1. 生涯と経歴
日野原重明は、その長い生涯を通じて、日本の医療と社会の発展に尽力した。彼の人生は、幼少期の家庭環境や教育、そして初期のキャリアにおける様々な経験によって深く形作られた。
1.1. 生い立ちと幼少期
日野原重明は、1911年(明治44年)10月4日、山口県吉敷郡下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)にあった母の実家で生まれた。彼の両親はともに熱心なキリスト教徒であり、父の日野原善輔は当時ユニオン神学校に留学中であった。日野原自身も父の影響を受け、7歳で受洗した。彼は9人家族(6人兄弟)の次男であり、明治の年号にちなんで兄弟全員の名前に「明」の字が入れられていた。
1913年に父が帰国し、日本基督教団大分教会の牧師として赴任したため、一家は大分市へ転居した。さらに1915年には、父が神戸中央メソジスト教会(現在の日本基督教団神戸栄光教会)へ異動したことで、一家は神戸へと移り住んだ。1918年、日野原は神戸市諏訪山尋常小学校に入学。小学校4年生の時である1921年には急性腎臓炎を患い、休学を余儀なくされた。この療養期間中、彼はアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始めた。
1.2. 教育
1924年、日野原は旧制第一神戸中学校に合格したが、入学式当日に退学し、関西学院中学部に入学した。彼は赤面恐怖症の克服を目指し、弁論部に入部した。1929年には旧制第三高等学校理科に進学し、ここでも弁論部と文芸部に所属して詩集や随筆集を制作するなど、文学的な才能も育んだ。
1932年、日野原は京都帝国大学医学部に入学した。学費は教会関係者からの寄付によって賄われた。大学在学中の1933年には結核を患い休学し、父が院長を務めていた広島女学院の院長館や山口県光市の虹ヶ浜で約1年間療養生活を送った。この病気により、医学部の内科教授になるという彼の夢は断たれ、一時は医学の道を諦めて音楽の道に進むことも考えたが、両親の反対により断念した。
1934年に京都帝国大学医学部へ復学したが、病み上がりの体調不良から、負担の少ない精神科医になることを検討した。1937年に京都帝国大学医学部を卒業後、同医学部三内科副手(無給)に就任し、真下俊一教授の第三内科(循環器内科)に入局した。この期間、徴兵検査で丙種合格となり、京都大学医学部附属病院で2年間研修を受けたが、後に彼はこの期間に「学ぶことはなかった」と述懐している。1939年、京都帝国大学医学部大学院博士課程(心臓病学専攻)に進学し、京都大学YMCA地塩寮に住んだ。1943年には、音楽好きが高じて「心音の研究」をテーマとした博士論文で京都帝国大学医学博士の学位を取得した。彼は心臓が収縮する際に低音が生じることを発見し、その成果をアメリカの著名な医学雑誌に投稿した。
1.3. 初期キャリアと訓練
1938年には北野病院や京都病院(現在の国立病院機構京都医療センター)で勤務した。1941年、日野原は聖路加国際病院の内科医となった。周囲からは東大閥のある東京での挑戦を反対されたが、「東京で勝負したい」という強い思いから上京した。聖路加国際病院には学閥がなく、これが彼の選択を後押しした。同年7月から9月にかけて聖路加の軽井沢診療所で初仕事に就き、以降1944年まで毎夏勤務した。
1942年に結婚。この結婚は、広島女学院院長を定年退職し上京していた父が牧師をしていた田園調布の教会の役員の紹介で、教会の日曜学校で教師をしていた女性と3ヶ月の交際を経てのものであった。1945年、日野原は自ら志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官した。戸塚海軍病院や海軍衛生学校のある横浜市戸塚区で訓練を受けたが、急性腎臓炎のため入院となり、除隊となった。
