1. 概要
坂上田村麻呂(坂上 田村麻呂さかのうえ の たむらまろ日本語、758年 - 811年)は、日本の平安時代初期の公卿・武官である。彼の名は「田村麿」と表記されることもある。桓武天皇に仕え、二度にわたり征夷大将軍として東北地方の蝦夷(えみし)征討を指揮し、その地に胆沢城と志波城を築くなど、律令国家の東方経営に多大な功績を残した。
また、彼の生涯は軍事的な役割に留まらず、平城上皇と嵯峨天皇の間の権力闘争である薬子の変では嵯峨天皇を支持し、その鎮圧に貢献した。さらに、清水寺の創建に深く関わるなど、仏教信仰にも篤かったとされる。蝦夷の指導者であるアテルイとモレの降伏に際しては、彼らの助命を嘆願するなど、単なる征服者ではない、共生の可能性を模索する一面も持ち合わせていた。しかし、この助命は受け入れられず、アテルイとモレは処刑されることとなった。この出来事は、彼の人間的な側面と、当時の政治的状況の限界を示すものとして注目される。
死後、彼は平安京の鎮護を願う嵯峨天皇の意向により特別な形で埋葬され、「王城鎮護」の守護神として、あるいは武神や軍神として信仰の対象となった。後世には、毘沙門天の化身と見なされ、鬼退治の伝説など、多くの伝説や民話が創出され、日本文化に大きな影響を与えた。彼が帰化系氏族の出身であったことは、明治時代に紙幣の肖像候補から外されたことにもつながっており、その評価は時代とともに変遷してきた。本稿では、坂上田村麻村の生涯、主要な業績、そして日本史と文化に与えた影響を、中道左派的な視点から公平に扱い、その軍事的・政治的役割、社会的評価を包括的に解説する。
2. 家系と初期の生涯
坂上田村麻呂の家系は渡来系氏族であり、幼少期から武芸に親しむ環境で育ち、後に武官として朝廷に仕えることとなる。
2.1. 家系と血統
坂上氏の家系は、中国の後漢の霊帝の曾孫である阿智王を祖とするとされる漢系渡来人氏族の東漢氏と同族を称している。これは『続日本紀』に記されたもので、田村麻呂は霊帝の14代目の子孫にあたるとされる。また、別の研究では、坂上氏の起源を百済を含むアジア大陸に求める見方もある。
坂上氏は代々、弓馬や鷹の道を世職としており、走る馬から弓を射る馳射(はせゆみ)などの武芸を得意とする家系であった。数代にわたり宮廷の宿衛として守護にあたったことから、「武門」の誉れが高く、天皇からの信頼も厚い家柄であった。曽祖父の坂上大国は右衛士大尉、祖父の坂上犬養は少年期から武人の才能を讃えられて聖武天皇から寵愛され左衛士督に昇進した。父の坂上苅田麻呂も武芸によって公卿待遇を与えられている。
しかし、田村麻呂が登場する頃の坂上氏は、地方的な豪族に過ぎなかった。そのため、大国から苅田麻呂までの3代は氏族の没落を防ぐために尽力し、武人の供給源という特性を坂上氏の特徴として確立していった。これにより、「将種坂上氏」として武芸に秀でた家風を確立し、田村麻呂とその兄弟は幼少期から武芸を好むように教育されたという。
彼の出自に関しては、様々な俗説が存在する。例えば、蝦夷出身であったとする「坂上田村麻呂夷人説」や、陸奥国田村庄で誕生したとする「坂上田村麻呂奥州誕生説」といった俗説も存在する。さらに、1910年代にはカナダの人類学者アレクサンダー・フランシス・チェンバレンが田村麻呂が黒人であるという記述を行い、「坂上田村麻呂黒人説」がカナダやアメリカ合衆国の黒人コミュニティの一部で広まった。
2.2. 出生と幼少期
坂上田村麻呂は天平宝字2年(758年)に、父である坂上苅田麻呂の次男、あるいは三男として誕生した。生年は、彼の薨伝(死去に関する記録)に記された没年から逆算されたものである。父・苅田麻麻呂が31歳の時の子であったが、出生地は正確には明かされていない。母に関する情報は一切不明とされているが、延暦12年(793年)に田村麻呂の兄弟である坂上広人が高津内親王の外戚として従五位下に昇叙されていることから、高津内親王の母である坂上又子を通じての親族関係が推測されている。又子の母が畝火宿禰氏であった可能性があり、広人、田村麻麻呂、又子の三人が同母であったとすれば、田村麻呂の母も畝火宿禰氏であった可能性が高いとされている。
幼少期の田村麻呂に関する史料はほとんど残されていない。しかし、宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位した際、父・苅田麻呂が道鏡の奸計を告発し排斥した功績により、同年9月16日(770年10月9日)に陸奥鎮守将軍に叙任されている。苅田麻呂の陸奥国鎮守府への赴任期間は半年ほどであったが、律令の規定で21歳未満であれば同道が許されていたため、当時13歳前後であった田村麻呂が、比較的平和な時代であった三十八年戦争直前の陸奥国多賀城で幼少期を過ごしていた可能性も指摘されている。
宝亀3年(772年)、父・苅田麻呂は大和国高市郡の郡司職をめぐる問題で、代々郡司職を務めてきた檜前忌寸ではなく、近年蔵垣氏らが郡司に任じられている現状を朝廷に上奏し、譜代である檜前氏を任じる勅を得ている。檜前氏、蔵垣氏、蚊帳氏、文山口氏はいずれも坂上氏と同じく阿智使主を祖とする漢系渡来系氏族(東漢氏)の同族である。
2.3. 初期官職活動
坂上田村麻呂は蔭位の制が適用される21歳に達した宝亀9年(778年)に出仕したと推測される。この時、父・苅田麻呂が正四位下であったため、田村麻呂が庶子であれば従七位上、嫡子であれば正七位下の叙位がなされたと考えられるが、どちらであったかを決定する史料は残っていない。いずれにせよ、彼は七位の官人としてキャリアをスタートさせた。
宝亀11年(780年)、23歳で近衛府の将監に任じられ、将種を輩出する坂上氏の家風にふさわしく武官としての出仕であった。
天応元年4月3日(781年1月30日)、光仁天皇が譲位し、山部親王が桓武天皇として即位した。桓武天皇の生母である高野新笠は武寧王を祖とする百済系渡来系氏族の和氏出身であり、帰化人の血を引く桓武天皇の即位は、渡来系氏族にとって優遇措置が講じられる機会となることもあった。
延暦元年(782年)閏1月に発生した氷上川継の乱では、父・苅田麻呂が事件に連座し解官されたものの、わずか4ヶ月後には右衛士督に復職している。また、延暦4年(785年)6月には、苅田麻呂が後漢の霊帝の子孫である坂上氏が「忌寸(いみき)」という卑姓を帯びていることを理由に「宿禰」姓の賜与を上表し、許された。これにより、同族11姓16名が忌寸姓から宿禰姓へと改姓し、嫡流の坂上氏は「大忌寸(おおみき)」であったため「大宿禰(おおすくね)」を称した。この出来事は、坂上氏が地方豪族から中央貴族へと転身していく過程を示すものであった。
