1. 経歴
森山泰行は、幼少期から学生時代にかけてサッカーの才能を開花させ、プロ入り後も日本国内の複数クラブや海外で活躍した。特に名古屋グランパスエイトでは「スーパーサブ」として名を馳せ、その後は地元クラブのFC岐阜のJリーグ参入に尽力するなど、そのキャリアは多岐にわたる。
1.1. 幼少期・学生時代
森山泰行は岐阜県に生まれ育った。笠松町立笠松中学校時代には全国中学校サッカー大会で3位を経験している。高校は東京都の帝京高校に進学。中学時代は自らドリブルで持ち込みゴールを決めるタイプの選手だったが、高校で同期の礒貝洋光と出会ったことで、周りを活かすよりも活かされるタイプの選手であるという自覚を持ち、プレースタイルを変えていった。帝京高校サッカー部では、1学年上に岩本三郎、巻田清一、同期に飯島寿久、礒貝洋光、島根聡一、本田泰人、1学年下には池田伸康、遠藤雅大(昌浩)、保坂信之、浅沼達也といった後のプロサッカー選手が多数在籍していた。高校3年次の第66回全国高等学校サッカー選手権大会では5得点を挙げ、準々決勝の東海大一高戦では、試合中に負傷した頭部を包帯で覆いながらプレーを続けたエピソードが残っている。
高校卒業後は順天堂大学に進学。大学2年次にはレギュラーに定着し、3年次には関東大学リーグで得点王を獲得した。大学4年次になる前の春休みには、ウルグアイのCAプログレッソに留学を経験し、練習試合にとどまらず公式戦にも出場した。この留学中にCAペニャロールからオファーが届いたが、当時ブラジルで活躍していた三浦知良に相談したところ、「いい加減なエージェントにかかるととんでもないことになるから止めた方がいい」との助言を受け、移籍を断念した。
1.2. プロキャリア
森山泰行は、プロサッカー選手として日本国内の複数のクラブで活躍し、特に名古屋グランパスエイトではその得点能力でチームに貢献した。また、スロベニアでの海外挑戦も経験し、キャリアの晩年には地元クラブのFC岐阜のJリーグ参入に大きく貢献した。
1.2.1. 日本国内でのプレー
大学を卒業した1992年、Jリーグ開幕直前の名古屋グランパスエイトに入団した。1993年1stステージ第2節の浦和レッズ戦では、前半34分に森山がグランパスのJリーグにおける記念すべき初得点を挙げ、続いて48分に2点目を挙げる活躍で、チームのJリーグ初勝利に貢献した。
アーセン・ベンゲル監督時代(特に1995年・1996年)には、試合終盤に投入されるスーパーサブとして高い得点率を誇り、その活躍から「8時半の男」の異名を取った。1994年から3シーズン連続で二桁得点を記録。1995年7月19日のジェフユナイテッド市原戦では、わずか8分間でハットトリックを達成する離れ業を演じた。1996年には、出場時間わずか799分で11得点を挙げた。1997年までに、名古屋グランパスエイトで通算146試合に出場し51得点を記録した。
名古屋からは1998年シーズンの契約延長を求められたものの、森山はこれを断り海外移籍を決断。同年6月まで3ヶ月間の期限付き移籍でベルマーレ平塚に在籍した。
海外挑戦を終えた後、1999年8月から同シーズン終了まで名古屋からの期限付き移籍でサンフレッチェ広島に加入。2000年には川崎フロンターレへ移籍した。
2001年から名古屋グランパスエイトに復帰し、その年は26試合で12得点を挙げるなど復調を見せた。しかし、2002年シーズンは途中まで在籍して7試合無得点に終わった。同年8月より翌年1月31日までの契約期間でコンサドーレ札幌に期限付き移籍で加入し、その後期限付き移籍期間を2004年1月31日まで延長した。
2004年、名古屋グランパスエイトに復帰。同年7月末の契約満了をもって一旦現役を引退した。
2005年、森山の地元である岐阜県で将来のJリーグ参入を目指して活動を始めた東海社会人サッカーリーグ2部所属のFC岐阜に自らアプローチし、現役復帰を果たした。FC岐阜では「選手兼監督補佐」という肩書きで、選手としてだけでなくコーチ的な役割も務め、さらにクラブのスポンサー獲得においても重要な役割を担った。2007年からは取締役も兼任した。森山はかねてから「引退したら(地元である)岐阜でチームを立ち上げたい。子供たちに夢を与えたい」との夢を抱いており、FC岐阜のJリーグ参入を自らの手で実現させた。今西和男がFC岐阜のGMに就任したのも、森山の熱意に打たれたものであった。また、地元中京地区でテレビのスポーツコメンテーターを務める傍ら、名古屋のローカルタレントである黒岩唯一と共にフットサルチーム「KURO FC」を立ち上げるなど、サッカー文化の地域密着に大きな関心と情熱を傾けている。2004年に現役を一時引退した際、名古屋地区のJリーグ中継における解説を兼任し始め、FC岐阜に関わってからも解説者活動を続けていたが、FC岐阜がJ2に2008年度から加盟すると決定してからは、解説者活動にある程度の区切りをつけ「コーチ兼任ではなく選手一本でやる」と公言してFC岐阜に専念した。同年9月、森山は同シーズン限りでの現役引退を表明した。
