1. 概要
島津久光(島津久光しまづ ひさみつ日本語、Shimazu Hisamitsuシマヅ ヒサミツ英語)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した日本の政治家である。薩摩藩第10代藩主島津斉興の五男として文化14年(1817年)に生まれ、幼名は普之進(かねのしん)。当初は島津氏の一門である重富島津家の養子となり、後に宗家へ復帰した。異母兄の第11代藩主島津斉彬の死後、その実子である茂久が第12代藩主となると、久光は藩主の実父として藩内で絶大な権力を握り、「国父」と称された。
彼は当初、公武合体運動を推進し、朝廷と幕府の協調を通じて開国・富国強兵を目指した。文久2年(1862年)に上京し、寺田屋事件で過激な尊王攘夷派を粛清する一方で、幕府に対し将軍後見職に徳川慶喜、政事総裁職に松平春嶽を任命させるなど、文久の改革を主導した。しかし、生麦事件に端を発する薩英戦争を経験し、また自身の主導する公武合体運動が将軍・徳川慶喜との政治的対立によって挫折すると、武力による倒幕へと路線を転換した。薩長同盟の成立にも関与し、戊辰戦争では新政府軍の勝利に貢献した。
明治維新後は、新政府において内閣顧問、左大臣などの要職を歴任したが、政府の急進的な文明開化政策や廃藩置県に強く反対し、保守的な立場を貫いた。生涯髷を切らず、帯刀を続けたことでも知られる。晩年は公職を退き、史書の編纂に専念した。彼の行動は、幕末から明治維新における日本の政治史に大きな影響を与え、その功績と保守的な姿勢を巡って様々な評価がなされている。特に、旧来の封建体制を維持しようとする姿勢と、開国・近代化を推進する新政府との間での確執は、当時の政治的対立を象徴するものであった。
2. 生涯
2.1. 若年期と初期の活動
島津久光は、文化14年(1817年)10月24日に薩摩国鹿児島郡(現在の鹿児島県鹿児島市)の鹿児島城で誕生した。父は薩摩藩第10代藩主島津斉興、生母は側室のお由羅の方。幼名は普之進(かねのしん)であった。生母の身分が低かったため、文政元年(1818年)3月1日には種子島久道の養子となり、藩主の子としての待遇を受けた。文政8年(1825年)3月13日に島津宗家へ復帰し、同年4月に又次郎と改称された。
同年11月1日、島津一門家筆頭である重富島津家の次期当主で叔父にあたる島津忠公の娘・島津千百子と婚姻し、同家の婿養子となった。これにより、鹿児島城から城下の重富邸へと居を移した。文政11年(1828年)2月19日、斉興を烏帽子親として元服し、忠教(ただゆき)の諱を授けられた。天保7年(1836年)2月には千百子との婚礼の式を挙げ、天保10年(1839年)11月には重富家の家督を相続し、12月には通称を山城と改めた。弘化4年(1847年)10月には通称を山城から周防へ改めている。
斉興の後継者を巡るお由羅騒動では、忠教自身は反斉彬派に擁立された形であったが、異母兄の斉彬との個人的な関係は良好であったとされる。安政5年(1858年)5月13日に幕府軍艦咸臨丸が鹿児島を訪問した際、斉彬は勝海舟に忠教を紹介している。斉彬が蘭学を好んだのに対し、忠教は国学に深く通じるなど、兄弟で学問の志向は異なっていた。弘化4年(1847年)には斉彬より軍役方名代を命じられ、海岸防備を担当した。
2.2. 薩摩藩内での権力確立
安政5年(1858年)7月16日に異母兄の島津斉彬が急逝すると、その遺言により忠教の実子である忠徳が同年12月28日に藩主の座に就いた(忠徳は翌安政6年2月に将軍徳川家茂に拝謁し、その偏諱を受けて茂久と改名、後の島津忠義である)。茂久の後見人を務めていた父・斉興も安政6年(1859年)9月12日に没したため、藩主の実父である忠教の藩内における政治的影響力は増大した。文久元年(1861年)4月19日には宗家へ復帰し、「国父」として遇されることになり、藩政の実権を掌握した。同年4月23日には、通称を和泉から久光に改めている。文久2年(1862年)2月24日、重富邸から新築の鹿児島城二の丸邸へ移り、以後、藩内において「副城公」とも称された。