延暦4年11月25日(785年12月31日)、安殿親王(後の平城天皇)が立太子されると、坂上田村麻呂は28歳で正六位上から従五位下へと昇進した。これは、外位の五位を経ずに従五位下へと昇進したものであり、坂上氏が中央貴族としての地位を確立した証拠とされている。延暦5年1月7日(786年2月10日)に父・苅田麻呂が薨去すると、田村麻呂は一年間の喪に服した。
延暦6年(787年)早々に喪が明けると、近衛将監へと復帰。同年3月22日(787年4月14日)に内匠助を兼任し、9月17日(787年11月1日)には近衛少将へと昇進した。延暦7年6月26日(788年8月2日)には近衛少将と内匠助のまま越後介を兼任し、延暦9年(790年)には越後守へと昇格するなど、着実に官位を上げていった。
3. 人物像
坂上田村麻呂は、史料に記録されたその容貌や人柄、卓越した能力の描写から、単なる武人にとどまらない多面的な人物像が浮かび上がる。
3.1. 容貌と人柄
史料に示される坂上田村麻呂の外見的特徴は非常に印象的である。彼は「身の丈176 cm、胸の厚さ36 cm」と記されており、堂々たる体格を誇っていた。面と向かって立つと、その長身ゆえに相手がのけぞるように見え、背後から見ると屈んでいるように見えたという。容貌については「目は鷹の蒼い眸(まなざし)のように鋭く、鬢(びん)は黄金の糸を紡いだように光っている」と描写され、その鋭い眼光が彼の威厳を示していたことがうかがえる。
内面的な性格については、「真心は面に顕われ、桃花は春ならずして常に紅い」「生まれながらに勁節(強い意思)を持ち、松の色は冬を送りてただ翠(みどり)なり」と称えられており、誠実さや高潔な品性を備えていたことが強調されている。また、行動は機敏であり、立ち振る舞いは理にかなっていたという。怒って眼をめぐらせれば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば幼い子供もすぐに懐に入り込むほどであったとされ、その人間的な魅力と、親しみやすさも持ち合わせていたことが伝えられている。
3.2. 武芸と知略
坂上田村麻呂は、その卓越した武芸と優れた戦略的思考によって「将種(将軍の器)」と称賛された。史料には、「策は本陣でめぐらせ、勝ちを決するのは千里の外であった」と記されており、彼の知略が戦場においていかに遠大で効果的であったかを示している。さらに「華夏に学門を学び、張将軍のように武略があり、蕭相国のように奇謀があった」と述べられ、中国の歴史上の優れた軍師や政治家になぞらえて、その文武両道の才が賛辞を贈られている。
彼は武人としてだけでなく、戦略家としても非常に優れていたことが強調されている。敵の動向を正確に予測し、戦いを始める前から勝利への道筋を描く能力を持っていたとされる。このような評価は、彼が単なる力任せの武将ではなく、深い教養と洞察力に基づいた知略を兼ね備えていたことを物語っている。
4. 主な業績と活動
坂上田村麻呂は、日本の古代史において、軍事的・政治的に極めて重要な役割を果たした。特に蝦夷征討における功績は大きく、その後の東北地方の経営に多大な影響を与えた。
4.1. 蝦夷征討活動
桓武天皇の命を受け、坂上田村麻呂は蝦夷との戦争において中心的な役割を担い、征夷大将軍としてその指揮を執った。
4.1.1. 第一次蝦夷征討(延暦13年)
桓武朝第二次蝦夷征討の準備は延暦9年(790年)早々から開始された。延暦10年1月18日(791年2月25日)、兵士の動員が具体化されると、坂上田村麻呂は百済王俊哲と共に東海道諸国に派遣され、兵士の簡閲と戒具(武器・装備)の検査を実施した。この征討軍の兵力は約10万人であったと伝えられている。
同年7月13日(791年8月17日)、大伴弟麻呂が征東大使に任命されると、田村麻呂は百済王俊哲、多治比浜成、巨勢野足とともに征東副使となった。軍監16人、軍曹58人という、異例なほど多数の軍曹が任命されたことから、実戦部隊の指揮官級を多く配置する配慮があったとも考えられる。実戦経験がないはずの坂上田村麻呂が副使に登用された理由は不明だが、朝廷から見ても彼の戦略家・戦術家としての能力は未知数であったと推測されている。
延暦11年(792年)の東北地方では、1月11日(792年2月7日)に斯波村の夷(蝦夷)や胆沢公阿奴志己らが陸奥国府に使者を送り、王化に帰服したいと申し出たが、伊治呰麻呂らの妨害を受けていると報告した。朝廷はこれに対し、夷狄は虚言も多く、常に帰服を称して利を求めるため、今後はむやみに賜与しないよう命じた。これは、過去に服従した蝦夷が寝返りった事例(例えば伊治呰麻呂や伊佐西古)があったため、朝廷の不審から来る当然の対応であった。
しかし同年7月25日(792年8月17日)の勅では、夷・爾散南公阿波蘇が王化を慕い入朝を望んでいることを嘉(よみ)し、入朝を許して路次の国では軍士300騎をもって送迎し、国家の威勢を示すよう命じている。同年11月3日(792年11月21日)には阿波蘇、宇漢米公隠賀、俘囚・吉弥候部荒嶋が長岡京に入京し、朝堂院で饗応され、阿波蘇と隠賀は爵位第一等を、荒嶋は外従五位下を賜り、今後も忠誠を尽くすよう天皇が宣命を述べた。1月時点と7月以降で政府の立場が一転していることから、この頃には蝦夷に対する懐柔策も並行して推進されていたと推測できる。
延暦12年2月17日(793年4月2日)、征東使は征夷使へと改称され、2月21日(793年4月6日)には征夷副使の坂上田村麻呂が天皇に辞見(お見えになって出発の挨拶をすること)をおこなった。
延暦13年2月1日(794年3月6日)、大伴弟麻呂は征討へ出発した。3月16日(794年3月21日)には征夷のことが光仁天皇陵と天智天皇陵に報告され、3月17日(794年4月21日)には参議・大中臣諸魚に伊勢神宮へ奉幣させ征夷を報告している。
同年6月13日(794年7月14日)、『日本紀略』には「副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」と短い記事があるのみで、この戦いの具体的な経過や状況はほとんど不明である。9月28日(794年10月26日)には諸国の神社に奉幣し、新京への遷都と蝦夷征討の継続を祈願しているため、蝦夷征討はまだ継続中であったと考えられる。10月22日(794年11月18日)に長岡京から新京へ遷都されると、10月28日(794年11月24日)に新京に到着した報告によると、戦闘終了時に近いとみられる10月下旬時点での官軍側の戦果は「斬首457級、捕虜150人、獲馬85疋、焼落75処」であった。11月8日(794年12月4日)、新京は「平安京」と名付けられた。
延暦14年1月29日(795年2月23日)、弟麻呂は初めて見る平安京に凱旋し、天皇に節刀を返上した。同年2月7日(795年3月2日)には征夷の功による叙位が行われたが、詳細は伝わっておらず、田村麻呂は従四位下に進んだとみられる。2月19日(795年3月14日)には木工頭に任命された。
4.1.2. 第二次蝦夷征討(延暦20年)