2019年2月12日、愛知県岡崎市に本拠地を置くJFLのFCマルヤス岡崎で選手兼チームディレクターとして現役復帰することが発表された。これは2018年夏に強化担当就任のオファーが来たことがきっかけで、強化担当との兼任でプレーすることになった。しかし、2020年まで選手登録はされたものの、試合に出場することはなかった。2021年には選手登録されず、再び現役を退いた。
1.2.2. 海外でのプレー
1998年、名古屋グランパスエイトからの契約延長を断り、海外移籍を決断した森山は、同年8月からスロベニアのNDゴリツァに期限付き移籍した。当時の月給は名古屋時代の20分の1にあたる20.00 万 JPYであったという。このクラブではセカンドストライカーという役割を任された。同年10月18日のNKトリグラフ・クラーニ戦で移籍後初ゴールを記録した。
その後、ユーゴスラビアの強豪レッドスター・ベオグラードが森山に興味を示したといわれるが、コソボ紛争の影響もあり移籍は実現しなかった。また、フランスの強豪オリンピック・マルセイユへの移籍の噂もあった。1999年にはブラジルのポルトゥゲーザへの移籍話が進んでいたが、クラブ首脳陣が贈収賄疑惑で拘束され交渉が頓挫。さらにECジュベントゥージとは契約を済ませたものの、労働ビザの取得が難航し、最終的に契約を解除することになった。
2. 日本代表
森山泰行は、日本代表として1997年6月15日に長居陸上競技場で行われたキリンカップ1997のトルコ戦(日本が1-0で勝利)に出場した。これが唯一の国際Aマッチ出場となり、代表通算成績は1試合0得点である。順天堂大学時代にも日本代表に選出された経験を持つが、その際は試合には出場していない。
2.1. 試合数
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1997 | 1 | 0 |
合計 | 1 | 0 |
3. プレースタイルと特徴
森山泰行は、小柄ながらも俊敏性とゴールを狙う貪欲さを武器とするストライカーであった。ゴール前での集中力の高さと、オフザボールの動きの質の高さが特徴とされた。自ら走り回ってチャンスを創出するタイプではなく、戦況を常に冷静に把握し、決定的なチャンスを狙うプレースタイルであった。
特に名古屋グランパスエイト在籍時(アーセン・ベンゲルが監督を務めた1995年・1996年)には、試合終盤に投入されるスーパーサブとして絶大な信頼を受け、その活躍から「8時半の男」という異名を取った。名古屋グランパスエイトで挙げた通算63得点のうち、22得点が途中出場によるものであり、この数字は2020年時点で岡山哲也(13得点)に大きく差をつけ、クラブ歴代1位の記録となっている。また、J1リーグ通算では66得点のうち23得点が途中出場からの得点であり、これは2011年9月10日に播戸竜二が更新するまでJリーグ記録であった。
4. 指導者・引退後の活動
2008年末に現役を引退した後、森山泰行はFC岐阜にアドバイザーなどの形で残ると見られていたが、2009年2月27日、FC岐阜はクラブの経営状況が厳しいため、森山とのアドバイザリー契約を締結しないことを発表した。以降、森山は再びサッカー解説者として東海3県を中心に活動を開始した。
2009年度にはJFA公認S級コーチ養成講習会を受講し、合格している。
2014年4月1日付で、浦和学院高等学校サッカー部の監督に就任した。
また、埼玉県ふじみ野市を拠点とするジュニアユースクラブ「[http://clubgorica.com/ CLUB GORICA]」(クラブゴリツァ)および、埼玉県富士見市を拠点とするジュニアクラブ「[http://nkfc-soccer.club/ NKFC]」(Nanbata Krein Football Club)の代表も務めている。
2019年2月12日には、FCマルヤス岡崎で選手兼チームディレクターとして現役復帰したが、2021年には選手登録されず、再び現役を退いた。
2023年からは、なでしこリーグに所属する朝日インテック・ラブリッジ名古屋の監督に就任している。
その他、地元中京地区でテレビのスポーツコメンテーターとして活動する他、名古屋のローカルタレントである黒岩唯一と共にフットサルチーム「KURO FC」を立ち上げるなど、サッカー文化の地域密着に大きな関心と情熱を傾けている。