藩内での権力拡大の過程で、久光は小松清廉や中山尚之介らとともに、大久保利通、税所篤、伊地知貞馨、岩下方平、海江田信義、吉井友実など、中下級藩士で構成される有志グループ「精忠組」の中核メンバーを登用した。文久元年(1861年)10月には、大久保と伊地知(堀)を御小納戸役に、岩下を軍役奉行兼趣法方掛に、海江田と吉井を徒目付に抜擢した。しかし、精忠組の中心人物であった西郷隆盛とは終生反りが合わず、文久2年(1862年)の率兵上京時には、西郷が無断で上坂したことを責めて徳之島、後に沖永良部島への遠島処分とした。元治元年(1864年)に西郷を赦免する際にも、苦渋のあまり咥えていた銀のキセルの吸い口に歯形を残したなどの逸話があるように、両者の間には齟齬があり、生涯にわたって完全な関係修復はできなかった。
久光の上京工作のため、江戸に送られた伊地知貞馨は文久元年(1861年)12月に芝の藩邸を燃やして参勤交代の不可能を申し開き、有力大名を通じて久光の待遇改善を求めた。また、近衛忠煕と近衛忠房には勅命獲得の周旋を依頼し、家来の中山尚之介と大久保利通を京都へ送った。中山は波平行安の剣を朝廷へ内献したが、安政の大獄で幕府の鉄槌を食らっていた忠房は消極的に拒絶した。大久保も京都で工作したが勅命は得られなかった。しかし、薩摩藩は拒絶にもかかわらず上京する決意を固めており、中山が帰藩した際には孝明天皇からの宸翰と御製の和歌がもたらされた。
- 「世をおもふ心のたちとしられけり さやくもりなき武士のたま」
2.3. 中央政界への進出
2.3.1. 公武合体運動の推進
文久2年(1862年)、久光は公武合体運動を推進するため、兵を率いて京都へ上京した(3月16日鹿児島発、4月16日京都着)。4月16日、久光は非公式に京都の近衛邸を訪問し、近衛忠房や議奏・中山忠能、正親町三条実愛と会談した。同日、久光へ滞京して浪士鎮撫の任にあたるよう勅命が下され、翌17日、久光は公式に京都錦小路の薩摩藩邸に入った。久光のこの行動は、亡き兄・斉彬の遺志を継ぐものとされ、朝廷、幕府、そして雄藩の政治的提携を目指すものであった。京都滞在中である4月23日、伏見の寺田屋に集結していた自藩の尊攘派過激分子である有馬新七らを粛清する寺田屋事件を起こした。この事件は、久光が藩内の統制を強化し、過激な行動を抑制しようとする意図を示したものであった。
久光の朝廷に対する働きかけにより、同年5月9日、自身を参画させることを含めた幕政改革を要求するため、勅使を江戸へ派遣することが決定され、久光も勅使随従を命じられた。幕府への要求事項として、「三事策」と呼ばれる以下の三点が決定された。これは、1.が長州藩、2.が岩倉具視、3.が薩摩藩の意見を採用したものであった。
1. 将軍・徳川家茂の上洛
2. 沿海5大藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩)で構成される五大老の設置
3. 一橋慶喜の将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽の大老職就任
出府に先立って5月12日、通称を和泉から三郎へと改めた(これは老中水野忠精の官名・和泉守との同名を避けるための処置とされる)。そして、5月21日に勅使・大原重徳に随従して京都を出発し、6月7日に江戸へ到着した。江戸において、勅使とともに幕閣との交渉に当たり、7月6日に慶喜の将軍後見職就任、9日には春嶽の政事総裁職就任を実現させた(文久の改革)。久光(薩摩藩)にとっての幕政改革における主要目標は、自身の主張である「三事策」のうち第3条を実現することにあったと考えられている。
2.3.2. 生麦事件と薩英戦争
