放映されている。1840年代以降、オスマン帝国が近代化を始めると、よりヨーロッパ的な要素を持つ演劇がトルコ系キプロスの人々に受け入れられるようになった。しかし、現代的な意味でのトルコ系キプロス演劇の始まりは、1908年にトルコの劇作家ナムク・ケマルの戯曲「祖国か、シリストラか」が上演されたこととされている。これに続いて、トルコ系キプロス人コミュニティで演劇活動が盛んになり、地元の劇が書かれて上演され、トルコの劇団が1920年代までにキプロスで舞台に立つようになり、キプロスの全ての主要な町でトルコ系キプロスの劇が定期的に上演された。
1960年代には、トルコ系キプロス演劇は制度化され始めた。1963年に設立された主要な劇団「İlk Sahne」(最初の舞台)は1966年にトルコ系キプロス国立劇場と改名され、以来85以上の劇を上演している。演劇は現在、北キプロスで非常に人気のある芸術形式であり、キプロス演劇祭の劇のチケットには長蛇の列ができ、観劇者の数は常に増加している。
映画に関しては、2011年に公開された「アナフタル」(鍵)は、北キプロスで完全に製作された最初の長編映画であった。いくつかの共同製作も行われている。北キプロス、トルコ、イギリス、オランダの共同製作である「{{仮リンク|コードネーム・ヴィーナス|tr|Kod Adı Venüs}}」(コードネーム・ヴィーナス)は、2012年のカンヌ国際映画祭で上映された。映画監督兼脚本家のデルヴィシュ・ザイムは、2003年の映画「泥」(チャムル)で名声を得、この作品はヴェネツィア国際映画祭でユネスコ賞を受賞した。
トルコ系キプロス人ジャーナリスト、フェヴズィ・タシュプナルが監督したドキュメンタリー映画「カユプ・オトビュス」(失われたバス)は、TRT TVで放映され、2011年のボストン映画祭にも参加した。この映画は、1964年にバスで家を出て二度と戻らなかった11人のトルコ系キプロス人労働者の物語を描いている。彼らの遺体は2006年10月にキプロスの井戸で発見された。
10.4. 料理
北キプロスの料理は、トルコ料理と地中海料理の影響を強く受けており、新鮮な地元の食材を活かしたものが特徴である。代表的な料理には以下のようなものがある。
- ケバブ:串刺しの羊肉(シシュケバブ)や、ハーブやスパイスで味付けして挽いた肉(キョフテまたはシェフタリケバブ)など、様々な種類のケバブがある。
- メゼ:前菜の盛り合わせで、フムス(ひよこ豆のペースト)、ジャジュク(ヨーグルトとキュウリの和え物)、タヒニ(ゴマのペースト)、オリーブ、チーズなどが一般的である。
- モロヘイヤ(Molohiyaトルコ語):モロヘイヤの葉を使った煮込み料理。
- コロカス(Kolokasトルコ語):タロイモに似た根菜を使ったシチュー。
- ヤランジュ・ドルマ(Yalancı Dolmaトルコ語):ブドウの葉や野菜にご飯やハーブを詰めたもの。「ヤランジュ」は「偽の」を意味し、肉を使わないものを指す。
- ブレク(Börekトルコ語):薄いパイ生地にチーズや挽肉、ほうれん草などを詰めて焼いたもの。
- ピラフ(Pilavトルコ語):米を使った炊き込みご飯。
- ヘルヴァ(Helvaトルコ語):セモリナ粉やゴマペーストを主原料とする甘い菓子。
- スジュク(Sucukトルコ語):スパイシーな乾燥ソーセージ。
- ハルミチーズ(Hellimトルコ語):ヤギ乳や羊乳から作られる、焼いても溶けにくい独特のチーズ。
これらの料理は、新鮮な野菜、オリーブオイル、ハーブ、スパイスをふんだんに使うのが特徴で、地元の祝祭や家庭料理として親しまれている。
10.5. スポーツ

北キプロスで最も人気のあるスポーツはサッカーである。北キプロスには5つのスタジアムがあり、それぞれの収容人数は7,000人から30,000人である。北キプロスには29以上のスポーツ連盟があり、登録会員数は合計13,950人で、そのうち6,054人がテコンドー、空手、合気道、クラッシュの登録実践者であり、射撃は1,150人、狩猟は1,017人の登録会員がいる。いくつかのスポーツクラブはトルコのリーグに参加している。これらには、トルコ男子バスケットボール地域リーグのファストブレイクスポーツクラブ、トルコハンドボールプレミアリーグのベシュパルマクスポーツクラブ、レフケ・ヨーロッパ大学トルコ卓球スーパーリーグが含まれる。ウィンドサーフィン、ジェットスキー、水上スキー、セーリングなどのウォータースポーツも北キプロスの海岸線沿いのビーチで楽しむことができる。セーリングは特にキレニア近郊のエスケープビーチクラブで行われている。
国際的な承認がないため、北キプロスは国際オリンピック委員会(IOC)やほとんどの国際スポーツ連盟に加盟できておらず、オリンピックや主要な国際大会への「北キプロス」としての参加はできない。選手は個人として他国の市民権を得て参加するか、トルコのチームの一員として出場することがある。
北キプロスは世界プールビリヤード協会のメンバーである。
サッカーは国内リーグ(KTFFスュペル・リグ)が存在し、人気が高い。
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