延暦15年1月25日(796年3月9日)、坂上田村麻呂は陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、同年10月27日(796年11月30日)には鎮守府将軍も兼ねることになった。前任の鎮守将軍であった百済王俊哲が延暦14年8月7日に亡くなっていたため、鎮守将軍の職は空席であったとみられる。延暦16年11月5日(797年11月27日)、桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられたことで、彼は東北地方全般の行政を指揮する全ての官職を兼ね備えることとなった。
桓武朝第三次蝦夷征討が実行されたのは、それから3年後の延暦20年(801年)であった。この征討に関する記録は『日本後紀』に記載されていたと思われるが、その部分が欠落しているため、田村麻呂がどのような準備をしていたかなどの詳細は不明である。延暦17年閏5月24日(798年7月12日)に従四位上、延暦18年(799年)5月に近衛権中将となると、延暦19年11月6日(800年11月25日)には諸国に配された夷俘(蝦夷の捕虜)を検校(検査)するために派遣されている。この頃には彼の肩書きは「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍」となっていた。
延暦20年2月14日(801年3月31日)、田村麻呂が44歳のときに征夷大将軍として節刀を賜り、平安京より出征した。軍勢は4万、軍監5人、軍曹32人であった。この征討も記録に乏しいが、9月27日(801年11月6日)に「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とあり、征討が終了していたことがうかがえる。また「討伏」という表現を用いて蝦夷征討の成功を報じている。
同年10月28日(801年12月7日)に凱旋帰京して節刀を返上すると、11月7日(801年12月15日)に「詔して曰はく。云々。陸奥の国の蝦夷等、代を歴時を渉りて辺境を侵実だし、百姓を殺略す。是を以て従四位坂上田村麿大宿禰等を使はして、伐ち平げ掃き治めしむるに云々」と従三位を叙位された。12月には近衛中将に任命された。
4.1.3. 胆沢城・志波城の造営
延暦21年1月7日(802年2月12日)、坂上田村麻呂が霊験があったことを奏上した陸奥国の3神に位階が加えられた。この3神の名称は不明である。
同年1月9日(802年2月14日)、坂上田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として胆沢城を造営するために陸奥国へと派遣された。同年1月11日(802年2月16日)には、諸国等10ヵ国の浪人4000人を陸奥国胆沢城の周辺に移住させることが勅によって命じられている。この10ヵ国は駿河国・甲斐国・相模国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・信濃国・上野国・下野国である。かつては胆沢城の造営が、大墓公阿弖利爲らを降伏に追い込む契機となった出来事ではないかと指摘されてきた。しかし近年では、和平交渉の結果、阿弖利爲らの正式降伏に向けてシナリオが定まり、それに伴って戦闘が全面的に終結したため、本格的な造営工事の着手が可能になったとの見方もされている。
同年1月20日(802年2月25日)に坂上田村麻呂が度者(僧侶)を1人賜っている。理由は不明であるが、『類聚国史』によると坂上田村麻呂を含めた8人が度者1人を一括して賜ったとある。戦乱による彼我の戦没者の冥福を祈るため、あるいは蝦夷の教化のためなどの説が推定されている。
延暦22年3月6日(803年4月1日)、坂上田村麻呂は造志波城使として彩帛50疋、綿300屯を賜り、志波城造営のために陸奥国へと派遣された。
政庁前門前から正殿方向を望む
4.1.4. アテルイとモレの降伏と処刑論争
延暦21年4月15日(802年5月19日)、胆沢城造営中に大墓公阿弖利爲と盤具公母禮らが一族500余人を率いて降伏してきたことが坂上田村麻呂から平安京へと報告された。阿弖利爲らの根拠地はすでに征服されており、北方の蝦夷の族長もすでに服属していたため、大墓公阿弖利爲らは進退窮まっていたものと考えられる。また、降伏の際に古代中国の礼法である「面縛待命」(両手を後ろ手に縛って顔を前方に差し出し、死生の裁決を待つこと)がおこなわれた可能性を説く学者もいるが、史料にはそこまでは書かれておらず、和平交渉が重ねられた末の降伏と見ることも不当ではないため、厳しい礼法が実施されたとは考えがたい。
同年7月10日(802年8月11日)には坂上田村麻呂が付き添い、夷大墓公阿弖利爲と盤具公母禮らが平安京に向かった。『日本紀略』には「田村麿来」とのみあり、阿弖利爲と母禮が「入京」したとは記されていない。また「夷大墓公二人並びに従ふ」とあることから、この時点では捕虜の扱いではなかったとも説かれる。これに関連して同年7月25日(802年8月26日)には平安京で百官が上表を奉り、蝦夷の平定を祝賀している。


同年8月13日(802年9月13日)、陸奥の奥地の賊の首領であることを理由に、夷大墓公阿弖利爲と盤具公母禮の2人が斬られた。『日本紀略』には公卿会議でのやり取りが記されている。田村麻呂らは「この度は大墓公阿弖利爲と盤具公母禮の願いを聞き入れて胆沢へと帰し、2人の賊類を招き入れて取り込もうと思います」と申し入れた。しかし、公卿はこれに執拗に反対し、「野蛮で獣の心をもち、約束しても覆してしまう。朝廷の威厳によってようやく捕らえた梟帥(きょうすい)を、坂上田村麻呂らの主張通り陸奥国の奥地に放ち帰すというのは、いわゆる虎を養って患いを後に残すようなものである」と論じた。公卿の意見が受け容れられたことで、阿弖利爲と母禮は捉えられ、河内国の某山(椙山説、植山説、杜山節がある)で斬られた。史料がごくわずかで推測の域をでないが、朝威を重んじて軍事(蝦夷征討)の正当化にこだわった桓武天皇の意思によって阿弖利爲らを斬る決定がされたとの論がある。平安京で公卿会議に参加していることから、坂上田村麻呂は河内国某山には居なかったものと考えられる。田村麻呂が彼らの助命を強く願ったにもかかわらず、それが叶わなかったことは、当時の朝廷の対蝦夷政策における非寛容な姿勢と、人権に対する視点の欠如を示している。
4.1.5. 参議就任
陸奥国に胆沢城と志波城を築いたこともあり、延暦23年1月19日(804年3月4日)、桓武朝第四次蝦夷征討が計画された。7ヵ国(武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥)が糒(ほしいい)1万4315斛(こく)・米9685斛を陸奥国小田郡中山柵に搬入するよう命じられた。これを受けて田村麻呂が1月28日(804年3月13日)に征夷大将軍に任命され、副将軍には百済教雲・佐伯社屋・道嶋御楯の3名が、そして、軍監8人・軍曹24人が任命されている。
