1. 概要
森 繁和(もり しげかず、Shigekazu Moriシゲカズ・モリ英語、1954年11月18日 - )は、千葉県長生郡一宮町出身の元プロ野球選手(投手)であり、コーチ、監督、解説者、評論家として多岐にわたるキャリアを築いた人物である。現役時代は西武ライオンズで投手として活躍し、引退後は西武ライオンズ、北海道日本ハムファイターズ、横浜ベイスターズ、中日ドラゴンズの4球団でコーチを務めた。特に中日ドラゴンズでは監督代行を経て、2017年から2018年まで監督を務めた。マネジメント契約先は吉本興業グループの芸能事務所・吉本興業株式会社。愛称は「モリシゲ」。
2. 経歴
森繁和の野球キャリアは、アマチュア時代からプロ野球選手、コーチ、そして監督に至るまで多岐にわたり、各段階での経験と貢献が彼の野球人生を深く形作っている。
2.1. プロ入りまで
プロ入り以前、森繁和は高校、大学、社会人野球の各ステージで目覚ましい活躍を見せた。
2.1.1. 高校時代
市原市の科学技術工業高校に在学中、2年次の1971年にはエースとして夏の県大会でベスト8に進出した。3年次の1972年には、春の千葉県大会2日目に八千代高から16奪三振を記録する。この日、奇しくも成東高の鈴木孝政も市川工戦で16奪三振をマークした。同年、科学技術工業高校は廃校が決定し、夏の千葉大会で佐倉高に敗退する。この試合で審判の判定に不服を訴えて抗議した姿が、駒澤大学の藤田俊訓学監の目に留まり、駒大高校へ転校することとなった。高校野球を既に引退していたため、転校後は大学の練習に参加していた。
2.1.2. 大学時代
1973年に駒澤大学へ進学し、東都大学野球リーグでは在学中に5度の優勝を経験した。3年次の1975年には、春と秋のリーグ戦で連続優勝を果たす。同年には全日本大学野球選手権大会でも、決勝でエース斉藤明雄を擁する大阪商業大学を破り優勝を飾った。同年秋の明治神宮大会では、決勝で6回から登板し無失点に抑えるも、チームは明治大学に敗れて準優勝となった。4年次の1976年春季リーグでは、同期の大宮龍男とバッテリーを組み、8勝を挙げる活躍で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを受賞した。同年の大学選手権1回戦では近畿大学工学部を相手に完全試合を達成するも、準決勝で大阪商業大学に敗退し、敗者復活戦でも東海大学に敗れた。一方で、同年には第5回日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。秋の明治神宮大会では初戦で法政大学の江川卓と先発で投げ合ったが敗れた。リーグ通算成績は41試合登板で18勝9敗、防御率2.11、191奪三振を記録した。駒大時代は合宿所近くのアパートで上級生の部屋子を務めたことで料理、特に中華料理を作るのが得意となり、上級生からも人気があった。練習が休みの日には九十九里浜で保養の国民宿舎を営む実家に仲間を誘い、新鮮な魚介類を楽しんだという。大宮以外の駒大の同期には山川猛、武智勇治がおり、3学年先輩には栗橋茂、木下富雄が、1学年先輩には中畑清、二宮至、平田薫が、2学年後輩には石毛宏典がいた。
2.1.3. 社会人時代
1976年度プロ野球ドラフト会議ではロッテオリオンズから1位指名を受けたが「私にはまだ足らない所がある」「西の方の野球を見て来ます」と両親や監督を同伴せず一人で金田正一監督のもとを訪れて入団を拒否し、住友金属へ入社した。1977年の都市対抗に出場したが、1回戦で高代延博や大学同期の武智が所属する東芝に延長14回完投の末敗退した。しかし、同年開催の日本選手権では、中村裕二とバッテリーを組み4連勝を飾り、決勝で電電四国を降し初優勝を達成した。この大会では最高殊勲選手賞を受賞している。国際試合では、同年開催の第3回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出された。1978年には、後に中日で監督とコーチの関係となる落合博満らと共に、第25回アマチュア野球世界選手権日本代表にも選出された。しかし、同年の都市対抗では1回戦の日本楽器戦で頭部に死球を受け骨折するというアクシデントに見舞われた。チームは勝利してベスト8まで進んだが、森は2回戦以降登板することはなかった。この大会では、デュプロから左腕投手の川口和久が補強選手として住友金属に加わっており、この期間中に森は川口と親交を深めた。
2.2. 現役時代
プロ入り後、森繁和は先発投手としてキャリアをスタートさせ、後にリリーフに転向し、埼玉西武ライオンズの黄金期を支えた。
2.2.1. ドラフトとプロ入り