勅使東下の目的を達成したことで、久光は8月21日に江戸を出発し、東海道を帰京の途についた。その途上、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)でイギリスの民間人4名と遭遇した。久光一行の行列の通行を妨害したという理由で、随伴の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件が発生した。事件発生前には、アメリカ人貿易商ユージン・ヴァン・リードも久光の行列と遭遇しているが、彼は日本の慣習に通じていたため、行列に道を開けて下馬・脱帽し表敬の挨拶をしたため大事には至らなかった。
閏8月6日に京都へ到着した久光は、9日に参内して幕政改革の成功を復命した後、23日に京都を発し帰藩した(9月7日鹿児島着)。生麦事件の一件は、結果的に翌文久3年(1863年)7月に薩英戦争へと発展することになった。この戦争は薩摩藩に大きな損害を与えたが、同時に西洋の軍事技術の優位性を痛感させ、藩の近代化を加速させる契機ともなった。
2.3.3. 公武合体運動の挫折と討幕路線への転換
文久3年(1863年)3月、久光は2回目の上京を行った(3月4日鹿児島発、14日京都着)。しかし、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の専横を抑えられず、足かけ5日間の滞京で帰藩した(18日京都発、4月11日鹿児島着)。帰藩後も、尊攘派と対立関係にあった中川宮や近衛忠煕・近衛忠房父子、また、尊攘派の言動に批判的だった孝明天皇から再三、上京の要請を受けた。長州藩の勢力を京都から追放するべく、薩摩藩と会津藩が中心となって画策し、天皇の支持を得た上で決行された八月十八日の政変が成功した後、久光は3回目の上京を果たした(9月12日鹿児島発、10月3日京都着)。
久光の建議によって朝廷会議(朝議)に有力諸侯を参与させることになり、12月30日に一橋慶喜、松平春嶽、前土佐藩主・山内容堂、前宇和島藩主・伊達宗城、会津藩主・松平容保(京都守護職)が朝議参預を命じられた。久光自身は翌元治元年(1864年)1月14日に参預に任命され、同時に従四位下・左近衛権少将に叙任された。この官位は、歴代の薩摩藩主と同等の格式に相当し、官位を得るまでの久光は、薩摩藩の最高権力者ではあったものの、あくまで藩主の実父という存在であって、形式上、幕府(将軍)や朝廷(天皇)から見れば陪臣に過ぎなかったが、これにより公的な地位を認められることとなった。かくして薩摩藩の公武合体論を体現した参預会議が成立したが、孝明天皇が希望する横浜鎖港をめぐって、限定攘夷論(鎖港支持)の慶喜と、武備充実論(鎖港反対)の久光・春嶽・宗城との間に政治的対立が生じた。結果的に久光ら3侯が慶喜に譲歩し、幕府の鎖港方針に合意したものの、両者の不和は解消されず、参預会議は機能不全に陥り解体した。これにより薩摩藩の推進した公武合体運動は挫折した。久光は3月14日に参預を辞任し、小松帯刀や西郷隆盛らに後事を託して4月18日に京都を退去した(5月8日鹿児島着)。
久光が薩摩藩に在藩を続けた約3年間、中央政局は大きく推移した。元治元年(1864年)には禁門の変(7月19日)や第一次長州征討が発生した。長州再征を期して、征夷大将軍徳川家茂が慶応元年(1865年)5月16日に江戸城を出陣し、閏5月25日に大坂城へ入り征長の本営とした。また、条約勅許(10月5日)では、大坂滞在中の将軍以下幕閣および京都の朝廷に対して通商条約の勅許と兵庫(現在の兵庫県神戸市)開港を要求するため、イギリス公使パークス、フランス公使ロッシュ、アメリカ代理公使ポートマン、オランダ総領事ファン・ポルスブルックが、慶応元年(1865年)9月13日に軍艦9隻を率いて横浜を出帆し、16日に大坂湾へ来航し兵庫沖に艦隊を停泊させた。欧米列強の軍事的威圧の下で10月5日、一橋慶喜らの説得を容れた孝明天皇が、通商条約は勅許するが兵庫開港は承認しないという内容の勅諚を降下した。慶応2年(1866年)1月21日には薩長同盟が締結され、第二次長州征討、将軍・徳川家茂の薨去(7月20日)、徳川慶喜の将軍就職(12月5日)、孝明天皇の崩御(同月25日)が続き、慶応3年(1867年)には祐宮睦仁親王(明治天皇)の践祚(1月9日)があった。この間、慶応2年(1866年)6月16日から20日にかけて、イギリス公使ハリー・パークスの一行を鹿児島に迎え、藩主・茂久と共に歓待し、薩英戦争の講和以来続く薩摩藩とイギリスの間の友好関係を確認した。