戦後、1951年に聖路加国際病院内科医長に就任。同年、アメリカのエモリー大学医学部内科に1年間留学し、ポール・ビーソン教授に師事した。この留学中、彼はメイヨー・クリニックでホリスティック医療(全人的医療)に触れ、後の彼の医療哲学に大きな影響を与えた。1952年に帰国し、聖路加国際病院院長補佐(研究・教育担当)に就任(1972年まで)。この時期、京都大学医学部第三内科学教授のポストを打診されたが、これを断った。また、闘病中だった母が脳卒中で亡くなるという悲しい出来事も経験した。この間、彼は東京看護教育模範学院(現・日本赤十字看護大学)講師(1954年まで)、東京文化学園(現・新渡戸文化短期大学)講師、医師国家試験試験委員、医師研修審議会委員なども務めた。
1953年には国際基督教大学教授に就任し、以後4年間「社会衛生学」などを教える傍ら、同大学診療所顧問も務めた。1957年には、石橋湛山首相が脳梗塞で倒れて入院した際、その主治医を務めるという大役を担った。1958年、父がバージニア州リッチモンドのアズベリー神学校で客員教授を務めていた最中、劇症肝炎のためリッチモンド記念病院で死去した。
2. 主要な活動と業績
日野原重明は、日本の医療、学術、社会に多大な貢献をし、その功績は多岐にわたる。彼は単なる医師としてだけでなく、教育者、著述家、そして社会活動家としても影響力のある存在であった。
2.1. 医療と公衆衛生への貢献
日野原は、日本の予防医学と公衆衛生において画期的な役割を果たした。彼は日本で最初に人間ドックを開設し、その普及に尽力した。また、従来「成人病」と呼ばれていた心臓病や脳卒中といった一連の病気について、1970年代から「習慣病」と呼称することを提唱した。この考えは旧厚生省に受け入れられ、1996年に「生活習慣病」と改称され、その後広く社会に浸透した。彼は予防医学の重要性を早くから説き、終末期医療の普及にも尽力した。
特に彼の危機管理能力とリーダーシップは、1995年3月20日に発生したオウム真理教による「地下鉄サリン事件」で遺憾なく発揮された。当時聖路加国際病院の院長であった83歳の日野原は、病院を開放し、外来患者の診察などの通常業務をすべて停止するという決断を下した。そして自ら陣頭指揮を執り、640名もの被害者の治療に当たった。この迅速かつ的確な対応が可能だったのは、事件の3年前に日野原が北欧の病院視察から着想を得て、大災害に備えて廊下や待合室の壁面に約2,000本もの酸素配管を設置し、広いロビーや礼拝堂を設けていたからである。危機管理評論家の佐々淳行は、この時の日野原の功績は「国民栄誉賞もの」だと高く評価している。また、この備えの背景には、日野原が東京大空襲の際に満足な医療を提供できなかった苦い経験があった。
2.2. 学術・教育活動
日野原は医療現場だけでなく、学術・教育分野においても多大な功績を残した。京都帝国大学医学部副手、大日本帝国海軍軍医少尉などを経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーバード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長などを歴任した。
特に1974年に聖路加看護大学学長に就任すると(1998年まで)、同大学に大学院を開設し、日本で初めて看護大学に博士課程を設置するという先駆的な取り組みを行った。これにより、看護学の学術的な地位向上に大きく貢献した。彼は日本循環器学会名誉会員であり、その学術的な功績が評価され、勲二等瑞宝章や文化勲章など数々の栄誉を受章している。また、彼の出身校である京都帝国大学に加え、アメリカのトマス・ジェファーソン大学やカナダのマックマスター大学からは名誉博士号を授与された。
晩年になっても教育への情熱は衰えず、2008年には父が戦中院長を務めた広島女学院大学で客員教授を務めたり、関西学院初等部の教育特別顧問として特別授業を担当したりした。2009年には聖トマス大学日本グリーフケア研究所名誉所長、2010年には上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長となり、グリーフケアの分野でも指導的な役割を担った。
2.3. 著作と社会的影響