1978年度プロ野球ドラフト会議において、西武ライオンズ、中日ドラゴンズ、ヤクルトスワローズ、日本ハムファイターズの4球団から1位指名を受けた。抽選の結果、西武ライオンズへの入団が決定した。担当スカウトは毒島章一。この際、森は関東の球団、あるいは関西でも人気のある阪神であれば入団する意向であったとされるが、阪神はこの年江川卓を指名している。
2.2.2. 西武ライオンズ時代
1979年はルーキーながら開幕第2戦から先発として起用された。夏場には疲労のため先発を外れるが、8月中旬には復帰した。規定投球回に達する(リーグ20位、防御率4.52)も、チームが最下位に沈んだこともあり、5勝16敗に終わった。1980年は10勝14敗、防御率4.70(リーグ18位)、1981年は14勝11敗、防御率3.78(リーグ15位)と成績を伸ばし、東尾修、松沼博久・雅之兄弟とともに西武投手陣の中心的存在となった。広岡達朗が監督に就任した1982年シーズンは開幕投手に起用されるが、その後4試合で結果が出なかったため広岡にリリーフ転向を命じられた。シーズン途中からリリーフとして西武の所沢移転後の初優勝に貢献し、中日ドラゴンズとの日本シリーズでも3試合に登板した。1983年シーズンには5勝5敗34セーブ(34セーブは当時の日本記録)の成績で最優秀救援投手を受賞した。読売ジャイアンツ(巨人)との日本シリーズでは第3戦で中畑清にサヨナラヒットを打たれ敗戦投手となったが、第4戦ではセーブを記録した。
2.2.3. 怪我と引退
1983年シーズン以降は怪我に苦しみ、徐々に成績が低下した。1986年シーズンは肩の手術のため現役選手登録されず、秋季には若手とともにヒューストン・アストロズのアリゾナ教育リーグに参加し、野球留学した。1988年シーズン限りで現役を引退した。引退後、根本陸夫にコーチとしての資質を見出され、早めに引退させられたという見方もある。
2.3. コーチ時代
現役引退後、森繁和は複数のプロ野球球団でコーチを務め、特に中日ドラゴンズでは長きにわたり落合博満監督を支える役割を担った。
2.3.1. 西武ライオンズコーチ時代
1989年シーズンから1991年シーズンまで西武ライオンズ二軍投手コーチを務めた。1992年からはロッテの監督に就任した八木沢荘六、退団した小山正明の後を受け、一軍投手コーチに就任した。1995年からは前年に杉下茂が退団したため、森が一人で一軍投手コーチを務めた。1997年にはチーム防御率2位を記録し、チームも3年ぶりの優勝を達成した。しかし、1998年からは監督の東尾修が一軍投手コーチを森と杉本正の2名体制としたが、6月15日の時点でチーム防御率4.26と低迷。シーズン途中に投手陣低迷の責任を取らされ二軍へ配置転換となった(二軍からは加藤初が一軍へ異動)。1999年シーズン終了後に解雇された。
2.3.2. 日本ハム・横浜コーチ時代
2000年シーズンからは大島康徳の招聘を受け、日本ハムファイターズ一軍投手コーチに就任した。下柳剛は「あのまま毎年のように60試合近く投げていたら、引退が早まっていた可能性もある。2000年に先発転向を勧めてくれた投手コーチの森繁和さんには、ほんと感謝だ」と述べており、森の指導が選手のキャリアに与えた影響を示している。2001年シーズンまで務めたが、この2年間はチーム防御率が2年連続でリーグ5位と低迷した。2002年シーズンからは森祇晶に請われ横浜ベイスターズ一軍投手コーチに就任。2003年シーズンまで務めたが、チーム防御率は2002年に4.09(リーグ5位)、2003年に4.80(リーグ最下位)と低迷し、日本ハムと横浜の両球団で投手陣が不振に陥り、チームも最下位に沈んだ。
2.3.3. 中日ドラゴンズコーチ時代
2004年シーズンからは中日ドラゴンズの監督に就任した落合博満からの要請を受け、中日の一軍投手コーチに就任した。2005年シーズンには一軍投手チーフコーチを務め、2006年シーズンから2009年シーズンまでは一軍バッテリーチーフコーチを務めた。2010年シーズンには一軍ヘッドコーチへ昇格し、2011年シーズン終了後に落合と共に退団した。中日のコーチとして8年間全てAクラスを維持し、リーグ優勝4回、日本一1回という輝かしい実績を残した。
2.4. 監督時代
中日ドラゴンズの監督として、森繁和は独自の哲学と手腕を発揮し、チームの再建に尽力した。
2.4.1. 監督代行から正式監督就任