慶応3年(1867年)の4回目の上京(3月25日鹿児島発、4月12日京都着)では、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに四侯会議を開いた。この会議では、開港予定の布告期限が迫っていた兵庫(現在の兵庫県神戸市)開港問題(兵庫開港については、慶応元年10月の条約勅許の際に孝明天皇によって差し止められた経緯があったものの、文久2年(1862年)締結のロンドン覚書の取り決め上、1868年1月1日(慶応3年12月7日)の開港が予定されており、開港期日の6カ月以前に開港予定を布告するよう義務づけられていたため、幕府としては布告期限までに勅許を得る必要があった)や、事実上の幕府の敗北といえる前年9月の休戦以来保留されたままの長州処分問題をめぐり、四侯連携のもとで将軍・慶喜と協議することを確認した。しかし、5月14日、19日、21日の二条城における慶喜との会談では、寛典処分を意図し、問題の先決を唱える四侯に対し、慶喜は対外関係を理由に兵庫開港問題の先決を主張した。同月23日、24日の2日間に及んだ朝議の結果は、2問題を同時に勅許するというものだったが、慶喜の意向が強く反映され、長州処分の具体的内容は不明確であった。この事態を受けて、慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩首脳部は武力倒幕路線を確定した。

病身の久光は8月15日に大阪へ移り、9月15日に帰藩の途に就いた(21日鹿児島着)。10月14日、久光・茂久へ討幕の密勅が下された。また、同日の徳川慶喜による大政奉還の奏請を受けて翌15日、朝廷より久光に対し上京が命じられた(朝廷は10月15日、慶喜の大政奉還を勅許し、あわせて10万石以上の諸侯に対して上京を命じ、久光のほか、前尾張藩主・徳川慶勝、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、広島藩主・浅野茂長、前佐賀藩主・鍋島閑叟、岡山藩主・池田茂政を特に指名して召集した)が、病のためそれに応じられず、代わって藩主・茂久が11月13日、藩兵3,000人を率いて鹿児島を出発した。途中周防国三田尻(現在の山口県防府市)において18日、長州藩世子・毛利元徳と会見し薩長芸3藩提携による出兵を協定して、23日に入京した。その後、中央政局は王政復古、戊辰戦争へと推移し、明治新政府の樹立に至った。
2.4. 明治維新後の活動
2.4.1. 新政府での役割と立場
明治維新後も久光は鹿児島藩(薩摩藩)における実質的な権力を握り続けたが、新政府が進める急進的な改革に対し、自身の想像とは全く異なる展開に強い不満を抱き、批判的な立場をとった。また、藩体制の改革を要求する川村純義・野津鎮雄・伊集院兼寛といった、下級士族層を中心とした戊辰戦争の凱旋将兵と対立したが、この権力闘争に敗北した結果、藩行政権を彼らに握られてしまった。明治2年(1869年)2月、勅使・柳原前光が大久保利通を随伴して鹿児島に下向し、その働きかけに応じて久光は上京した(2月26日鹿児島発、3月2日京都着)。3月3日に参内し、6日には従三位・参議兼左近衛権中将に叙任された(13日京都発、21日鹿児島着)。