同年5月15日(804年6月25日)、危急に備えて志波城と胆沢郡の間に1駅を、11月7日(804年12月12日)には栗原郡に3駅を置くことなどが決まり、朝廷も蝦夷征討に向けて準備を整えていった。
この頃は平安京にいた坂上田村麻呂は、延暦23年5月に造西寺長官を兼務すると、8月7日(804年9月14日)には桓武天皇の巡幸の際の行宮の地を定める使者として和泉国と摂津国に派遣され、10月8日(804年11月13日)に和泉国藺生野(現在の大阪府岸和田市)にて行われた狩猟に随従して桓武天皇に物を献上すると、綿200斤を賜った。この頃の肩書きは「征夷大将軍従三位行近衛中将兼造西寺長官陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」であった。
延暦24年6月23日(805年7月22日)、48歳の時に坂上氏出身者として初めてとなる参議に就任した。同年10月19日(805年11月13日)、清水寺に寺印1面を賜ると、永く坂上氏の私寺とすることを認める太政官符が発符された。11月23日(805年12月17日)には坂本親王の加冠に列席して衣を賜った。
4.2. 政治的活動と官位昇進
軍事活動に加えて、坂上田村麻呂は朝廷の主要な政治的事件にも深く関与し、歴代天皇の補佐として官位を昇進させていった。
4.2.1. 徳政相論
延暦24年12月7日(805年12月31日)、桓武天皇の勅命が中納言・藤原内麻呂に下り、殿中で天下の徳政について相論された。32歳の参議・藤原緒嗣が「方今(ほうこん)天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。此の両事を停むれば百姓(ひゃくせい)安んぜん」と、桓武朝を象徴する蝦夷征討と造都事業の中止を論じた。反論の内容は伝わっていないものの、65歳の参議・菅野真道は「異議を確執して、肯(あえ)て聴かず」(断固として異論を唱え、決して聞き入れようとしなかった)という態度であった。桓武天皇は若い緒嗣の意見を善しとして認め、桓武朝による4度目の蝦夷征夷はここに中止となった。
参議となって半年後に起こった徳政相論の席に田村麻呂も参列していたものと考えられるが、桓武天皇が徳政相論で蝦夷征討の中止を決めたことから、田村麻呂は征夷大将軍として桓武朝第四次蝦夷征討での活躍の機会を失い、これより先は陸奥国へと赴くことはなかった。しかし、本来は臨時職である征夷大将軍の称号を生涯に渡って身に帯び続けた。これは『公卿補任』によると、田村麻呂は徳政相論により蝦夷征討が停止されて以降の大同元年10月12日(ユリウス暦806年11月25日)の時点でも征夷大将軍であるため、同職は彼にのみ許された一種の特権や恩典的なものと考えられている。これは、彼の軍事的能力が、朝廷における社会秩序の維持に不可欠であると認識されていたことを示している。
4.2.2. 平城太上天皇の変(薬子の変)
延暦25年3月17日(806年4月9日)、桓武天皇が崩御すると、同日中に皇太子・安殿親王(平城天皇)の践祚が即位に先立って執り行われた。田村麻呂は春宮大夫・藤原葛野麻呂と共に身を伏したまま哀慟(あいどう)し、自ら立つこともままならない安殿親王を抱きかかえて殿を下り、ただちに皇太子に玉璽(御璽)と宝剣(天叢雲剣)を奉っている。4月1日(806年4月22日)に中納言・藤原雄友に従って桓武天皇への誄辞(生前の功徳をたたえ哀悼の意を表す詞)を奉った。
この間、坂上田村麻呂は4月18日(806年5月9日)に中納言、4月21日(806年5月12日)に中衛大将と立て続けに要職を兼ねることとなった。5月18日(806年6月8日)に即位の儀が執り行われると、元号が延暦から大同に改元された。平城天皇の治世は中央政府の機構整理や官吏の給与など縮小政策を行っていく。
10月12日(806年11月25日)付けで発布された太政官符に申請者として「中納言征夷大将軍従三位兼行中衛大将陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」の肩書きで名前を連ねている。これは陸奥国・出羽国の郡司・軍毅など、定員以外にも有能・勇敢な人物であれば任命することで辺境の防備体制を固めたいというものであった。この施策は擬任郡司・軍毅と呼ばれ、一人でも多くの現地の有力者に官職を与えることで名誉欲を満足させ、同時に辺境の安定に役立たせようとの狙いであった。これが坂上田村麻呂にとって最後の東北政策と考えられている。
大同2年4月12日(807年5月22日)、中衛府が右近衛府へと改称されたことに伴って中衛大将から右近衛大将となる。8月14日(807年9月19日)には侍従も兼任するが、中納言従三位の田村麻呂が侍従に任じられたことは、平城天皇からの信任が厚かったことの証左である。
その直後となる10月に伊予親王の変が起こっている。この政変では11月12日(807年12月14日)に藤原吉子・伊予親王母子が揃って毒を飲んで心中した。平城天皇の侍従であった田村麻呂がどのような対処をしたかはわかっていない。
11月16日(807年12月18日)に兵部卿も兼任し、大同4年3月30日(809年5月17日)には父・苅田麻呂を超える正三位となった。
大同4年4月1日(809年5月18日)、平城天皇は健康上の理由で皇位を皇太弟・神野親王へと譲位した。皇太子には平城天皇の第三皇子・高岳親王が立てられた。平城天皇の寵愛を受けていた藤原薬子と兄・藤原仲成は譲位に反対するものの、4月13日(809年5月30日)に神野親王が嵯峨天皇として即位する。
譲位後に健康を回復させた平城上皇は、大同4年11月、仲成に命じて平城京を修理させると、12月4日(810年1月12日)には平城京へと移り住んだ(宮殿未完成のため故右大臣大中臣清麻呂の家に入った)。
嵯峨天皇は大同5年(810年)3月に蔵人所を設置し、6月には平城天皇の治世で設置された観察使の制度を廃止する。これに怒った平城上皇を薬子と仲成が助長して「二所朝廷」といわれる事態になる。大同5年9月6日(810年10月7日)、平城上皇により平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅が発せられたことで平城太上天皇の変(薬子の変)が始まった。平城京遷都の詔勅にひとまず従った嵯峨天皇は、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを平城京造宮使に任命する。