2012年から2013年にかけては、文化放送やJ SPORTSの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家として活動した。2013年10月22日、翌2014年シーズンより中日の一軍ヘッドコーチに就任することが発表され、11月1日には背番号が「80」に決定した。2014年シーズンから2015年シーズンまでは監督の谷繁元信が選手兼任だったため、谷繁が選手として出場した場合は森が監督代行を務めていた。2016年シーズンから谷繁が監督に専任することとなったため一軍ヘッドコーチに専念していたが、チームの成績不振が改善できず優勝争いにも加われなかったため、谷繁が休養(事実上の監督解任)となった8月9日から再び監督代行となった。2016年9月29日、中日球団から来季の一軍監督就任が発表された。62歳にして自身初の監督就任であり、監督初就任時の年齢としては1997年オフの権藤博(当時59歳)を超え、NPB史上最高齢となった。また、中日では山田久志以来となる投手出身及び外様の監督である。一軍コーチ陣には、一軍打撃コーチに土井正博、一軍内野守備走塁コーチに森脇浩司(森脇はヘッドコーチ格)、奈良原浩、一軍バッテリーコーチに田村藤夫を招聘した。
2.4.2. 監督としての手腕と哲学
就任時から、チーム方針として、守り勝つ野球を掲げた。また、機動力向上を目指すため、足を絡めて1点をもぎ取る野球をチームに浸透させた。さらに、落合博満や谷繁元信が監督時代にはほとんど行わなかったファンサービスを積極的に増やした。就任会見時には、自らを繋ぎの監督であると称し、チームの土台を作る役割を担うと発言した。具体的な若手選手の起用として、京田陽太の正遊撃手固定、小笠原慎之介の開幕投手起用、伸び悩んでいた高橋周平の二塁手転向など、積極的な抜擢を行い、一定の成果を生んだ。また在任中に西武時代の後輩でもある松坂大輔を獲得した。荒木雅博によれば、攻撃面は森脇に一任されていたという。
2.4.3. 監督退任
2017年8月7日、長女が乳癌のため35歳という若さで他界した。8月13日の対東京ヤクルトスワローズ戦では、通夜参列のため、2回終了まで指揮を執ったあと球場を離れ、3回以降は一軍内野守備走塁コーチの森脇が監督代行を務めた。翌日の告別式には白井文吾球団オーナーや落合元GMのほか、首脳陣、選手など球団関係者も参列し、8月15日の対横浜DeNAベイスターズ戦(雨天中止)から監督に復帰した。しかし、2017年シーズン、2018年シーズンとも5位に終わり、2018年シーズン限りで監督を退任することとなった。
3. シニアディレクター・渉外担当として
監督退任後、森繁和は若手選手の育成や外国人選手獲得の手腕が評価され、2019年から球団シニアディレクター(SD)に就任することが発表された。主な職務は外国人選手の獲得調査やトレード、自由契約選手の獲得などの編成面を担当することであった。また、高校野球や大学野球などのアマチュア球界や、外国への視察も行った。
特に中日ドラゴンズの投手コーチに就任した2003年のオフシーズンから、ヘッドコーチ、監督、SDの期間を含め、毎シーズンドミニカ共和国へ渡航し、現地のウィンターリーグを視察していた。元西武・巨人のドミンゴ・マルティネスを現地スカウトとして雇用し、カープアカデミー出身で前年まで広島でブルペン捕手をしていたフランシス・ルイスを通訳に雇うなどして独自のルートを形成した。本人は「ダイヤの原石がゴロゴロいる」と語っており、外国人補強の予算が少ない球団事情も相まって、森が球団に在籍していた際の外国人選手はほとんどがドミニカ共和国やベネズエラといった中南米諸国籍の選手であった。現地チームと連携し、吉見一起や山井大介、又吉克樹などをウィンターリーグに派遣し、彼らの飛躍にも繋げた。
2016年シーズンオフに監督代行から正式に監督への就任が決まると、キューバとのパイプ作りにも本格的に着手した。オマール・リナレス巡回コーチを窓口に、2017年にライデル・マルティネスとレオナルド・ウルヘエスを、2018年にアリエル・マルティネスを獲得した。シーズンオフには自らキューバのスポーツ庁を訪問し、交渉にあたるなど、精力的に活動した。
2019年10月1日にシニアディレクター(SD)を退任し、球団を退団することが発表された。
4. 引退後の活動
プロ野球のコーチや監督職を離れた後も、森繁和は野球界に深く関わり続けている。
4.1. 野球解説者・評論家
2012年から2013年まで文化放送やJ SPORTSなどで野球解説者として活動し、スポーツニッポンの野球評論家も務めた。中日ドラゴンズのコーチ・監督を退任した後の2020年からは、再びJ SPORTSの野球解説者とスポーツニッポン野球評論家として復帰している。
4.2. 著書
森繁和は自身の野球哲学や経験について複数の著書を執筆している。
- 『参謀』(講談社:2012年4月)
- 『勝ち続ける力』(ビジネス社:2012年10月)
- 『軍師の逆襲』(ヨシモトブックス:2014年3月)
5. 人物