明治3年(1870年)1月から2月にかけて、大久保利通は久光と西郷隆盛に上京して政府に協力するよう促すため、東京から帰藩した。当時、東京奠都により明治2年3月、明治天皇が京都から東京へ再幸し、東京城が「皇城」となり、太政官も東京へ移っていた。しかし、久光は自身が利用されただけであり、騙された形で作り上げられた政府に不満を抱き、西郷も同様に上京を拒否したため、大久保は両者を上京させることに失敗した。同年12月、勅使・岩倉具視が大久保らとともに鹿児島に下向し、久光および西郷に改めて上京を要請した。西郷は上京に同意したが、久光は病を理由にその猶予を願った。明治4年(1871年)2月に鹿児島・山口・高知3藩の兵力で編成される御親兵の設置が決定すると、出兵準備のため西郷が東京より帰藩し、久光に代わって知藩事・島津忠義が4月に西郷とともに上京した。しかし久光からすると、権力の源泉である兵士を御親兵に奪われたことは致命的な失策であった。
2.4.2. 改革への反対と廃藩置県への抵抗
西郷や大久保らが主導するかたちで、明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県が断行されると、久光はこれに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせた。これは旧大名層の中で廃藩置県に対してあからさまに反感を示した唯一の例とされる。しかし、前述のように既に藩の行政権は下級士族層に握られていたため、久光のこの程度の抗議しかできず、後の祭りであった。同年9月10日には政府から分家するよう命じられ、島津忠義の賞典禄10万石のうち5万石を家禄として分賜され、玉里島津家が創立された。
同年11月14日に都城県が設置され、旧藩領が鹿児島県と都城県とに大きく分断されると、久光は「薩隅分県」は長州の陰謀だと疑い、また、自身の鹿児島県令就任を希望した(これに困惑した西郷隆盛の周旋により願い出は揉み消された)。
明治5年(1872年)6月22日から7月2日にかけて、明治天皇が西国巡幸の一環として鹿児島に滞在した。この巡幸の最大の目的は、久光を慰撫することにあったと考えられている。巡幸には、西郷隆盛のほか、西郷従道・川村純義・吉井友実・高島鞆之助など、鹿児島藩の出身者が多数随行していたにもかかわらず、久光への挨拶がなくその怒りを買った。久光に非礼を詫びるために、西郷隆盛が同年11月に帰郷し、翌年5月まで東京を離れている。これを受けて久光は6月28日、政府の改革方針に反する守旧的内容を含んだ14カ条の意見書を奉呈した。
明治6年(1873年)3月、勅使・勝安芳(海舟)および西四辻公業が鹿児島に下向し、その要請に応じて久光は上京した(4月17日鹿児島発、23日東京着)。5月10日、麝香間祗候を命じられた。12月25日には内閣顧問に任じられた。明治7年(1874年)2月、佐賀の乱の勃発を受けて、明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため、鹿児島に帰郷した(2月14日東京発、20日鹿児島着)。同年4月、勅使・万里小路博房および山岡鉄太郎(鉄舟)が鹿児島に派遣され、その命に従って帰京した(4月15日鹿児島発、21日東京着)。同月27日に左大臣となり、5月23日には旧習復帰の建白を行うが、政府の意思決定からは実質的に排除された。
2.5. 晩年と逝去
2.5.1. 隠居生活と著作活動
明治8年(1875年)10月22日、久光は左大臣の辞表を提出し、27日に許可された。11月2日には麝香間祗候を命じられた。明治9年(1876年)4月、久光は鹿児島に帰郷した(4月3日東京発、13日鹿児島着)。
以後、久光は鹿児島で隠居生活を送り、島津家に伝わる史料の蒐集、史書(『通俗国史』など)の著作・編纂に専念した。また、彼は依然として政府による廃刀令等の文明開化政策に対して反発を続け、生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかった。
明治10年(1877年)2月に西郷隆盛らが蜂起して西南戦争が勃発すると、政府は久光の動向を憂慮して勅使・柳原前光を鹿児島に派遣し上京を促したが、久光は太政大臣・三条実美への上書において中立の立場にあることを表明し、代わりに四男・島津珍彦、五男・島津忠欽を京都に派遣した。また、戦火を避けるため、桜島に一時避難している。