日野原は、その生涯にわたる医療経験と人生哲学を多数の著書や講演活動を通じて広く社会に発信し、多くの人々に影響を与えた。彼の著書はベストセラーとなり、特に2001年に刊行された『生きかた上手』は120万部を超える大ヒットを記録し、高齢者の「希望の星」的存在として知られるようになった。彼はまた、講演活動やテレビ出演(NHKの「スタジオパークからこんにちは」や「NHKスペシャル」、NHK紅白歌合戦のゲスト審査員など)を積極的に行い、健康や生き方に関するメッセージを一般の人々に伝えた。
レオ・ブスカーリア作の絵本『葉っぱのフレディ~いのちの旅~』がミュージカル化される際には、日野原が企画・原案に携わった。彼は100歳を超えてもなお、2、3年先までスケジュールが埋まるほどの多忙な日々を送っていた。乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に充て、日々の睡眠時間は4時間30分、週に1度は徹夜をする生活を送っていたが、96歳で徹夜を止め、睡眠時間を5時間に増やしたという。生前には「少なくとも110歳まで現役を続けることを目標にしている」と語るほど、生涯現役を貫く信念を持っていた。
教育への貢献は著書にも及び、2015年にはNHK全国学校音楽コンクール(小学校の部)課題曲『地球をつつむ歌声』の作詞を担当した。また、小学生の頃から同人誌などで執筆活動を嗜み、「日野原重秋」「日野原詩郷明」といった筆名も用いていた。
3. 思想と哲学
日野原重明の医療実践と人生観は、彼の深いキリスト教的信念と、ウィリアム・オスラーの哲学から強く影響を受けていた。彼は「いのちの器」という独自の概念を通じて、生と死、そして時間の使い方について深く考察し、人々にメッセージを送り続けた。
3.1. キリスト教的信念と人生哲学
日野原の人生と医療活動の根底には、両親から受け継いだキリスト教的信念があった。彼が内科医として勤務した聖路加国際病院は聖公会系のキリスト教教派の病院であったが、日野原自身は日本基督教団に所属するキリスト教徒であった。1989年にはキリスト教功労者として顕彰されている。
彼の座右の銘は、近代医学の父の一人として尊敬するウィリアム・オスラーの言葉「医学は科学に基づくアートである」であった。日野原は、医療は単なる技術や科学の応用にとどまらず、患者一人ひとりの人間性や尊厳を尊重する「アート(芸術)」であるべきだと考え、全人的医療を提唱し続けた。
2015年11月29日のアドベント(降臨節)には、多数の聴衆に向けて「いのちの器」について語りかけた。「命は私に与えられた時間です。それを何のために使うのか、もし助けを求めている者のために有効に使うのなら、自分たちの生き方は、これからの時代を生きる子供たちの手本になる」と訴えた。彼はまた、「よく生き、よく老い、よく病み、よく死ぬ」という人生観を提示し、人生の終末期をどう生きるべきかについても深く考察した。
1987年、78歳の時から「いのちの大切さ」や「いのちの器」を伝えるために、全国の小学校で「いのちの授業」を開始した。この活動は、NHK教育テレビの「シリーズ授業」で自身の母校である神戸市立諏訪山小学校を訪問したことがきっかけとなり、2016年までに全国合計で200以上の小学校で実施された。彼はこの授業を通じて、子供たちに命の尊厳と時間の有限性、そしてそれをいかに有意義に使うべきかを伝え続けた。
4. 私生活と特別な経験
日野原重明の個人的な人生は、数々の特別な経験と彼自身の多様な趣味によって彩られていた。これらの経験が、彼の医療観や人生哲学をより豊かなものにしていった。
4.1. 家族関係と趣味
日野原は1942年に結婚し、家庭を築いた。彼は個人的な趣味にも時間を費やし、多方面にわたる興味を持っていた。特に、小学校4年生で急性腎臓炎を患い休学中に習い始めたピアノは、生涯にわたる彼の重要な趣味の一つであった。彼は療養中に「ノクターン」という曲を作曲し、この曲は2008年2月17日放送の「N響アワー」(NHK教育テレビ)で自身がゲスト出演した際に、池辺晋一郎によって一部が披露された。また、2015年には全国学校音楽コンクール(小学校の部)課題曲『地球をつつむ歌声』の作詞を担当するなど、音楽との関わりは深かった。