しかし9月10日(810年10月11日)、嵯峨天皇は平城京遷都の拒否を決断して、固関使を伊勢国・近江国・美濃国の国府と関に派遣、同時に仲成を捕らえて右兵衛府に禁固し、佐渡権守に左遷、薬子は尚侍正三位を剥奪して宮中から追放という詔を発した。『公卿補任』によるとこの日に田村麻呂は大納言に昇進しており、子の坂上広野も近江国の関を封鎖するために派遣されている。
嵯峨天皇側の動きを知った平城上皇は激怒して9月11日(810年10月12日)早朝、挙兵することを決断し、薬子と共に輿に乗って平城京を発し、東国へと向かった。嵯峨天皇は田村麻呂を派遣。美濃道より上皇を迎え撃つにあたり、上皇側と疑われ左衛士府に禁固されていた文室綿麻呂の同行を願い出て、嵯峨天皇は綿麻呂を正四位上参議に任命した上で許可している。平城京から出発した平城上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、田村麻呂が宇治・山崎両橋と淀市の津に兵を配したこの夜、右兵衛府で仲成が射殺された。
嵯峨天皇側の迅速な対応により上皇が9月12日(810年10月13日)に大和国添上郡越田村にさしかかったとき、田村麻呂が指揮する兵が上皇の行く手を遮った。進路を遮られたことを知り、平城上皇は平城京へと戻って剃髪して出家し、薬子は毒を仰いで自殺したことにより対立は天皇の勝利に終わった。この事件の時に空海が鎮護国家と田村麻呂の勝利を祈祷している。この事件における田村麻呂の役割は、中央集権体制と社会の安定を守る上で極めて重要であり、その判断力と迅速な行動は、平城天皇の暴走を食い止め、嵯峨天皇による新たな統治を確立する上で不可欠であった。
4.3. 信仰活動と寺院建立
坂上田村麻呂は仏教信仰にも篤く、特に清水寺の建立に深く関わったことで知られている。
清水寺は「清水の舞台」で有名な京都府京都市東山区に位置しており、その建立の由来については多くの縁起類が存在するが、内容には異同がある。建立の時期については、宝亀11年(780年)とするものと、延暦17年(798年)とするものに大別される。清水寺の創建は、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも載せられている。
清水寺は、子嶋寺二世延鎮と田村麻呂により子嶋寺の支坊として開かれたとされている。延暦24年(805年)には太政官符により田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇宸筆の勅許を得て寺印一面を賜って公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。これに対して、子嶋寺は「南観音寺」とも呼ばれた。田村麻呂の信仰活動は、単なる私的な行為に留まらず、国家の精神的な安定にも寄与するものであった。
5. 死と死後の追悼
坂上田村麻呂の死は朝廷に深い悲しみをもたらし、その功績を讃える様々な追悼と記念活動が行われた。
5.1. 死去と葬儀
弘仁2年5月23日(811年6月17日)、坂上田村麻呂は平安京郊外の粟田(現在の京都市左京区)にある別宅で病の身を臥せていたが、54歳で生涯を閉じた。
嵯峨天皇は田村麻呂の死を深く悼み、「事を視ざること一日」(一日政務を執らないこと)と喪に服し、この日は政務をとらず、田村麻呂の業績をたたえる一篇の漢詩を作った。田村麻呂が薨去したその日のうちに、遺族に対して嵯峨天皇より、娘・春子が葛井親王の生母であることも考慮された上で、絁69疋・調布101段・商布490段・米76斛(こく)・役夫200人(左右京各50人、山城国愛宕郡100人)と、御賜品が通例より加増されて賜っている(絁は通例に比べて10疋の増加、商布は通例に比べて100段増加、米は通例に比べて25石増加)。
弘仁2年5月27日(811年6月21日)には、大舎人頭・藤原縵麻呂と治部少輔・秋篠全継が田村麻呂宅に派遣され、天皇の宣命を代読して大納言・田村麻呂に従二位が贈られた。葬儀が同日に営まれ、山城国宇治郡来栖村水陸田三町を墓地として賜り、遺体は甲冑・兵仗・釼(剣もしくは鋼)・鉾・弓箭・糒・塩を調え備え、合葬せしめ、城の東に向け窆(埋葬)を立てるように埋葬された。これは、彼の死後も平安京と天皇を守護してくれるようにとの嵯峨天皇の願いが込められた措置であったとみられる。もし国家に非常時があれば、田村麻呂の塚墓はあたかも鼓を打ち、あるいは雷電が鳴る。以後、将軍の職に就いて出征する時はまず田村麻呂の墓に詣でて誓い、加護を祈るとされた。
5.2. 墓所と記念建造物
現在、京都市山科区の西野山古墓が坂上田村麻呂の墓所として推定されている。この説は、昭和48年(1973年)に地元の歴史考古学研究家である鳥居治夫が、条里制の復元研究結果に基づき指摘した。平成19年(2007年)には、京都大学大学院文学研究科教授の吉川真司が、『清水寺縁起』の弘仁2年(811年)10月17日付の太政官符表題の記述と当時の地図(条里図)を基にした山城国宇治郡山科郷古図(東京大学蔵)とを照合することで、坂上田村麻呂の墓説を裏付けた。また、山科西野山古墳出土品のうち革帯飾石は三位以上および四位参議が用いた白玉の可能性が高く、鉄鏃の出土は弓矢の副葬を意味している。瓦硯の年代は長岡京期から平安時代初期とされており、これらのことから、被葬者は8世紀末から9世紀初頭に死去した公卿クラスの上級貴族であり、武官であったと考えられ、位置・年代・内容のどれをとっても坂上田村麻呂と一致する。

京都市東山区の清水寺本堂近くにある「開山堂(田村堂)」では、清水寺創建の大本願として堂内中央の須弥壇上の厨子内に坂上田村麻呂夫妻の像が祀られている。
京都市東山区の東山にある「将軍塚」は、古墳時代の円墳3基からなる将軍塚古墳群のうち、京を見下ろす東山の峰の華頂山に築かれた古墳である。いつごろからか、王城鎮護の守護神とされた坂上田村麻呂のイメージが投影されて、田村麻呂の塚墓と考えられ習合されるようになり、『田邑麻呂伝記』に記された国家に非常時があれば塚墓はあたかも鼓を打ち、あるいは雷電が鳴るとの田村麻呂の塚墓にまつわる伝説が、中世以降に田村麻呂の塚墓と混同や同一視された将軍塚にも将軍塚鳴動の伝承として付会された。
宮城県遠田郡涌谷町の箟峯寺と宮城県石巻市の零羊崎神社には、文化7年(1810年)の坂上田村麻呂没後1000年の年忌に供養塔が建立されている。

京都市山科区の坂上田村麻呂公園内にある「坂上田村麻呂之墓」は、明治28年(1895年)の平安遷都千百年祭に際し、田村麻呂の墓として整備された。しかし、現在では栗栖野丘陵一帯に広がる中臣遺跡のひとつで中臣氏の有力者の墓と考えられている。墓碑には丸に抱き茗荷紋が刻まれている。
5.3. 死後の神格化と関連神社
弘仁3年(812年)正月、嵯峨天皇の勅令によって、鈴鹿峠の二子の峰に田村麻呂を祀る祭壇が設けられた。弘仁13年4月8日(822年5月2日)には土山の倭姫命を祀る高座大明神の傍らにも田村麻呂を祀る一社を建て、併せて高座田村大明神(現在の田村神社)と称した(鈴鹿峠の二子の峰にあった田村神社は明治10年(1907年)に三重県亀山市の片山神社に合祀されている)。