この後も政府は久光の処遇に苦慮し、叙位・叙勲や授爵において最高級で遇した。政府は久光に気を使っていたが、西郷と大久保の死後はそれもなくなった。久光は最後まで「西郷、大久保に騙された」と言い続けたといわれている。
2.5.2. 死去と国葬
明治20年(1887年)12月6日、島津久光は薩摩国鹿児島郡下伊敷村(現在の鹿児島市玉里町)の玉里邸で死去した。享年71。彼は国葬をもって送られたが、東京ではなく鹿児島での国葬となった。葬儀のために道路が整備され、熊本鎮台から儀仗兵1大隊が派遣された。玉里家(公爵)は七男・島津忠済が継承した。

彼の墓所は鹿児島県鹿児島市の島津家墓地にある。鹿児島市照国町に鎮座する照国神社には彼の銅像が建立されている。
3. 官職、位階および栄典
島津久光が生涯にわたって授与された主な官職、位階、勲等、爵位は以下の通りである(日付は明治4年までは旧暦)。
- 文久4年(1864年)**
- 1月14日:従四位下に叙され、左近衛権少将に任ぜられる。
- 2月1日(3月8日):大隅守を兼任する。
- 4月11日(5月16日):従四位上に叙され、左近衛権中将に任ぜられる。
- 明治2年(1869年)**
- 3月6日:従三位に叙され、参議に任ず。
- 6月2日(7月10日):従二位・権大納言に推任叙されたが、辞退した。
- 明治4年(1871年)**
- 9月13日:従二位に叙される。
- 明治6年(1873年)**
- 5月10日:麝香間祗候となる。
- 12月25日:内閣顧問に就任。
- 明治7年(1874年)**
- 4月27日:左大臣に就任。
- 明治8年(1875年)**
- 10月27日:左大臣を辞任。
- 11月2日:麝香間祗候となる。
- 明治12年(1879年)**
- 6月17日:正二位に叙される。
- 明治14年(1881年)**
- 7月15日:勲一等旭日大綬章を受章。
- 明治17年(1884年)**
- 7月7日:公爵を受爵し、玉里島津家の初代当主として公爵となる。
- 明治20年(1887年)**
- 9月21日:従一位に叙される。
- 9月29日:黄綬褒章を受章。
- 11月5日:大勲位菊花大綬章を受章。
4. 評価と遺産
4.1. 歴史的評価
島津久光に対する歴史的評価は、同時代人や後世の歴史家によって様々である。
- 松平春嶽**は久光を「すこぶる因循家にして、古法を膠守することと衆人申したり。幕府の時分より今に至るまでかくの如くいえり。悪口もあれど、中々才智よりも道徳を重せられ、尊王の志は却って斉彬公よりも超過せりと考えられたり。この公は陸軍よりは海軍の方に専ら力を尽したきと申されたり。この公の談話にもすこぶる感佩敬服のこと共多し」と評している。これは、彼が保守的な傾向を持ちながらも、道徳を重んじ、兄の斉彬以上に尊王の志を持っていたと見なされていたことを示す。
- 木戸孝允**は当初、久光を「古い思想で、しかも頑固一点張りの人」と考えていたが、久光との会話を通じて「頑固一点張りのものではない、名のあるだけの人物である」と評価を改めた。特に、華族の中に人材がいないことを嘆き、「何分にも華族の中に人物がいなくて困る。山内容堂がおると、話が出来るが、すでに薨去した」と述べたとされる。また、山内容堂との意見の相違がありつつも国事について議論しようとした逸話は、久光が単なる頑固者ではない知性を持っていたことを示唆する。
- 伊藤博文**もまた、世間が久光を「頑固の人」と評する一方で、「決してそうでない」と述べ、「己れは攘夷などと云う事はせぬ。それは西郷などが言うことだ」と語った逸話を挙げ、彼が単なる排外主義者ではなかったことを示している。しかし、西洋流の事物には嫌悪感を示していたことも指摘している。