また、小学生の頃から同人誌などで物書きを嗜んでおり、「日野原重秋」「日野原詩郷明」といった筆名も持っていた。スポーツ観戦も好きで、箱根駅伝やサッカーの試合を好んで観戦した。特に2015年のなでしこジャパンの試合では、海堀あゆみの大ファンであったと語っている。
彼は身だしなみにも気を遣い、お洒落を「人前に出る前の『お守り』」と捉え、季節ごとにジャケットやネクタイを選んでいた。長嶋一茂が褒めてくれたというのを耳にしてからは、ポケットチーフにも力を入れ、出かける際には妻から数枚渡される候補の中から一つを選んでいたという。
食生活においては、夕食をメインとしていた。朝食はジュースにオリーブオイルをかけて飲み、昼食は牛乳、胚芽クッキー、リンゴだけで済ませるという簡素なものであった。夕食は週に2回肉を食べ、他は魚を少し多めに摂り、その日の体調に合わせて食べ物を変えるなど、独自の食習慣を持っていた。彼は「集中していれば空腹にならない」と語っていた。
1951年のアメリカ留学時、月60 USDという現地支給で全てを賄う必要があり、当時の為替レートは1米ドル360円であったため、経済的に苦しかった。このため、仕事仲間との昼食を断り、一人でコーラ、フライドチキン、ハンバーガーを食べるなど、極貧生活を経験した。この経験にもかかわらず、ファストフードを無性に食べたくなることがあるという一面もあった。好物としては、母親が落花生と砂糖と味噌を合わせて作ってくれた「ピーナッツ味噌」や、アメリカ留学時に食べたピーナッツバター付きのパンを挙げていた。
4.2. よど号事件と戦争体験
日野原の人生観に大きな影響を与えた出来事の一つに、1970年3月31日に遭遇したよど号ハイジャック事件がある。彼は福岡で開催される日本内科学会総会へ出席するため搭乗した旅客機でこの事件に巻き込まれ、他の乗客とともに人質となった。これは日本で初めてのハイジャック事件であり、犯行グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」と声明しても、当時の多くの日本人は「ハイジャック」の意味を知らなかった。その中で、日野原は手を挙げ、「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」と説明したという。機内では犯人グループから人質に本が提供されたが、これに応じたのは日野原だけで、『カラマーゾフの兄弟』を借りて読んだ。彼は4日間にわたる拘束期間中に死を覚悟した。後に彼は、この事件を契機に内科医としての名声を追求する生き方を止め、事件以降の人生は「与えられた命」と考えるようになり、人生観が大きく変わったと述懐している。
第二次世界大戦中の経験も、日野原の思想形成に深く関わっている。彼は東京大空襲の際に満足な医療を提供できなかった苦い経験を抱えていた。戦時中、彼が勤務していた聖路加国際病院は政府によって「大東亜中央病院」に改名された。特高警察が病院に出入りしてスパイの嫌疑で彼や同僚が取り調べられたり、患者を装って病院を監視したりする状況にあった。病院の高い塔にあった十字架は憲兵隊に切り取られ、「神の栄光と人類奉仕のため」という病院の理念が刻まれた石碑は御影石の板で覆い隠さなければならなかった。彼は、当時の釘の跡が今でも生々しく残っていると語っていた。
敗戦後、聖路加国際病院はGHQに接収された。この時、日野原は占領軍が図書館に持ち込んだアメリカの医学書や医学雑誌を読み、頻繁に言及・引用されるウィリアム・オスラー博士を師と仰ぐようになった。これが、後の彼の予防医学や生活習慣病の改善を重視する思想へと繋がった。