『公卿補任』に「毘沙門天の化身、来りてわが国を護ると云々」と記され、生前から毘沙門天の化身として評価されたことから、伝説上の人物・坂上田村麻呂として語り継がれていく。胆沢城の北方鎮護として建立された陸奥国極楽寺(現在の国見山廃寺跡)は、天安元年(857年)に定額寺(準官寺)となった。
また、胆沢城が後三年の役まで鎮守府として機能していたことから、胆沢周辺では『公卿補任』で毘沙門天の化身とされた田村麻呂の評価が移入しやすい環境にあり、極楽寺毘沙門堂では「坂上田村麻呂が異敵降伏のために兜跋毘沙門天像、100体の毘沙門天像、四天王像を祀ったのが始まりである」との縁起が創出された。
極楽寺が最盛期を迎えた10世紀から11世紀にかけて北上川流域では田村麻呂と結びつけられた毘沙門天信仰(毘沙門堂)が広まり、北上地域では成島毘沙門堂、立花毘沙門堂、藤里毘沙門堂などの毘沙門堂が次々と創出された。
成島の兜跋毘沙門天像は10世紀前半、藤里の毘沙門天像は11世紀の像顕と推定され、奥六郡之司・安倍氏が全盛期を迎えた時期に一致する。成島寺の十一面観音像の胎内銘には「縁女伴氏・坂上最延・承得2年(1098年)2月10日像顕」とあり、後三年の役が終結してからも田村麻呂や坂上氏の末裔もしくは類縁関係のある人物が東北地方で活動していたことを示している。
11世紀後期頃に成立したとみられる軍記物語『陸奥話記』は、田村麻呂と結びつけられた毘沙門天信仰が広まっていく頃の陸奥国奥六郡が舞台となった前九年の役の顛末が描かれ、末尾に「我が朝、上古に屢々(しばしば)大軍を発し、国用多く費すと雖も、戎(えびす)大敗無し。坂面伝母礼麻呂(さかのものてもれまる)請降、普く六郡の諸戎を服し、独り万代の嘉名を施す。即ち是れ北天の化現にして、希代の名将なり」と、前九年の役での源頼義の活躍や功績を、北天の化現(毘沙門天の化身)である田村麻呂と同列に置くことで頼義を称賛する意図がみられる。
天治3年(1126年)の「関山中尊寺金銀泥行交一切経蔵別当職事」に「藤原清衡朝臣・俊慶・金清廉・坂上季隆」とあり、奥州藤原氏政庁の一員として坂上姓を名乗る人物がいたことが確認されている。毘沙門天信仰が奥州藤原氏の政庁・平泉館のある平泉に広まると、「大将軍(坂上田村麿公)は神であり、その本地垂迹を毘沙門様と見倣す田村信仰発祥の霊場」を称する達谷窟毘沙門堂(別当達谷西光寺)の伝承創出に影響を与え、奥州藤原氏によって栄華を極めた時代の平泉で田村麻呂に悪路王伝説が付会されたことで『吾妻鏡』に記録された。
田村麻呂を祀る主な神社は以下の通りである。
- 玉川神社(北海道久遠郡せたな町)
- 一関八幡神社相殿田村神社(岩手県一関市)
- 田村神社(旧一関城跡)
- 田村神社(岩手県滝沢市)
- 田村神社(宮城県白石市)
- 古四王神社境内田村神社(秋田県秋田市)
- 田村神社(秋田県横手市)
- 田村神社(福島県郡山市田村町)
- 住吉神社境内社坂上田村明神(長野県安曇野市)
- 田村神社(静岡県浜松市浜名区)
- 片山神社(三重県亀山市)
- 田村神社(滋賀県甲賀市)
- 杭全神社境内田村社(大阪府大阪市平野区)
- 松尾神社(兵庫県宝塚市)
- 鈴鹿神社(和歌山県橋本市)
- 光三宝荒神社(和歌山県橋本市)
- 大馬神社(三重県熊野市)
- 筑紫神社(福岡県筑紫野市)
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6. 後世の評価と影響
坂上田村麻呂は、その生涯を通じて日本の歴史と文化に多大な影響を与え、後世において多様な評価と伝説を生み出した。
6.1. 歴史的評価
平安時代を通じて坂上田村麻呂は優れた武人として尊崇され、後代には様々な伝説を生み出した。彼は学問の菅原道真と並び、武芸の象徴的存在として文武のシンボルとされた。
- 『凌雲集』には小野岑守の「右衛大将軍故坂上宿禰を傷む御製に和し奉る」と題する漢詩が収められている。
- 中世文学の中では、藤原利仁・藤原保昌・源頼光とともに、中世の伝説的な武人4人組の1人として紹介された。
- 弘治3年(1557年)、上杉謙信は田村麻呂の名に触れつつ小菅山に戦勝祈願の願文を奉納している。
- 第一高等学校(現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部の前身)では、生徒訓育を目的として、倫理講堂正面に文人の代表として道真の、武人の代表として田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
明治20年(1887年)7月29日に松方正義大蔵大臣から伊藤博文総理大臣に閣議請議の公文書が提出され、同年9月19日に「大蔵大臣請議兌換銀券物描出ノ件」が裁可されたことで、改造兌換銀券として200円紙幣、100円紙幣、50円紙幣、20円紙幣、10円紙幣、5円紙幣、1円紙幣の7券種を発行する予定であった。この際、肖像として日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、和気清麻呂、坂上田村麻呂、菅原道真の7人が選定され、天皇の象徴としての「菊章」を描くこととされた。
乙5円券の代わりの新しい5円券として田村麻呂が肖像に内定すると、磯部忠一工芸官によって描かれることになり、大正4年(1915年)1月にはデザイン案のコンテ画が完成した。しかし、丙5円券への田村麻呂の肖像図柄の採用が突然中止となり、代わりに武内宿禰の肖像を用いることとなった。その理由は不明であるが、当時一般に噂されていたこととして、武人として皇室に対して大きな貢献をしたことは事実であるが、田村麻呂が帰化人の一族であったからという説が強い。この出来事は、彼の功績が大きかったにもかかわらず、出自が理由で公的な評価の機会を失った可能性を示しており、当時の社会における帰化人に対する複雑な認識を浮き彫りにしている。その後は田村麻呂の肖像が候補に挙がることはなく、明治20年に決定された7人の紙幣候補者で唯一、紙幣や銀行券に登場せず、戦後にGHQによる肖像追放の命令を迎えた。
6.2. 伝説と民話
坂上田村麻呂は民間伝承(フォークロア)の架空の英雄としても登場する。三重県・滋賀県にまたがる鈴鹿峠一帯には、田村麻呂による鈴鹿山の鬼神討伐の足跡が数多く残されている。三重県亀山市にある片山神社は、江戸時代に刊行された『伊勢参宮名所図会』「鈴鹿山」で、鈴鹿峠の鏡岩を挟んで伊勢側に鈴鹿神社、近江側に田村明神(田村神社 (甲賀市)とは異なる神社で、明治40年に片山神社 (亀山市)に合祀されている)が描かれている。京と丹波の境に位置する愛宕山の勝軍地蔵菩薩同様に、鈴鹿山に田村将軍を祀ることで将軍地蔵とみなし、鈴鹿権現と一対になった塞の神信仰が古くから存在していた。