- 大隈重信**は久光を「流石に彼は大藩の君主なり。英俊の聞こえ高かりしだけに、風采言動も尋常の君主と同視すべからざるものあり。彼は頑旧移すべからざるの人にもあらざれば、また剛腹屈すべからざるの人にもあらず。善く辞令に嫺い、兼ねて学問に富み、胸度の快闊、心術の洒落、他の碌庸の徒と甚しくその撰を異にし、天晴当時の名君、一世の英俊として毫も恥ずるところなきが如くなりし。深くこれを尊敬するの情を起したりき」と高く評価している。また、「大名としては容貌態度ともに左程に揚らぬ。人望んで恐るるという方じゃ無かった。といって、これを望むに人君に非ずという程でも無かった。根は善良な人だが、大名育ちで我儘である。特に名誉有る島津家の伝統的精神を受け継がれ、なかなか頑固者で、手に合わぬ強情であったが、学問がある。漢籍仕込で頭を鍛えて居るから、これを屈服することは大分困難であった」とも述べ、その強情さと学問に裏打ちされた知性を評価している。
これらの評価からは、久光が単なる保守的な人物ではなく、当時の政治状況と伝統的価値観の間で葛藤し、独自の信念をもって行動した複雑な人物像が浮かび上がる。彼の行動は、幕末の動乱期における日本の政治の転換点に大きな影響を与えたと認識されている。
4.2. 批判と論争
島津久光の行動、思想、および決断は、同時代から現代に至るまで様々な批判と論争の対象となってきた。特に、西郷隆盛との複雑な関係は、彼の政治的手腕や人間性を巡る議論の中心である。久光は西郷を高く評価しながらも、その行動を厳しく制限し、時に遠島処分に処するなど、両者の間には深い溝が存在した。久光が最後まで「西郷、大久保に騙された」と語ったとされる逸話は、彼の新政府に対する不信感と、自身が主導したはずの改革が予期せぬ方向へ進んだことへの不満を示している。
また、明治維新後の新政府の急進的な改革、特に廃藩置県に対する久光の強い抵抗は、その保守的な姿勢を象徴するものであった。花火による抗議行動は、旧大名層の中で唯一の公然たる反抗であり、彼が旧体制の維持にどれほど固執していたかを示している。このような姿勢は、近代国家建設を目指す新政府の急務と対立し、彼の政治的影響力を低下させる一因となった。彼が旧習の復帰を主張したことも、新政府の文明開化路線とは相容れないものであり、彼の進取の気風を欠く面として批判されることがある。
彼の公武合体運動も、最終的には挫折し、武力倒幕へと路線転換を余儀なくされた。この過程で徳川慶喜との対立が深まり、自身の政治的構想が完全に実現しなかったことは、彼の政治的限界を示すものとも捉えられる。しかし、その一方で、公武合体運動を推進した初期の段階では、幕府内の改革を促し、後の倒幕への布石を打ったという肯定的な評価も存在する。
久光の行動は、明治維新という激動の時代において、伝統と近代化、権力と理想の間で揺れ動く指導者の姿を浮き彫りにしている。
5. 家族と子孫
5.1. 家族関係
島津久光の直系家族構成は以下の通りである。
- 正室**: 島津千百子(重富家の島津忠公の娘で、久光の従妹にあたる。文政4年(1821年)生まれ、弘化4年5月10日(1847年6月22日)没)
- 長女**: 於儔(天保7年12月8日(1837年1月14日)生 - 天保8年8月24日(1837年9月23日)没)
- 次女**: 於定(島津久静室、栄松院。天保9年正月20日(1838年2月14日)生 - 慶応3年3月11日(1867年4月15日)没)
- 三女**: 於哲(入来院公寛室。天保10年2月20日(1839年3月24日)生 - 文久2年7月4日(1862年7月30日)没)。徳川家定の継々室候補の一人となったが、島津斉彬の選抜により島津忠剛の娘・一(かつ、後の天璋院)が擁立され、選から外れた。
- 長男**: 島津忠義(後の薩摩藩第12代藩主)
- 次男**: 島津久治(島津図書)
- 三男**: 包次郎(天保13年7月晦日(1842年9月4日)生 - 天保14年4月7日(1843年5月6日)没)
- 四女**: 於寛(喜入久博室。天保14年閏9月7日(1843年10月29日)生 - 文久2年7月27日(1862年8月22日)没)
- 四男**: 島津珍彦
- 五男**: 島津忠欽
- 側室**: 山崎武良子
- 五女**: 於郷(嘉永2年8月16日(1849年10月2日)生 - 同年12月14日(1850年1月26日)没)