日野原は、各地の高齢者と協力し、戦争の記憶を次世代に語り継ぐ活動にも熱心に取り組んだ。フォーラムの講演では、「1人1人が持っている命を大切にすること」「そのためにも平和な社会を築く努力をすること」を訴えた。2015年に刊行した著書『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』の出版会見では、「武器には武器、暴力には暴力で応じる悪循環を断ち切り、戦争ではなく話し合いで物事を解決する、根強い精神が必要」「知性こそ人間の授かった宝である」と力強く訴えた。また、10年以上にわたって行ってきた「いのちの授業」では、「虐めは暴力」であると強調し、その不毛さを訴えた。『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』の帯には「戦争はいじめと同じです」と明記されている。95歳の時に執筆した子供向けの書籍では、「争いの根っこにある苦しみの感情をコントロールできるのは自分だけである」「憎い相手を許す、その勇気で戦いを終わらせることができる」「『知る』ということをもっと大事にして下さい」と記し、平和への強いメッセージを送り続けた。
5. 死と遺産
日野原重明は、晩年まで精力的に活動し、日本の医療と社会に多大な遺産を残した。その死は多くの人々に惜しまれたが、彼の思想と功績は後世に語り継がれている。
5.1. 社会的評価と記憶
日野原は、その長年にわたる医療への貢献と社会活動が評価され、数々の栄誉を受章した。1993年には勲二等瑞宝章を、1999年には文化功労者に選ばれ、そして2005年には日本の最高栄誉である文化勲章を授与された。これらの受章理由として、日本で最初に人間ドックを開設したこと、早くから予防医学の重要性を説いたこと、終末期医療の普及に尽力したこと、そして「成人病」を「生活習慣病」に改称した功績などが挙げられている。
日野原重明は2017年7月18日、東京都世田谷区の自宅で呼吸不全により死去した。105歳没(享年107)。死没同日付で従三位に叙位された。彼の墓所は多磨霊園の聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑にある。
彼の少年時代、母親の命をある医師が救ってくれたことから医学の道を志したというエピソードは、彼の原点を示すものとしてよく知られている。彼は常に患者中心の医療を追求し、医療従事者だけでなく、一般の人々にも健康と生き方について深く考えるきっかけを与え続けた。特にベストセラーとなった著書『生きかた上手』は、多くの人々に影響を与え、日野原は高齢者の「希望の星」的存在として記憶されている。彼は、生涯現役を貫く姿勢と、常に新しいことに挑戦する意欲を示し、その行動自体が社会に大きなメッセージとなっていた。日野原の残した功績と哲学は、現代の医療や社会に今もなお大きな影響を与え続けている。


日野原は、保守的な思想を持ち、皇室を深く崇敬していた。たびたび皇室行事に招かれる一方で、日本国憲法に勤皇奉仕義務を明記するよう求めていた。また、朝日新聞で執筆したコラム「95歳の私 あるがまま行く」では、君が代に代わる新国歌の制定も提案した。
名誉院長を務めていた聖路加国際病院は聖公会系のキリスト教教派だが、日野原自身は日本基督教団所属のキリスト教徒であった。彼は、医療行為を医師のみに限定すべきだと主張する日本医師会の立場に対し、経験豊富な看護師も医療行為を行うべきだと主張するなど、柔軟な医療体制を支持していた。
2005年に行った講演では、「アメリカの大学教授選考では、最近は年齢は不問です。つまり、業績、仕事をやる人は、年齢に関係なく教授を続けられるようになった。それに引き替え日本では、大学に定年制が引かれ、アメリカとは逆ですよ」と述べ、日本の大学における定年制の問題点を指摘した。
ある時、マスコミのインタビューで、病院ではエレベーターを使わないと発言してしまったため、その後はどんなに疲れていても公衆の前ではエレベーターを使えなくなったというエピソードもある。
自身の健康についても、2014年5月に大腸菌による感染症で入院し、その際に大動脈弁狭窄症が発見されたことを公表した。高齢のため手術は難しく、移動には車椅子を使用するようになった。また、2015年には女子サッカーの試合観戦中に気分が悪くなり、心房細動が発見された。これ以降、熱烈に応援したくなる試合は生放送ではなく、結果を知ってから録画を観るようになったと語っている。