森繁和は、選手としては特徴的な投球スタイルを持ち、コーチ・監督としては厳しいながらも選手からの信頼が厚いリーダーシップを発揮した。その人柄は口が堅く、チームの守護神としての信頼を得ていた。
5.1. 選手としての特徴
現役時代の森繁和は、キレのある直球とシュートで相手打者を追い込み、フォークで勝負を決める右腕投手であった。西武入団当初は先発投手であったが、1982年に不振に陥ったことでリリーフに転向すると、抜群の安定感から抑えに定着した。同年から翌1983年にかけての2年連続リーグ優勝・日本一に大きく貢献した。
5.2. コーチ・監督としての指導観
森繁和は選手への指導が厳しいことで知られるが、同時に選手からは兄貴分として慕われ、人望が厚い。西武投手コーチ時代に駒澤大学の後輩でもある竹下潤が不甲斐ない投球でKOされた際には、当時バッテリーコーチだった大宮龍男(大学時代にバッテリーを組んでいた)と共に厳しく叱責したこともある。しかし、吉見一起はトークショーで「森コーチは怖かったですか?」という質問に対し、「あの人は怖くないんです。すごくいいお父さんという感じ。テレビで見る姿と本当の森さんは違う。本当にいい人」と答えており、森が選手からの信頼を得ていたことが示されている。ただし、「1度だけメチャクチャ怒られた事がある」とも答えている。
5.3. 人物像
森繁和は口が堅く、投手の調子などの情報を外部に漏らすことは絶対にないという特徴を持つ。中日ドラゴンズのコーチ時代は、監督の落合博満から厚い信頼を得ており、落合は投手のことに関して一切口出しせず、投手起用の全権を森に任せていた。また、西武や横浜のコーチ時代から友利結の能力を高く評価しており、中日では落合監督に彼の獲得を進言したこともある。その後、2014年からはヘッドコーチと投手コーチ、2017年には監督と投手コーチという関係で共にチームを支えた。杉下茂とは指導者としての師弟関係であり、西武ライオンズで共に一軍投手コーチを務めていた時のことを杉下は「選手をというより森繁和投手コーチを一人前にするのが仕事で、郭泰源、渡辺久信、工藤公康、潮崎哲也、鹿取義隆らが主力だから、コーチなんかいらないよ。いろいろな球団に行ったけど、一番楽だった」と述べている。なお、中日ドラゴンズのOBである杉下は毎年中日の春季キャンプを訪れ、臨時コーチを務めている。
6. 詳細情報
森繁和のプロ野球選手としての詳細な成績、獲得タイトル、記録、背番号、そして監督としての成績を包括的にまとめる。
6.1. タイトル・表彰
6.1.1. タイトル
- 最優秀救援投手:1回 (1983年)
6.1.2. 表彰
- ファイアマン賞:1回 (1983年)
6.2. 記録
6.2.1. 初記録
- 初登板・初先発登板:1979年4月9日、対近鉄バファローズ前期2回戦(日生球場)、3回2/3を5失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、2回裏にクリス・アーノルドから
- 初完投:1979年4月22日、対ロッテオリオンズ前期2回戦(川崎球場)、8回1失点で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1979年5月9日、対南海ホークス前期3回戦(大阪球場)、9回3失点
- 初セーブ:1979年5月16日、対日本ハムファイターズ前期9回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回2失点
- 初完封勝利:1980年5月2日、対日本ハムファイターズ前期4回戦(西武ライオンズ球場)
6.2.2. その他の記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1981年、1983年)
6.3. 背番号
- 11 (1979年 - 1988年)
- 86 (1989年 - 1999年、2002年)
- 81 (2000年 - 2001年、2003年)
- 80 (2004年 - 2011年、2014年 - 2018年)
6.4. 年度別投手成績
森繁和のプロ野球選手としての年度ごとの投手成績を以下に示す。
年 度 | 球 団 | 登板 | 先 発 | 完投 | 完封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ ー ブ | ホ ー ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 四 球 | 故 意 四 球 | 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ ー ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979 | 西武 | 43 | 25 | 7 | 0 | 0 | 5 | 16 | 7 | -- | .238 | 893 | 203.1 | 207 | 27 | 78 | 9 | 9 | 130 | 3 | 0 | 120 | 102 | 4.51 | 1.40 |