5. 個人成績
クラブパフォーマンス | リーグ | カップ | リーグカップ | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
日本 | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | 合計 | ||||||
1992 | 名古屋グランパスエイト | J1 | - | 4 | 0 | 1 | 1 | 5 | 1 | |
1993 | 12 | 4 | 0 | 0 | 1 | 1 | 13 | 5 | ||
1994 | 39 | 13 | 1 | 0 | 2 | 1 | 42 | 14 | ||
1995 | 42 | 14 | 4 | 0 | - | 46 | 14 | |||
1996 | 26 | 11 | 1 | 0 | 14 | 4 | 41 | 15 | ||
1997 | 29 | 9 | 1 | 0 | 5 | 1 | 35 | 10 | ||
1998 | ベルマーレ平塚 | 4 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | |
スロベニア | リーグ | スロベニア・カップ | リーグカップ | 合計 | ||||||
1998-99 | NDゴリツァ | プルヴァリーガ | 10 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 1 |
日本 | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | 合計 | ||||||
1999 | サンフレッチェ広島 | J1 | 11 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 14 | 3 |
2000 | 川崎フロンターレ | 14 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 | 20 | 0 | |
2001 | 名古屋グランパスエイト | 26 | 12 | 1 | 0 | 3 | 0 | 30 | 12 | |
2002 | 7 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 12 | 0 | ||
コンサドーレ札幌 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | ||
2003 | J2 | 5 | 0 | 0 | 0 | - | 5 | 0 | ||
2004 | 名古屋グランパスエイト | J1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
2005 | FC岐阜 | 東海2部 | 8 | 2 | - | - | 8 | 2 | ||
2006 | 東海1部 | 11 | 5 | 2 | 1 | - | 13 | 6 | ||
2007 | JFL | 8 | 0 | 3 | 1 | - | 11 | 1 | ||
2008 | J2 | 13 | 1 | 0 | 0 | - | 13 | 1 | ||
2019 | FCマルヤス岡崎 | JFL | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||
2020 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | |||
総通算 | 270 | 75 | 23 | 5 | 39 | 5 | 332 | 85 |
その他の公式戦
- 1996年
- スーパーカップ 1試合0得点
- サントリーカップ 2試合0得点
- 国際試合
- アジアカップウィナーズカップ 1試合0得点
6. 主なタイトル・表彰
- チームタイトル
- 天皇杯:1回(1995年)
- スロベニア・プルヴァリーガ:準優勝1回(1998-99)
- アジアカップウィナーズカップ:準優勝1回(1996-97年)
- 個人表彰
- 関東大学リーグ得点王:1回(3年次)
7. 外部リンク
- [http://clubgorica.com/ CLUB GORICA]
- [http://nkfc-soccer.club/ NKFC]
- [http://www.jfootball-db.com/en/players/moriyama_yasuyuki.html Japan National Football Team Database]