彼の座右の銘は、ウィリアム・オスラーの「医学は科学に基づくアートである」であった。
6. 役職
日野原は聖路加国際病院の院長を務めながら、以下の多くの役職にも就いていた。
- 一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長
- 公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長
- 財団法人日本訪問看護振興財団副理事長
- 財団法人キープ協会顧問
- 財団法人日本科学協会顧問
- 財団法人富山県健康スポーツ財団顧問
- 公益財団法人野村生涯教育センター顧問
- 財団法人がんの子供を守る会名誉顧問
- 財団法人三菱財団理事
- 財団法人日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団理事
- 財団法人日本スピリチュアルケア学会理事
- 公益財団法人日本音楽財団理事
- 財団法人アジア保健研修財団理事
- 財団法人防長倶楽部評議員
- 社団法人日本スポーツ吹矢協会最高顧問
- 社団法人臨床心臓病学教育研究会最高顧問
- 公益社団法人難病の子どもとその家族へ夢を永久最高顧問
- 社団法人学士会評議員
- 特定非営利活動法人医療の質に関する研究会理事長
- 特定非営利活動法人日本医療ネットワーク協会顧問
- 特定非営利活動法人卒後臨床研修評価機構理事
- 一般社団法人日本総合健診医学会理事長
- 有限責任中間法人日本人間ドック学会名誉顧問
- 有限責任中間法人日本抗加齢医学会顧問
- 日本医療秘書学会会長
- 日本音楽療法学会理事長
- 日本POS医療学会会頭
- 医療の質・安全学会顧問
- 日本医療福祉情報科学会特別顧問
- 日本介護福祉学会顧問
- 日本在宅医学会顧問
- 日本エイジマネージメント医療研究機構顧問
- 日本禁煙科学会特別顧問
- 日本サイコオンコロジー学会顧問
- がん医療マネジメント研究会名誉顧問
- 腎循環器病研究会顧問
- 日本医療バランスト・スコアカード研究学会評議員
- 日本ユニセフ協会大使
- 環境省エコチル調査サポーター
- 医療法人真誠会名誉理事長
7. 著作
日野原重明の主な著作を以下に列挙する。
- 『オスラー博士の生涯:アメリカ醫學の開拓者』 中央醫學社 1948
- 『人間ドック:もの言わぬ臓器との対話』 中公新書 1965
- 『POS医療と医学教育の革新のための新しいシステム』 医学書院 1973
- 『老いを創める』 朝日新聞社 1985 のち文庫
- 『いのちの器:人生を自分らしく生きる』 主婦の友社 1989 のちPHP文庫
- 『日野原重明著作集』 全5巻 中央法規出版 1987-1988
- 『生きかた上手』ユーリーグ(現ハルメク) 2001 のち文庫
- 『100歳になるための100の方法:未来への勇気ある挑戦』 文藝春秋 2004 のち文庫
- 『十歳のきみへ:九十五歳のわたしから』 冨山房インターナショナル 2006
- 『メメント・モリ:死を見つめ、今を生きる:死を想え』 海竜社 2009
- 『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』小学館 2015
7.1. 共編著・翻訳
共編著、翻訳も多数手掛けている。
- 『遷延性心内膜炎の一例』 新村正幸共著 日本循環器病學 1939
- 『人間ドック その企画・検査から生活指導まで』 橘敏也共著 中外医学社 1960
- 『私の歩んだ道 内科医六十年』 植村研一共著 岩波書店 1995
- 『ひとはどう生き、どう死ぬのか』 犬養道子共著 岩波書店 1997
- 『いのち、生ききる』 瀬戸内寂聴共著 光文社 2002
- 『65:27歳の決意・92歳の情熱』 乙武洋匡共著 中央法規出版 2003 のち幻冬舎文庫
- 『おばあちゃんのきおく』 メム・フォックス著 講談社 2007(翻訳)