滋賀県甲賀市には、鈴鹿山の悪鬼を平定した田村麻呂が残っていた矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀れ」と言われ、矢の落ちたところに本殿を建てたとされる田村神社がある。また、十一面観世音菩薩の石像を安置して鬼神討伐の祈願をした北向岩屋十一面観音、討伐した大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺、鈴鹿山の山賊討伐の報恩のために堂宇を建立して毘沙門天を祀ったという櫟野寺がある。兵庫県加東市の播州清水寺には、聖者大悲観音の霊験により鈴鹿山の鬼神退治を遂げた報謝として佩刀騒速と副剣2振を奉納している(清水寺 (加東市)境内『坂上田村麿呂佩刀を奉納す』の由緒書きより)。
東北地方では、岩手県、宮城県、福島県を中心に多数の伝説が分布している。これらの伝説の多くは、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護によって蝦夷征討や鬼退治を果たし、その感謝として寺社を建立したというものである。伝承は、田村麻呂が実際には訪れなかったとされる地(例:青森県)にも分布しているが、京都市の清水寺を除いて、ほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけたとされる温泉、田村麻呂が休んだ石など、様々な物や地に彼の名前が付会されている。
東北地方の他に、関東、中部、畿内、中国地方にまで伝説は及ぶ。縁起や伝説を持つ主な社寺として、茨城県鹿嶋市鹿島神宮、那珂市上宮寺、城里町桂地区下野達谷窟、栃木県矢板市木幡神社、将軍塚 (矢板市)、那須烏山市星宮神社 (那須烏山市)、新潟県十日町市松苧神社、大田原市那須神社、群馬県三国峠田村神社、埼玉県東松山市正法寺(岩殿観音)、長野県安曇野有明山、長野市松代町西条清水寺、若穂保科清水寺、諏訪市諏訪大社、山梨県富士吉田市冨士山下宮小室浅間神社、静岡県浜松市岩水寺や有玉神社、岡山県倉敷市児島由加神社などが挙げられる。
このように、後世に田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ、様々な物語を生んだ。室町時代初期には、世阿弥作とされる勝修羅三番のひとつ能『田村』が成立し、清水寺の縁起とともに田村麻呂が勢州鈴鹿の悪魔を鎮めたと語られるようになった。室町時代中期から後期にかけて成立したお伽草子『鈴鹿の草子』や室町時代物語『田村の草子』などでは、田村麻呂と鎮守府将軍・藤原利仁との融合や、鈴鹿御前(立烏帽子)の伝承が採り入れられており、近江国の悪事の高丸や鈴鹿山の大嶽丸を討伐する話が形成された。これらの物語は江戸時代の東北地方に伝わり、奥浄瑠璃の代表的演目『田村三代記』として語り継がれた。
6.3. 関連作品と文化的再解釈
坂上田村麻呂は、後世の様々な創作物を通じて再解釈され、そのイメージが多角的に描かれている。
- 小説**
- 『陸奥甲冑記』 - 澤田ふじ子著。1981年。第3回吉川英治文学新人賞を受賞。
- 『火怨』 - 高橋克彦著。1999年。アテルイと坂上田村麻呂との戦いを、アテルイ・蝦夷の視点から描いている。第34回吉川英治文学賞を受賞。
- 『ブラック・トゥ・ザ・フューチャー 坂上田村麻呂伝』 - 左高例著・八つ森佳画。2017年。KADOKAWA。
- テレビドラマ**
- 『火怨・北の英雄 アテルイ伝』(2013年、NHKBS時代劇、演:高嶋政宏)
- 漫画**
- 『たむらまろさん』(漫画)作者「ユキムラ著」B's-LOG COMICS連載
- 刀剣**
御剣「坂家宝剣」、大刀「騒速」、大刀「黒漆剣」など、様々な刀剣を常に佩刀していたという。
坂家宝剣は田村麻呂から伝わる朝廷守護の宝剣として皇位継承の印と考えられていたことから、鎌倉時代には後深草天皇と亀山天皇はそれぞれ次代の治天となることを望んで争っていたが、後嵯峨天皇から亀山に継承され、この措置に大宮院も関与していたことから後深草の不満は「女院のうらめしき御事」と収まらず、これを知った執権・北条時宗は後深草に同情したため、後に鎌倉幕府の介入を招くことになる。
騒速は兵庫県加東市にある播州清水寺に伝わる宝刀で、寺伝では、同寺に深く帰依していた田村麻呂の佩刀とその副剣とされているが、3口のうち田村麻呂の佩刀と副剣の内訳は不明である。3口は直刀から湾刀に至る変遷過程にあり、ごくわずかに反りを伴うことから、日本刀が出現する直前期の姿を留める伝世品として他に例がないため、きわめて貴重な作例である。兵仗の大刀と考えられ、騒速には古くから鈴鹿山の大嶽丸や陸奥の高麿を討伐したというソハヤノツルギの逸話が仮託されていた。
7. 家族関係
坂上田村麻呂の家族は、彼の生涯において重要な役割を果たし、子孫も武門の家として多くの高官を輩出した。
彼の父は坂上苅田麻呂で、従三位左京大夫勲二等であった。母は不明とされている。兄弟には、坂上石津麻呂(従五位下陸奥守)、坂上広人(従五位下甲斐守)、坂上鷹主(従四位下武蔵守)、坂上直弓(従五位下和泉守)、坂上鷹養(従四位下大和守)、坂上雄弓(村山四郎を名乗る)らがいた。また、姉妹には坂上又子(桓武天皇後宮夫人)、坂上登子(藤原内麻呂室)がいた。
妻は三善高子で、三善清継の娘であった。子供たちには、男子として坂上大野(従五位下陸奥権介)、坂上広野(従四位下右兵衛督勲七等)、坂上浄野(正四位下右兵衛督)、坂上正野(従四位下右兵衛督蔵人治部大輔典楽頭清水寺別当)、坂上滋野(安達五郎を名乗る)、坂上継野(大舎人正六位上)、坂上継雄(武射七朗を名乗る)、坂上広雄(従五位下右近将監)、坂上高雄(匝瑳九郎を名乗る)、坂上高岡(沼垂二郎を名乗る)、坂上高道(従五位上大和介鎮守将軍)がいた。女子としては、坂上春子(桓武天皇妃、葛井親王母)と、藤原有方の母である藤原三守室がいた。なお、『坂上氏系図』にのみ見られる滋野、継野、継雄、高雄、高岡については、地方に住んで後世の武士のような字(あざな)を名乗って地方に土着していることから、後世に付け加えられた可能性も指摘されている。
家督は長男の大野が継いだが早世し、その後広野が継いだものの、彼もまた早世したため、浄野が跡を継いだ。田村麻呂流の中でも大野系、広野系、浄野系の三系統を「坂上本家」と称する。子孫も武門の家として陸奥守や陸奥介、鎮守府将軍や鎮守府副将軍など、陸奥国の高官が多く輩出された。また、清水寺別当、右兵衛督、大和守、明法博士、左衛門大尉、検非違使大尉等を世襲した家系も存在した。