- 六男**: 島津忠経(嘉永4年11月9日(1851年12月1日)生 - 明治14年(1881年)3月11日没)
- 七男**: 島津忠済
- 七女**: 於住(安政4年1月19日(1857年2月13日)生 - 安政5年5月29日(1858年7月9日)没)
- 八女**: 於俊(安政5年12月5日(1859年1月8日)生 - 明治8年(1875年)10月27日没)
- 八男**: 芳之進(万延元年10月16日(1860年11月28日)生 - 文久2年4月20日(1862年5月18日)没)
- 九女**: 於民(慶応元年5月16日(1865年6月9日)生 - 慶応2年5月2日(1866年6月14日)没)
- 養女**:
- 富子(実父:伊達宗徳、北白川宮能久親王妃。文久2年閏8月8日(1862年10月1日)生 - 昭和11年(1936年)3月20日没)
- 輯子(実父:竹内治則、真田幸民室。元治元年4月17日(1864年5月16日)生 - 昭和3年(1928年)10月15日没)
5.2. 血縁・系譜
島津久光は、島津氏の第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男であり、庶子であった。彼の異母兄には第28代当主(11代藩主)島津斉彬がいる。また、長男の島津忠義は第29代当主(12代藩主)となった。
久光の子どもたちは、それぞれ島津家の旧来の分家を相続した。次男の島津久治は宮之城島津家を、四男の島津珍彦は重富島津家を、五男の島津忠欽は今和泉島津家を継承した。明治4年(1871年)には、久光自身が玉里島津家を興し、その初代当主となっている。
久光の血筋は、現代の皇室ともつながっている。彼の曾孫にあたるのは香淳皇后(久邇宮邦彦王の娘、昭和天皇の皇后)であり、第125代天皇明仁の高祖父、そして現在の天皇徳仁の曾祖父にあたる。
彼の系譜の主要な流れは以下の通りである。
- 島津斉宣
- 島津斉興
- 島津斉彬(異母兄)
- 島津久光**
- 島津忠義(茂久)
- 島津忠重
- 忠秀
- 修久
- 忠裕
- 修久
- 忠秀
- 島津忠重
- 島津久治(宮之城島津家を継承)
- 長丸
- 忠丸
- 忠之
- 忠洋
- 忠之
- 忠丸
- 長丸
- 包次郎
- 島津珍彦(忠鑑、重富島津家を継承)
- 壮之助
- 忠彦
- 晴久
- 孝久
- 晴久
- 忠彦
- 壮之助
- 島津忠欽(今和泉島津家を継承)
- 隼彦
- 忠親
- 忠克
- 忠親
- 雄五郎
- 忠夫
- 忠正
- 忠昭
- 忠寛
- 忠昭
- 忠正
- 忠夫
- 隼彦
- 島津忠済(玉里島津家を継承)
- 忠承
- 忠広
- 忠美
- 忠由
- 忠美
- 忠広
- 忠承
- 芳之進
- 皇室との関連**
- 久邇宮邦彦王
- 香淳皇后(久光の外曾孫にあたる)
- 昭和天皇
- 第125代天皇明仁(久光の外高孫にあたる)
- 第126代天皇徳仁(久光の外玄孫にあたる)
- 第125代天皇明仁(久光の外高孫にあたる)
- 昭和天皇
- 香淳皇后(久光の外曾孫にあたる)
- 久邇宮邦彦王
- 島津忠義(茂久)
- 島津久光**
- 島津斉彬(異母兄)
- 島津斉興
6. 著作
島津久光が執筆または編纂に関与した主な著作や歴史書は以下の通りである。
- 『島津久光履歴』
- 『島津久光公実紀』(1977年、東京大学出版会より刊行。久光の死後に出版された)
- 『通俗国史』:隠居生活中に編纂に専念した歴史書の一つ。
- 『三国名勝図会』:久光が校正を行った。
これらの著作活動は、彼が公職引退後も学術的な関心を持ち続け、特に島津家の歴史や日本の国史の編纂に力を注いでいたことを示している。彼が収集した史料や典籍は、「玉里文庫」として現在も鹿児島大学付属図書館に所蔵されている。
7. 大衆文化における描写
島津久光は、その波乱に満ちた生涯と幕末・明治維新における重要な役割から、多くの大衆文化作品で題材とされている。
- テレビドラマ**
- 小説**
- 漫画**
- アニメ**