1980 | 40 | 18 | 4 | 1 | 1 | 10 | 14 | 7 | -- | .417 | 676 | 156.2 | 160 | 31 | 53 | 6 | 2 | 73 | 0 | 1 | 97 | 82 | 4.71 | 1.36 | |
1981 | 31 | 30 | 10 | 3 | 2 | 14 | 11 | 0 | -- | .560 | 834 | 200.1 | 188 | 26 | 51 | 1 | 4 | 83 | 1 | 0 | 94 | 84 | 3.77 | 1.07 | |
1982 | 51 | 6 | 1 | 0 | 1 | 10 | 2 | 10 | -- | .833 | 396 | 101.2 | 81 | 12 | 23 | 5 | 0 | 46 | 0 | 1 | 37 | 36 | 3.19 | 1.02 | |
1983 | 59 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 34 | -- | .500 | 322 | 85.0 | 53 | 6 | 22 | 1 | 3 | 46 | 1 | 0 | 17 | 14 | 1.48 | 0.88 | |
1984 | 38 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 7 | 13 | -- | .462 | 267 | 64.0 | 66 | 7 | 15 | 1 | 2 | 36 | 0 | 0 | 24 | 20 | 2.81 | 1.27 | |
1985 | 39 | 2 | 0 | 0 | 0 | 6 | 6 | 8 | -- | .500 | 324 | 73.1 | 85 | 14 | 26 | 3 | 2 | 22 | 3 | 1 | 41 | 35 | 4.30 | 1.51 | |
1987 | 22 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | -- | 1.000 | 119 | 28.2 | 24 | 0 | 12 | 4 | 0 | 10 | 0 | 0 | 6 | 5 | 1.57 | 1.26 | |
1988 | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | -- | .000 | 109 | 26.0 | 25 | 4 | 7 | 2 | 1 | 9 | 0 | 0 | 13 | 11 | 3.81 | 1.23 | |
NPB:9年 | 344 | 81 | 22 | 4 | 4 | 57 | 62 | 82 | -- | .479 | 3940 | 939.0 | 889 | 127 | 287 | 32 | 23 | 455 | 8 | 3 | 449 | 389 | 3.73 | 1.25 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 「-」は記録なし
6.5. 年度別監督成績
森繁和のプロ野球監督としての年度ごとの監督成績を以下に示す。
年 度 | 球 団 | 順 位 | 試 合 | 勝 利 | 敗 戦 | 引 分 | 勝 率 | ゲ | ム 差 | 本 塁 打 | 打 率 | 防 御 率 | 年 齢 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2016 | 中日 | 6位 | 39 | 15 | 24 | 0 | .385 | 14.0 | 11 | .245 | 3.65 | 61歳 | ||
2017 | 5位 | 143 | 59 | 79 | 5 | .428 | 28.5 | 111 | .247 | 4.05 | 62歳 | |||
2018 | 5位 | 143 | 63 | 78 | 2 | .447 | 18.0 | 97 | .263 | 4.36 | 63歳 | |||
通算:3年 | 325 | 137 | 181 | 7 | .431 | Bクラス3回 |
※2016年には、谷繁元信監督がインフルエンザの症状で欠場したことにより、4月22日に監督代行を務めた1試合(勝利)が含まれる。