『続群書類従』坂上系図によると、陸奥権少掾・坂上頼遠は藤原秀郷の孫・藤原千清の養子になったという。陸奥国の田村郡は、田村麻呂を祖とする田村氏が領してきたとされるが、宇都宮仕置によって改易され、一時廃絶した。江戸時代には、田村清顕の娘で伊達政宗の妻である愛姫の遺言により、伊達忠宗の三男宗良が田村宗良を名乗って家系を再興した。田村氏は幕末まで一関藩を領し、明治以後は華族令によって子爵に列せられた。
和歌・文学研究・法学研究でも名高い子孫を輩出し、三十六歌仙の一人坂上是則、「梨壺の五人」の一人坂上望城、『法曹至要抄』の主著者坂上明兼などがいる。源満仲から摂津介に任じられた坂上頼次を初代山本荘司とする山本坂上氏からは戦国武将の坂上頼泰や、今出川家諸大夫山本家(町口家)を輩出している。4男の正野から5世孫の正任は、河内国から摂津国豊島郡に移住して領主となった。しかし、正任を祖とする池田坂上氏は、南北朝時代になると生地氏とともに南朝方に組したため没落した。
娘の春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産み、その血筋は清和源氏とその分流へと受け継がれている(葛井親王 - 棟貞王 - 棟貞王女(清和天皇更衣) - 貞純親王 - 源経基)。弘仁元年11月23日(ユリウス暦810年12月23日)に橘嘉智子・多治比高子・藤原緒夏とともに叙位を受けた坂上御井子は嵯峨天皇の后妃と考えられている。宝賀寿男は御井子について、坂上氏の系図には見えないが、田村麻呂には2人の女子があることが『百家系図稿』所収系図にみえ、六国史の記事から御井子を田村麻呂の子ではないかと推測している。
8. 年表
和暦 | 西暦 | 日付 (旧暦) | 年齢 | 事柄 |
---|---|---|---|---|
宝亀11年 | 780年 | 23歳 | 近衛将監になった。 | |
延暦4年 | 785年 | 11月25日 | 28歳 | 正六位上から従五位下に進んだ。 |
延暦6年 | 787年 | 3月22日 | 30歳 | 内匠助を兼ねた。 |
9月17日 | 30歳 | 近衛少将になった。 | ||
延暦7年 | 788年 | 6月26日 | 31歳 | 越後介を兼ねた。 |
延暦9年 | 790年 | 3月10日 | 33歳 | 越後守を兼ねた。 |
延暦10年 | 791年 | 1月18日 | 34歳 | 軍士と兵器の点検のため東海道に遣わされた。 |
7月13日 | 34歳 | 征東副使になった。 | ||
延暦11年 | 792年 | 3月14日 | 35歳 | 従五位上に進んだ。 |
延暦12年 | 793年 | 2月17日 | 35歳 | 征東副使が征夷副使に改称になった。 |
2月21日 | 36歳 | 辞見した。 | ||
延暦13年 | 794年 | 6月13日 | 37歳 | 坂上田村麻呂以下が蝦夷を征した。 |
10月28日 | 37歳 | 大伴弟麻呂が戦勝を報告した。 | ||
延暦14年 | 795年 | 2月7日 | 38歳 | 従四位下に進んだ。 |
2月19日 | 38歳 | 木工頭を兼ねた。 | ||
延暦15年 | 796年 | 1月25日 | 39歳 | 陸奥出羽按察使、陸奥守を兼ねた。 |
10月27日 | 39歳 | 鎮守将軍を兼ねた。 | ||
延暦16年 | 797年 | 11月5日 | 40歳 | 征夷大将軍になった。 |
延暦17年 | 798年 | 閏5月24日 | 41歳 | 従四位上に進んだ。 |
7月2日 | 41歳 | 清水寺を建立した。 | ||
延暦18年 | 799年 | 5月 | 42歳 | 近衛権中将になった。 |
延暦19年 | 800年 | 11月6日 | 43歳 | 諸国に移配する夷俘を検校した。 |
延暦20年 | 801年 | 2月14日 | 44歳 | 節刀を受けた。 |
9月27日 | 44歳 | 蝦夷の討伏を報告した。 | ||
10月28日 | 44歳 | 帰京して節刀を返した。 | ||
11月7日 | 44歳 | 従三位に進んだ。 | ||
12月 | 44歳 | 近衛中将になった。 | ||
延暦21年 | 802年 | 1月9日 | 45歳 | 造陸奥国胆沢城使として遣わされた。 |
1月20日 | 45歳 | 度者一人を賜った。 | ||
4月15日 | 45歳 | アテルイとモレ等500余人の降伏を容れた。 | ||
7月10日 | 45歳 | アテルイとモレを伴い平安京付近に至った。 | ||
延暦22年 | 803年 | 3月6日 | 46歳 | 造志波城使として辞見した。 |
7月15日 | 46歳 | 刑部卿になった。 | ||
延暦23年 | 804年 | 1月28日 | 47歳 | 再び征夷大将軍になった。 |
5月 | 47歳 | 造西寺長官を兼ねた。 | ||
8月7日 | 47歳 | 和泉国と摂津国に行宮地を定めるため三島名継とともに遣わされた。 | ||
10月8日 | 47歳 | 藺生野の猟に従い、物を献じて綿二百斤を賜った。 | ||
延暦24年 | 805年 | 6月23日 | 48歳 | 参議になった。 |
10月19日 | 48歳 | 清水寺の地を賜った。 | ||
11月23日 | 48歳 | 坂本親王の加冠に列席し衣を賜った。 | ||
大同元年 | 806年 | 3月17日 | 49歳 | 皇太子が桓武天皇の崩御を悲しんで起きなかったので、田村麻呂と藤原葛野麻呂が支えて下がった。 |
4月1日 | 49歳 | 藤原雄友に従い誄を奉った。 | ||
4月18日 | 49歳 | 中納言になった。 | ||
4月21日 | 49歳 | 中衛大将を兼ねた。 | ||
10月12日 | 49歳 | 陸奥・出羽に擬任郡司と擬任軍毅を任ずることを願い、認められた。 | ||
大同2年 | 807年 | 4月22日 | 50歳 | 右近衛大将になった。 |
8月14日 | 50歳 | 侍従を兼ねた。 | ||
11月16日 | 50歳 | 兵部卿を兼ねた。 | ||
大同4年 | 809年 | 3月30日 | 52歳 | 正三位になった。 |
弘仁元年 | 810年 | 9月6日 | 53歳 | 平城京の造京使になった。 |
9月10日 | 53歳 | 大納言になった。 | ||
9月11日 | 53歳 | 薬子の変の鎮圧に出撃した。翌日、上皇の東国行きが阻まれ、変は終わった。 | ||
10月5日 | 53歳 | 清水寺に印を賜った。 | ||
弘仁2年 | 811年 | 1月17日 | 54歳 | 孫の葛井親王の射芸を喜んだ。 |
1月20日 | 54歳 | 渤海の使者を朝集院で饗した。 | ||
5月23日 | 54歳 | 山城国の粟田の別宅で亡くなる。 | ||
5月27日 | 山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村に葬られた。従二位を贈られた。 | |||
10月17日 | 墓地として3町を賜った。 |